夜への長い旅路
乳白色の薄い生地に若草色の縦縞がプリントされているカ-テンを透かして、狭いベッドに横たわる私の閉じた瞼を、強烈な夏の光がこじ開ける。すると、レモンイエローのブリキ製の目覚まし時計が鈍い音を立て始め、震えていた。音を消す摘みの爪のような突端が手に馴染まず、いつも止めるのを躊躇ってしまう。糸がささくれ立った敷布に頬を擦り付けながら猫のように身体を反らすと目覚まし時計は諦めたのか大人しくなった。
混濁した頭をもたげて、洗面台の前でベッドの淵に寄りかかりながら、まるで空中遊泳をしているかの如く、数分立っているのが起床してからの習慣になっていた。
鏡の取手を引くと、奥が三段に仕切られた棚になっている。独りなのに歯ブラシだけ増えていき、化粧水や乳液は隅に追いやられている。
半分閉じた瞼に朝の光が徐々に染み込み霧が晴れるように視界は広がるが、鏡に写る自分はいなかった。昨日の夜、扉の鏡を開けっ放しにしていた。鏡の中の自分は自分でないのだが、自分の存在が消えたと感じる、足元を掬われたような感覚がした。世界もこの様に崩れ去るのだろうか、と未だ重い頭は考えを巡らせていた。
隣の窓が開く音がして、甲高い声が私を現実に引き戻した。
「田村さぁん、起きてるぅ?電話よ、鹿児島のお父さまからぁ。」
母屋と棟続きになっている女子寮の最も大家さんと近いところに、机とベッドと洗面台に占領された、小さな部屋はあった。外部からの連絡は先ず、大家さん宅に電話が入り、それを各人の部屋にある内線電話で知らせてくれる。その後、寮の入り口の近くにあるピンク電話で外部と通じ合えるいう仕組みになっていた。
よく通る声の持ち主は、私には時々窓を開けて直接声を掛ける。その位部屋が近過ぎ、また大家さんの声は澄んでいた。
「田村さん、外泊する時には、ちゃんと言わなきゃだめよ。'毎朝新聞'がまた
山積になって、崩れちゃって困るのよ。」
確かに新聞の保管は難しい。だけど外泊ばかりしてる怠惰な学生みたいに聞こえて、困るよ、おばちゃん、そんな透き通った声で言われると。私は内心恥ずかしくなった。
歯切れの良い、ちゃきちゃきの江戸っ子の様な話しぶりと加えて嫌みのない性分に、九州の田舎育ちにして話し下手な私は軽く嫉妬してしまう。
数分待つと、ドアを隔てて、公衆電話の音が廊下に鳴り響いた。夏でも冷んやりとした寮の出入り口の近くにあるピンク電話の重たい受話器を持ち上げた。
「どうしたの、こんなに早く。」
父に対しては、いつもこんな風につっけんどんになってしまう。もう少し優しく接しようと思っても、そう思えば思う程、素っ気なくなってしまう。
父の背後からBGMのように、母の声が聞こえてくる。
「そっちから、電話するのは、大変じゃろが。元気しちょいか?」
確かに、10円玉しか使えないこの公衆電話は、まるでそれを栄養源にしているかのように、次々と飲み込んでいくので
私の方から掛けるとなると、頑丈な巾着袋一杯に10円玉を入れて臨まなければならない。重さもずしりとして、次々にコインを落とした後の手についた銅の匂いに辟易した。故郷への遠さを恨めしく感じるが、誰に勧められたわけでもなく決めたのは自分だ。
「学校にはちゃんと行っちょっとか?」
「うん、まぁね。」と答えたものの、心の中では後ろめたさがあった。
体調がわるい日には、同じ寮に住む子に代返を頼むこともあった。そして、体調の良い日は、合コンで知り合った彼とデ-トもしていた。後者の事実を父が知ったならば、どういう態度をとられるか想像がつかなかった。殴られるか、大学を中退させてでも鹿児島に連れ帰られるかのどちらかだろう。学業の方は順調だ。テストの前には、最前列に席を取り、教授の話す一言一句を漏らさずノ-トに記した。
「教授ん言やいこっから、試験の問題は出ったいど。」
これが、父の試験に関しての口癖だった。
「そうかなぁ。文学の先生だから、その日の気分で問題だすんじゃない?」
いつも、私の隣りの席に座る、関東圏出身の美幸は、手入れの行き届いた爪を煌めかせて、ペンケースからよい香りのする消しゴムを出しながら、そう言った。彼女は早朝5時前に起き、国鉄と私鉄を乗り継いで自宅から通学している。一年次は同じ寮生だったが、ニ年次は少し授業のコマ数が減るので、1時限目の授業を取らなければ彼女のように、近隣の県からの通学も可能だ。
文学の先生だから気分屋とは限らないが、嘘か誠か、はたまた冗談なのか、寮の先輩から回答用紙を扇風機で飛ばし成績を決める教授がいるらしい、と耳にしたことがあった。
「 それは、あの先輩の作り話しね。さすがに、それはないんじゃないの。」
美幸は、今度は化粧ポ-チからリップクリームを取り出して
唇をツンと尖らせたり、笑顔を作ったりしてそれを塗り始めた。
「先生がお見えになるわよ。」
「大丈夫よ。あの、おじいちゃん先生、歩くのめっちゃ遅いから。まだ、B棟にも着いてないわよ。」
