令和四年 弥生 つづく
春彼岸で京都へ、そして倒れる
春彼岸でお墓参りに京都に行ってきた。今回の京都での目玉は、「あんこの本」を読んでから、行ってみたかった中村製餡所である。
中村製餡所は、明治41年に京都で創業し、伝統の製法を守り続けている製餡所だ。江戸時代、小豆の煮汁からでる泡で、道具を洗うときれいに汚れが落ちるので洗剤として使われていたが、今でも同じ方法で続けている。
このお店に限らず老舗では、従来の業務プロセスを維持していることが多い。これは、代替わりをしながら様々な歴史が重なって、現在の味や設えになっているため、少しづつ築き上げられた業務プロセスの因果関係を分解して理解しずらくなっていく。よって「かえる」ことの難易度があがり、それを好んでくる常連さんが増えるので「つづける」ことの価値が相対的に高まりつづける。
中村製餡所のあんこを食べる体験は、つづくことの素晴らしさを舌で、目で、感じる素晴らしい経験であった。
仕事の方はというと、お墓参りで先祖に「お見守りください」と言った矢先、東京に帰ってきてしばらくして、胃腸炎のため、道端で突然意識を失い病院に運ばれてしまった。初めてのことなので驚いた。どうやら私は今までの働き方をつづけることに警告を鳴らされたようだ。
そこで今月は、京都の老舗には及ばないが、同じ品質の成果を安定的に出し続けるためにはどうすればよいのか。つまりは、「つづく」をテーマに思考してみたい。
真っ赤と真っピンクの違い
という意味だそうだ。ここで疑問が浮かぶ。
ではどこまで、とぎれずにつながっていると「つづく」と言えるのであろうか。
参考になりそうな日本語として、真っ赤という言葉が浮かんだ。日本語の色を表す語彙は大昔、白、黒、青、赤の4色しかなかったと考えられている。白黒は明度の強弱を表すために、青赤は彩度の強弱を表すために使われており、色の境界線が明確でなくとも、より白い、より青いなどの表現で色の認識のすり合わせができていたそうだ(ミニマムで美しい)。
青、赤が彩度であることは、少し理解しずらいかもしれないが、「あおい」は、「淡い」の由来にもなっており、「あかい」は「明るい」の由来にもなっている。
つまり白、黒、青、赤の4色は他の色に比べて歴史的に長くつかわれており、他の色とは異なる言語的な特徴がある。そのわかりやすい例が「真っ」を加えると色そのもののを強調するだけではなく、別の意味が立ち上がるということである。例えば、「頭の中が真っ白」「腹の中は真っ黒」「ショックで真っ青になる」「真っ赤な嘘」などである。これが真っピンク、真っ黄色、真緑などでは別の意味が立ち上がることはない。
「つづく」とは、どこまできれずにつながっている状態を指すのか?という問に対して、「真っ」の振る舞いをメタファーにとると、本来の振る舞いが、その当初の意味に重ねて別の意味が立ち上がっている状態ではないか。これには正解は無い気がするが私はしっくりくる自分なりの定義だと感じた。
まず倒れてしまったときの状況を整理すると、
私生活においても、仕事においても、とても手に余る量のすべきことを抱えていた。これへの対応として、土日を使えばいい。土日で足りない場合は平日朝早く起きればよい。朝早く置きて1日の集中力が持たなくなるとマインドフルネスに取り組めばいいと、自身の工数は自身の努力で、まるで無尽蔵に生み出されるかのような働きを起業から3年間ほど続けていたように思う。怖いのが、これは意識的にやっているのではなく非情に無自覚に、「そういうものだ」と思ってやっているという点である。
この問題への対応として、当たり前ではあるが、私自身を会社を構成する自分とは異なる社員として客観視して、この人にも生活があり、すべてを投げ売ってでも身を粉にして倒れるまで働かせる必要はないという視点が必要ではないかと思った。社員に対しては、その意識を持てるのに自分に対しては急にIQ2の対応をするから驚きである。
人の変化のステップ
あまりに会社と個人が一体化しすぎている現状に対して、自身を変化させなければいけない。どうすればよいか。そもそも人が変化するにはどうすればよいかは「複利で伸びる1つの習慣」にいつもならって行動しているので今回もそれに従いたい。(従っているため、以降の思考に至る経緯の説明を省く)
今回のように「倒れたくない」というモチベーションは、変化するきっかけにはなるが、継続するエネルギーにはならない。語学の学習などと同じように長期的な変化に対しては、行動を習慣化してモチベーションを必要とせず、特定の振る舞いを自然と行える状態をつくるほうが効率が良い。では、自然と自身の変化のための行動を継続できるにはどうすればようかというと、それはアイデンティティーを変化させることである。今回の場合であれば極端に言えば、「私は、一生懸命働く経営者だ。」という認知を「私は、私に依存せず成長できる組織をつくる経営者だ。」という形にすることである。アイデンティティーを形成するには、そう思うだけでは意味がない。確かにそうだと思える実績の積み重ねによってアイデンティティーは形成される。
例えば、
毎日フロスをしているので、私はきれい好きだ
毎日トレーニングをするので、私はスポーツマンだ
毎日ベッドメイキングするので、私は几帳面だ
という具合である。
そこで、とっかかりとして、毎朝おこなってる日記を書くついでに、5分程度の時間をとり、昨日の1日の時間の使い方を振り返り、新しいアイデンティティーに則した行動は加点、則さない行動は減点する形でログを残し、新しいアイデンティティー形成にあるべき行動に使う時間を増加させたい。
以上。今回の思考は終了とする。
あんこ好きの成れの果て「真っあんこ」とは
私は、何度もいうがあんこをよくたべる。習慣化に悩む必要もなく、知らないうちに口に含んでいる。
せっかくであれば、それに乗っかってあんこをトリガーにポジティブなアクションにつなげたい。
候補1:社会への帰属感を得ることで心の平安につなげる
年二回の春彼岸と秋彼岸には、滞在している東山から北野天満宮をお参りして、中村製餡所であんこをいただく。お彼岸とは、家族、先祖、広く取ると、個人が社会に所属していると実感するイニシエーションとしてよくできている。そこにあんこを紐付けようという作戦だ。
候補2:この記事をかいたことを思い出して、今日経営者としてうまくやれているか振り返るきっかけにする
あんこと経営者としてのアイデンティティーをかけあわせて記事を書いた人がこれまでにいただろうか。この新結合にユニークネスを感じるので、あんこを食べるとき「あぁ、今日のわたしは経営者としてうまくできているだろうか」と自問するきっかけにしたい。
それぞれの候補が実行されるかは甚だ疑問だが、「真っあんこ」に私なりの意味を立ち上がらせてみたいものだ。