読蜥蜴の毒読日記 24/7/15
悪魔もまた細部に宿る
アヴラム・デイヴィッドスン『ダゴン』(らっぱ亭訳)
完全ネタバレレヴュー
0
『ダゴン』は伝説の作品だ。
いやそもそもアヴラム・デイヴィッドスンが伝説の作家というか、未だ全貌の見えぬ不気味な存在であり続けている。ある種のカルト作家ではあるのだが、何処の何に熱狂していいのかよく分からない、みたいな。
そんな不気味な曖昧さを纏う作家による、最も不気味な作品の一つが短編『ダゴン』だ。
日本でのアヴラム・デイヴィッドスン評価を決定づけたあの殊能将之が(多分ある種のアイロニーとして)「わざと分かりにくく書いている」と評した作品のひとつでもある。私も最初は原文で読み、意味が分からず唖然をしたのを覚えている。正確に言うなら「ストーリーはまあ分かるが、何が書かれているのかが分からない」という異様な読書体験だった。自分が何が分からないのかが分からない。そんな奇妙な読後感を抱いたのは本作くらいだと思う。
そんな特異な作品が、この度らっぱ亭さんの細心鏤刻の名訳をもって日本語で読めるようになった。喜ばしいことこの上ない。この訳を前にすると、デイヴィッドスン傑作選である“The Avram Davidson Treasury”に収録された“Dagon”序文でJohn Cluteが書いた有名な一節が思い出される。
「これを読むことはできない。ただ再読しうるのみだ」
そんなわけで小生もこの機会にこの奇怪作を虚心坦懐に再読することにした。それが以下のレビューである。
だから本レビューを読もうかという方も、まずはらっぱ亭さん訳の『ダゴン』をご一読いただきたい。本レビューは『ダゴン』の既読者が対象のものなので、作品の展開や結末まではっきり明かしている。ネタバレへの配慮は一切ない。(今なら、らっぱ亭さんにウェブで連絡を取れば、テキストを提供してくださるはずだ)
ごく短い作品なので、一読するのにさして時間は取られない。そして勿論、さきほどの引用にある通り、一読しただけでは『ダゴン』を読んだことにはならないのだ…
では再読を始めよう。「わざと分かりにくく」書いてあるという、しかしそこには何が書かれているのか?
1
本作の語り手は1945年の中国に駐屯するアメリカの軍人である。だがこの語り手が誰か、その身分は何か、という点は冒頭では明かされない。
この小説は唐突な回想と連想から始まる。語り手の記憶(中国人の手品師)から中国とアステカの歴史への連想へ。その連想は両国が火薬や車輪といった文明の利器をいかに無視したか、という文明論の形をとる。が、大事なのはその連想が語り手の語りを具体的なオブジェへと導くことだ。ここでは火薬と車輪。語り手の文明論はそのオブジェを語りに導入するためアリバイに過ぎないのでは、とさえ思える。
勿論、ストーリー上におけるこの序段のポイントは、中国には世に現れぬ超常の力が隠されている、との仄めかしである。
だがここで同じくらい重要なのは、語り手の語りにおける記憶と連想とオブジェの関係だ。序段で披露されたその三要素による語りのスタイルは、結末まで変わることがない。このスタイルが『ダゴン』の読み方を決定づけるのだ。
本作はそこで、唐突なノイズと明滅する光と闇への言及の後(それはもしかしたら中国人手品師の撥と覆いかもしれない) 語り手がまた語りだし、本題にはいる。
語り手の記憶と連想に導かれながら。ハスの花から作家ロティへ、ロティから彼の中国駐屯へ、そして語り手自身の中国上陸へと。そして語り手自身の身分と状況が明かされ、彼がどこに何をしに来たのかが明らかになる。
だが、ここで注目すべきなのは、語り手が己を主人公に回想を紡ぎ出し始めても、その語りのスタイルを変えないことなのだ。彼は異国の街を散策し、眼前に現れる人や物から、歴史に思いをはせ、また新たな人や物を語りに導入する。連想による細部の増殖。
もしストーリーテリングという観点から見たら、この小説の前半部は主人公の状況や性格をじっくり読者に提示してみせだけのスローな導入部のように見えるかもしれない。
だが語り手の語り、という点から見ればそれは違う。結末で明らかになるように、無の部屋に閉ざされた語り手にとって、回想と連想による細部の増殖こそが、彼の語りに適したものであり、しかるべき時までそれを続けねばならないのだ。
それは何故か?