英文学の教授はその世界では有名な先生で、私は彼の講義を聴くのを楽しみにしていた。この先生の講義を生で聴けるだけでも、九州の田舎から出てきた甲斐がある。著名な学者から生で話しを聴けるだけで、私は満足だった。高い学費を出してもらった親には悪いが、就職先も資格も何も確固たる未来の保障もない学部に進学した上、合コンで知り合った男子学生と付き合ってもいたのだ。彼も地方出身で一浪して入学したせいか、私は学生らしからぬ老けた印象を受けた。
私の高校時代は、ほとんど眠気との闘いだった気がする。
「あんたを起こすのに、ほんと毎朝たいへんだったのよ。」
母は、いつも私にそう言う。彼女にとっては弁当を作りながら、朝食を準備し私を叩き起こすという、朝の苦行が今でも忘れられないらしい。それでも大学合格の一報を受けた時には、涙を流して喜んでくれた。
朝補習は七時半から始まるので、七時には自宅を出なくてはならないのに、いつも目が覚めるのは7時で、許可されていない自転車通学をしていたが、ある朝体育教師に見つかって徒歩通学に戻った。2年次から文系クラスと理系クラスに分けられるので
私は積極的な選択ではなく、ただ数学と化学が全く出来ないという理由で、文系クラスに入った。
「文系を選んで将来、仕事に就けるの?やっぱり、資格を取らなきゃね。薬剤か師さんがいいわよ。」
母か口を酸っぱくして言っていた。確かにそうだと思う。しかし化学が大嫌いな私には到底無理な話しだった。
「親の意見と茄子の花は、千に一つのあだもないって言うんだけどね。」
「どこのどなたか、茄子の花を千、数えてそれすべてに花が咲いて実になった記録を残してるのかな。」
「例えよ、例え。」
「じゃあ、例外もあるってことね。」
「屁理屈言わないの。」
親と今まで喧嘩らしい喧嘩をしたことはなかったし、反抗期もなかった。両親に従順だったが、父は私の成績にだけは厳しく、哲学や映画に興味を見出してから高校の成績が下がって来た時には、#書棚から月刊誌'スクリーン'が数冊消えていて、風呂焚き場にその燃えカスを見つけた時私は、父の学問に対する執念みたいなものを感じた。自分の好きなものを全否定されること、それに正当な理由があるにせよ、自分のこころのどこかを削られたようで、妙に悲しくなった。
大体、しかし、この世界を理系、文系なんて分けることができるのか。人間の思考や感情はどちらに属するものなのかなどと、このような哲学的なことばかり考えて、一向に受験勉強は捗らず、成績は落ちていく一方だったのだ。私は受験とは殆ど関係ない、サルトルやニ-チェに惹かれて、中身は殆ど理解できないながらも、文庫本を読み漁っていた。まだ午後12時前だ。あと1時間は宅習しないと。
そう頭では考えても身体が持たない。頭の芯がふやけ出し、
瞼が段々重くなってくる。真っ白いノ-トを広げたまま首が段々もたれていく。これが毎晩繰り返される。習慣とは恐ろしいものだ。
顔を洗いに洗面所に向かう。鏡に映るそばかすだらけの生気のない顔。目はトロンとして、虚な眼差しに我ながら嫌気が差す。
振り返ると、近隣の町から入学した同級生らが共同生活している女子寮の灯りが窓ガラス越しに仄かに見えた。皆、頑張っているんだ、私も、と思っても、痩せた身体は心地よいベッドの中に滑り込む方を選んだ。
朝、高校への通学路の途中で、寮生の一団と出くわすことがあった。同じクラスの子も数人いて、会話しながら歩を進めた。内容は自ずと進路の話しになる。
「もう、わたし、K大、無理。判定いつも、Dだもん。」
「本当?りさちゃん、数学出来るじゃん。数学得意な人はがっぽり点数稼げるもんね。」
家業がお茶栽培であるりさの実家は山深い里にあると以前聞いた。卒業したら家業を手伝えばいいのに、と私は内心思ったが、彼女は彼女なりの夢があるんだろう、と一人納得した。
「でも、文科系に行きたいんだよね?」と私が訊ねると、少し頬を紅潮させて、小さくうなづいた。
皆、時計を気にしながら、早足になっていた。教科書でパンパンに膨れ上がった重たい学生カバンを右手に持ったり、左手に持ち替えたりしながら、緩やかな坂を上っていく。朝早く来ている生徒は窓から身を乗り出して、手招きしていた。
「遅れるぞぉ。走れ、走れ!」
痩せ細った私の身体は悲鳴をあげていた。
寮生の一団はとっくに私を追い越して
到着している。
「また、遅刻かぁ〜。」と思った瞬間、チャイムが鳴り始めた。教室に駆け込んだと同時に先生が入って来た。私は息が整わないまま席に着いた。
また、数日後には
受験専門の塾が主催する判定テストがある。受験する前から、結果は分かってるようなもんだ。
C判定が出た人は
クラスで偶にいたが
殆どの人はD判定だった。朝補習の終わりがけに、小テストの回答用紙をまとめながら、「進英模試の受験料、明日まで職員室まで持ってくるようにね。私がいなかったら、現国の熊毛先生に渡してくれよな。」と言って、モサモサの白髪頭を手で押さえながら、教室から晩秋の靄にかすんだ桜島に目をやって「いつ見ても変わらぬ景色だなぁ。けど、君たちはまた違う景色を求めて、がんばれよ。」と定年間近の高校教師は教室を後にした。
