勉強は楽しいのか、ある大学院生の回答
大学院にまでいくと、特に海外の大学院にまで行くと、勉強好きなんだね。とよく言われる。勉強って楽しいのか?とふと立ち止まって考えると、私は楽しいとずっと思っていられるほど、そこまで勉強一筋でやってきたわけじゃない。かといえばそれなりに人生でのらりくらりとやってきて、それなりに成績も悪くはなかったけど、とび抜けて良かったわけでもない。
中学の頃までは本当に平均だったし、別に勉強が好きだと思ったことはなかったように覚えている。高校の時だって、英語のテストの裏面をやり忘れて、ひどい点数を繰り出したこともある。うっかりミスがいつまでも無くならなかったし、多分それは今でもそう。
家族にだって、今海外の大学院で勉強していることを時々不思議がられるくらい。そんなに勉強好きそうじゃなかったのにね、なのに今では、、なんて言われると、どうして今ここにいることができているのかなんて、自分が一番よくわからないんだけどなぁと言いたくなる。
勉強は楽しいのか。
その質問には今までの人生の節目のそれぞれの自分に聞いたら、きっと違う答えが返ってくるだろう。最近思うのは、大学院生になると、そんな質問はその仕事は楽しいのかと問われているのと一緒だと思うということ。
大学院まで行くと自然と本格的にキャリアとしてこの道で進んでいくか考えるようになるし、それはきっと他の仕事のキャリアを積んでいくのと同じ。だから勉強は楽しいのかという質問には、楽しいときが大半だけど、普通にしんどい時もある、という答えが妥当な気がする。
特に、自分に足りない力を伸ばしたり、自分と向き合って、改善していかないといけないことを考えたりするときは、大学院生にもなって研究を生業としながらも、普通に勉強に苦労する。
どこを改善すべきかを指摘されても、どうやって改善すべきか分からない、誰も教えてくれないことって、仕事でも、習い事でもたくさんあると思うけど、特に海外で大学院生をしていると、そんなことの積み重ねな気がする。誰も解決策を教えてくれないし、手取り足取りサポートしてくれるわけじゃないから、自分で道を切り開いていくしかない。論文の書き方なんてまさにそう。誰も教えてくれないのに、教授たちはすでにそんなこと知っていると前提にして全てを進めてくるもんだからタチが悪い。
でも楽しいというか、達成感を味わうことももちろんあるわけで。
ようやく論文の中で主張したいことが決まって、その主張を固めていく計画を立てていくことだったり、誰かに自分の研究を説明して、相手がそれを理解してくれて、重要な課題だと共感してくれたり、、、。
そういう日々の積み重ねは自分からしか見えない成長でも、それがしっかり感じられて、自分でそれを認め肯定できることは達成感につながる。でも、論文を書いたりしない限り、大それた成功ストーリーもないので、こんな日々の小さな幸せだけで、やっていけているのには楽しさだけじゃない何かがあるからだ思う。
使命感みたいなものもあると思う。
特にこんな時代に正戦論を考えていると、使命感が生まれてくる。毎日悲しいニュースが入ってくる。今は特にイスラエルとパレスチナの問題だったり、ウクライナの戦争のことだったり。子どもや犠牲になった人たちの家族が泣き叫ぶ姿、僕だってあの壁を越えてSNSで見るような素晴らしい景色を見に行きたかったと語っていた青年。あの青年は生きているのだろうか、と時々考える。世界で1、2を争う強いパスポートを持って、カナダで勉強しながら「人生で一度は見ておきたい景色」みたいな、あのガザにいる青年も見ていたような似たコンテンツを見ている自分の今ある状況はあまりに違い過ぎて、生まれた場所が違うだけで、、、と考えずにはいられない。
私は戦争でのルールを考える専門で、誰を攻撃対象にしてはいけないかとか、どんな兵器を使ってはいけないかとか、それはどんな理由に依拠しているのかとか考えている。今必要にされている物質的支援をすぐにできる訳ではないけど、でも早急に考えられていくべき問題を考えているとは思っている。特に、市民が攻撃されたり、戦争の皺寄せを直接受けている今の現状は戦争のルールを考えて、規制していかないといけないことがたくさんあると思う。
こんなふうに語ると、なんだかすごい人のように聞こえるかもしれない。でも私も人並みに学生であり続けることに、戸惑いを感じていた時期がある。
大学院に行った人ならわかるのかもしれないけれど、ずっと自分は学生というステータスが変わらないのに、周りの友達は就職して、目に見えるキャリアを積んで、結婚して、子どもができて、、、って置いて行かれたように感じて、焦ったり、自分のやりたいと思っていたことに意義を見出せなくなったり。どうやって脱却したのか、果たして本当に脱却したのか確かじゃないけど、でもそうやってゆるゆる寄り道しながら、自分と向き合いながらやってきた。
楽しさとか、使命感とか、達成感とか、色々なものに支えられて勉強できているのだと思う。きっとそれは仕事を選んだり、好きなことを続けたり、得意なことを伸ばしたり、そういうことと似ていると思う。だから勉強が好きかどうかは大学院に進んだ小さな理由の一つに過ぎない。
私の尊敬している人が言っていたが、今の自分が自分の人生の中で、一番若いのだと。
つまり、これから歳をとっていくしかないのなら、今の自分が一番若くて、これからもその時を生きている自分が自分の人生の中で一番若いのだと。これからも自分の人生史上一番若いのなら、きっとこれからも青臭いことを考えながら、人生を歩んでいくのだと思うし、それも悪くはないなと思っている。
つまり、勉強は人によっては、いや、大学院生の立場からしたら、キャリアにできるほど、それでご飯を食べて、人生の大半の時間を費やしていきたい、と思うほどの価値がある、ということだ。何になりたいかは人それぞれ違うし、何を大切にしたいかも違う訳だけど、こんな人だって世の中にいたっていいと思う。いろんな人が世の中にいるわけだから。
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