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落塩(3544字)

――今夜遅くから翌朝にかけて、都心では〝落塩〟の可能性があります。帰りが遅くなる方は、防塩コートや傘を持ってお出かけください。
 雷が人間に落ちる確率は、一説によると百万分の一らしい。落塩の可能性はそれよりもずっと低いと言われていた。ところが十年ほど前から落塩は珍しい現象ではなくなった。最近では研究も進んで台風や土砂災害のように天気予報で流れるようになってきた。いつからか塩の結晶の絵文字もできた。それでも空から降ってくる塩そのものについてはわかっていないことのほうがまだまだ多い。ただ、専門家でもない私にとっては空からたまに塩が降る。それが落塩の全てだった。折りたたみ式の吸湿傘を鞄に入れて部屋の扉を閉める。この時期になると陽が昇っても朝は全然寒い。身体をさすりながらエレベーターホールへと向かいボタンを押して待つ。私が初めて落塩に遭遇したのは中学生のときだった。
 
 中学三年の夏に初めて恋人ができた。付き合ったきっかけはよく覚えていないが、肌寒くなりはじめた秋の夜に初めて彼と寝た。場所は通学沿線にある駅の裏手にある小屋だった。そこは林業が盛んだった頃に建てられた休憩所で、四畳ほどの部屋と簡易キッチン、トイレがあるだけのボロ小屋で、欠けたスコップやバケツが辺りに散乱していた。窓ガラスは割れたままで、建てつけの悪い戸のせいですきま風が室内へ入り込む。いつ倒壊してもおかしくない不安定な感じがどこか私たちを安心させた。
 女は初めて寝た男を忘れないと聞いたことがある。どういう経緯でそんな話が生まれたのかはわからない。女性の処女性を神格化しようとしたとか、初体験の痛みによる男性への憎悪を覚えておく為だとか色々と言われているが、少なくとも私にとってこの逸話は真実だった。彼は不良やバイクに憧れたりするようなわかりやすいタイプの男性ではなかった。どちらかといえば本や映画を好む物静かな方だったが、それでも学校では明るく過ごしていた。私からしたら充実した学生生活を送っているようにみえた。ただ、彼には誰も掴むことができない特有の何かを持っていて、どこか居心地の悪さのようなものを節々で引きずっていた。彼は昔でいうところの妾の子で、愛人である母親が別れた後に父親の元へ引き取られた。小さな村ではそういうことは少なくなったとはいえあることで、区域のほとんどの大人たちがその事情を知っていた。本妻は夫の世間体のために引き取ることを快諾したが内心はその存在がやはり憎かったようで、彼の話を聞く限り、家ではひどい扱いを受けていた。そんな彼がなぜ私を選んだのかわからなかったが、とにかく私たちは学校が終わると毎日のように山小屋へ通っていた。
「俺がお前を守ってやる」
 彼は行為が終わると、必ずといって良いほどそう言った。それは私へ向けているというよりは、自分を保つための言葉だったように思う。彼っぽくない言葉だとは思っていたが、そういうとき私はうなずくようにしていた。そういう風に振る舞うことが恋愛のお作法に思えたし何よりどんな言葉をかけることが一番最適なのかわからなかったからだった。あるとき、彼に卒業後の進路を聞くと村の外に出るといった。彼の口から出た場所は隣の区域よりももっと遠い世界の名前だった。私はどうするべきかとたずねると、それは自分で決めなければいけないと言われた。ただ私には何かを決めるとか、そういうことを考えたことがなかった。
 故郷では短い秋が過ぎると積雪が数メートルにもなる長い冬が来る。それでも私たちは白い壁が世界を覆いだすギリギリまで裏山を登り山小屋で逢瀬を重ねていた。日々強くなる寒さも互いの温もりを感じさせるに過ぎなかった。ある昼休みだった。窓側の席で友達と給食の余った揚げパンをかじり、おしゃべりをしていた。私はココアパウダーの小瓶を鞄から取り出し、これをかけると美味しいとネットでみたと言った。瓶を人差し指でたたいて、ぽんぽんとかけると細かい茶色の粉がパンに落ちて染み込んでいった。ココアパウダーはあっという間にパンの一部になっていた。味は評判通りで、みんなで盛り上がっていると誰かが雪だとつぶやいた。窓の外をみると、中庭にあるスズカケノキの枝葉に白い粒が点々と乗っかっていた。その日の午後は憂鬱だった。進路を決めていなかった私は放課後に職員室へ来るように言われていた。中学三年の秋に進路の方向性すら決めていなかったのは私くらいのようで、ころころ変わる考えについて教師から色々と言われた。駅に着いたのはいつもの待ち合わせから一時間が過ぎた頃だった。電車が動くと雪が再び降りはじめた。携帯をみるが連絡はない。私は何か反応が欲しくて珍しくもない雪模様を撮って送った。