違う景色は手に入れたけど、校舎から見えるのは高層階の灰色のビルディングと高速道路が複雑に交差した人工物だけだ。スモッグに侵された灰色の空さへも狭く切り取られ、いつしか私は空を見上げなくなっていた。都会の中心部に近い学校には想像していた緑に囲まれたキャンパスなどなく、会社に通勤している感じがした。通学に使う地下鉄の駅まで、いや、その後もずっと下ばかり向いて歩くようになっていた。
高校の同級生で上京してきた友だちと
会ったのは、入学してまだ間もない頃、ニ、三回ほどで、定期的に同窓会をすることはなかった。偶に、寮の方に電話が掛かってくることはあったが、男子生徒からだと何だか気が引けて、会うことを躊躇った。
高校時代も男子と喋ったのは、ほんの数える程度だったと思う。何となく男性と女性という見えない枠があって、完全に自分を閉じ込めていた。同じ空間に男性がいることに違和感を感じたことが、私を女子大に駆り立てた原因だろう。親は女子大学を希望する私を歓迎していた気がする。男性と共にいる空間は私を萎縮させた。昼食時間は男子生徒は各々黙々と食べるのに対して、女子は机を寄せ合って楽しく喋りながら食事をする。男子生徒の中には偶に2時間目と三時間目の休み時間に早弁をする強者もいたが。女子といったら、仲の良い友だち同士と連れ合ってトイレに行く子らもいた。私はそこまではしなかったが、やはりグループの一員になりたかった。とはいうものの固定されたグループではなく、流動的にそれはできて、私はりさたちの寮生一団と仲良くすることが多かった。特にりさとよく昼食時間を共にすることがあったが彼女の弁当は白飯にお菜は佃煮だけで、卵焼きやウィンナーの入った母のお弁当を広げて食べるのがかえって、憚れた。
りさのギリシャ彫刻のような引き締まった顎の線に繋がる美しい横顔と、その質素なお弁当の取り合わせが、とても微笑ましかった。彼女のお弁当をもう覗くことはしなかったが、昼食時間はいつも共にした。
「東京に行くの?」
りさは突然聞いてきた。私は黙っていたが、彼女の眼が返答を促すので、私は口を開かない訳にはいかなかった。
「うん、まぁね。女子大だけど。」
「わたしは、地元の大学に行くわ。タムん家みたいに、お金持ちじゃないから。」
りさは、私のことを
'タム'と呼んでいた。
苗字の初めの方を切り取ったらしい。
私には、英語でTomと呼ばれているようで、少しくすぐったい感じがしたが。
短い昼休みを終えると、午後はまた眠気との闘いが待っていた。二ヶ月に一回席替えがあるが、私は教室の廊下側の真ん中に少し出っ張った柱があって、その後ろの席を好んだ。勿論、同じ企みを持つクラスメイトはいて、そうなるとくじ引きになり座れない時もあったが、大体その席だった気がする。教師側から見ると、顔の三分の1くらいは隠れる'死角席'だった。とはいっても教師もその魂胆は見抜いていて、あまりに居眠りする私に目掛けてチョ-クが飛んで来たことが数回あった。
「意外と、灯台元暗しで、一番前の席がいいんじゃない?」りさがいたずらっぽく微笑んで私に言った。一番前の席を選んでみると、気が張るのか、不思議と眠気に襲われることはなくなっていた。りさのアドバイスに、ある意味感謝した。
父は、私が男子学生と付き合っていることに、気づいているのかもしれない、と思った瞬間があった。電話で話している時に、こう言うのだ。「女子大にゃ、男んしは、おらんどが。」
「いるよ。警備のおじちゃんやら、教授先生やら。あっ、そうだ。学食の料理するお兄ちゃんとか。」
「じゃっとか。」
父は納得しない感じであった。
オウは、最近卒業ゼミのレポート書きで忙しいらしい。らしい、というのも週に一回は、この近辺の喫茶店で会っていたが、間隔が開いてきた。電話も偶には掛かってくるが直ぐに彼の方から話しを止める。忙しいんだろうな、とその時は思っても内心不安になってくる。就職先は、半年位前に内定していて彼の地元の自動車メーカーだった。
三次限目と言っても大学では午後になるが、私の隣で美幸が爆睡している。朝4時すぎに起床して通学しているのだから無理はないな、と納得しながらノ-トにペンを走らせた。帰り際に、未だ眠そうな美幸は私のノ-トを借りてコピーしてから、いつも缶コ-ヒ-を奢ってくれる。私は不思議なことに大学では眠気に襲われることはなくなっていた。レポートの宿題も、まれにあったがそれ程の負担ではなかった。
人気のない、学食のテ-ブルに向かい合って座り、彼女はコピーを手に取って、にんまりと笑った。女子校出身らしく、あけっぴろげで屈託のない性格だ。私とは正反対だった。
「ねぇ、オウさんとは、うまくいってるの?」
オウとは、彼の渾名である。これも、名前の一部を切り取って私が名付けた。王様のように、どっしりと構えていて、一浪してるとはいえ老けて見えるから、オウさんという渾名がしっくりときた。血液型はなんだったろう、聞いた事はなかったが多分O型だったに違いない。弓道部も既に引退して、あとは残された単位を取ることと、ゼミのレポート完成だけらしい。後は、建設現場でバイトをすると言っていた。弓道で鍛えた上半身は、肩は張り胸の辺りも隆々としていて、きつい肉体労働にも耐え得る逞しさが、上着からでも感じ取られた。古めかしい眼鏡をかけていたが、父もかけていたので何とも思わなかった。眼鏡の向こうから狡賢そうな視線を私に時々注ぐと、私は言葉に詰まり、下を向いてしまう。