2
アヴラム・デイヴィッドスン作品の魅力は何処にあるか、と考えた時、私が思いだすのは『不死鳥と鏡』で主人公ヴァージル(ウェルギリウス)が<無垢なる鏡>を作り出す場面だ。
殊能将之によるとデイヴィッドスンは虚構の古代ローマを舞台にした『不死鳥と鏡』を書くために膨大な資料を渉猟し執筆に数年をかけたという。なるほど、それだけの手間をかけただけあって、この場面はヴァージルが魔鏡を作る一挙手一投足までを子細に描き、忘れがたい迫力を感じさせる。
だが物語の進展という点で考えると、ここで起きているのは何であろうかヴァージルがその章で<無垢なる鏡>を作るのは当然の展開であり、この場面をくだくだと書き込み、読者がそれを読んでいる間、ファンタジー冒険物語の展開は停滞する。ではなぜそのような場面が読者に忘れがたい衝撃をもたらすのか?
それは無論、そこで理不尽で暴力的な細部の増殖が行われているからだ。
この場面で延々と書き込まれる、鏡づくりの材料の精製からその完成に至るまでの描写は、それまでの『不死鳥』のスタイルに比べても異様な稠密さである。そこでは読者には覚えきれない固有名詞がとびかい、理解するのも困難な魔術儀式が事細かに書き込まれる。つまり細部がグロテスクに膨れ上がり、物語を、小説を鬱血させているのだ。膨れ上がり増殖する細部によって奇形化し、内破しかける小説。だがその場面自体は腫瘍の様に美しく印象深い。
私にとってアヴラム・デイヴィッドスン作品の魅力の一つは、増殖する細部の暴力性奇形性にある。それは小説を内破してしまうかもしれないほどの、魔的な力を持っている細部なのだ。
『ダゴン』が一読忘れがたいのは、そこで作者が、それとも語り手が、細部の増殖に身を任せて、語りを始めているからだ。増殖する細部のリズムで語りだされる回想と連想とオブジェ。そこには、デイヴィッドスンの小説作品よりも、むしろエッセイの方に近いリズムと描出が行われている。極めて魅力的だが、そこにジャンル小説としてのリニア―なストーリーを辿ることは困難だ。
だがこの『ダゴン』の真に特異なところは、語り手が細部の増殖に身を任せるままでは終わらない、という点にある。この邪悪な語り手は、異国の景物や歴史の細部と戯れ、それらを充溢させた後、突如その細部の増殖に反攻を企てるのだ。
3
『ダゴン』の理解が困難な原因の一つに、主人公である語り手が何をしたいのかよく分からない、という点があると思う。語り手はこれだけ饒舌に中国の歴史や景物について語るのに、語り手が主人公として本当にしたいこと、目指す目標は曖昧なままなのだ。
それでも、前半の饒舌な語りを読んでいると、語り手が何かを探しているらしいことは分る。だがそれが何なのかは、小説の後半に至るまで判然としない。(いや、分っても釈然とはしないが)
語り手が探していたもの、それは小説の半ばで唐突に明らかになる。それは「女」だったのだ。その「女」を見つけ、語り手は「そこで、おれの探索は終わったのだ」と語る。
しかし、ここで奇妙なのは、その「女」が何なのか、読者にはさっぱり分からないということだ。いや、ストーリー上で判断するなら分からない点はない。「女」は貧しい中国人警官の妻であり、おそらく語り手の理想にかなった容姿の持主で、その「女」を手にいれるために語り手は自分の地位を利用して中国人警官を追詰めていく。
分からないのは、その「女」がまったく描写を欠いた存在として登場する、という点にある。「女」について語り手は
「女の肌は黄色くなかった」「女の鼻はぺちゃんこじゃなかった」とわずかに語るのみである。
つまり、増殖する細部に身を任せていた語り手が探していたものは、描写を欠いているために増殖することもなく、そこが「終わり」であるために連想に導かれることもない、つまり小説を破壊する力を持つ細部とは真逆の存在だった、ということになる。
なるほどそこから、「女」を見つけた主人公は、それまでとは違い、能動的に動き始める。中国人警官を罠に嵌め、その妻である「女」を語り手に提供させる。
つまり、本作品に「プロット」が導入され、その機械仕掛けが駆動し始めるのだ。
その時、語りと細部の関係が変わる。細部は増殖し、小説を内破しようとするが、その力は主人公である語り手のプロットに組み込まれ、その機械に奉仕させられる。
そこで「女」を手に入れた主人公は語る。「かくして、おれの人生は始まったんだ」と。それはつまり、増殖する細部の力をプロット機械で統御することに成功した、ということではないだろうか。
「この女は、おれが創りあげた世界だ。見ろよ、なんて素敵じゃないか」
そして、それだけにとどまらず、小説の後半で語り手はまた新たな目標を語りだす。神になること。
「もし、おれが神になるのなら」「おれの真性への気づき、神としての顕現が近づいている」などと口走る。
だが、そこでいう「神」とは何か?
