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(19)市民だより
毎月誰かが投函してくる「市民だより」によれば、毎年3月は自殺予防の月だとか。また、市は「ひきこもり対策」なるものも、やっているとか。いのちの電話、ひとりで悩まず、等々、連絡先も明記され、とりあえずやってますよ、という感じである。
しかし、「明るく前向きに」という決まり文句、「これがヨシ」とする根拠のない変わらぬ姿勢は、一体どこから来るのだろうか。
ただ適当に話を聞き、相槌を打ち、まあ頑張りましょうとまでは言わないまでも、一見の客、それまで見ず知らずの他人の悩み事などを、さも寄り添うような素振りで応対する「仕事」というのは、私には信じられない。
ないよりマシだという意見はあれど、「ない」段階と比べてマシだというほどのものに、どれだけの効果があるというのか。「それで救われる人がいるのならいいではないか」以上のものには、なりはしないだろう。
はっきり言って、私は行政を信じていない。市民だよりに掲載される多くの記事は、行政の目をくぐったものであるから、その「人生相談」的窓口も、無難な、当たり障りのない、演技の上手い役者のような対応をするのではないかと疑う。
人間には、政治的人間と宗教的人間、ふたつのタイプに区分け可能な「型」があるという。政治的とは、実務的、具体的、現実的な路線に則って、概して社会で生産的に「役に立つ」かのような人間を指す。
宗教的人間は、逆で、つまり自分の内に重きを置き、客観的であることよりも主観に比重を傾けている、と換言できる。
いずれも、ヒトの本質的な面を指すので、実在するその人自身にまるごと当てはまらないことは同じである。
自殺を思う人は、生きたくないから自殺を思う。生きたくないとさせるものは、まわりの環境なのか、それとも、そのまわりとうまく馴染めない自分なのか。どっちにしても、死にたいと思うのが、人自身=自分自身であることに変わりはしない。
ということは、その人自身を、相談を受けた相手は知らなくてはならない。また、死にたいと思う心を、なぜそういう心であるのか、一緒に探す旅に出なければならない。賢者の杖を探すようなもので、答のない、ほとんど永遠の旅路を往くことになる。(それは楽しい道中なのだが)
個々人に、本質的な性質というものは、ある。あるのに、それに目もくれず、「明るく前向きに」を必殺文句のように旗めかせ、結局、結末はこうなんだろうなと分かり切った物語を一緒に読んだところで、それが何になるだろう。
しかし、その「死にたい時間」を、刹那の時間を、時間が経つことでやり過ごせる、一種のヒマつぶしのような伴侶が、公的相談窓口であるのなら、それだけでかなり死にたい心は助かるものだろう。
人は変わる、心が変わる。死にたい時は永遠ではない。ただ私は、ばかみたいに「ネガティブはイケナイ」とする風潮のようなものを嫌悪する。顔は前後左右、上下にも斜めにも向けられるのに、前ばかり見ましょう、なんて、よく言えるものだと思う。ほんとに信じられない。いや、ほんとうにそんな狂信者は、何か考えているのだろうか。
疲れた人間が座り込んでいるのに、両脇抱えて立ち上がらせ、歩かそうとするような態度を、私はどうしても取れない。