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LivingAnywhereと習合

LivingAnywhereの藤村です。今週は仲間数人と LivingAnywhere Commons (LAC) 磐梯に行ってきました。3月ですが写真のようにまだ雪がたっぷり積もっていて、夜はマイナス7℃の寒さでした。前回磐梯に行ったときは横浜から車を運転していきましたが、今回は電車です。その数日前にたまたま書店に立ち寄ったので、旅のお伴の本を2冊仕入れました。

内田樹つながりw

帯からしてLivingAnywhereに関係ありそうな匂いがしますね。行きの電車で『彼岸の図書館』を読んだら、案の定、面白い話がいくつか見つかったので、現地に着いたときに LAC磐梯に寄贈しました。ここには来訪者が本を置いていく図書館があるのです。

さらに帰りの電車の中で『日本習合論』を読むと、こちらにはさらに今回の旅を思い出させる記述がたくさん!
そこで、この本からの引用を手がかりに今回の旅を振り返って書いてみることにしました。

「SF思考」ワークショップ

母語のアーカイブに外来語を「混ぜる」ことで、新語を作り、新しい概念や感覚を前景化するということが日本人は伝統的に好きだったし、得意だった。僕はそう思います。 (略) これは一種の「習合癖」 と呼んでよいのではないかと思います。
(略)
本来出会うはずがないものが出会ってしまったことによって、前代未聞のものがそこに生成したことに僕たちは素直に言祝ぐ。 それでいいじゃないですか。

『日本習合論』p.83-86

今回の旅では、首都圏から参加した数人と地元磐梯町の人とで、サステナビリティというテーマを手がかりに関係性をつくるということに取り組みました。これまで LivingAnywhereで何回か実施してきた LivingAnywhere Weekとは期間も規模もやり方もだいぶ異なります。しかもコロナ万延防止の観点から、いくつかの部分はオンラインツールも併用しての実施とせざるを得ませんでした。

そんな中、ひとつの試みは私が最近興味を持って取り組んでいる「SF思考」ワークショップをやってみることでした。これは同名の書籍『SF思考』の中で私の知人でもある宮本同人さんらが紹介している発想法です。「SF思考」は、普通だと現状の素直な延長線上から想定の範囲内で発想しがちな未来を、もっとぶっ飛んだところから眺めてみようという手法です。今回のように「サステナビリティ」や「地域の未来」といったテーマはどうしても地味でマジメな議論になりがちなので、「SF思考」が適しているのではないかと思いました。

そして「SF思考」ワークショップの前半の盛り上がりポイントが、2つのキーワードを組み合わせて未来の言葉をつくるワークです。まさに内田樹氏が「日本人は伝統的に好きだったし、得意だった」という作業!? 実際われわれのワークショップでも大いに盛り上がりました。2つのキーワードは、各自の「マイブーム」と「仕事やプロジェクトで取り組んでいること」をそれぞれ複数挙げてもらい、それを使ってひとしきり自己紹介してから、それらを組み合わせて「変だけど意味深っぽい言葉」をつくります。実際には「アート・シャワールーム」「シティPOP・和牛」「人生死・体験ツアー」「米袋・ホリズム」などの面白い言葉がたくさん生まれました。

ある現象が「現実」か「非現実」であるかを識別する指標とは何なのでしょ う。 ある種の想念や感情がつよい現実変成力を発揮することは現実にいくらでもあります。たとえば、「幽霊」を見たと思った人が、その心的衝撃でショック死した場合、その「幽霊」には間違いなく現実変成力はあったわけです。(略) 僕はそのような境界線をきちんと線引きすることはむずかしいだろうと考えています。

『日本習合論』p.22-23

ワークショップの後半では、つくった未来の言葉を足がかりに、それに関連する未来のサービスや仕組みなどを構想し、それにまつわるストーリーをつくっていきます。今回は2グループとも期せずしてVRが関係する話になりましたが、どちらも地域への想いや環境教育をユニークに扱う話で笑いが溢れました。何年か後に「あのとき言ってたことが現実になったなあ」と思う日が来る可能性は十分にあるなと思いました。参加者の一人はその晩の夢にまでその仮想空間でのストーリーが出てきてしまったそうで、まさに仮想と現実が入り交じる体験をしたようでした。