彼は、私の体格には
一切言及しなかったが、美幸はいつも私のことを羨んだ。私は彼女の言うことが
全く理解できなかった。
「いいなぁ、タムちゃん、何食べても太らないから。」
私は、この骨張った下半身や、扁平な胸が大嫌いなのに。痩せて貧弱な身体つきを嫌悪していた。
オウの通う大学は、私の学校から歩いて二十分くらいの
ところにあったので
両方の講義がない時には、中間地点にある喫茶店'さぼうる'
で会うことが多かった。店内は仄暗く、天井が低くて学生たちが好みそうな洒落た空間が広がっていた。オウは内定先の会社の話しを始めた。そして、マイルドセブンをズボンのポケットから探り出して、煙草に火を付けた。こういう時は私も黙って煙草の先の微かな火を見つめている。
煙草の煙の先にいるオウの顔の輪郭が段々薄れて行く。
最初は嫌いだったその香りも、オウを好きになるにつれ気にならなくなっていた。
私はコ-ヒ-の温もりを確かめて、喫茶店の壁に描かれている数々の落書きを目で追っていた。
何の意味もない、他愛のない文章ばかりだ。偶々入った喫茶店だったのか、いつも通っていた場所だったのかはわからないが、私の心を捕えるものはなかった。大体こんな、ある意味悪戯書きのようなものに名文などあるはずもないのに、無数の星のように刻まれた青春の形見たちの中に私は輝きを探していた。
「何か書かないの?」
私はオウに尋ねてみた。彼は煙草の灰を
落としながら、首を横に振った。
「田村さんが書いてみれば?」
「嫌だよ。恥ずかしいもん。でもさすがに相合傘は見当たらないわね。」
「小学生の時、冷やかし半分で、いたずらしたなぁ。木製だから書き易かった。」
そういえば、私はオウと会う時に傘を差したことが一度もない。
「僕が晴れ男なのかな?それともタムラさんが?」
オウは私のことをいつも苗字で呼んでいた。苗字以外で呼ばれたことは一度もない。
「卒業できますように、とか?」
「僕は、絶対卒業できるよ。いや、しなきゃいけない。」
私はその決意のような強い口調に、少し
哀しくなった。オウは故郷で就職することに、絶対的な歓びを感じているようだったからだ。
「お母さんが喜んでらっしゃるでしょ?」
私は心にもなく、そう訊いた。
「べつに。」
オウは素っ気なく
答えた。
いつも、私は考えてしまう。美幸の言うように、好きな人を追いかけてはいけない、追われた方が面白い、と。本当かも知れない。好きな人を追うと、自分自身が自分の心の動きに苦しめられてしまう。
出会った頃には、こんなことはなかった。むしろ、オウの方が私を追いかけていたと思う。オウと私は地方出身ということだけで、話しが合った。二人とも似たような環境で育ったことを確かめ合う作業をしていた。彼がそれしか共通点を見いだせなかったのかも知れない。私は部活もしていないし、友だちも少ない。オウは友だちも多いようだった。二人で学生街を歩いていると、咄嗟に物陰に隠れることが以前あった。
「どうしたの?何だか可笑しいわ、スパイ映画みたいで。そんなに、私たちのこと隠したいの?」
私は、わざと機嫌わるそうにオウに聞いた。オウは駅に向かいながら、何か考えているようだった。
「僕たちのことじゃなくて、タムラさんのためだよ。」
「私のため?」
私は不意を突かれたようで、驚きの声を上げた。
「世界はせまいよ。
さっき向こうから歩いてきた白シャツのやつは、ゼミは違うけど同級生さ。タムラさんと同じとこの出身なんだ。帰省して何を言いふらすか分からないよ。」
「そうかなぁ。そこまで気をつけなきゃいけないかしらね。だって同じ高校出身じゃないし。」
「気をつけたに越したことはないさ。田舎じゃ、あることないこと言いふらす人種がいない?タムラさんは、人を疑うとこがないから。そこが、いいところでもあるけど。」
オウは悪戯っぽく笑った。
今にも降り出しそうな空を恨めしく感じながら、オウと私は急ぎ足で駅に向かった。
オウはいつも、寮まで送ってくれた。そして、錆びた鉄製の門扉の手前で次に会える日を訊いた。もう、この恒例行事も数えるばかりになる。彼はいつもと変わりなく、ゼミの話や部活の追い出しコンパのことなどを楽しそうに教えてくれるが、私は心が躍るような気持ちになることは少しもなかった。
「また、電話するよ。」
そして帰り際には、いつもこう言った。電話してくれることはほとんどなかったのに私はこの言葉を聞かされると、いつも心の隅っこが灯りが灯る様に温かくなるのを感じた。
夕闇に急かされて
私は曖昧な笑みを浮かべ、背を向けた。
武蔵野の面影を残す近辺には、瀟洒な住宅が点在しているが、街灯が少なく夜道を一人で帰るのは心細かった。曲がり角一つ間違えようものなら、迷子になってしまう。
日脚が短くなれば
3時限目の講義を終える頃には、陽はもう傾きかけている。
