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安曇野いろ「サラーム」
『血と砂』愛と死のアラビア
ローズマリ・サトクリフ
T・E・ロレンスは、イギリス人でありながらアラビア人として生きた男として知られる。その姿は映画「アラビアのロレンス」の中でも、魅力的に描かれている。ロレンスよりさらに百年前、十九世紀初頭にエジプトに存在したトマス・キースも、スコットランド人でありながら、アラブの男として、アラブ世界に生きた。もう一人の「アラビアのロレンス」である。『血と砂』は、歴史小説家サトクリフの手によるトマス・キースの物語だ。トマスはエディンバラの時計職人の子として生まれ、武器職人の徒弟となるも、そこから奔放して軍人となる。所属部隊はエジプトに出征するが、負傷したトマスはエジプト軍の捕虜となる。のちに親友となるムハンマド・アリの息子トゥスンがトマスを買い受け、トマスは自由人になる。トマスにはイギリスへ帰還する選択も許されたが、ムハンマド・アリに仕え、アラブ人として生きる道を選んだ。祖父から教えられた馬術と語学、そして何よりも彼の誠実さ、高潔さ、勇気が人々の信頼を勝ち得、トマスは武人として出世していく。最後は若くして聖地メディナ(イスラム教の開祖ムハンマドの終焉の地)の総督という地位までのぼりつめた。
アラブは昔も今も紛争の絶えない地。戦いによって、容赦なく流された血は砂に浸み込む。乾いた風と強い光が砂を浄化しても、新しい血がまた砂に浸みこんでいく。なぜ人は闘い続けるのだろう。続けなければならないのだろう。自分の民族の安寧と安定した暮らしを求めてというだけでは、答えにまだ何かが足りない。武人として行動する男たちの中には、好戦的な気持ちもあるだろうし、忠誠、信義もあるだろう。事を成し遂げるという欲求もあるだろう。ほかに、まだ何かあるだろうか。
サトクリフの筆は繊細であり、しかも迫力もある。容赦ない戦闘シーンを見事に描き切る。たちまち引き込まれ、あたかもその戦場に自分がいるかのような臨場感だ。それは闘いの描写だけでなく、砂漠の空気、空の色、星空、暗闇、ちいさな花などがさりげなく、あるいは丁寧に描写されているからだろう。音や匂いまでも感じ取れるような風景描写は秀逸で、印象深い。そしてその中に織り込まれる人の心の機微も丹念に描かれる。
強い印象を持った場面が三つあった。
ひとつはトマスが改宗をする場面。トマスはキリスト教徒ではあったが、神の前ではいつも罪人であることに違和感を覚えていた。フランス語で書かれたコーランを読み、アラビア語を学び始めたトマスは、しだいにイスラム教を受け入れる気持ちになっていく。イスラム教徒になれば部隊の中で出世すると聞かされたが、かえってトマスは迷いを感じる。信仰は取引ではないという思いが、彼を砂漠へと向かわせる。砂のほかには何もない広大な砂漠に身を投じ、トマスはその時、万物はみな一つであるという思いに行き着く。神はさまざまな名で呼ばれているが、それはひとつのものであり、そこへ行き着く道がちがうだけなのだと。自然とひとつになったとき、理屈ではなく湧き上がる畏れとも感動ともつかないこの境地を、悟りと呼んでもいいだろう。この体験によってトマスはすんなりとイスラムの世界へ入って行けた。そして、読者の私もすんなりとトマスの改宗を納得できた。
もうひとつは、指揮官となったトマスが自分の隊の負傷者であるムーサを見舞う場面だ。このときムーサはトマスに「わしらをあいつらのところに置き去りにしないで下さいよ」と乞う。「するものか。心配するな」とトマスは誓う。そして、軍勢が悪くなって退去すると決めたとき、重傷兵たちは友人の手で始末される。トマスはムーサのところへ行く。軍医は「ムーサはもう何もわからない」と言うが、トマスを見るムーサの目に輝きが戻る。「心穏やかに逝くがよい。慈悲深きアラーがそなたを楽園に導きくださるよう」。この祈りの言葉とともに、トマスは尖ったナイフの先をムーサの顎に突き立てる。相手の目から目をそらすことなく。敵の手に落ちていたぶられるのではなく、せめて友の手で死出の道へ送り出す。闘いの中での,非情にも見えるこの慈悲は、なんとも切なくて辛いものだった。実際の戦闘の場でもこのようなことがあったことは、決して忘れてはならない。
三つ目は、戦闘の物語に安らぎをもたらす友愛の場面だ。
トマスと妻アノウドの家を、親友のトゥスンが訪ねる。イスラムの習慣のヤシュマクを外し顔をさらしたアノウド。家主から一日一輪だけ摘むことを許されたダマスクローズをターバンに挿したトゥスン。愛する二人の人間のために、コーヒー豆をすり鉢で擦りながらトマスは透き通った喜びに浸る。「トマスの体の中で、一なる感覚が花のように咲き開き、しだいに花弁を大きく広げてゆくとともに、その中で、静かな部屋、そしてランプのまだらな光に包まれた三人が溶け合ってひとつのものになったかのような気がした。幸福に浸りながら、そんな幸福を自覚すること――過ぎ去った幸福を惜しむのでもなく、未来の幸福を願うのでもなく、幸福な今のこの瞬間をとらえることは、神ならぬ人間にはそうそう許されることではない。それが許された今は、そっと足音を忍ばせて歩かなければならない。神々が嫉妬しないように。」
神の嫉妬を受けたのだろうか。のちに慈悲などみじんもない悲惨な最期を遂げ、その死を予感したかのように、アノウドもお腹の子と共に神のもとに召されてしまう。
この結末はあまりにもむごすぎて、しばらく呆然とした。サトクリフは情におぼれず、時折、冷酷なまでに物語を閉じる。見事としか言いようがない。けれど、トマスが闘いに命を落とした事実はそのまま描いたとしても、サトクリフが創作したというアノウドの存在は、幸福なまま残してもよかったのではと潔くない私などは思ってしまう。
しかし、戦いの場では、想像だにしない情け容赦のない死が無尽に存在するのだ。いくら人々が歴史を学んでも、平和を叫んでも、戦争という無駄な破壊と死はなくならない。支配するという欲望と意識が消えない限り、なくなることはないだろう。