ワークショップでのワークシートの様子

現地企業見学

今はものごとの理非や適否を判定するまでのタイムラグが非常に短くなっています。せいぜい一年あるいは四半期、場合によってはもっと短い。そこで決着がついてしまう。ある政策決定を下した場合に、それが適切だったか否かが、数週間くらいでわかるはずがありません。 結果が出るまでに数ヶ月、数年、場合によっては数十年かかることだってある。でも、みんなそ んな先のことについてはもう考えるのを止めてしまった。五年先というような未来において、どう評価されるかなんていうことは誰も気にしない。五年前に選択した政策が、適切だったのかどうかも、誰も吟味しない。

『日本習合論』p.129

今回、磐梯町の酒造メーカー、食品小売業、リサイクル業の各企業さんを見学させていただき、経営者の方などの貴重なお話を伺うことができました。そこで驚いたことのひとつは、酒造メーカーさんとリサイクル業の会社さんが創業120年を超える歴史を持ち、3社とも長期的な視点で地域や社会を良くしていこうというビジョンをお持ちであることでした。自然を年単位で相手にする酒造りは、大きな決断をするとその結果が実るのは数年後。リサイクルはわれわれ市民の意識向上が伴ってこそ効果が出るものなので、息の長い啓発活動にもしっかり取り組まれています。食品小売業の会社さんは深い森の中に素晴らしいサテライトオフィスをつくり、そこで取引先企業さんとともに地域への貢献に取り組まれていました。こちらとしては頭が下がるばかりですが、『日本習合論』的には「外来のものと土着のものが共生するとき、私たちの創造性はもっとも発揮される。」とのことですので、なんとか今後われわれが良き「外来のもの」としての刺激にならねばと思います。

懇親会

僕が知っている「すごく頭のいい人」たちにはある共通性があります。それは「どんな変な話でも一応聴く」ということです。 「そんなバカな話があるものか」と一蹴するということをしない。どんな変な話でも、それを現に目の前で語っている人がいる以上、なんらかの文脈に沿って登場してきたはずです。そのような変な話が生成する必然性があったということです。 出力は変てこでも、それが生成するプロセスには合理性がある。では、どのような入力があって、それがどのように変成していったのか? 「すごく頭のいい人」はそれを観察し、分析する。

『日本習合論』p.290-291

通常の LivingAnywhere Week では、日中は各自リモートワークなどで別々に過ごしていますので、ゆっくり語り合えるのは夜の時間、ということになりますが、今回はワークショップや企業見学などで日中も行動を共にしていたので、夜はその振り返りも含めていろいろな会話に花が咲きました。

LivingAnywhereに集まる人は、聞き上手な人が多いと思います。もちろん話し上手な人もたくさんいますし、話題豊富な人が多いので話が面白くて思わず聞き入ってしまうということもありますが、聞き手の方も好奇心が高くてついつい色々聞き出してしまいます。だから夜が遅くなります。

どの領域でも僕は「専門家」とは言えません。 半可通の半ちく野郎ですが、何も知らないわけじゃない。 ちょっとは齧ったことがあるので、その領域がどういうものか、「本物」がどれくらいすごいかは骨身に沁みて知っている。 (略) そこが まるっきりの素人とは違います。自分が齧ってみたことがあるだけに、それぞれの専門家がと れくらい立派な仕事をしているのか、それを達成するためにどれくらいの時間と手間をかけた のかがわかる。そういう半素人です。 でも、そういう半素人にも存在理由はあると思うのです。 専門家と素人を「つなぐ」という 役割です。

