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VNと物思い③ お前の周りのゲームは…お前が考えるよりも…

本記事は佐藤亜紀『小説のストラテジー』の序盤部分の考えを元にしています。ただし、自分の理解力も筆力も、同書で述べていることの本質を取り出すには程遠く、ただただ圧倒された結果としての浅い内容しか出てきそうにないです。
このため本記事に少しでも興味をもってもらえたなら、書籍を読んだ方が、時間の使い方としても読書から得られる経験としても、はるかに良いことをあらかじめ断っておきます。


快楽の装置

批評空間にて、ノベルゲームはある種の総合芸術、という趣旨の文言に出会ったことがある。

芸術の捉え方には諸説ありそうだけど、ここでは『小説のストラテジー』に出てくる次の内容をベースにしたい。

 組織された感覚的刺激によって快楽を引き起こすのが芸術の機能である、ということに、取り敢えずはしておきましょう。(中略)五官を最大限に開き、手探りで作動させる快楽の装置なのです。

『小説のストラテジー』 1 快楽の装置より

同書は、芸術が伝達しようとしているものとして、音が作り出すリズム、響き、旋律の展開が作り出すある構造、その集約としての楽曲の「形」や、絵画における構図と色彩によって刺激されながら導かれる視線の運動を挙げる。言語芸術においても、物語の粗筋を読み手に流し込む情報伝達の機能ではなく、物語を場面に展開し、人、物、事を出会わせ、そこで起こる運動から作り出される固有の形を指摘する。

絵、音楽、テキストに、声の演技が加わるものも多い媒体であるノベルゲームでも、それぞれの知覚への刺激とそれらが作る構造や形をバラバラに取り出して考えることができるだろう。
しかし、少し話が飛躍してしまうかもしれないが、本記事では個々の感覚的刺激とはまた別のところ、そうした複数の刺激が一体となったところにノベルゲーム特有の「快楽を引き起こす装置」があると仮定して話を進めたい。

鑑賞者の姿勢

同書は鑑賞者の姿勢として、安直な「意味」の追求と、安易な消費を指摘する。

前提として、あらゆる芸術に必ずしも精通する必要はないことが明言された上で、むしろ本当は分かりもしないのに、分かったような振りをしないといけないと思い込む「悪しき教養主義」によって、もっともらしい「理解」をしようとしてしまうことが問題だ、と前者を論じる。

ところで悪しき教養主義が命じるところに従うなら、五番が詰まらなかった、理解できなかった、は由々しき事態だということになる。だから是が非でも解らなければならない──それどころか、音楽としてごく自然に判る、楽しめる人々を威圧し、こいつ本当は解っていないのではないかという疑念を一掃するためにも、彼らよりはるかに解らなければならない。
 その結果出て来るのが、たとえばこういう言葉です──「運命はかく扉を叩く」。或いは「英雄の苦闘と勝利」。どうです? まるで何か判っているように見えるでしょう?

『小説のストラテジー』 1 快楽の装置より

 ところで、実際彼が聴いたのは何だったのでしょう? 例のジャジャジャジャーン、がウィーン体制の政治的閉塞にぶち当たったベートーベンの苦悩に聴こえるとすれば、それは空耳です。

『小説のストラテジー』 1 快楽の装置より

 問題なのは、我々にとって言葉の機能は純粋な聴覚や視覚よりはるかに強いということです。言葉で表現されると、ついそこに引き摺られてしまう。容易に言語化できるものが何もない音楽を聴くことよりは、たやすく何か言える音楽を聴くことの方が、深い、重要なことであるように思い込んで仕舞いかねない。

『小説のストラテジー』 1 快楽の装置より

いかにももっともらしい「理解」──どれほど鈍い感性の主でも頭で理解できるものだけを並べ立てる「理解」は、芸術を純粋に享受することに対する不安を引き起し、尤もらしいキャッチコピーに飛びつかせ、最後には理解の身振りを見せびらかすだけの俗物根性が残ることになります。

『小説のストラテジー』 1 快楽の装置より

音楽によるこの例はとりわけ明確だけど、これは絵であっても、言語芸術であっても、演技であっても本質的に同じことがいえるはず。そしてこのことは、今回のような複数の感覚刺激が一体となったケースでも同様のはず。

後者についても、作り手の「表現」が強調されすぎていて一方的なことや、何の働きかけもせず安易に消費できる作品を丸呑みにする受け手の姿勢からは、作品を介した対話が生まれないと問題視する。
また、安易に消費できる作品をもって鑑賞者に受け入れられたと捉え、受け入れられてこそ作品だという作り手の姿勢も、受け手とのコミュニケーションを意図しているようにみえて、実は受け手のサボタージュを助長しているだけでしかないと切って捨てる。

