安曇野いろ「りんご」
りんごの実が赤くなると、本格的な秋が来たなと思う。
林檎は知恵の果実。蛇にそそのかされて、アダムとイヴがかじったのが林檎の実。その頃の林檎は、こうだったのでは? と思うような古代種の林檎を戴いた。てのひらに収まるほどのちいさな実だ。つややかに光り、紅を差したような赤色と黄色の配色がたとえようもなく愛らしい。息を吹きかけて布で磨いた。そばにいた夫が「磨いた林檎って英語でゴマ摺りのことだよ」と、からかってくるけれど、つい癖で、せっせと磨いてしまう。小さな実は、精巧なこしらえ物のように輝いた。でも、味はいささかそっけなかった。改良に改良を重ねて今の林檎の味になったことを思えば、古代種にはこんな素朴な味こそがふさわしいのかもしれない。
子どもの頃読んだ本の主人公たちは、よくポケットに林檎をしのばせていて、手で割ってかじったりする。そのしぐさと林檎の形容が好ましく、私もポケットに林檎を突っ込んで旅に出たいと思ったりした。ほどよくポケットに収まってくれるのは、紅玉やこの古代種の林檎だろうか。日本の林檎はどれもこれも大きくて立派だから、無造作にポケットに突っ込むには無理がある。きれいに皮をむいて器に並べて、あるいはウサギ林檎にして食べるのが似合っているかも。それでも、子どもの頃は、まるまる一個を皮のままよくかじっていたっけ。その頃の林檎は、かじるにもほど良い大きさだったのかもしれない。
林檎のイメージは、明るくて爽やかなものが多いが、ダフネ・デュ・モーリアの書いた『林檎の木』という短編はちょっと怖い。亡くなった妻の姿を庭の林檎の木に投影した男の妄想。木は妻そのもののように男を苦しめるようになり、とうとう男は、木を切って暖炉にくべてしまう。妄想ではないかと思って読んでいるのに、いつの間にか男の恐怖心が乗り移り、本当に不気味な思いで本を閉じた。怖かった。さすが、映画『鳥』や『太陽がいっぱい』の原作者である。林檎の木は薪にすると、林檎のいい香りがするというけれど、私には小説のイメージが強すぎて、試すのはちょっと怖い……。
手入れが行き届いた林檎畑は美しい。秋の青い空に赤い実が映える。けれど、たまに、打ち捨てられた林檎の木をみかけることもある。枝いっぱいに熟れた林檎の実をぶら下げて立ち尽くすその姿は、痛ましい。痛ましすぎる。『林檎の木』の小説そのままに、恐怖心すら覚える。野のものは自由であれと思う。だが人の手にゆだねられたものは、手入れをしてやってこその命ではないかと、思う日がある。