【悲報】精神病だと思い10年間通院し続けたワイ、実は消化器の病気だったと判明
2013年夏、某日。
その日の夕食は、マフィンケーキだった。
作らなくて良い、皿に移さなくて良い、甘くておいしい。
一人暮らし二年目。食事は自分の好きなものを好きなだけ食べていた。
その日の夜中、目眩と息苦しさに襲われる。
動悸がし、腕を虫が這うような感覚。
慌てて救急病院へと駆け込む僕。そこでの診断結果はーー-
「異常なし」
それ以来、僕はありとあらゆる検査をした。
心臓負荷、ホルター心電図、血液検査、レントゲン、CTスキャン、MRI、超音波検査、内視鏡検査、胃カメラ検査…。
分かったのは、発達障害と子宮筋腫、潰瘍性大腸炎、そして乳腺に良性腫瘍があることだったが、ほかは「異常なし」。
目眩や息苦しさ、目がチカチカすること、不眠、パニック発作、よだれのコントロールができずだらだら流れてしまうこと、胸痛、思考能力や集中力の低下、倦怠感については、分からずじまい。
精神科で、いろいろな薬を試した。けど、副作用が強すぎて、合わなかったし、病院ごとに診断名が変わる。医者も、ハッキリと分からないようだった。
僕が便秘なのは、生まれつきのことのように思う。
あまり、昔から、腸の働きが良いほうではなかったように思う。
本格的に便秘で苦しいと感じ始めたのは、大学生活を始めてから。
野菜は好きだから摂っていたし、むしろサラダが夕食なんてこともざらなのに、なぜか便が出ない。
便秘だけなら良いのだが、生理と重なると地獄なのだ。
生理のために、おそらく腸の働きが鈍るのだろうと思う。生理の日はとくに便秘の腹痛がひどく、片頭痛にもなり、一ミリも体が動かせない。このまま死ぬのではないかと思うほど、痛みで気が遠くなる。何十分もトイレで踏ん張っても、うさぎのフンしか出てこない。
僕は生まれつき、自閉症という発達障害を持っていたが、そのことは大人になるまで分からなかった。
自閉症とは、他人のことが分からない障害で、ふつうの子には分かるようなものが分からない。それで僕はいつもクラスで浮いたり、叱られたりしていた。
いつからか、就職を諦めるようになった。
今にして思えば、母も発達障害だった。感覚過敏や冗談が通じないなど、典型的な症状がある。父は逆に神経症のきらいがあり、母のそんな鈍いところを気に入ったのかもしれない。
僕が生まれてすぐに母が更年期障害になったため、幼少期僕はほとんど父と交流していた。父は天才肌で、頭が良く、それを鼻にかけるようなタイプだった。何でも一流を好み、その反面寂しがりで、他人にちやほやされていないと気が済まない典型的なナルシストだった。父は僕を自分の二号のように扱い、僕は父の真似をして育ったが、中学に入り母が更年期から回復すると、母の影響力が強くなる。母はとかく「芸術」に拘る人で、自分の感覚過敏を才能と履き違え、自己肯定と対立によって立場を獲得しており、決して他人を頼ったり謝ることをせず力業でねじ伏せる扱いづらい人だった。少しでも関心のあった絵に目をつけられ、母の指示で絵を習い、漫画を描き、絵の道に進むよう仕組まれた。今思えば、「芸術」の道に進んだのは二人の影響がかなり大きい。母は憧れ、父はナルシズムで、僕は期待されていたのだ。僕はそれに応えたかったし、自分でもできると思い込んでいた。苦手だと心のどこかでは分かっていた。だけど努力すれば、克服できると信じていた。
学校でははみ出し者で、家では「いい子」。だから自分の悩みは、誰にも相談できなかった。
「この家を出なければ」。それが子供の頃の目標だった。この頃僕は、どんな店に行っても偉ぶる両親を心底軽蔑していた。両親この家さえ出られたら、きっと人生は上手く行くし、自分のなかの疑問も解決するだろう。そう思い、勉強に明け暮れ、学費の安い国公立大学の合格通知をもぎ取った。
大学に進学したけど、大学を卒業する熱意はあまりなかった。あくまでも、実家を出る口実のようなものだったから。自分は就職は出来ないとはなから諦めていたし、学歴よりもほかの分野で実力を付けたほうが確実だと思った。だから近所の美術大学に忍び込み、講義を受けたり、植物園や動物園でスケッチする毎日を過ごした。
