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男性観
男がホレる男。
現実には、なかなか、いない。
女と男には、プラスマイナス=ゼロ、0というのは、テニスでは love というから、文字通り「愛」がうまれやすいのかもしれない。
友愛、という愛がある。異性間の愛とは全く異質のもので、友情とも呼ばれそうだが、およそ性的なも欲情とは無縁で(自分の場合)、そのぶん、精神的な結びつきが強いように思われる。
異性間の肉体的な結びつきと、同性間の精神的な結びつき。
「肉体関係がなければ、それを求めなければ、女と男、魂がふれあい、今以上に愛し合えるように思いますの!」というニュアンスで女に言わせている、モーパッサンの小説があった。
とても、その女の気持ち、わかる気がする。
性欲、征服欲、独占欲は、どこか底辺でつながっている。そのようなものを越えたところに、ほんとうの愛があるように思える。(極端にいえば、独占欲は戦争にもつながる…)
が、それは、越えなければ、たどり着けない愛だ。
男と男の場合、越えなくても、すでにその愛の可能性が、関係のうちに含まれている。
ほんとうにこいつを大事にしよう、こいつとの関係を大切にしよう、と、肉体関係を必要とせず、思うことができる。
それは強いものだと思うが、さらに強くなろうと自己に欲した場合(何のためにか、そのような関係を欲した場合)超克、肉体を求めようとする精神を超えて、初めてモーパッサンの「愛」が実現するように思う。
プラトニックのみの男女の愛を描いた作品では、しかし二人とも、やつれ、熱さえ出して病的に疲れ果てていたが…。
サルトルとボーヴォワールの関係はどうだったんだろう?
しかし男から見て、男がホレる男。
頭のなかには居るが、実際には会ったことがない。
尊敬する人はいるが、ホレる、とはまた違う。
が、もしかして、男の、女への「ホレ」も、想像・希望の中に始まり、現実を突きつけられれば、なんだこんなもんかになるのかもしれない。
としたら、越えていくのは己であることには、女も男も、変わらない。
ユートピア的関係。その関係が世界中に広まれば、などと思った、八月六日。
「強い男」には憧れるが、わかり易すぎる強さ、ばかげた権力や腕力だけ振り回す男には、まったく魅力がない。
女性観を書いたのだから、男性観も書こうとしたが、書けなかった…。