「紡ぐ」
「あゝ野麦峠」山本茂実・角川文庫
蚕が桑を食べる音は、さわさわ……と、そぼ降る雨の音に似ている。灰色の小さな毛蚕(けご)の時期を過ぎ、体が白くなり太ってくると、その音は小雨から本降りの雨の音へと変わっていく。ざわざわ……と。
生き物を扱う仕事は暇なしだ、と父がよくこぼしていた。信州の実家では、私が小学生の頃まで、春蚕、夏蚕、秋蚕と、三度の養蚕を手がけていた。蚕は「お蚕様」と丁寧に呼ばれて大事にされた。大人たちには、予定された段取りだったろうが、子どもの私にとって、お蚕様がやって来る日はいつも突然だった。学校から戻ると、座敷の畳がすっかり上げられ、板が剥き出しになった部屋に、蚕棚が作られていた。ストーブが焚かれ、消毒用の石灰の匂いが漂った。細かく刻んだ桑の葉。そしてゴマ粒のような蚕。桑の葉が乾燥しないように、上からパラフィン紙がかぶせられていた。顔見知りのお客が遠くから訪ねて来たような、わくわくして懐かしい気分だった。その後、繭になるまでの約二ヶ月、暮らしはお蚕様が中心になった。母はひっきりなしにカゴを背負って桑摘みに行く。指をまっ黒に染めながら、私も桑摘みを手伝った。桑を与えてから朝食に座る母の肩先に、蚕が乗っている事がよくあった。「お蚕様も人間の朝ごはんを見に来たのかな」と、指でそっとつまんで蚕棚に戻しに行った。
繭になる直前の蚕は、体が透き通る。天に向かって祈るようなポーズで頭を振る。頭をもたげた蚕をより分けてダンボール製の「まぶし」に入れてやると、口から糸を吐き、白く輝く繭を作った。規格外のクズ繭を大鍋で煮て、祖母が木枠で広げて真綿にした。繭の中の蛹は、佃煮にした。蚕の蛹を食べるのは、信州人くらいかもしれないが、昔の信州では、貴重な蛋白源だったのだろう。
昭和三十年代、養蚕業は既に衰退期にあった。繭が黄金に変わる時代はとうに終ったのに、丹精込めて蚕の世話をしていた母の姿を思い出す。毛虫のような姿のあの虫を、愛しい、可愛いと思えたのは何故だったのか。蚕を思うと、今でも私の手に、あの虫のやわらかさ、手に張り付く足の突起のくすぐったさが蘇る。
繭は絹糸になる。糸を紡ぐのは、昔から細やかな指先を持つ女の仕事だった。糸と女。ふたつが絡まると、なぜか、ほの暗い物語ばかりが心に浮かんでくる。
『あゝ野麦峠』は、飛騨から、信州の製糸工場へ糸引きに出かけた女工たちの実話である。筆者は、飛騨の元女工たちを訪ね歩き、何年もかけて聞き取り取材した。そして、彼女らの過酷な青春を、丹念に紡いで世に送り出した。
厳冬の険しい野麦峠。女工たちが、雪を血で染めながら越えて行く。野麦峠は、野産み峠とも言われた。それは故郷への帰り道、峠でこっそり赤子を産み落とす女工もあったからだと言う。身売り同然で女工になり、過酷な労働条件の下、体がボロボロになるまで働かされ、病気になれば即、放り出された。その裏には、国の政策が絡んでいた。明治期、日本の生糸は、質、量ともに世界一だった。この生糸の輸出外貨が、明治政府の富国強兵政策を支えた。女工たちが国を支えていたとも言える。いわば行き過ぎた経済合理主義の犠牲者だった女工たち。だが、当時程ではないにしろ、女工哀史は現代社会にも形を変えて存在する。「人の道を外れた富は真の富ではない」と、渋沢栄一も言っている。経済競争に夢中になるあまり、真の幸福の紡ぎ方を忘れてしまってはならない。
「あゝ野麦峠」山本茂実・角川文庫