短編小説『FIREへの道』
この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
第1章: モヤモヤの始まり
東京の空は今日も灰色だ。
山田翔太はオフィスの窓際席で、ぼんやりとビルの谷間を眺めていた。現在29歳、来年で30歳。
大学を出て7年目のサラリーマン生活は、まるでベルトコンベアに乗せられた荷物のように、決まったルートを淡々と進んでいるだけだ。
デスクの上にはエクセルシートが広がり、数字の羅列が目にちらつく。
営業部の月次報告書、クライアントからの修正依頼、上司の「これ、今日中にね」という軽い一言。
あと2時間で終業なのに、残業確定の気配が濃厚だ。
「山田君、この資料、ちょっと急ぎでお願いね」
隣の席の先輩、田中さんがニコニコしながらファイルを差し出す。
40代半ばで妻子あり、いつも穏やかだが仕事はきっちり人に振るタイプだ。
翔太は「はい、了解しました」と反射的に答えつつ、心の中でため息をついた。
時計の針が18時を回っても、オフィスは静かになるどころかざわざわしている。
最近は人手不足が顕著で、誰かが辞めるとその穴埋めは残ったメンバーに降りかかる。
翔太の部署も去年2人減って以来、補充はないまま。
新卒が入ってもすぐ辞めるか、他部署に取られるかで、結局ベテランと中堅が回してる状態だ。
「このままあと30年か……いや、もっとか?」
頭の中で計算が始まる。定年は65歳として、あと36年。
年金がもらえる保証もないし、社会保険料は上がる一方。
ニュースで「高齢化で若者の負担増」とか「年金支給年齢の引き上げ検討」とか見るたびに、胸がざわつく。
あと36年、この椅子に座って、エクセルとにらめっこして、残業して……それで終わり?
帰りの電車はいつも通り満員だ。吊り革につかまりながら、スマホでニュースをスクロールする。『社会保障費、過去最高を更新』。見出しだけで胃が重くなる。隣のOLが友達とLINEで「給料日前なのにカツカツ」とやり取りしているのが見えて、妙にリアルだ。
翔太の給料だって悪くない。大手企業の営業職、手取りで月28万くらい。でも家賃8万、光熱費や食費、奨学金の返済を引くと、貯金は月に5万がいいとこ。30歳までに1000万貯める目標は、7年経ってまだ400万だ。
「俺、何やってんだろ」
電車が揺れるたび、心も揺れる。
家に着いたのは21時過ぎ。
ワンルームの賃貸マンション、駅から徒歩10分。玄関を開けると、靴が散らばったままの狭い土間が目に入る。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファにどさっと座る。テレビをつけると、ちょうど経済番組が年金問題をやってた。
「現在の若者は、将来の年金受給額が現役世代の半分以下になる可能性も……」
リモコンで即消した。聞きたくない。ビールを一気に半分飲んで、頭を振る。
シャワーを浴びてベッドに横になると、スマホが目に入る。
充電器に挿したまま、SNSを開く。大学の同期が「新居購入!」と写真付きで投稿してる。
白い壁のリビング、笑顔の子供。別の友人は「ハワイでリフレッシュ」と夕陽のビーチ。あいつら、どうやってそんな金あるんだ?
「俺だって頑張ってるのに」
呟いてみるけど、虚しいだけだ。
週末、珍しく予定のない土曜日。
昼まで寝て、コンビニ弁当を食べながらダラダラしてたけど、部屋にいると余計にモヤモヤする。着替えて外に出る。
駅前の喫茶店でコーヒーを頼み、窓際でぼーっと外を眺める。
スーツのサラリーマン、買い物袋を抱えた主婦、友達と笑う学生。
みんな何か目的があるみたいに見える。俺には何がある?
ふと、隣の古本屋が目に入った。
普段はスルーするけど、今日はなぜか足が向かう。
埃っぽい店内、ぎっしり並んだ本棚。適当に歩いてると、背表紙に『FIREへの道』って文字が飛び込んできた。
「FIRE?」
聞き覚えはある。ネットで見たことあったっけ。Financial Independence, Retire Early。経済的自由と早期退職。
表紙はシンプルで、白地に赤い炎みたいなデザイン。手に取ると、妙にしっくりくる。裏を見ると「あなたも自由になれる」と書いてある。
「ふーん、まあ100円だし」
軽い気持ちでレジへ。店のおじさんが「いい本だよ」と笑うけど、適当に流して店を出た。
家に帰って、ソファに座って本を開く。
最初のページは普通の自己啓発っぽい文章だ。「労働からの解放」「お金に働かせる人生」。ありきたりだな、と思いながらページをめくる。すると、突然、本から光が溢れた。
「え、何!?」
飛び上がる翔太。目の前で光が渦を巻いて、ふわっと小さな人影が現れる。
10センチくらいの女の子、金髪で羽根がついてて、キラキラしたドレスを着てる。
「やっと会えた!ねえ、君、FIREしたいんでしょ?」
声は鈴みたいに可愛いけど、口調は妙に馴れ馴れしい。翔太は目をこする。夢じゃない。ビールもまだ1缶だ。
「何!?誰!?妖精!?」
「そう、妖精!名前はフィオ。『FIREへの道』の案内人。この本を読んだ君を、自由に導くために来たよ!」
フィオはくるっと宙で回転して、得意げに胸を張る。翔太は呆然としながら本を見下ろす。
確かにさっきまで読んでたページなのに、今は白紙だ。
「いや、ちょっと待て。俺、そんなつもりじゃ……FIREって何だよ、詳しく知らねえし!」
「大丈夫、大丈夫!これから教えてあげるから。ねえ、君、仕事嫌いでしょ?将来不安でしょ?だったらFIREしかないよ!」
フィオが指をパチンと鳴らすと、目の前に小さなホログラムみたいな画面が浮かぶ。
そこには翔太の貯金残高、給料、支出がズラッと並んでる。
「お前、どうやって!?」
「魔法だよ、魔法。でさ、君、このままじゃ65歳まで働いて、貯金1500万くらいで終わりだね。年金も期待薄だし。どう?この未来、嫌でしょ?」
翔太は言葉に詰まる。確かに嫌だ。嫌すぎる。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ?」
「簡単!私と一緒にFIREを目指すの!まずは明日から節約ね。コンビニ弁当やめて自炊してみなよ。あと、投資も始めようか!」
フィオがウキウキしてる横で、翔太は混乱しながらも、なぜか胸がざわついてるのに気づく。モヤモヤしてた何か。ずっと燻ってた気持ち。それが、今、動き出したような気がした。
(続く)
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