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地域に対して必要なのは「融和」ではなく「緊張と対話」 藤田直哉×糀屋総一朗対談3
ローカルツーリズム株式会社代表・糀屋総一朗と、様々な分野で活躍されている方の対談。今回は、SF・文芸評論家で『地域アート――美学/制度/日本』などの著書もある藤田直哉さんとの対話を、4回にわたってお届けします。3回目は地域が生き残っていくための考え方、外からの人が地域に入っていく際に考えるべきスタンスについてです。
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横並びでなく、尖らせて人を呼び込む
ーー地域が持っているアドバンテージというものはあるんでしょうか?
藤田:地域だから活躍できる人材、というのはいるはずなんですよ。例えば映画の世界で言えば、自分の映画を撮るためには、中央だとまず助監督から下積みをしてやらなきゃいけない。けど地方に行ったら予算は小さいかもしれないけど、自分で脚本が書けて、いきなり監督やらせてもらえて、しかもコミュニティが受け入れてくれたりするケースもある。東京ではできなかったことが、地方でできるということは結構あるんですよ。
青森県の十和田市にはシャッター商店街になってしまった町があったんですけど、そこにあるスペース「14-54」は、東京から移住したアレックス・クイーンさんと共同創立者のマイケル・ウォーレン人が経営して注目されています。道路沿いなんだけど、クラブみたいに大きな音をガンガン出してて、お客は500円ぐらいのビール代だけで楽しめる。東京じゃできないお店ですよ。
糀屋:面白いですね。
藤田:これはヒッピーが都会を離れて田舎でフェスを始めたりしたのと同じなんですよ。日本がこれだけ生きづらい状態になってるんだとしたら、地方がもうちょっと考え方を変えて、規制とかも緩めて、いろんな生き方とかいろんなことを実験する場にしてしまえば、もっとみんな来るんじゃないかと思いますよね。
シリコンバレーと同様、いろんなものを試す自由な風土みたいなものを地方に作れば、社会課題を解決するような創造性を発揮する人材が出てくるかもしれない。他の場所で生きづらさを感じてる人たちがいきいきできる場として地方を再設定できれば、可能性はあるはずだと思っています。
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糀屋:ちょっと話がズレるかもしれませんが……「こういう村を作りたい」みたいな理想を掲げて地域で村づくりをしているところもあるんですよ。僕はそういうものに対して、ちょっと気持ち悪さを感じることがあります。最初からビジュアルが決まっているユートピアというか……それが正しい形なのかどうか、どういうふうに整理したら良いのかモヤモヤしてるんですけど。
藤田:気持ち悪いか、気持ち悪くないかで言えば、正直気持ち悪いような気もするんですけど、しかし自由を尊重するとしか言えない(笑)。ただ「理念」だけで集まることの問題というのは確かにありますよ。糀屋さんもおっしゃっている通り「事業にする」ってことは大事なことだと思っています。
やっぱり何かを健全に回すために「お金」は重要ですよ。持続可能な地域を作っていくために事業を回すというのは僕は正しいと思います。ただ、地域で事業っていうと……みんな「同じようなこと」をなさるんですよ。
「失敗したくない」日本人をどう変えるか
糀屋:確かにそういうところは多いです。日本って本当に多様で、地域地域にもいろんな多様な魅力があるわけじゃないですか。なのにみんな「ゆるキャラ」を作ったりしてる。これも議論あると思うんですけど、なんというか発想が貧しいというか。
藤田:コロナになってきたら、みんな「テレワークの人たちを集める村を作る」とか言い出しちゃう。みんな同じようになったら、外部の人間が「その地域に住みたい」「観光に行きたい」って気持ちにはならないんですよ。だから他の場所と比べてもう一段階尖らせないと、人が住みたくなるような卓越した場所にはならないと思うんですよね。異常なぐらい尖らせないと人は来ない。そういう意味でも、地域もある種の特区にしてもいいという発想にして、それで競いあえば、もうちょっといいんじゃないかと思いますね。
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糀屋:ぐるぐる、ぐるぐる同じことをまたやってる。
藤田:そこは日本の根本問題だと思いますね。前例主義とかいろんなものがあってみんな横並びで真似するし、他のやってないことがそもそもやれない。役所の中でも許可が出ない。そこを変えないで「私達はこのまま滅亡します」という考え方もありっちゃありなんですけども、そこにあった伝統や文化とか価値は消滅していくわけです。
小松左京さんも『日本沈没』という作品の中で日本が沈没するときにどうするかっていうので必死に奮闘する人たちを描いた一方、重要人物の一人に「何もせん方がええ」と呟いたまま沈没する列島と心中させています。これは日本人の対応のパターンなんでしょうね。50年前からずっとそうなわけで、何もしないことを選択する、沈むことを選択する人たちが居続けてるわけですね。
糀屋:アメリカは実験して、繰り返して……失敗したら次にいく。日本にはそういう感じじゃない。ガラッと変わらないというのは、いいところだとも思いますけれど……。
藤田:アメリカは進化論的なんですね。たくさん産んで、その中から勝者が生き残って、世界に広がっていく。日本は失敗しないようにみんな横並びの傾向。最近の若い人でも特に強くなってるらしいんですけど。正解がもうあるっていう考え方になってて、失敗したらもう生きていけないみたいな感じ。産業構造が認知労働中心に変わってきて、それに対応できる人材に変えようっていろいろやってきたけど、日本人のメンタリティみたいなものがあまり変わってないんですよね。
身近にロールモデルになる人がいるかいないかも重要ですね。大島でいえば、糀屋さんがロールモデルとしてそこにいて、何か活動しているのを地域に見せること。それはとても大事だと思いますよ。
糀屋:かもしれないですね。だから今、アーティストやクリエイター、事業家など、いろんな人にも来てもらうようにしています。いろんな人に来てもらうだけでも、何か意味があるんじゃないかなと思って。