 じゃりじゃりとした音が山道を歩くたびに響いた。この頃はもう寒さが増していたから、何枚も重ね着をしたり、父親のガレージから持ち出してきたキャンプ用のシュラフを山小屋の床に敷いたりしていた。ふと、一度も足が滑っていないことに違和感を覚えた。まだ冬用のブーツを履いているわけでもない。しゃがんで白いものを拾い上げると、私の知っている雪の感触ではなくもっとさらさらとした何かだった。しばらくすると区域の公民館からアナウンスが流れた。古いマイクと音の割れたスピーカーでうまく聞き取れなかったが「落塩」という言葉が耳に入った。授業で聞いたことはあったが、実際にみるのは初めてだった。区域どころか、この国にとって初めての落塩現象だと後からニュースで知った。雪に交じって塩は襲来した。
 急いで山道を上った。彼と塩を共有したかった。登りきると、小屋が倒壊しているのがみえた。瓦礫の周りに彼がいないか確認した。崩れ落ちた木材の奥に右腕が見えた。駆け寄って手に触れると、もう生きていないことがわかった。手袋越しでも伝わる彼の冷たさは寒さでなく死によるものだった。警察を呼ぼうと思ったが、死んだ後も彼があの家に戻りたがるとは思えなかった。せめて一晩くらいここに居させてあげたいと思った。その晩は風呂にも入らずボーっと遅くまでテレビ番組を観ていた。落塩のニュース一色だった。部屋に戻ると机に投げていた手袋に穴が開いているのがみえた。私は怖くなりゴミ箱にそれを捨てて布団に入ったが、中々眠れなかった。深夜ラジオを点けてお笑い芸人のトークをずっと聞いていた。音がないと不安だった。時々、携帯を手に取って彼とのメッセージ履歴を開いた。何度みても彼に送った写真に既読はついてなかった。
 翌朝、起きると頬や掌に湿疹が出ていた。学校を休んで近くの診療所へいった。医師によると強い酸性に対する反応でかぶれていて、そのまま長時間放置していたら皮膚がただれていたという。落塩の影響でしょうなと医師は言った。病院を出るとそのまま山小屋へ向かった。積塩は二十センチほどで、歩くのに少し戸惑った。塩景色に染まりはじめた山は昨日までと異なる姿をしていた。小屋のあった場所にも積もっていて、私は欠けたスコップで塩塊を堀りはじめた。木材は腐食していて、さらに掻くと彼の姿がみえた。私と同様に赤い湿疹がある。それに加えて彼の手は所々が気泡を含んだ様に膨張していた。スコップでそっと触れてみると膨らみが破裂し穴が開いた。奥に骨がみえた。彼の身体は塩で溶けはじめていた。それから放課後になると毎日、彼の様子をみる為に山小屋へ通った。何日かしてようやく捜索願いが出された。本妻の届出によると前日の夜から帰ってこなくなったということになっていたが、それは嘘だ。義務的に保身の為にそうしただけだ。ただ、その数日間で彼は完全に無くなり塩だけが残った。雪はいずれ蒸発し空と陸の行き来を繰り返す。だけど塩は違う。そのまま土の奥深くに染み込んでいくだけだ。彼は死んでも結局この土地に囚われたままだ。
「俺がお前を守ってやる」
 そんな言葉を思い出した。私はかつて彼だった土と塩が交じった粒をスコップですくい取って、ココアパウダーの空き瓶に詰めた。それっきり山にはいかなかった。そして中学を卒業すると、区域外の高校に進学しそのまま地元を離れて就職した。
 
 都心の寒さは故郷に比べると大したものではないのに、私は随分と冬に弱くなっていた。昨日の夜、今年初めて雪が降ったと母親から連絡があった。本格的な積雪の光景が目に浮かぶ。年末に帰郷するのかと聞かれたが、わからないと答えた。駅構内の朝は忙しなく何度か人にぶつかりそうになった。すみませんと謝る暇もなく互いにそれぞれがホームへと向かう。どうにか電車に間に合った。私の息が上がるのに合わせて、鞄のストラップについたお守りの塩が揺れていた。【了】

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