安曇野いろ「無垢」
『アルプスの少女ハイジ』スピリ
ハイジとの初めての出会いは「少年少女世界の名作文学」だった。その本には、すばらしい挿絵がついていて、思いだすたび、いつもその絵が蘇る。ただアニメのハイジも、なかなか強烈なイメージで心に沁み込んでいて、時折赤い頬をしたハイジやペーターが頭の中を走り抜けていく。
余計な話だけれど、小学生の頃チーズ嫌いだった弟が、アニメのハイジを見た後で、チーズを一箱ペロッと食べてしまった。それほどにハイジの中の山羊のお乳やチーズの印象は強烈だ。
チーズとパン、しぼりたての山羊のお乳。
新鮮な空気と美しい風景の山で食べるこの素朴なご馳走に、誰もが魅力を感じることだろう。
今回は完訳の角川文庫で読んだ。
大人の文学としても十分読み応えがあり、子供向けのものより宗教色も色濃く感じられた。神と自然と人の関係について、考えさせられた。
もちろん、ハイジが主人公なので、宗教の色合いはやさしくシンプルに物語に練り込まれていて、そのためにいっそう、深く心に沁み込んだ。
若いときの過ちで、人嫌い、神さま嫌いになった「アルムおんじ」も、自然に対しては敬意を抱いている。毎朝、いちばんに山の風景を眺め、朝陽を拝む。山の天気を読むのが目的だが、自然への感謝と賛美がそこにはあり、アルムおんじ独特の、ひとつの宗教のようにも思えてくる。
人嫌いだった頑固なおんじの心に、ハイジはまっすぐ飛び込んでいく。ハイジを通して、おんじは人を受け入れることを学ぶ。ペーターのおばあさん、牧師さん、後にはフランクフルトの人々を受け入れ、デルフリの村人たちとも和解していく。
ハイジは無垢な存在だけれど、文字をおぼえない、神さまに祈らない、常識を知らないと、人の社会で大切にされていることからは無縁の野生児だ。
足の悪いクララは、一日中、家の中で過ごし、外の景色を眺めることもなければ、風に吹かれることもなく、ただ教育と躾だけを受けている。
どちらの少女も、愛情深く、素直でやさしい。意地悪なところはない。
物語が進むにつれて、それぞれの人物の欠けた部分が、埋められていくのが興味深い。
アルムおんじは人と神を受け入れ、ハイジは教育と躾を学び、クララは健康と自然を与えられる。
自然児だったハイジのフランクフルトでの日々は、試練ともいえる苦しいものだったけれど、その苦しみの中で、ハイジを救ったのは、クララのおばあさまから教えられた「祈る」ことの意味。アルムへ帰りたい気持ちを抑え込むハイジに、おばあさまは言う。「神様に打ち明けてごらん。きっと聞いてくださるから」。
けれど、いくら祈っても、願いが叶わない。ハイジが祈るのをやめてしまったのを知り、おばあさまはやさしくハイジを諭す。
「すぐに祈りが届かないからと、神さまを信頼せずに逃げてしまってはだめ。神様は何もかもご存じで、祈りを叶えるのにちょうどいいときを知っていなさるから」
素直なハイジはおばあさまの言葉に従う。そして、後にハイジは、このおばあさまの言葉の真実を知ることになる。
もし、すぐにフランクフルトから逃げ出していたら、
文字を覚えてペーターのおばあさんに聖書を読んであげることもできなかったし、クララがアルムにやって来て、歩けるようにもならなかった。
祈りがすぐにかなえられなかったおかげで、もっとたくさんの良いことに出会えたのだと。
物語の中には、二種類の人々が登場する。
他人に共感を持てる人と持てない人。
ロッテンマイヤーさんとデーテ叔母さん、小間使いのチネッテが持てない人の代表で、三人は自分が信じることには忠実だけれど、それ以外のことには決して共感せず、相手を思いやれない。
とても意地悪なひとに思えてしまうけれど、実は意地悪というのではなく視野が狭いだけ。
おんじの頑固も他人を思いやれないことでは同様だったけれど、自然の力とハイジの無垢な力とで変貌を遂げる。
こんなふうに、人の暮らしには、自然も知識もひととの付き合いも、そして時には神さまの存在も不可欠だ。暮らしていくためには、もちろんお金も大事。物語の最後、ペーターがクララのおばあさまから一生の間、毎週十ラッペンもらえることに私はささやかな喜びをおぼえる。(よかったね、ぺーター)十ラッペンって、ほんの百円くらいかもしれないけれど。
ハイジを心から愛する目の見えないペーターのおばあさんの悲しみと喜びが本の中で、何よりも心を打つ。何度も涙した。「わたしはもう、空の神さまにこれまでしてくださったことは何もかも皆、ありがたいことばかりでしたとお礼を申し上げるよりほかには何もすることがないような気がするよ」と、最後の最後にペーターのおばあさんは物語をしめくくる。
目が見えず、貧しく、年老いたおばあさんに与えられた深い喜び。
貧しいものはさいわいである、という聖句が思い浮かんだ。
溌溂としたハイジの幸せ以上に、おばあさんの幸せを何よりうれしく感じながら本を閉じた。
追記
神様と自然についての考え方は、
西田幾多郎の「善の研究」の四編を読んだときに
はじめて、なるほどと思えた。
「宗教的欲求は自己に対する欲求である、自己の生命についての欲求である」
現世の利益のためではないし、自己の安心のためでもない。
神助を求めたり、神罰を畏れるのは、真の宗教ではない、と幾多郎は手厳しい。
なぜ宗教があるのかという問いは、なぜ生きるのかという問いと同じで、宗教は自身の生命から離れて考えることはできない、と幾太郎は言う。神とはこの宇宙の根本であり、自然は神の「作品」ではなく、「表現」だという考え方にも共感を覚えた。
今の宗教はあまりにも複雑化し、しかも、ご利益や懲罰をことさらに言い募り、時々不信感に捉われる。ハイジの物語と幾多郎の哲学はあまりにも違う分野の本に思えるのに、どちらにも、シンプルな宗教の姿が見えるように思う。