藤田:その人たちに触れることで何か変わるはずですよ。効果測定ってなかなかできないし、実証的に数字が出るものではありませんから評価をするのが難しいんですが、長期的なケースを見た見地から言えば、効果は間違いなくあるはずです。
色々な地域でなぜ文化芸術活動やフェスティバルみたいなことをやるのかを調べていくと、「祭り」が果たしていた機能を作り直すためということが結構出てきます。かつてあった共同性や繋がりを作り直すために文化芸術活動を地域でしているんです。
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それが、大島にはコストをかけて作り直さなければならない「失ってしまったもの」、例えば世界遺産や祭りという伝統、宗教的共同性みたいなものが最初からある。それはすごいアドバンテージなんですよ。それを新しい文脈と結び付けることさえできれば、いいことがあるはずだと思ってますね。
糀屋:あー、その考え方は面白いですね。
地域の「説明できない何か」を理解し尊重する
藤田:日本には昔から『講』というものがあった。『講』ってのは村の何かを決めるときにみんなで集まって話し合うことなんですが、そこでは別に論理的な話し合いがあるわけではないみたいなんです。
宮本常一(1930年代から1980年代まで膨大なフィールドワークを続けた民俗学者)が対馬の漁村で資料を借りようとした時、漁村の人たちの中で話し合いが始まったそうなんです。
その話題について議題が出て、他の議題に移って、昔はこうだったとか、こういうことが起きたとか、皆が話題を提供する。色々な話が徹夜で続いても全然収束しない。宮本常一本人も話をして、昔の思い出などが飛び出してきて「いかにものんびりしているように見える」ような、それで2日目にようやく「貸してもいいのではないか」という話に決まる。そういう意思決定の伝統があったようなんですよ。
糀屋:(笑)。
藤田:そこに何かのシステムがあるはずなんです。それは、リベラルデモクラシー的な熟議とは違うし、議題に沿って効率よく論理的に話を進めていくのとは違うけれども、その意思決定の仕方には一定の合理性があったはずなんですよ。そこにあった、言語化されていないような何かを、僕らが把握することが大事なんだと思うんです。昔にあったものいいもの、我々が生きるために必要なものを形を変えて取り戻す。もしくは壊さないように維持しながらやっていく。我々は、その言語にされてないもの、論理として説明されてない「残ってる何か」を理解する努力をしなきゃいけないんだと思うんです。
糀屋:なるほど。
藤田:「神事」が何のためにあるのか、地域の人たちもはっきり意識してないんです。昔の話で言えば、伊勢参りに誰かが行ったり、伊勢から人が来たりする。それは単なる信仰だけじゃなく、外部の人を繋ぐ情報交換のツールとして機能していたんですよね。非合理な信仰に見えるけど、合理的な機能があった。
僕らはその機能を考えながら、伝統を尊重して介入しなければいけない。そのためには探りながら対話していくしかないんですよ。OSが違う人間同士がコミュニケーションすることの、しんどさと可能性が多分そこにあると考えますね。
糀屋:そうですね。大学のとき法哲学の井上達夫先生の授業を受けていたんです。その中で記憶に残ってるのは「民主主義を支えているのは融和ではなく、実は緊張なのではないか」というお話です。「対話は緊張から生まれる」。その考え方と藤田さんの『地域アート』の本に書かれていることは、けっこう話が繋がってるんじゃないかなって思いました。
「対話のない融和」が中抜きにしてしまう事がある。僕が「外の目が必要だ」って言ってるのも、何か一緒に作品を作っていくための、批評的な緊張感みたいなものがもっと必要なんじゃないかってことなんです。
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藤田:そうなんですよ!「調和するのではなく、敵対性みたいなものを顕在化させた上でやりとりした方がいいんじゃないか」ということです。敵対と言っても内乱とかを起こしたいわけではない。敬意を持った上で他者同士、認めあいながらの対話ですよね。
それがアメリカだったら、地域が議会を襲ってきちゃったりするわけです。そういう問題が世界的に起きている中で、地方と中央を繋ぐ回路、両者を翻訳する人たちをいっぱい作る。その試みの一つに地域アートがあるわけです。東京の文化産業の人たちを地方に送り込んで、対話だけじゃなく身体も、場も共有する。一緒に飲む。「さっぱりわからない」ってなってもいい。お互いのわからなさも含めて、わかってく。そういう他者理解を調停する役割ってのもアートにはあるんじゃないかと思っています。多分、糀屋さんはその最先端にいらっしゃるんですよ。
糀屋:あー、そういう事なんですかね。
藤田:グローバリゼーションのロジック。投資のロジック。それに抵抗する地域の人たちとの関係をどう調停して新しいものを発明できるか。大島はそれを試す場になってるはずですよ。
僕が地域デザイン学会の仕事をしていて感じるのは、実際の成功事例は、それをモデルとして、全世界に広げられる可能性になるわけです。地域と中央的なものが関わる中で、これまでにない新しい繋がり方ができて、これまでにない新しい何かができてそれが今の世界的な緊張感、日本における格差といろんな問題を緩和できるかもしれない。そこに多分希望があるように思ってます。
藤田直哉
批評家。1983年札幌生まれ。東京工業大学社会理工研究科修了、博士。日本映画大学准教授、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)『シン・ゴジラ論』『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』『攻殻機動隊論』(作品社)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)。 編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)、『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)など。
(構成・齋藤貴義 編集と撮影・藤井みさ)
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