第1話 愛について(1)
「孤独のあまり、愛する人がいる。愛するのあまり、孤独になる人がいる。
しかし、どちらの愛が本当であるかなどと問うのは、愚の骨頂である。愛と孤独は、深い弁証法的な関係にあるからだ。── 太宰治が『惚れている女に対しては、牧師さんも処置なしだ』といったとき、彼はその二つのものの本質を、一言で言い当てたのだ。」
という文から、この「愛について」は始まる。自伝的な小編もその前に収録されているが、それはここでは割愛させて頂く。この「弁証法」については、哲学用語らしいが、頭のわるい僕には辞書で調べてもよく解らない。
で、一方があることによってもう一方が成り立つ法則、というふうに自分なりに解釈している。
「恋愛について── 恋愛が、どんな様々な様相をもって実現されようとも、その根源的な様相は、あの古い、『私はあなたを愛しています』という一言に尽きる。
だからその恋愛は、愛以外のいかなるものによっても、その関係が関係になることはできないという孤独と自由をもっている。」
関係が関係になることはできないということ。これは、椎名麟三はキルケゴールの影響を受けた唯一の日本の小説家(ほかにもきっといるはずだが、公言しているのは椎名さんだけといわれている)だからこその言葉だと僕は思う。
関係が関係になることができない。だから孤独であり、同時に自由であるということ。
「日常的な愛について── それは、自分の他人に対する期待によって生まれるように思われる。
だから、日常的な愛は、一つの信頼だ。
しかし期待は、常に自己のある事に対する期待であるかぎり、一つの目的を持つ。
恋を得た女が、常に自己の愛を持続できるのは、結婚という目的を得たからであり、その目的が自分にとって信頼できるからである。
しかしこのような愛においては、彼女の相手に対する信頼の一切が失われた時、愛もほろぶ。
言い換えれば、彼女は愛において生き、期待においてほろぶのである。」
(この椎名さんのエッセイは昭和二十五年に書かれたものだから、結婚に対する重さが、現代の比ではなかったろう。そして愛と期待は、たしかに密接な関係にあると思われる。期待なしに、誰かを愛することは、ほぼ不可能だろう。キルケゴールは、「ほんとうの愛を実践したのはキリストだけだ」という意味のことを言っている)
「彼女は、『生きるあて』を失ったから自殺した(T子)。
しかし、相手に関する生きるあてが失われた時においても、相手に関して生きるあてをつくり得る愛のみが、本来的な愛であり、愛の日常性を超えたものなのである。
しかし、このことは自己矛盾だ。何故なら、相手に関して生きるあてが失われている状況において、真の愛がなければ、生きるあてを現実化させ得ないにもかかわらず、生きるあてが現実化されなければ、その愛も現実化しないからである。」
真の愛は、生きるあてを現実化させる。でも、生きるあてが現実化されなければ、その愛も現実化しない…。
「神が信じられない僕にとっては、逆にこういうことが実証される。たとえば、僕は小説を書く情熱をどこから汲み取っているか。それは金を得るということもあるだろう。それは目的となるからだ。少数の人々のために書き得るだろう。
しかしそれは、文学上のある不安定な目的に関して、信頼されていると思っているからである。
しかしそれだけでは、自分を制作へ強制する胸にみちあふれて来るものが説明できない。おそらく人々がいうように、それは愛であるかもしれない。しかしそれを愛といえるのかどうか、僕にとって甚だ疑問なのである。」
椎名さんは、大江健三郎が「あなたは誠実すぎるほど誠実な人でした」と弔辞で述べたように、とにかく誠実な、まじめな人だった。
「あなたを失い、われわれはどこへ向かっていけばいいのでしょう」とも言っていた(言葉は正確でないが、そういうニュアンス)から、大江をはじめ多くの文学者からよほど信頼されていたのだと思う。
「言葉は愛だ」といっていた椎名さんは、その誠実さゆえに、自分の思想をいかに言葉に込めるかに、おそらくずっと悪戦苦闘していたはず。だから時には何をいっているのか分からないようなことも書いている。
この「愛について」は、比較的読みやすく、また椎名さんが生涯こだわったと思われる愛に対する姿勢、見方が、きめ細かく描かれていると思う。
… 椎名麟三という作家を知らない人に、知ってほしいという僕のワガママもありますが、この、いささか気の遠くなるような連載をしばし続けて行こうと思います。