【消えた「自分との対話」?】
ある日、とある大学病院の待合室でのこと。
近くに座っていた二十代後半の女性とそのお祖母さんらしきひととが、ポツリポツリとこんな会話を交わしてた。
「あんた、それ、何見てるの?」
「ネット。インターネット」
「それ、携帯電話とかいうもんでしょ?」
「携帯電話っていうか、スマホだけど、スマホの画面でインターネット見てるの」
「見てるだけじゃないでしょ。指でなんかポツポツしてるじゃない?」
「Twitterだけど?」
「なんかいな、それ?」
「……」
「なんだかさぁ、電車でもみんなそういうことしてるよねぇ、まるでそれがないと生きていけないみたいに」
「……」
おばあさんの最後のコメントを耳にしたとたん、つい笑ってしまいそうになりつつも、まさに言い得て妙だなと思わされたものでした。
実際のところ、今まさにその時も、多くの人たちが、病院の待合室や電車の中だけでなく一人で部屋にいる時も、同じようにスマホの画面と向き合っていたはず。
そのスマホの向こうには友達や、知り合いや、仕事の関係者や、その他いろんな人がいる。見も知らない人たちもいれば、一方的に知ってるだけの人たちもいる。
だけど、そこに「自分」だけはいない。
その昔、「自分と向き合う時間」なんていう言い回しなどで想定されていた<自分>なんてもう消滅しちゃったのか?
そして、その<自分>とは一体何なんだろう?
たとえばTwitterでコメントする人たちは、自分がどこにいて何をしているか、何を考えているか、何を思っているか、何を求めているか…とにかく<自分>の今を発信している。だけど、それはあくまでも他者に対しての自分でしかないんじゃないかな。
かつては、悩んだり迷ったりしたときは「自問自答する」という言い回しがよく使われていた。だけど、今では自分で自分に問いかけて自分で答えたりするなんて面倒なことをするより、ざっとネット上の知人や不特定多数の人たちに問いかける方が良いということになってしまったのだろうか?
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?