リレー小説その⑤「ギフト」
定刻17:30。荷物をまとめたダンボールを持ち上げ、慣れ親しんだ机を眺める。
お世話になりました。という台詞を吐けば、僕がここにくることはもう二度とない。
エアコンの効きが悪いオフィスを、胸を張ることも罪悪感に背中を丸めることも無く、いつも通り後にした。
仕事が辛かったわけでも、他にやりたいことがあったわけでもなかった。
ただ漠然と、経済活動という不毛なやり取りに人生の過半数を奪われることに嫌気がさしてしまったのである。
人間という生き物は欲望を餌に生きている。
ひとつの満足を手に入れたら、さらなる不満を探していく。欲望のループは、この種族が滅びるまで永遠に続くだろう。
何をしていてもすべてがバカげた不毛なことだとしたら、他人に膨大な時間を支払うことで小金稼ぎをする、そんな毎日には僕は魅力を感じられなかった。
オフィスから自宅まで車で30分の帰路。
太陽は沈み始めながらもまだこちらに未練があるように、地平線で往生際悪く居座っている。煙草を吸うために窓を開けると、煙が出ていく代償にぬるい空気が勢い良く車内へ流れ込んでくる。
車道の左側、どこにでもあるダイドーの自動販売機。そこで必死に身体をかがめながら自販機の下を覗き込む男の子が目に入った。
その瞬間、僕はなぜか車を停車させていた。
父は僕にランドセルを買ってくれた次の日から家には帰ってこなかった。母はいなくなった父のせいで、昼間は印刷会社の事務員として働き、夜になると近所のスナックでホステスとして働いていた。
お小遣いのもらえない僕は、有り余った時間を自販機の下に落ちた小銭拾いに使っていた。
欲しいものがあったわけでも、遊びに行きたかった訳でもない。お金があれば何かが変わってくれると信じていたからだ。
クラスメートに自販機の下を覗いてるところを見つかった次の日、お金持ちのクラスメートがこれ拾ったらお前にやるよと小銭を頭からかけられたこともあった。僕はその日ひとつ残さずかき集めた782円をありがとうと言って持ち帰った。
生活をお金に支配される恐怖心も、心をお金に踏みにじられる惨めさも、それでもお金に執着する卑しさも、思春期にすら入る前に僕の心の中で完成していた。
いつからだろう。自販機の下を覗かなくなったのは。
車から降りた僕はおぼろけに自販機の前に立った。額から汗を垂らす少年がこちらを振り向く。彼は何も言わずにそこから立ち上がり、自販機を少し離れた。
僕は千円札を自販機に入れるとレモンスカッシュを2本買い、少年に1本差し出した。
少年は少し驚いた顔をしながら、恐る恐ると手を伸ばした。
今日みたいにいつまでもきつい日差しが照っていたある日、僕は自販機の下で500円玉を拾った。初めて拾う黄金色のメダルに興奮しながら、僕はその自販機でレモンスカッシュを買った。
30度を超えた気温が嘘のように、500mlのロング缶は手が濡れるほどに水滴をつけて冷えていた。口を開けて乾ききった喉に一気に流し込む。水分を得た喉の快感と、炭酸が弾ける口の中の刺激に同時に襲われた僕は、言葉にできない幸福感に気がつけば泣いていた。
あれから長い時間が経った。僕は高校を出てから働き出し、気がつけば6年が経っていた。何かを変えてくれると思っていたお金をどれだけ稼いでも、特に何も変わることはなかった。
せめてもの足しにと母に毎月送っていたお金は、もういい加減自分のために使えばいいから送ってくるなと去年はっきり言われた。
そう言ってくれるのはうれしいけど、自分のためにどう使ったらいいか、僕にはよくわからない。
僕はあの日レモンスカッシュに勝てるものなど、この世にはないと気づいてしまった。
僕はあの日からレモンスカッシュ以上のものを望むことをやめてしまった。
少年は僕にありがとうと、お辞儀してから缶を開けた。まだ喉仏もないその少年は、あの日の僕のように勢い良く飲み続ける。
一気にレモンスカッシュを飲み干した彼は笑顔でありがとうと、もう一度だけ言い、足をバタバタと走らせながら自販機を後にした。
僕は夕焼けに照らされ、身長の何倍も伸びた少年の影を見ながら、残ったもう一本のレモンスカッシュを飲み干し、小さくバイバイと呟いた。
背中をつたう冷たい汗が、なぜか今日だけは心地よかった。
完
さんぴん倶楽部 高尾 千冬