『日本習合論』p.52-53

LivingAnywhereに集まる人には各界の達人もいらっしゃるのですが、それにも増して内田氏のいう「半素人」力のめっぽう強い人がたくさんいます。「趣味が高じて◯◯の資格取っちゃった」とか「最近◯◯にハマっちゃって」という話がザラにあり、しかもそのハマり具合が半端ない。だから「SF思考」ワークショップの最初のセッションで「マイブーム」を挙げてもらったときも、ついついその紹介に熱が入ってしまうし、聴く方も「もっと聴きたい!」となってしまいます。

「話を簡単にすること」が端的によいことであって、「話をややこしくすること」はそれ自体が悪いことであるという考え方がいつの間にか常識化してしまったようです。でも、そんなわけありません。生物というのはどんどん複雑化してゆくものだからです。(略) より複雑になるのは生き物としての自然です。「話を簡単にする」のは生物の本性に反することなんです。

『日本習合論』p.288-289

『彼岸の図書館』にも、筆者や周りの人の職業を一言で説明しづらいという話が書かれていましたが、LivingAnywhereに集まる人も同様です。今回私も「フジムーさんは普段何しているんですか?」と訊かれて、手元にあった名刺入れから7枚の名刺を出して「この中から一枚取ってくれたら、それについて説明します。(笑)」と答えました。(実は名刺はもっとあります。。) まあそれは極端かもしれませんが、名刺の数によらず、いろいろなことに関わっている人が多いですし、まだ世間で通じる名前がついていない仕事に取り組んでいる人もいます。だからそれを聴いていると夜がさらに遅くなります。

農業はそれなしでは人間が生きてゆくことのできない活動だ、と。こう断言してもらえると、心強いですね。 でも、宇沢(弘文)先生はもっとすごいことを言っているんです。日本の農業人口 は全人口の20%から25%が適正数だ、と。(略) ただ、宇沢先生が言っ ている20%から25%という数字はあくまで「農村人口」であって、「農業を専業とする人」の数ではありません。子どもたちや年金生活者も、農村でカフェや本屋をしている人も、農村に住み着いた画家や作家も「農村人口」に含まれます。

『日本習合論』p.139-140

今回は地元の方々とはオンライン形式で交流させていただき、それぞれに取り組まれていることなどを伺いました。オンラインだと会話の量や深さがどうしても難しいので、ぜひ次回は直にお会いさせていただきたいです。

町長さんも貴重なお時間を割いてくださり、お話することができました。町の経営に関すること、特産品のプロモーション課題に関することなどお話することができました。参加者のMさんが米国で日本産品のプロモーションに関わっていることから、そのお話にも関心を持ってくださったようでした。

この時期、海外ではロシアのウクライナ侵攻とそれに対する西側の経済制裁の影響で世界の食料供給に大きな影響が出始めており、当たり前に食べられていたものが手に入らなくなることがあるのだということを多くの人が痛感しつつあります。そうなってくると、なおさら上記の宇沢弘文氏の言葉が重みを持ってきます。『彼岸の図書館』でも「半農半X」という暮らし方とともに「食うに困らないとまでは言わないまでも、ある程度は食い繋げると思うだけですごく安心感がある。」と書かれていて、とても納得感がありました。

LivingAnywhereという場

共感や理解を急ぐことはない。この本で言いたいのは第一にそのことです。僕が「習合」と いう言葉に託しているのは、「異物との共生」です。そのことのたいせつさが見失われているの ではないか、異物を排した純粋状態や、静止的な調和をあまりに人々は求めすぎているのでは ないか。そんな気がします。それが社会が生き生きとしたものであることを妨げている。 いくつかの構成要素が協働しているけれど、一体化してはいない。理解も共感もないけれど、限定的なタスクについては、それぞれ自分が何をしなければいけないのかがわかってい る。そういうシステムのことを「習合的」と僕は呼びたいと思います。