そのころの僕は、「少年漫画家」ならなれるのではないかと思った。それが無理でも、プロのアシスタントになろうと思った。そのために、建築学科を選んだほどだ。
昼はスケッチ、夜は映画。とくにアカデミー賞を取るような作品を努めて観た。映画は時に三時間以上にも及び、感想をまとめたりしていると朝になることもあった。そのまま、シャワーで目を覚まし、徹夜で大学へ行くこともしばしばだった。大学の講義も、「単位のため」ではなく、「作品のネタになるようなもの」で選んでいたため、他大学の講義などを電車を乗り継ぎ受けに行くこともあった。東京でも学べる授業は後回しにし、京都ならではの授業を優先的に受けた。交通費や美術館の図録のために食費を減らすことも、ざらだった。とにかく、実家に頼ることができないため、大学在学中に何とかデビューしなければと必死だった。
漫画を描くという観点で言えば、これ以上ないほどに充実しており、僕の人生のなかで最も楽しかった日々だとも言えた。絵を描くこと、漫画を作ることは、消去法で選んだ道とはいえ、大嫌いとは言えなかった。漫画家を目指す自分に酔っていた。
救急病院に駆け込んだのは、そんな生活を二年ほど続けたときであった。
しだいに日中、胸や腰が痛むようになり、動悸がしはじめ、太陽光がまぶしく前が見えない。手がふるえて絵が描けなくなり、考えもまとまらず、強迫観念が芽生え、何もかもが怖く感じるようになっていった。夜は悪夢ですぐに目が覚め、眠れず朝になる。まるで眠り方を、体がすっかり忘れてしまったみたいだった。
大学の授業はさすが国公立なだけあって難しく、片手間でこなせるものではなかった。パース(透視図)の授業もさっぱり付いていけず、ぼくは建築を描くことは早々に諦めた。思考能力がどんどん落ち、講義の内容が頭にまるで入ってこない。そもそもトイレが90分も我慢できない。単位も、8割は落としていて、一回生を4年も繰り返しているような有り様だった。大学の同級生には無視され、笑われ、講義室の変更など、掲示板に掲示されないで内輪で済ませられる連絡が回ってこず、教室が分からなくて諦めることも多くなった。元々、子宮を取るまでは他人と仲良くしない方針にしていたし、長年勉強ばかりしていたため友達の作り方がわからず、結局大学で友達ができることはなかった。
そして僕は入学から六年目で、大学を中退した。本当は休学が良かったけれど、父は信用していなかった。僕も、できれば卒業したかったけど、もう学歴は切り捨てるべきだとも思った。
自分が発達障害と分かったのは、そんな折だった。
そして、漫画の才能がないことに薄々気がついてきたのも、この頃だった。
ストーリーが、自分で把握できない。考えた先から、忘れてしまう。だから構成を作ることができない。
細かい部分で、何をどう書いたら良いのかが分からない。どのような展開なら良いか、読者がどう感じるのか、まったく想像できない。そのうえ妙なこだわりで、ちぐはぐな展開になり、つじつまを合わせられずに諦めることもあった。
そして、文章から物事を理解することができないため、本で資料を得ることができない。必然的に、自分で足を運ばなければならず、手間も労力も人一倍かかった。
やはり僕は、自閉症だった。一人では何も浮かばないから、よけい取材ばかりして、そのぶん疲れるのだということが分かった。
そもそも、自閉症は冗談がわからない。だから漫画の「お約束」を、「お約束」と流せず、リアリティを追求してしまう。だからどうしても、風刺や教材のようになる。「娯楽」という概念から、最も遠い人種なのだ。
一方で、藤子・F・不二雄や鳥山明のようなアイディア力もなかった。AD/HDなら負けないのに、いざ商売になるほどのアイディアというと、なかなか浮かばなかった。それに、ドラえもんのような感動的なストーリーも、ドラゴンボールのようなハラハラするバトル展開も描けない。
それに、メンタル的な問題もあった。読者と作家では、見る景色がまるで違う。自分の作品にさまざまな感想が生まれ、誤解されたり、貶されることに耐えられなかった。また、不完全な作品を他人に見せることが怖く、書き直しばかりでけりをつけられず、完成しても没にしてしまうという症状もあった。
