映画「田園に死す」
あなたの過去はどんなだろうか。過去とはなにか。
現在考える過去は虚構か。
「タイムマシーンに乗って、君の三代前のおばあさんを殺せば現在の君は存在しなくなるのか」
さんぴん倶楽部の役満です。
今回は、寺山修司監督・脚本した日本の映画「田園に死す」の感想について話していきます。
まず寺山修司とは詩人、劇作家です。友人に歌集を見せてもらったのがきっかけです。まあかなりのサイケな作品もありながら、その詩は直接感覚に訴えかけてくる様なインパクトもある。
ノスタルジーなのかアバンギャルドなのか、はたまた共存しているような言葉選びや作品たち。
とにかく当時(60~70年代)からアングラな評価がされてたみたい。今でも全然古臭くなく芸術性の高い作品ばかりなのでおすすめ。
【あらすじ】
では早速映画のおおすじに触れていくが、その前に寺山修司とはどんな人間かをちらっと話したのは、この映画が自伝的な側面があるからだ。
それからややこしい構成ですが、前半と後半で場面が大きく展開するのでわけて話してゆく。
別にこの映画のストーリーはあくまでこの映画の要素の一つでしかなく、映像詩の要素が強いので、ネタバレは極力なくしたいですが、ストーリーを知ってたくらいの方が映画見やすいかもしれないので一応起承転結話していく。
〈前半〉
まず詩の朗読に始まり、かなり抽象的な映像の数々で物語は始まる。
舞台は恐山。主人公の少年は母親と暮らしている。狂った柱時計が鳴ってる貧しい家。
そんな村にサーカス団がやってくる。空気袋みたいなのをかぶってる女と背が低い「一寸法師」と呼ばれる男など、いわゆる見世物みたいなものだ。
そこに遊びに行く少年は遠い世界のことを知り、家出することを決める。
そして隣に引っ越してきた美人な姉ちゃんが「私も村でるからかけおちしよ」ってことになって二人で線路を歩いてゆく。
〈後半〉
、、、時間は現在になり、上の話を映画監督になった少年(現在は大人)が制作していた。いわゆる自伝映画である。
それから本当の過去の映像が回想されていく。前半の過去とは違い、とても残酷で寂しいものになっている。
現在の主人公は「過去を美化すること」に対して悩んでいる。過去を取り上げることは厚化粧である、と。作品にしなければ真実の過去になっていたと。
それに対し評論家たちは「過去を虚構化することで過去から自由になる。人間は記憶から解放されない限り自由になれない。」や「記憶を自由に編集できなければ本物の芸術家ではない」など諭される。
「タイムマシーンに乗って、君の三代前のおばあさんを殺せば現在の君は存在しなくなるのか」
という事を言われた主人公は過去に行く。過去の自分と真実を話す。
そして二人は母親を捨てることを決まる。
しかし過去の自分は出戻り女に襲われ童貞を捨てる。そして一人村を出てゆく。
そして現在の自分は母親を殺しに会いに行く。しかし結局、虚構の世界でも母を殺すことができない。そしてラストシーンへ
【感想】
ここまで読んだ皆さん、は?て感じすよね。わかる。母親殺す?なんで?過去は虚構?虚構って何?
・虚構について
まず虚構とは作品において、想像したそれらを現実かのように組み立てることらしい。
過去を作品化するのは珍しいことではないが、寺山修司はそれに対し、虚構だと考えていた。しかも私が思うに、真実の過去の喪失に対する思いもあったのかもしれない。
私が思うに、ラストの母を殺せないシーンから、結論現在の私を構成してるのは過去である以上は過去は創作に限らず、現在の私のすべてに結びつくのではないだろうか。また過去を思い出すとき、それはすでに虚構なのではないだろうか。そして、その過去から構成された現在も虚構なのではないだろうか。とジレンマ。
つまりは現実の真実性や過去を美化して描くことよりも、現実性が大切なのではないかと考える。しかしそれは真実があるが故かもしれない。
はい、もうわからん。ただこの作品を通しての「過去」に関する考えを感じることができる。どういう風に考察しているかが感じ取れる。
・映像と音楽
まずこの映画は映像詩とも評価されるが、とにかく映像の色彩や、道具のチョイスや動き。壊れた時計。川を流れるひな壇。墓地でかくれんぼ。大量の遺影。
また音楽もかなり独特。日本的な音楽に感じる。映像の不気味さや暗さを助長している。
こうした抽象的な表現がちりばめられている。苦手な人は覚悟してみた方がいい。
シュルレアリスティック。思考世界。
そして旧日本の影の風習などそういった要素も数多く描かれている。「間引き」や「イタコ」などなど、現代日本においては違和感があるかもしれませんが、これらは私たちの過去です。
この過去は虚構か。
さんぴん倶楽部 役満