「光る」
「納棺夫日記」青木新門/文藝春秋
雨の降る夕暮れ、東大の安田講堂に出かけた。赤門をくぐり講堂に向かうと、金色の銀杏が空を覆い、地面も落葉で金色。どこもかも金色で、雨なのに、光の只中に放り込まれた気分だった。その日、青木新門氏の講演を拝聴した。青木氏は映画『おくりびと』が生まれるきっかけとなった『納棺夫日記』の作者である。映画『おくりびと』を見終えた時、「記憶」という言葉が脳裏をかすめた。映画のラスト、主人公は生き別れだった父の遺体と対面する。忘却の父の顔が記憶の底から浮かび上がるシーンが、心に強く残った。記憶とは、死者が遺族に残す贈り物ではないかと、心震えた。だが、講演で青木氏 はこう述べられた。「あの映画は素晴らしかった。でも死者の事が描かれていなかった」。青木氏のこだわりを知りたくて、原作を手にした。そこには忌み嫌われる「死」の現場を通し、青木氏が苦しみ、悩み、気づき、変化した事が、率直に綴られていた。遭遇した遺体は美しいものばかりではない。千切れたり、蛆がわいたものもある。それらを淡々と処理する。おまけに、周りからは偏見の目で見られる。自分を卑下する心も生まれてくる……。
やがて、その修羅の路は、光の路へと変わっていく。我執の目で見れば、老いは醜悪、死は忌み嫌うものだ。だが、生と死はいつも裏と表。死を正視することで生も見えてくるのではないか。子どもを死の場面から遠ざけると、子どもたちの生きる力も弱ってくるし、死のイメージも揺らぐのではないか。青木氏は現代の死生観を憂えた。その言葉に、『おとむらい』というデ・ラ・メアの詩が思い出される。「みんながぼくらに喪服を着せた、/スウザンと トムと ぼくとに――/それから/樹の枝が空にそびえ/雛菊や毛莨(きんぽうげ)が咲いてゐる/なにもかも美しい野原を歩きながら/ぼくらは雲の中で/雲雀がさへずるのを聞いた。/喪服を着たまま。/みんなはぼくらをお墓へ連れてつた/スウザンと トムと ぼくと/そこには長い草と/白楊(はこやなぎ)が生えてゐた。/ぼくらは立って眺めてゐた。/すると風が/そつと空から吹いてきて/ぼくのすぐそばの/スウザンの髪の毛をそよがせた。(以下略)」
この詩の中には、生と死が光と影の如く織り込まれている。子どもの目線は、まわりの生あるものを捉え、場面を明るく描き出す。だが、その明るい場面の一隅には、動かない「死」がある。
死者と関わるうち、青木氏は、魂に、その魂が放つ光に、その光の源である、もっと大きな存在へと心が動かされていく。死者の顔が輝いて見えてくる。
「どんな遺体も、亡くなられて直ぐは、仏の顔をしている。それから、形状記憶のように生前の顔が戻ってくる」。多くの死者を見てきた青木氏の言葉だ。この言葉を聞いた時、どんな苦しみをこの世で背負ったとしても、体という皮袋にこの世のしがらみは張り付いて残り、魂は透き通ってあの世に行くのではないかと思った。
中学の時、母方の祖父が死んだ。泣きそうな私の顔に、死にかけた祖父がにっと照れ笑いをした。小さい頃、祖父が不用意に置いた薬缶で私が火傷をした。祖母に叱られ、祖父は私に照れ笑いを返した。臨終の笑みは、その時とまったく同じ笑みだった。それは青木氏の言われる死後の仏の顔とはまた違うけれど、祖父からもらった、死に対するひとつの明るいイメージのように、今も思っている。