元々、段取りが上手くできず、買い物がうまくできなかった。帰宅後に買い忘れや、夕食を買っていなかったことに気付くが、田舎なのでスーパーが遠く、また、倦怠感のために食事を抜くことも多かった。空腹に苦しむことも多く、今でも空腹はトラウマだ。
友達も、どんどん離れていった。みんな、社会人になって、会話が通じなくなっていった。時に罵倒され、ブロックされたりした。僕もそれに腹を立て、周りに八つ当たりしてますます嫌われた。
今まで信じていたことが、全部ひっくり返され、自分が全部間違っているような気がして、来る日も来る日も泣きながら過ごした。当然、睡眠は取れなかった。体調はまったく良くならず、ポカリスエット(飲むと少し楽になる気がする)を飲みながら、なぜ自分ばかりこんな目に遭わなきゃならないんだと当たり散らした。明日死ぬかもしれない。それほどに体調の悪い日々が続き、当然なんの意欲も沸かなかった。ただ死にたくないということ、悔しいということだけが募っていった。
自分の何がいけなかったのか調べるために、色々な本を読んだ。統合失調症、パニック症、パーソナリティ障害、発達障害、自律神経失調症、うつ病、解離性同一性障害。そんななかで、精神的ストレスと自律神経の関係について知り、「感情ローテーションワーキング法」を編み出した。そして、過敏性腸症候群の存在を知り、副腎疲労という病態を知った。まさに、僕の症状そのものだった。
副腎疲労とは、便秘型の過敏性腸症候群により小腸内にカンジダ菌が繁殖し、腸壁を壊してしまうことで起きるアレルギーに関連した病気。多様なホルモン失調を引き起こし、低血糖や低血圧発作を起こすという。
まさに自分だった。
あのつらいパニック発作は、低血糖発作だったのだ。やはり、精神疾患ではなかったのだ。
そして、やはり自律神経を整えることが最も大切だと再認識した。
そして、自分がたんぱく質を取ってきていないことにも気付いた。サラダばかり気にして、肉はほとんど食べていなかった。元々、肉を食べるのは得意ではなく、炭水化物ばかり、特に一人暮らしのときはパンばかり食べていた。中学・高校の時に、性転換手術の資金を貯める為に昼食を抜いていたのも大きかったかもしれない。
自律神経を整え、肉を食べる。そうしているうちにコロナ禍になり、家で安静にしているうちに、僕の体は少しずつ休息が取れる体になっていった。もしかしたら、手洗いをするようになったのも良かったのかもしれない。なぜか唐突に増えたさまざまな食物アレルギーも減っていった。
たまに寝不足になるが、睡眠は取れるようになってきた。けれど長年の寝不足のツケなのか、副腎疲労のせいなのか、一日10時間は寝ないとしんどい。10年ぶんの睡眠を、きっと体が取り戻そうとしているのだと思う。
就労移行支援に行くことは計画しているが、10時間睡眠となると、朝六時に起きるとすれば、午後六時には寝なければならない(二時間は入眠用)。そうなると夕食は四時になり、三時には帰宅したい。できれば、このリズムは変えたくない。せっかく整ってきた自律神経にまた負担をかけくない。
それに、父が要介護、母が要支援になり、僕は家事の手伝いをしなければならない。とくに自分の食事は、自分で作らなければならない。そうなると料理の時間もとらなければならない。まだ、多忙にするのは無理だ。
だから今は障害年金を得ながら、就労移行支援へ少しずつ通おうと考えている。もちろん「感情ローテーションワーキング法」を行いながらだ。35歳までに就職できたらと考えているが、今度はパーソナリティ障害と呼ばれるかもしれないのが不安だ。
★「感情ローテーションワーキング法」の行動範囲内で、僕にできることがあればお手伝いいたします。場合によっては無償での請け負いも可能です。
作品のサンプルは、このアカウントに投稿されている記事をご覧ください。
お問い合わせは、https://lin.ee/PHKamMuまでよろしくお願いいたします。
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