私は、いつも山際を探す。夕日は山に沈んでいくものだと思いどこかに山が見えなければ、私は何となく落ち着かない。田舎者だからだろうか。故郷は、いつも山に守られていた。そして、中心には桜島がどっしりと構えていた。あれ程嫌いだった故郷の風景がこころの奥底に刷り込まれていた。
「わたしの家は山の中じゃなくって、山に埋もれてるわ。」
そう言った、りさの言葉がまるで夢の中で聞いたように思い出された。たった2年前のことなのに。
今夜はりさに手紙を書いてみよう、と思った。ベッドの壁側に置いてある韓国製のラジカセから流れてくる全く聞きとれい'FarEastNetwork'の英語を流しながら。
オウに手紙を書いたことはないが、貰ったことはある。淡いブルーの便箋に万年筆の紺青のインクで丁寧にしたためられていた。内容は、初めてデ-トした時のことを反省しているような、緊張してうまく話せなかったとかそういうことだったと思う。そんな風には見えなかったが本人はそうだったのだろう。彼の風貌や物腰からは、繊細な感じは受けないが、つまり異性に対しては奥手だということだ。それは私も同じだ。彼以上だろう。周りは女子学生だけで、日常生活も女子寮だ。私にとってもオウが初めて心で感じる異性だった。
高校一年の時、恥ずかしくて思い出したくもない出来事があった。
休み時間につい話し込み、トイレに行って生理用ナプキンを替えなかった。次の時限の休み時間に席を立つと経血が足を伝いソックスを真っ赤に染めた。床にも絵の具のように滴が跡をつけた。
周りの男子は見て見ぬふりをしてくれたのか、声を上げる者もいなかった。
私はりさに抱きつくようにして目で訴えた。
震える声で先生への言伝を頼み、私は酷い罪を犯した人のように首をうなだれて帰路についた。
家には偶々仕事休みの父がいて、私に声を掛けた。
「今日は、早かが。」
私の姿を見ぬふりをしたのか、ただ気付かなかっただけなのかどうかはわからない。
「車が水溜りの泥をはねてね。」
今日は朝から晴天で昨日も雨は降らなかった。水溜りなどあろうはずがない。
私は明らかに嘘とわかる言い訳をした。
父は何も言わなかった。
私は一ヶ月ほどこの'事件'を後悔した。
父は無言だったが私の心中を察していたのか、珍しく二人だけの外食に誘ってくれた。
その後も月経には
悩まされた。定期的には訪れず、不意にやって来ては経血の多さに私を手こずらせた。過多月経という文言を目にしたのは随分後のことだったような気がする。
オウから貰った、初めての手紙を何度も読み返してみた。
濃紺のインクが目に染みる。私が彼を初めて見た夜、硬派の学生らしく詰襟を着ていた。少し驚きはしたが違和感はなかった。昭和のすでに半世紀が過ぎた時代に、まだこの様な学生がいることは
その大学の伝統か、あるいは運動部に所属している学生の仕来りなのだろう。しかし私は硬派のオウに次第に惹かれていった。もうすぐ、離ればなれになるというのに。
「 僕は農家の長男だから、どうしても地元に帰って来いって
おやじがうるさいんだ。」
住宅街を流れる人工的な小さい川のほとりの狭い公園のベンチに私達は腰かけていた。
「うちも同じよ。
帰るのを条件に県外に出してくれたの。高校の同級生もほとんど地元で就職したいって言ってるらしいわ。帰っても働くとこは役所しかないんだけどね。」
「女の子はそうだろうね。実は東京の会社も探してみたんだ。
」
「へぇ〜.そうなの。どうして?」
「言わなくてもわかるだろう?」
「言葉にしなきゃわからないわ。あなたは、あと五ヶ月で私の前からいなくなるのよ。」
「ほら、わかってるじゃないか。」
私は頬を膨らませて
不満げに横を向いた。オウと私は、焦燥感に駆られていた。
「タムラさんと、一分一秒でも、長くいたい。」
オウは私の心をいつもときめかせる低音の声を押し殺すように、私に告げた。「私も。」とはなぜか言えなかった、
私の爛れた子宮に心地よく響くオウの声の余韻を反芻していた。
このオウの言葉は一生忘れないだろうと確信した。
私は夜一人になると、考えることがあった。オウが卒業する時に私から別れを告げるべきなのではないかと。彼が何か言えるだろうか。
このまま彼の卒業を待っていても、その先は遠く離れて再会できる日を待ち焦がれるだけだ。私がそんな心に穴の空いたような毎日を過ごせるのか自信がなかった。私はオウの横顔を心に刻み付けるように、じっと見つめていた。
「どうした?顔に何か付いてる?」
私は首を横に振り、泣きそうになる気持ちを抑えて漆黒の川面に溜め息を流した。オウの温かい大きな手で私は引き寄せられ、いっ時の幸福に浸った。
「美幸はどう思う?」
二人で久しぶりに学食で'天津飯'を食べていた。
「それよりも、口の左の方にご飯粒、くっつけてるよ。」
呆れたようにそう言ったので私は慌てて
唇の左側の方を手で探った。
「ちがう、ちがう、右の方よ。ほんと、タムって、ご飯はこぼすわ、駅の階段を踏み外すは、
そそっかしいっていうか見てられないわ。」
「美幸は、しっかりしてるもんね。」
やっと、一粒のご飯を探し当てた。
「美幸はきっと結婚したら、かかぁ天下ね。上州名物、空っ風とカカァ天下。」