『日本習合論』p.64

この内田氏の文章は、LivingAnywhereに共感して参加する人たちに通じるものがあるような気がします。すべてについて「そうだよね、そうだよね」と一致したり、身の回りのことを整然と役割分担して仲良く和気あいあい、というのとはちょっと違っていて、フレンドリーな人もいれば、ちょっと人付き合いが不器用な人もいるし、世話好きな人もいればそうでもない人もいる。でもそれぞれがそれぞれにユニークさを持っていて、何かのタイミングでそれが発揮されて、集団として豊かになる。そして、全員が「ここはそういうものだ」ということを理解していき、文化になっていく。上記内田氏は映画『七人の侍』と『ワイルド・スピード』シリーズとの違いを例に挙げられていて、とてもわかりやすいなと思いましたが、そういうことかなと思います。

さらに内田氏は、『七人の侍』で若者の成長がひとつの軸になっていることを指摘し、「習合的」な組織でこそ人が育つと述べています。これまでのLivingAnywhereのイベントにも子どもや若者が参加していろいろなタイプの大人に接して大きな学びを得たという話がいくつか生まれています(冒頭の図書館の みなみちゃんの記事参照)。今後もますますそういう場になっていくといいなと思います。

「少数派である」というだけの理由で「自分は間違っているのではないか」と不安になる人が多い。これはおかしいと思います。ある集団内で、多数派であるか少数派であるかは、さまざまな条件によって決定されますが、言明の真偽当否とは相関がありま せん。(略) だから、どんな時代のどんな社会でも、「今のわれわれの社会の多数派は、もしかして間違った方向に向かっているのではないか」というクールな点検が必要になる。その異議申し立てが実は適切であったことがわかるのは、場合によっては百年経ってからということだってあ る。

『日本習合論』p.34-36

LivingAnywhereの掲げているキャッチフレーズは、「自分らしくを、もっと自由に。」です。これはもちろん「定住からの開放」というのが一番直接的な意味なのですが、実はすごく多面的に LivingAnywhereな生き方を言い表した素晴らしい言葉だと思っていて、このコピーをつくったOさんは本当に天才だなあと常々思っているのですが、その多面的な意味のひとつが上記の「マイノリティであることを怖がらない」ということだと思います。これは『彼岸の図書館』にも書かれていましたし、実は「SF思考」ワークショップでも「想定する未来の社会におけるマイノリティな立場に思いを寄せる」ということがひとつのコツであったりします。多様な立場や考えや性格の人が集まり、しかし単にバラバラの寄せ集めではなくお互いに刺激し合い、それらが「習合」して全体が豊かになり環境変化に柔軟に対応できるようになっていく、そういう社会をこの活動からつくっていきたいと思います。

ミスマッチでいいじゃないですか。知らない同士がそれぞれの思いを抱えてピンポイントで出会うんですから、共感できないのが当たり前です。ぜんぜん共感できないし、相手が何を思っているのかさっぱりわからないときには、「何をしたらいいですか?教えてください。 お願いします」と言う。 もしそのときに、「バカ野郎、何をしたらいいかわからないなら、はじめから来るな」というような無体なことを言う人がいたら、「これは失礼しました」とそっと立ち去ればいい。さっきも言いましたけれど、10人のうち1人くらいに「ありがとう」と言ってもらえたら御の字というくらいの低めの目標設定のほうがいいと思います。

『日本習合論』p.59-60

なかなかこの境地に至るまでは慣れが必要な気がしますし、地域や場面によっては異論があるかもしれませんが、局所的に見ればミスマッチでも、大局的・長期的に見ればそれが良いことに繋がっていくのだ、という視点をお互いに持てると、もっと鷹揚に構えていられるのかなと思います。

とはいえ、今回のように感染対策で密な対話がままならないと、そういった機微がさらに難しいので、早くもっと自由にいろいろな人と交流できるようになると良いですね。

最後に、今回 311の大事な日を含む日程にもかかわらず関わってくださった方々に深く感謝いたします。それから、交流どころではない状況にある海外の多くの人々に心を寄せて、みなさんに早く平安が訪れることをお祈りします。

(LivingAnywhere事務局 藤村)

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