生きるとは何か
この世界に何も知らずに生まれてから皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
生きるということについて何か意味は見いだせたでしょうか。
もしくはただ何となく今まで生きてきただけでしょうか。
突然ですが、私なりに調べて調べて何となく結論に達したことをこの広い(生きるということにおいて)何の役にも立たない話ばかりがあるネットの海に投げ入れて置こうと思いました。
これは私なりの世間に対するお返しであり、出来れば子供たちがこの世界に絶望しないようにと願いを込めて書き置きます。
では始めます。
さて、この世界に生まれてから生きていて出来ることは4つくらいしかないことをまず始めにお伝えしなければなりません。
1.身体の行為
肉体を動かすことで何かをすることができます。
食べたり踊ったり……2本の脚があればどこへでもいけます。
何もしていないつもりでも呼吸と心臓を動かすことはしています。
その気になれば困っている人のために生きることも出来ますし、ただ何もせずう○こ製造機になることもできます。
しかし呼吸か心臓どちらか一方でも止め続けながら生きることはできません。
2.声の行為
私たちはそれぞれ音を発します。
人はそれを言葉といいますが、言葉とは感情を伝えるツールです。
しかしその言葉の意味はよく理解していません。
そんなことはお構いなしに人は言葉を発します。
それぞれの人にそれぞれの経験に基づいた言葉の概念があります。
同じ日本語を喋っていてもまったく同じ意味で伝わったりはしません。
愛するという言葉1つとってみてもその人の愛にはそれぞれ意味があります。
人に無償で捧げることが愛だと思う人もいれば人から何かを受け取ることが愛だと思う人もいます。
あるいは人と苦楽を共にすることが愛だと言う人も……
古代には愛という単語はありませんでした。
いつからか、誰かが話し始めた愛には形がありません。
ただそれぞれが愛という言葉の粘土に自分の都合よい感情を混ぜて語り合っています。
3.感じること
私たちは取りも直さず今この瞬間も感じています。
目で光を捉え、耳で音を聞き、肌で触れていると感じています。
冷たい空気に晒されれば寒いと感じ、暖かい日には暑いと感じます。
それは身体が行っている反応という行為の1つです。
舌では味を感じますし、鼻では匂いを感じます、耳では音を感じます。
私たちはこの機能を意図的にオフにすることができません。
こんなのもういやだと思ってもこの出来ることは出来ないことに切り替えられないのです。
生まれた瞬間からずっと感じ続けています。
なぜでしょうか?
4.思うこと
私たちは頭の中でいろいろと考えています。
もうそれはひっきりなしに考え続けています。
こうだったらいいのになとか、こんな風になったらどうだろうとか、とにかくそこに制限がありません。
誰にも見えないのをいいことに恐ろしいことを考えたり不埒なことを考えたり、その世界は自由な自分の世界だと思って好き勝手にしています。
本当にそうでしょうか?
生きることは結論から言えばこの行為を永延と死ぬまで繰り返すことに他なりません。
それに意味はあるのか?と誰でも一度は考えたことだと思います。
では意味とはなんでしょうか?
人は意味という言葉をよく考えもしないで使います。
はさみにははさみの意味があると思っています。
しかし、意味を与えたのは誰でしょうか。
人間? 違います、あなたです。
もし、1万年前の人間にはさみを手渡してもハサミはナイフとして使われるでしょう。
もしくは、どこかでこうしたら挟んで切れると思い至るかもしれませんが、まあそういうことです。
生きる意味というものは、そのままあなたが意味という妄想に囚われている証拠です。
そんなこといったって人間社会では意味があるはずだ。
あるでしょうね、他人が定義した意味、社会が定義する意味、生きる意味は色々定義されています。
でもそれはあなたの中から出てきた意味ではありません。
わかりやすくいえば、目的でしょうか。
目的はあなたの中に存在しないのです。
もっといえば、あなたという生命器官は生き続けるという目的以外はもっていません。
なんて虚しい話を言うんだ、ブラウザバックする。
ちょっと待ってください。
ここで命題に話を戻します。
生きるとは何か、それは生き続けるために行為することです。
問題はそこには特に意味が無い、横たわっているのは自分の生きる目的を妨害する恐怖だけです。
誰かが生きる意味とはこんなものですよと言ってくれれば心が楽でしょう。
でもその誰かが言うことは自分に都合のいいことだけです。
なので私はあなたにとって都合がいいことを言います。
生きるという行為の中に現れる悪感情をなくしてみては?
人は日々、悪感情に苛まれています。
怒りや失望、不安や恐怖、そういったものを感じない日々がありますか?
1000億ドルの資産がある超大富豪も明日が最後の日ではないかと脅えて暮らしているのです。
お金はこの恐怖を解決しません。
生きるということがどれほどに死と隣り合わせで儚いものなのかはちょっと調べなくともわかるでしょう。
ただそこは見ないようにして、知らない振りをしてみんな生きています。
ですから、この記事を読む人には考えて欲しいのです。
そういうものを乗り越える達観した生き方ができることがどれほど日々のストレスをなくしてくれるのかということを。
人は誰でも長く生きていきたいものです。
けれどもそれは自分の意識だけではどうにもならないこともある。
ニュースではいつも不幸な事件ばかり取り上げていますが、誰も明日の自分の身に起こることだとは思ってもみないのです。
生きるとは行為すること。
これが私の結論です。
でもせっかくだから楽しく、幸せに生きたい。
今後はそれについても話します。