「お生憎様。こう見えても男を立てるタイプよ。」
「初めはね。段々、角が生えてきてェ?」
学食には相応しくない声を立てて、久々に二人で笑った。
美幸は学食の時計を見ると、周りの荷物をさっとまとめると、慌てて席を立った。
「ごめん、電車の時間うっかりしてた。
一緒に払っといて。」と言ってお金を渡して疾風のように消え去った。
私は美幸から見放されたようで、空っぽになった二つの丼を眺めていた。もっと、自分の不安な気持ちを美幸に分かってほしかった。わかってくれなくてもいい唯、話しを聞いてほしかった。一人で暗く寒い部屋に帰るのは嫌だった。そろそろ学食には、夜間部の学生たちがやって来る。彼女らを尊敬しながらも、昼間部の学生たちに比べ表情は暗く、鬱屈した感じもした。仕事を終えて勉学に臨むのだから当然と言えば当然だろう。でも今の自分は彼女たちより精神的にきついと勝手に思った。心の中を比べることは不可能だが、私は全く社会的には意味のない'恋愛'に追い詰められている。
オウはそんな風には見えなかった。就職に向けての準備に
余念がない。いつしか、彼の自分に対する愛情さへも疑わしくなってくることが偶にある。いや愛情ではなく、未熟な若者の恋愛感情だ。オウと唯、黙って寄り添い歩く時の心の安らぎや、つまらない会話の途中でも、フッと二人で微笑み合う時の温もりに満ちる情感や、何気ないオウの振舞いに時めく自分の魂の細波を止めることは出来なかった。でもこんな風に感じているのは、自分の方だけかも知れない。
私たちは、ほとんど乗客のいないドアの近くに立ち、黄色の電車の振動に身を任せていた。
故郷の天降川よりも広大な川を渡る時の電車のリズムと音はとても心地よい。私は、その快さを感じながら、オウに話しかけることもなく、過ぎ去る灰色の街並みを眺めるしかなかった。いくつかの川を渡る度に、私の頭の中の地図は大海原を描き出す。水と呼応し合う響きに気持ちも浮き立ち、なぜか汐風の匂いを感じた。空想地図のせいだろうか。あと、幾つかの川を渡ると隣県に近付くはずだ。山一つ見えない、だだっ広い平野を突き進む電車は止まることを知らない'時'のように唯、リズムを刻んでいた。
オウの下宿には以前行ったことがある。私の住む町と比べると雑然としていた。所謂、下町だ。駅からはかなり遠かった。ゆっくりと大股で歩くオウの後ろを黙ってついて行った。
彼は途中の八百屋さんでみかんを買った。私は果物を進んで食べないからか男の人が果物を買うのを見ると少しドキリとさせられる。花を買う男性もそうだが、果物も似たところがある。
「僕の故郷はみかんの産地なんだ。温暖だから、色んなみかんができるよ。」
「私、酸っぱいもの苦手なの。」
「酸っぱくなんかないさ。甘いよ。」
オウの故郷は瀬戸内海に面した場所にあった。名前も初めて聞くような小さな町らしいが、彼が故郷のことを話す時は、本当に嬉しそうで心から故郷が好きなんだと感じ取れた。
「国木田独歩って知ってる?」
「もちろんよ。小さい時住んでた佐伯に彼は住んでいたのよ。」
「そうなの?それは知らなかった。不思議だね。柳井にも彼は居たんだよ。僕たちを繋いでくれたのかな。」
オウは嬉しそうに言った。共通点が地方出身に加えて高名な作家の二つになった。
それは偶然というものだろうが、私には故郷での好い思い出が少ないせいか、ここまで他の人に地元への愛着を語ることは全くなかったのでオウのその語り振りが不思議に思えたし、羨ましくもあったのだが。
オウの下宿は三畳一間の日当たりの良い部屋で、飯事みたいな洗い場とテレビがあった。しかし、線路脇にあったので10分おきくらいに話し声は遮られ、部屋はミシミシと軋んだ。
炬燵に部屋は占領されていて益々窮屈な感じがした。しかし、みかんを味わいながらTVを観ているだけで贅沢な時間だった。オウは、私が卒業したら故郷に来て欲しいと言った。
「あと二年もあるのよ。そんなに貴方は待てるの?」
「聞こえない。タムラさんが、何言ってるか、聞こえないんだ。」
電車の騒音で会話が成り立たなかったので、オウは身体的な会話を試みてきた。
オウはTVを観ている私の唇に自分の唇を重ねた。そして煙草で少しただれた舌を押し込んできたので私は苦しくなりオウの肩を手の平で何度か叩いた。私の耳元に荒く熱い息遣いが、かかる。敷いていた座布団を丸めて私の背中に当て逞しい腕で静かに身体を押して行き、畳みに寝かすとオウは炬燵の中に潜り込んだ。私の下着を脱がすと眼鏡を外し、紅く仄かに照らされた裸の下半身を裸眼で眺めている。紅く染められた写真を見ているようで恥ずかしくはなかったが「きれいだよ。」とオウが呟いた時は胸が疼いた。もしこの日が生理だったら彼は何と言うだろう。血だらけの性器を見て「きれいだ。」と言ってくれるだろうか。膣から滴り落ちる血液を舐めて綺麗にしてくれるだろうか。そんなことを考えていても身体は正直に反応する。
オウがコ-デユロイのズボンを下げようとした時、警笛を鳴らし乍ら轟音と共に電車が過ぎていった。
オウは私の表情の変化に気づいたのか
「どうかしたの?