4
私が『ダゴン』を最初に読んだ時、一番意表をつかれたのは「おいおい、主人公が神様になるとか言っておきながら、何のスーパーパワーも発現しないのかよ!」という点だった。我ながら馬鹿だと思うが(笑) でも神になるとか言ってんだから主人公が超能力でも発揮すると思うじゃない?
だが、さすがに今回再読して、その点も読み方が変わった。ここでいう「神」とは、充溢する細部を語り手の思うがままにプロット機械に利用する、ということなのだろう。
そこで興味深いのが、この作品で饒舌に披露される、語り手の世界観、歴史観だ。
冒頭からも明らかなように、語り手の文明観、歴史観ははあくまで現世的な権力構造から離れることがない。例えば前半、語り手が養殖魚の池を訪れる場面でも彼は魚の世界も弱肉強食である、といった思いにふける。つまり魚の世界にも社会構造があるとの前提で考えているのだ。(まるで語り手自身の現在の状態を忘れたかのように)
従って、語り手が「神」として権能をふるうのはあくまで現世的な諸システムに対してである。つまり、語り手が細部を統合するとは、その細部を現世的な支配構造に従属させるということでもあるのだ。しかし、現世的な支配構造の頂点に立たぬまま、その隙間を縫って利益を得るだけのちんけな小悪党が、なぜこれほどの全能感を持ち得るのか? なぜ「神」を僭称できるのか?
その答えは、「女」を娶ったからだ、ということになるだろう。なぜなら「女」は「世界」だから。そこを所有し統べるが故に、語り手は「神」なのだ。
そして「女」はまた虚無である。語り手は描写されない、語られることのない、何ものでもない存在と一体化することにより、増殖する細部の破壊力に対抗しうる者となったのだ
このように考えると、本作の結末と冒頭で、語り手がどこにいて、何になっているかが、私なりにわかるように思う。
語り手は、息子を謀殺された老魔術師によって、丼の中の金魚にされてしまったのか?
あるいはそうかもしれない。
然しもしかしたら、語り手は自らが作り出した世界の中に呑み込まれたのではないか? 虚無である「女」と一体化しそこに「世界」を作り上げた時、世界が反転して語り手を呑込まれてしまったのでないか?
その時、増殖する細部をプロット機械によって統御することが可能になった語り手は、手足を奪われ、社会から切り離され、語るべき記憶以外の記憶は持ち得ぬまま、無の部屋に閉ざされてひたすら語るだけの存在になったのでは。
もしかしたら語り手は、魚の神であるダゴンよりももっとおぞましいもの、例えば「小説家」などというものになってしまったのではないか?
牽強付会を承知で言うが、私は本作の語り手がいる場所が、物語を物語るものがある時期の間、閉じ籠らなくてはならない場所に、よく似ているような気がするのだ。
それは本作の主人公である語り手が存在する場所であると同時に、本作を欠いた小説家が、執筆のあいだいた場所ではないのだろうか。
かってスペインの異端審問官は「神は細部に宿る。悪魔も細部に宿る」と言ったという。
こんな小説を書いたアヴラム・デイヴィッドスンも、やはり細部の悪魔と戦い続けた作家ではなかったのか、と私には思えるのだが…