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誰も英語での文章の書き方なんて教えてくれない。自分で学ぶしかない。でもそれも悪くない。

アカデミックな英語の文章を読めるようになるのはあまり時間がかからないけど、書けるようになるには練習が必要で、時間と労力がかかる。ただ、書き方に関しては誰も手取り足取り教えてくれないので、苦労する。

特に英語だと尚更難しい。自分の第一言語でないから、言葉の雰囲気とかニュアンスとか、長いこと勉強しているとわかっているようでわかっていないことがたくさんある。こないだなんて、教授に"claim"と"argue"の違いは分かっているのかと聞かれ、そんなの知るわけないじゃないかと思った。両方とも自分の意見や立場を表明するときに多用される動詞で、ほぼ、同義語だろうと思っていたし、別に色々論文を読んでいたって、著者がいちいちそんな細かい意味まで気にして文章を書いているようには見えなかったし。

でも、そんな小さなことが大切になるのが論文ってものらしい。大学院生にもなってアカデミック英語の書き方を教わるコースを取っているわけだけど、こんなに長い間勉強してきてもまだまだ知らないことがたくさんある。大学院生って、自分の好きな教科だけ勉強してればいいってわけでもなくて、物書きにもならなきゃいけないなんて、大学を卒業したてのときは想像もしてなかった。特に修士課程なんて、もう少し勉強しながらこの先本当に勉強を生業にして生きていくかを決めるものなんだと思っていたから、こんなことでつまずくとは、カナダに来た当初は知るよしもなかったわけで。

それでも、まぁ、なんとなく、書くのも悪くないな、って最近は思えるようになってきた。授業で習ったことを実践してみながら、試行錯誤してなんかマシな文章になっていく過程は悪くないなって、思えるようになって、文章を書く楽しさまではまだいかないけど、少しづつ満足行くものが書けるようになってきたことに、ほんのちょっとだけなら、希望を見出してもいいのかもしれない。

とはいえ、教授にはまだまだダメ出しをくらうばかりで、まだまだだなぁと、元気がなくなることの方が多い。でも、実はなかなかここまできちんと文章に文句をつけてくれる教授は多くなく、貴重ではあるのだ。

大学院生のアルバイトとして、学部生のテストやエッセイの採点をしたりするのだが、文法や論文の書き方などは評価の対象にほとんどならないことが多い。というか、採点の際には特に文法にの間違いには時間を割くな、と教授から教えられる。特に英語が母語でない学生の文章には、文法の間違いが多くみられるが、意味がわかるなら、文法のミスはスルーする。文法ミスのせいで言っていることが理解ができないなら、減点対象になるが、そうでもなければ、基本的にはコメントもしない。それならどこを評価しているかというと、きちんと聞かれたことに答えられているか、内容を理解できているか、ポイントを押さえて回答ができているかという部分。

だから、基本的に今勉強しているアカデミックな文章の書き方は、もっと前に指摘してくれればよかったのに、なんで今更、、、って思うことが多い。文法とか言葉のニュアンスもそうだけど、論理の展開の仕方とか、精密に自分の考えていることを伝えるテクニックとか、、。普通にやってて嫌になることもあるけど、なんだかんだ言って今のところは教授には感謝している。そんなところまで、きちんと面倒を見てくれようとしてくれているのは、厳しいけど、優しさなのかもしれない。(と、思いながら、教授の厳しさを優しさと自分が取り違えているのではないかと、時々心配になったりもするけれど。)でも、時間がかかっていることや、焦りを感じている自分に、今ここでこのスキルを得てしまえば、あとが楽なのだ、と言い聞かせながらなんとか、乗り越えている。

大学院生になっても、誰も英語での文章の書き方なんて教えてくれない。自分で学ぶしかないのだ。時間も労力もかかるけど、でもそれもなりたい自分に近づくためなら、悪くないのかもしれない。


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