顔色が悪いよ。」
「うぅん、別に。気にしないで。」
オウは身なりを整え
コップに水を注ぎ
私の前に置いた。
「送ってくよ。」
「ありがとう。」
私たちはいつものように師走の町を黙って駅へ向かった。何事もなかったかのように。
「寮の大家さんには新聞止めてもらうように言った?」
「うん。今回は忘れなかったわ。」
鹿児島の成人式に参加するために帰省する日、オウは羽田空港に向かうモノレール乗り場まで送ってくれた。発車のベルが鳴り始めた時
オウはリボンに飾られた小さな包みを照れ臭そうに私に差し出した。
「気持ちだけ、成人お祝い。」
私が礼を言う間もなくドアは閉まった。オウは少し淋しげに私をガラス越しに見ていた。何か言ってるが聞き取れない。
電話をする、というジェスチャーをした。
彼の姿が少しずつ小さくなっていく。
オウは道路工事の
アルバイトをするために帰省しないという。
「お金、貯めないとね。」
「何か買うの?ス-ツはお父さまがプレゼントしてくれたんでしょ?」
「ヒミツだよ。」
そんな遣り取りを思い返しながら、私はプレゼントの小箱を胸に押し当てた。
空港に着いてカウンターで空席状況を確かめると、やはり満席だった。学生向けの特別割引料金で搭乗できる'スカイメイト'の会員証を見せて、キャンセルが出るのを待つことにした。席に座ってオウからのプレゼントを開けると、淡い色合いのハンカチが三枚入っていた。私は嬉しさよりも、何かメッセージのようなものを感じてしまった。オウも私たちの未来に確かなものを
見据えていないのだ。自分から別れを告げる勇気がないからメッセージとしてハンカチを贈ったのではないかと。
席の周りからは懐かしい故郷訛りの会話が聞こえてくる。
そうしているうちに私の番号が呼ばれて、どうにか搭乗券を手にできた。機内でもプレゼントのことがしばらく頭から離れなかったが邪推に過ぎないと考え直したら、いつの間にかうたた寝していた。
「タム、タム、着いたよ。鹿児島よ。」
私の肩を揺する、白く細い指が見えた。
私は夢から目覚めたように、訳のわからない言葉を発しながら目を擦って見たその先には、りさの笑顔があった。
「相変わらず、おねむさんね。」
「どうしたの?えっ?嘘みたい。」
「私も東京くらいには行くわよ。」
そう言ってから、後ろに立っている背の高い短髪の青年と目を合わせた。
「あ、そういうこと。」
「初めまして。りさとは、、、。」
青年は生真面目に、自己紹介をするつもりのようだが、通路が混んできたので、りさは青年に目配せして
「また手紙書くね。同窓会あるの知ってる?」
私は首を横に振って
「じゃあ、また。」とポツリと言った。りさは、煌めくように美しかった。素敵な恋をしているのだろう。
私は人がほとんど降りたあとに、ブリッジを渡った。
荷物は預けていなかったので、すぐロビーに出られた。コートは要らないくらい暖かい。
父が迎えに来てくれていた。私を見ると顔を綻ばせた。家路に向かう車中では
二人とも黙っていた。
「東京はさみかろが。」
父が重たい口を開いた。温泉街の側溝からは、湯煙が立ち昇っていた。
「温泉が近かでよかど。そいに空港も、ちけで。よかとこじゃ。」
「そうね。」
暗い山波が迫る国道沿いの街並みを眺めながら、何となくそう言った。しかし
私の心は故郷になく
底冷えする真冬の東京で夜間工事のバイトをしているオウの元にあった。彼の故郷を見てみたいという衝動に駆られた。
翌日、私は近所の書店で地図を購入した。赤いパッケージに入った一枚の大きな紙を畳の上に広げ、
オウの町を探した。
彼が言った通り瀬戸内海に面した町だった。広島から南下したところにある。国鉄の山陽本線も通っていた。
「下宿の電車騒音と違って、遠くから汽笛が聞こえるんだ。」
そう彼が言っていたのを思い出した。
最初の折り目と違わぬように、そっと地図を折り畳んだ。
実家の私の部屋は
2階にあり、南の窓からは桜島が望める。
ベッドに机と電話の子機、それに小型ながらTVまである。つい、深夜までTVに釘付けという生活になってしまう。寮では新聞を読むかラジオを聴くか、読書が大半を占めていたのに、TVは魔物だ。飽きるということがない。文字を追うのは長時間出来ない。眼が疲れてしまう。だが、TVは眼も頭も疲れない。眠気がくるまで付けっ放しだ。
両親からは受験前には小言を言われたが今は見放題だ。
明けて成人式に出席したが、出会った同級生はわずかばかりの女子で、和服を着ているせいか気軽に話し合える雰囲気ではなかった。りさは隣町の出身なので会場が違った。彼女が言っていた同窓会の情報も、私には伝わってこなかった。多分、地元組の集まりだろう。私は着慣れない和装から早く解放されたくて家路についた。
母のお節料理を味わいながら、父は機嫌良く日本酒を呑んでいる。いつもは焼酎だが、正月だけは日本酒が登場する。
「おまえは呑まんとか?」
「日本酒はちょっとねぇ。ビールの方が好き。」
「おい、ビールをもっこんか。」
母は私たちに背を向けて、台所に立っている。主婦に正月も盆もない。呑めば饒舌になる父の話し相手もしなくてはならない。誰も観ていないのに、TVから演歌が流れてきた。
皿洗いと食器の片付けの手伝いをして
部屋に戻り、また地図を広げてみた。オウのバイトはもう終わったのだろうか。
確か、1週間くらいと言っていた。
都会は今ごろ、いつもの賑わいはなく
閑散としているに違いない。少しは空気もきれいになるかもしれない。スモッグにくすんだ空ではなく、真っ青を取り戻しているだろうか。
そんなことを考えていたらいつの間にか眠っていた。
いっ時して、子機が鳴る音で眼が覚めた。受話器を取ると
母が同級生から電話だと私に伝えた。
電話に出ると同級生ではなく、その低音の声はオウだった。
「ごめん。嘘をついて。お母さん、何となくわかったかもな。同級生じゃないって。」
私は唯、オウの声を聞いていたかった。
「タムラさんは何してたの?もしもし、タムラさん、聞いてる?」
「聞いてるわよ。突然だったから驚いて。」
「だよな。声が聞きたくなって,つい。」
「淋しくない?東京のお正月に1人じゃ。」
「そうでもないよ。この前、山口から高校の同級生が遊びに来てね。映画みたり
新宿をブラブラして
楽しかったよ。」
「そう、それはよかったわね。」
「もう、切るね。また、電話するよ。
じゃあ。」
小銭がなくなったのか、プツリと途切れた。
母が二階に上がってきて、私に訊いた。
「大田さんって同級生いた?それも男の子。」
「いたよ、いた。
野球部に。」
恋をすると嘘をつくのが平気になる。以前は顔が赤らんだりしたが今はへっちゃらだ。高校には野球部なぞなかった。この時、母は私の嘘を見破ったかは分からない。でも、去り際に言った言葉が気になった。
「珍しいわね。女の子の友達からも電話は来ないのに。」
オウとの連絡手段は手紙もあったが、やはり時間を共有したかった。電話料金が安くなるのは午後八時以降なので、外出して公衆電話からも掛けられるが親の目を盗んでまで実行するには、それなりの理由か嘘か勇気が要る。それに取次なので、やはり掛け辛い。オウからの電話を待つことにした。
数日後には大学に戻るという日の夜に
オウから電話がきた。バイトは終わったらしい。私が帰京する日と搭乗する便名を教えた。いつ母が二階に上がってくるかわからないので気もそぞろだ。私の落ち着かない口調に
オウもさすがに気が付いた。
「僕は歓迎されてないみたいだね。」
「そんなことないわよ。私に友達から電話掛かってくることないから、親も不思議がってるだけ。」
「そうなんだね。二人だけの時とは勝手が違うね。そっちでは何してるの?」
「地図を買ったわ。
あなたの町を見つけたの。赤ちゃんのほっぺみたいに膨らんでる場所ね。」
「そんな風に見えた?」
オウが言った途端
電話が切れた。
東京に戻ると、また
'さぼうる'で向かいあって他愛のない話しをしては、俯いたり
笑ったりしながら時間の経つのも忘れて話した。
オウは、私を真剣な眼差しでじっと見ながらこう訊いた。
「なんか気付かない?」
私はドギマギして
言った。
「え?何のこと?
