階層構造と日本文化
こんにちは、フランチェスコ・パントー氏の「アニメ療法」を言われなくてもずっとやってるとまよこ りゃんシーです。
彼(彼女?)のインタビューを読んでいたんですが、日本の文化は「階層構造になっている」という話になんとなく納得しました。ヨーロッパは土地が広いこともあって「相性」のような概念で文化を考えるのに対して、日本は土地が狭いために人間性も階層的になったということでしょうか。日本で他人と会話するときはまずその「高層」の文化で対応し、仲良くなるにつれて下層へと掘り下げていくような概念があると思います。ギャルゲーの好感度みたいなやつですね。
僕は思うんですけど、発達障害が「障害」であるかどうかというのは、その階層によって違うな、と思うことがあります。
つまり最高層の文化では発達障害は「発達障害」だが、その下の階層まで掘っていくとそれは「障害」にならないということです。
最高層の文化について
日本の最高層の文化、つまり「建前文化」が最高層にあるという事になります。その世界では「想像力」が非常に求められ、相手の僅かな言葉から意図を汲み取るような生産性に特化した文化があります。「争う暇があるなら働け」という感じで、相手がどうであれとにかく社会を回していく歯車になる、というのが第一階層です。この社会は発達障害には非常にレベルが高いことになります。
この階層で生きている人が発達障害と話すと、まず「生産」にベクトルの向かない考え方にイライラします。そして頼んでもいないのに自分の裏の顔まで見透かされるような感じになって胸糞悪い感覚がします。
第二階層
第二階層は「好奇や知識」の層ですね。自分の想像が正しいかを確認したり、相手を知りたいとか、自分のアイデンティティを追及したりする。「高度経済成長期」を過ぎた今の日本は、割とこの第二階層をメインに活動している人々も増えたイメージがあります。他人と比べずに自己表現する文化です。この社会も発達障害には理解不能な文化になります。
第三階層
そして第三階層が「共感と同一視」の文化です。ルールを決めたり、共通点を作ったり、ある程度仲良くなることで「愛情」が生まれると、その人と共生するための文化が生まれる。それはルールとか、分担とか、そうした形で相手を受け入れていき、ひとつの小さな社会を形作るようなイメージです。小学校とか中学校なんかは、無理矢理この文化で作られていると言えると思います。この文化圏でなら、発達障害はそこまで生きづらくはないのですよ。分担も決まってるし、奪い合いや裏の読み合いもしなくて済むわけですからね。「ニューロダイバーシティ」という概念もこの文化圏なんじゃないかな。
僕はヨーロッパ人ではないのでよく知りませんが、ヨーロッパ人は3つの階層のどこに所属していてもそれなりのコミュニティを生み出せるのに対し、日本と言う狭い土地では、まず必ず「最高層文化」で相手と関わらねばならないというルールがあるのだと思います。これは結局、最高層の人間が一番メジャーだからなのかもしれないし、お金が最高層の人に集まっているからかもしれない。だから「下層」の人々にお金が行き届かない。お金が循環していないから下層の人が「弱者」扱いされる、というのはあるんじゃないかな。さかなクンがよく言うように、大海原ではみんなが生きるのに、水槽の中に入れてしまうと途端に弱い魚がいじめられるというやつですね。言うなれば上に行くほど「理性的」、下に行くほど「本能的」な文化ですから、日本は土地が狭く、否応なしにプライバシーのない生き方を迫られるので理性で塗り固めないとたちまち社会崩壊するためにこういう文化になったのではないでしょうか。その反面、みんなが無理にでも「最高層」であろうとする良い意味での「同調圧力」が日本の魅力でもあるんじゃないかと思います。一種の身内ネタみたいなもんですよね。そういうのって結局、似た者同士だからこそできるんですよ。日本は島国だし文化も統一されてるから、そういう「伝統芸」が発達したんだろうなと思います。「裏」がみんな同じという前提の「オモテの表現の工夫」が粋って言うのかな。ある意味暇を持て余した神々の遊びですよね。それが粋であればあるほど、彼らはその「裏」の一体感を感じるんだと思いますよ。同じ穴のムシロみたいなね。例えばAVで日本の女の子が「ダメ」って言うのも、日本は狭いからセックスが好きな女しかいないっていう前提で発達した「文化」なんですわ。
だから、これを解決するために、日本の「弱者」は外国と繋がらねばならぬ、というのはあると思う。もちろんネットを駆使して「同じ層」のメンバーで小さな社会を作れれば良いだろうけど、言葉の壁がなくなればそれはもっと簡単になるかもしれないんだよなあ。
ちなみに「アニメ療法」と言うのはアニメを見て自分のアイデンティティを確立させる、つまり「第三階層」を「第二階層」に上げる(発達障害には無理だと思うが)練習としてアニメを使うということなんだけども、もし自分に合うアニメがない場合は創作することでも同じ効果があるとのことで、僕の提唱する「感情ローテーションワーキング法」でもワーキング法を実施できる仲間がいない場合は創作することで同じ効果があると語ってるので、やはり創作は精神療法になるのだなと思いました。
僕が創作した自分を主人公にした小説が載っている著書、『感情ローテーションワーキング法がスゴイ!』は現在Amazonで販売しております。感情をコントロールして自律神経を整えるためにアニメや漫画を使ったり、創作したりするコツについて書いていますので、もし良かったら読んでみてください。
身近な話だと、小学生の頃、エリート教育を受けている子たちがみんな揃って「俺達がこんな下らない文化に負ける訳がない」と言ってたのをよく思い出すんです。自分を「押し殺さずに」いかに「求められた人間」を演じれるかをみんなで競っていたのを思い出します。結局この「最高層文化」と言うのは一種の「教養のステータス」となっているのでしょう。だからこそ根強く残り続けているし、それが推奨されているのではないかと思います。知能のない人間が無理に最高層に行こうとするとメンタルが潰れてしまう。そうやって狭い土地でいかに人をランク付けしていくかという日本の階層構造を表しているのではないかと思いました。
実は、僕は両親ともに最下層の人間だったので、「本音と建前」文化に触れたことがないのであります。そもそもあの頃の彼らの言葉の本当の意味を知ったのも最近のことでして(「今の下らない文化をぶっ壊そう」って意味かと思ってた)。
それでは、とまよこ りゃんシーでした。