作品の表面

以上のことから、表現者と鑑賞者の関係は再調整される必要があると論じる。そして、受け手に対し「表面に留まる強さ」を求めている。

 受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したようなふりをすることを拒否する強さです。芸術作品を、あくまで知覚が受け取る組織化された刺激として、眺め倒し、聴き倒し、読み倒すものとすること、表面に溺れ、表面に死に、あくまで知覚のロジックにのみ忠実であること、深層の誘惑を拒み、そこにあるとされる意味が知覚の捉えたものを否定したり、ねじ曲げたりするのを拒み通すこと。芸術を最も倫理的たらしめるのはこういう姿勢です。「意図」や「意味」とだらしなくひと繋がりになった作品の倫理性や深さなど、ほんの一瞬のものに過ぎません。

『小説のストラテジー』 1 快楽の装置より

自分がテーマや共感されやすい内容を安易に書きたくないとはっきり思うのは、「意図」や「意味」が作品の表面より先行すること、先の引用に出てくる「空耳」のような、もっともらしい「理解」を避けたいためだ。

誤解のないように言うと、こうした内容を短い文章で書いている他者の感想に物申したい訳ではない。表面を見ていった結果として辿り着いた理解に異議を唱えたいわけでなく、自分が「理解」から入ってしまうと間違いなく引きずられてしまい、せっかく印象的だった画面も、鳴り響いていたはずの音も、文脈に意味が込められたテキストも、繊細な演技も、そうした「表面」を悉く見失ってしまうおそれがあると思うからだ。


そして感想を書く上で、自分が何よりも大切にしたいと考えていることがある。それは、

自分が追求するノベルゲームの面白さは、装置として引き起こされた快楽によるものであり、知覚に対する組織化された刺激にしか存在しない

ということだ。


背景、構図、キャラの表情や姿、音楽、効果音、話の流れ、文脈上の意味、文章表現に、声の演技が一体となって心を揺さぶられる瞬間を経験したことがあれば分かるように、この快楽がもたらす「面白さ」は、画面と向き合っている自身の外には存在しない。

誰かが書いたスキや投票の多い感想の解釈に飛びついてもっともらしく「理解」した気になることについて、何なら作り手が作品外で提示する情報を正しいと信じ込むことすら、意識的に排除し自分が受け取ったものを守らないといけない。そうしないことには画面を前に確かにあったはずの刺激も知覚のロジックも平気で零れ落ちていってしまうと思う。

テーマが何だと論じたり、それっぽい学説とか理論とか、関係するかもしれないししないかもしれない主義思想や哲学やイデオロギーなんかを他所から持ってきても、「面白さ」を直接表現することにはならないはず。同書にも同様の話が出てくるように、特定の主義思想にとっては意味のある話にはなるかもしれないが、もはや快楽の装置がもつ面白さとは別の話になってしまうだろう。

「面白さ」を保存したい

自分が感想を書く時はこの快楽がもたらす「面白さ」を少しでも保存できないかと考えている。テキストの引用が多いのも、絵の内容や音の使い方や声のトーンや息づかいなどなるべく細部まで書きたいのも、構成にも触れたいので粗筋っぽくなるのも、このためだったりする。

批評空間における自分の遊んだゲームの評価も、遊んでいる間や終わった直後に感じたことを第一に考えている。時間が経った後に冷静に振り返って評価を変えることもおそらくしないと思う。
代償として、プレイする順番によっては複数の作品間における評価の差異に整合性がとれないことも起きるだろう。

それでも、時間をおいて評価しなおすことが「面白さ」を忠実に捉えることに繋がるかどうかは、相当怪しいと思う。
後から情報を得たり他者の評価を見たりして何らかのバイアスが入ってしまうことや、何より、感想を丁寧に書いたとしても、そして重要な場面に限ったとしても、プレイ中の感覚刺激を鮮度を保ったまま記憶しておくことは難しいと感じるからだ。

初見かそうでないかによっても受け取る「面白さ」はかなり変わってしまうだろう。だから、初見の時からできる限り「面白さ」に迫ることができたらと、少なくとも心構えとしてはそうありたいと思っている。
逆説的だが、そうして臨んだとしてもなお簡単には「面白さ」に辿り着けないような、何度も再プレイしてようやく魅力を発見できるような、安易な消費とは真逆の作品にも出会っていきたい。


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