ギンガムチェックのシャツがブルーだとか?」
「眼鏡、眼鏡だよ。」
私は自分の不注意さに唖然とした。オウの眼鏡は以前のものと違っていた。
「似合ってるじゃない。」
そうしか言えなかった。こんなに身近で見ていたつもりがその変化に気付かなかった自分は、今まで彼のどこを見ていたのだろうか。私の彼を見る心は鏡のようではなくて、曇りガラスなのではないかと、暗澹たる気持ちになった。
白いカップの中の
ブラックコーヒーに映る自分の顔も歪んでいた。私の心は歪んでいる。その時から、私はこう思った。
オウは、全部の単位を取得できたと言い春休みは東京の自動車学校に通うらしい。
「最後の春休みだなぁ。入社式は4月1日だから、ゆっくりと
してられない。」
「自動車学校、卒業できなかったら、どうするの?」
「そんなことないよ。」
「地元にすればよかったのに。」
「予約で一杯だった。夏休みに行っとけばよかったよ。今ごろ、レンタカーで
湘南海岸にドライブに行けてたかも。」
これが私の眼前にいたオウから聞いた最後の言葉だった。
ニ年次の単位を全て取り終えて、私は早めに帰省した。
塾でバイトをするためだ。中学の受験生が高校入試の最後の追い込みにかかる
時期だけに、私も力が入る。オウとのことは、うやむやにしたままだ。電話がかかってくることもあるが、父がそれとなく気付いたらしい。母かも知れない。
長電話になると警告音のように話を遮るボタンがあって、父か母が押すのだ。私の耳元に響き渡り、
オウには聞こえないのか、ふりをしているのか、何も言わなかった。
両親のブーイングだ。
私たちは受け入れられていない。祝福されていない。
母は台所で後片付けをしながら、こう
言った。
「あんたは、そんな
人間じゃないと思ってたけど。」
「どんな人間ならいいの?」
「男の人なんて山ほどいるのよ。1人の人に、のめり込んじゃだめよ。」
「広く、浅く付き合えってこと?そんな器用なこと、私には出来ない。」
私は、美幸の言葉も思い出した。
「タムちゃんは、思い込んだら真っしぐらだもんね。もう少し気楽に付き合えば?」
私の心は歪んでいる。誰のアドバイスも響かなかった。
その頃私のこころに深い印象を残した事件とも言えるものが二つあった。
ローマ法皇ヨハネ・パウロ二世が来日した際、大地にキスをしたのだ。
こんな人は見たことがなかった。広島と長崎の大地を祝福したのだ。祝福のない愛は存在しない。それは単なる趣向だ。
同じ頃、米国大統領に就任したロナルド・レーガンが人間の始まりは受精卵から、と言及したことだ。何故そう規定しなければならないかは、彼が共和党であるからだ。強いメッセージとなる。しかしこれは余りに物理的な客観で、処女マリヤに天使ガブリエルが降り妊娠を告げ、またそれをマリヤが受け入れたというエピソードの神秘性と主観性の方がすんなり受け入れられる。
バイトが少し早く終わり、帰宅すると
両親は町内会の寄り合いに出かけて留守だった。私は皺くちゃになったメモ帳を勉強机の引き出しから探して、東京にいるオウに電話をかけた。下宿屋のおばちゃんが取り次いでくれてホッとした。階段を降りてくる音がして、懐かしいオウの声が耳元で囁く。
会いたい気持ちを必死で抑え、彼の声に身を委ねる。
「新宿でね、男の人から声掛けられてね、何だろうと思ったら、自衛隊への勧誘だった。」
オウが少し笑いながら話してくれた。彼の均整のとれた肉体なら、声を掛けられても不思議でない。
その夜、私はなぜか下腹部に手を伸ばして押してみた。すると、小さな塊のようなものが触れた。これは何だろう、ととても不安になった。子宮に腫瘍ができている、と私は思ったが強く押さえても痛みはなかった。
オウはバイトで貯めたお金で鹿児島まで会いに来てくれるという。私はその嬉しい気持ちを手紙に認めようとペンを執った。書き綴っていくうちに歓びから、この春が近づくと遠くに行ってしまうオウと、中々会えない淋しさや恋しさを伝えるばかりの手紙になってしまった。
両親はまだ帰宅していない。私は夜の漆黒の闇の中に引きずりこまれ、これから先の暗く淋しい旅路を想像してしまい、結局手紙は書き終えずに破り捨てた。
(了)
#ほろ苦い青春 #恋愛#別れる理由#聖母マリヤ