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リレー小説その⑥「あの娘のこと~後編~」

「君と花火大会に行った。それだけかな。」
 それが「お盆休み、何してたの?」という僕の質問に対するあの娘の回答でした。
「昔はよくおばあちゃんの家に行って、親戚のみんなで集まって宴会とかやってたの。私、年の近いいとこがいてさ、大人の人たちが騒いでる横で、よく一緒に遊んでたんだ。そのいとこ、すごくおばあちゃん子でね。でも、おばあちゃんが死んでから、だんだん親戚で集まる機会も減って、いとこともしばらく会ってないんだ。今頃何してるのかな。」
 夏休みの課外授業の帰り道でした。僕とあの娘は相変わらず、一緒に手をつないで帰っていました。読書の習慣は受験勉強に取って代わりました。課外授業がお昼過ぎに終わると、たいていの友達は帰ってしまうのですが、僕たちは教室に残って勉強するようになりました。でも、変わったのはそれくらいです。集中力が切れると、彼女にオルガンを弾いてもらっていましたし、別れ際には必ずキスをすることになっていました。変わらないことはたくさんあったんです。シトラスの香りも含めて。
「ねえ、あの人不審者かな?」
 僕は、あの娘の目線を追いました。ダイドーの自販機の前で、小学生くらいの男の子と、30歳くらいの男が立っていました。
「別に、違うんじゃない?」
「でも、怪しいよ。」
 彼らの横には、男のものと見られる車が停まっていました。確かに親子ではなさそうでした。男は、自販機で缶の飲み物を二本買って、一本を男の子に差し出しました。男の子はそれをほとんど一気に飲み干すと、男に何かを叫んで、こちらに走ってきました。僕たちの前を過ぎ去る少年の表情は、どこか晴れ晴れとしていました。
「ほら、やっぱり違うでしょ。」
「なんだ、ただの良い人か。」
 なんだ、ただの良い人か。僕はこの発言に引っかかってしまいました。理由は今でも分かりません。次の一言を、僕はこの先何年も後悔することになります。
「期待してたのかい。」
あの娘は、ただでさえ大きい目を丸くして、僕を見つめました。
「あの人が不審者だってこと、君は期待してたのかい?」
あの娘の全身は固まってしまいました。制服の上から、呼吸と共に上下する胸だけが分かりました。僕はすぐに後悔しました。違う、そういう事じゃないんだ。僕は、あの娘の無邪気な冗談に、誤った応答をしてしまったのです。きっとあの娘は、ただ僕と戯れたかっただけだったんです。出所の分からない即席の正義感が、僕たちの手を解いてしまったのです。
 このようなことは、あの娘も同じでした。僕たちの会話は、時々かみ合わない。意図を汲み損ねたり、真意を取り違えたりすることが時々ありました。二人とも、冗談を言うことも、受け取ることも下手だったんです。その割には、本心を晒すことを極度に恐れていました。だから、本心を語る時は冗談を混じえること、反対に冗談の中に一滴の本心を垂らすことがマナーになっていたんです。
 でも、このマナーが僕たちの関係を、よそよそしいものにしてしまいました。あの娘とのすれ違いは、次第に増えていきました。お互いの言葉に含まれる、わずかな隠し味も見逃してはならない。だから、どれだけ無邪気な冗談でも、気を抜くことはできない。そんな警戒心が拭えないようになっていったのです。彼女のオルガンを聴くことも減りました。代わりに、前より少し上達した吹奏楽部の演奏が帰ってきました。約束は徐々に、一つずつ、気が付かないほどの小さな痛みを伴いながら解れていきました。
 やがて、セミは鳴かなくなりました。僕たちの関係は、一応は続いていました。だけど、歯車のかみ合わない機械を無理やり動かしても壊れるだけです。歯車のかみ合わない会話は積み重なって壁となり、僕とあの娘を隔てていきました。冬になると僕とあの娘の関係は雪に埋もれ、桜を待つ頃には雪解けと一緒に流れ去っていきました。桜が咲いた頃、僕たちの間に効力のある約束は、何一つ残ってはいませんでした。
 振られたのは僕でした。けど、失恋したのは、間違いなくあの娘の方だったんです。

                ****


 僕とあの娘は、別々の高校に進学しました。僕は高校生になって以来あの娘に会っていませんし、大学に進学すると共に地元を離れました。だから、あの娘がその後どうなったか、僕はもう知りません。
 あの娘の結婚を知ったのは、成人式が終わった後の同窓会です。本人からではなく、中学の頃、同じクラスだった友達から聞きました。自分が乗っているバイクが、数分間の停車の度にエンジンを止めてしまうという喜々とした愚痴と一緒に、あの娘の近況を聞いたんです。
 同窓会で久々にあの娘の名前を聞いた時、顔よりも先に浮かんだのは、シトラスの制汗剤の匂いでした。あの娘のお気に入りだった、シトラス。いや、むしろ僕の方が気に入っていたのかもしれません。その時、僕は5年の時を経て、ようやく失恋することができたのです。

               ****


「これが、僕が知っているあの娘のことの全てです。」
 時刻は午後4時。甲子園の準決勝は、おそらく第2試合まで終了した。決勝戦のカードが決まったはずだ。男は3杯目のコーヒーを飲み終えたところだった。灰皿には、セブンスターとラッキーストライクの吸い殻が、白と黄色と灰色に彩られた山を築いていた。
 男が帰った後、コーヒーカップを片付け、灰皿に溜まった吸い殻の山をゴミ箱に入れる。その後、僕は心理学のレポートの続きを書く。テーマは「プルースト現象」について。人間が最も長期に渡って記憶するのは、嗅覚からの情報だと言われている。
 雨が降ってきた。その日、僕はレポートを一文字も書き進めることが出来なかった。僕は言い訳を探した。そうだ。きっと、シトラスのせいだ。きっと。

テーマ「夏の匂い」に寄せて

さんぴん倶楽部 古河 巡/Meguru Furukawa