「いのちを燃やす」
『森は生きている』
マルシャーク作
その年は、師走半ばを過ぎたというのに、庭のラズベリーがまだ実をむすんでいた。垂れた枝の先に五、六粒、思いがけない贈り物のように下がっていた。その年は、暖冬だったとはいえ、朝晩の冷えた空気に触れて熟した実には、思いつめたような赤さが宿っていた。季節の瀬戸際で身をふりしぼり、あの苺の樹は生きる覚悟をしたのだろうか。終わる覚悟を決めたから強かったのだろうか。もいでしまうのをためらうほどの一所懸命さだった。
指先がそっと触れただけで、実は素直に枝から離れた。葉っぱを器にして食卓に乗せた。味もやはり潔かった。「これがわたしよ」とふいに告げられたようで、舌がどきりとした。
木守りの柿、冬咲きの薔薇、南天の実、焚き火の炎。冬に見る赤い色は、なぜだろう、深く胸にしみいって美しい。
後日、友人から焚き火に誘われた。市内にある寺の庭先での焚き火だった。「落ち葉の焼ける匂いって好きだわ」と道々告げると、「でもね、葉っぱだけじゃなくてね、古い塔婆なんかも燃やすのよ」と友人は云った。辿りつくと、焚き火は太陽の落し子みたいに、夕闇の中でちろちろと揺らめいていた。やはり、心にしみいる深い赤だった。
飛び回っていた子どもたちの影は蒼く、こんばんはと挨拶を交わしつつも、薄闇の中の相手の顔はさだかではなかった。「かはたれどき」のおかしさと妖しさ。そして、火に招かれる幸福を思った。大昔、炉辺に招かれて語り、食するのは、最高のもてなしだっただろう。心を許しあった同士でなければ、同じ火はきっと囲めなかったはずだから。
戦いの前にも、後にも。旅立ちの前にも、後にも。人は火をかこんで言葉を交わし、きっと「覚悟」を決めたに違いない。「生きる覚悟」。それは同時に「死ぬ覚悟」でもあったはずだ。
「燃えろ、燃えろ。あかるく燃えろ。消えないように……」
火を囲むたび、私はマルシャークの『森は生きている』を思い出す。
凍てついたロシアの冬の森。大晦日のその森の中で巻き起こる幻想的な物語だ。
わがままできまぐれの女王陛下が、冬のさなかにマツユキ草が欲しいと言い出したことから、物語は滑り出す。ほうびの金貨が欲しい欲張りの継母に言いつけられ、まま娘は吹雪の森にマツユキ草を探しに行く。そして、年越しの焚き火をしている十二の月の精と出会い、助けてもらう。
自然さえも支配できるとうぬぼれる権力者の浅はかさ。知識はあっても想定外のことが起こったときに対処できない学者の傲慢。おべっかを使うくせに、いざとなったら逃げ出してしまう側近たちの不誠実。お金のためなら、いくらでも卑屈になれる庶民の強欲さ――これらの社会批判を込めて描かれた登場人物たちが、マツユキ草を求めて迷い込んだ厳寒の森で、右往左往するさまは痛快だ。反対に、貧しくても正直で誠実に暮してきた人たちは、温かく描かれる。彼らは十二月の精たちに受け入れられ、贈り物を授かる。
年の瀬を舞台にしたこの物語から、「あなたはこの一年をどう生きてきたの?」と問いかけられているような気持ちになる。
実を結んだ一年だったろうか……あるいは一所懸命に実を結ぼうと努力した一年だったろうか……胸に問うてみる。
火はものを滅ぼす。だが、滅びから新たに生まれるものがある。迷いや悩みは、思い切りよく火へ投げ込んでしまおう。そして、新しい日々を元気に歩き出そう。