私が申請しなかったふたつの江戸期の墓
宣言してから書くまで時期が遅くなりました。
撮影したのは7月23日です。
山形市は旧盆で墓参りを行うため、この時期を選びました。
ひとつめは「光禅寺」にある「最上三代の墓」。最上11代当主 最上源五郎義光公と、12代家親公、13代義俊公、そして義光公が亡くなった際殉死した寒河江肥前守、寒河江十兵衛、長岡但馬守、山家河内守らが埋葬されています。
尚、光禅寺は明治27年の山形南部大火で観音堂と鐘楼を残して消失し、貴重な古文書なども失われています。
境内の庭園は江戸初期の作とされ、遠州流心字の池など山形市の名勝として知られています。
話が反れました。
この墓石は一般のかたの墓地の真ん中にあり、独立したものではありません。
そして、隣り合う場所が「山形県立中央高校」と「山形市立第六小学校」です。
エモい存在でたくさんのかたに知っていただきたい気持ちはありますが、他のかたの墓石を踏みにじってプレイはしたくないし、諦めるしかありませんでした。
もうひとつは「駒姫さまの墓」。
彼女は最上義光公と大崎夫人の間に生まれ、当時「東北一の美少女」と讃えられました。その美しさは京へも届き、豊臣秀吉の甥、豊臣秀次から側室に迎えられる予定で山形を経ち、京都に着いたが秀吉の命で秀次は切腹、実質的に輿入れ前でしたけれども、他の側室と共に三条河原の露と消えたのです。
ご遺体は三条河原の畜生塚に投げ入れられ、ご遺体の引き渡しすら許されませんでした。
嘆き悲しんだ大崎夫人は彼女を追うように18日後に亡くなっています。
駒姫さまと大崎夫人の菩提寺は旧寺町、現在の七日町にある「専称寺」です。
駒姫さまの墓は一般のかたの墓所とは離れた場所にあります。
こんな案内が
墓所のなかを進み、竹林の前にひっそりと佇んでいます。勿論遺骨はありません。
一般の墓所とも距離はあり、充分申請可能ですが、竹林の後ろが「大谷幼稚園」です。また、ここにアクセスする際、墓所を通らねばなりません。
やはり、申請すべきではないと判断しました。
唯一墓所で通しているのは「最上義康公」の墓所、「常念寺」だけです。この話はまた、別の機会にしましょう。
尚、巡った墓所は清め、細やかですが花を供え、お線香を上げてきました。
地図と写真の回転の仕方がわからないまま、投下することにします。後で加筆/修整できたらいいなあ。