ぼうよう
〈 フッと 〉
「ふっと、死にたくなるとき、なぁい?」
「あるね。ふっと、ね。」
「もう、イヤになっちゃうのかな。」
「イヤになっちゃうんだろうね。」
「自分が自分であることに。」
「うん。でも、それだけじゃ、ないみたい。」
「ほかに何が?」
「今日がね、月曜日である、ってこと。」
「どうしようもないね。」
「うん。どうしようもない。」
〈 月 〉
太陽も好きだけど、月も好きである。
月あかり、落ち着くよ。
明るいばかりじゃ、大変だ。
高野悦子の「二十歳の原点」の前は、原口統三の「二十歳のエチュード」。
形而上の理由で自殺したとか、孤独な魂がどうのこうのというのは、まわりが勝手に後から取って付けただけで、そういう商業主義?的な売り出し方はあまり好きでない。
こないだ本屋で、「二十歳のエチュード」がやたら立派なブ厚い本になっていたのには、驚いた。
「自殺はイケナイ」なんて、荒唐無稽な倫理である。そもそも、倫理とは何だ?
浮気がイケナイならば、不倫であるならば、大罪ではないか。
小林美代子という作家も、実は好きなのである。「髪の花」、自身が精神病院に入っていた時の体験をもとに書いたはずの作品。「繭になった女」を書いて、自殺してしまった。
シルヴィア・プラスもそうだけど、自分のまわり、身体から、身体のまわりに、自分の身体から数cm か 数mm 離れたところに、何かができあがる。
繭であり、The Bell Jar が、そうだった。自分の殻の糸の中。さかさまになったコップの中。くるしいよ。
どういう理由であれ、ひとりぽっちだったんだよ。
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そのむかし、藤村操という人が、華厳の滝から投身自殺したという。
その記念碑だか何だかも、あるのか。
「記念碑」? ばか言っちゃいけない。
自殺して、何が記念碑か。
自殺を、美化しては、いけない。
だから、生きることも、美化しては、ならないのだ。
〈 善の怪物 〉
善の怪物には、なりたくない。
「これがよかれ」と思って、ひとに、ぼくは、何もしたくない。
たとえば電車に乗っていて、お年寄りなり身体の不自由な方が乗られたら、ただ、ぼくは自分の座ってた席を立ち、譲らせてもらうだけである。「ただ」そうするだけで、そこには、なんにもない。
自分の身体が、どんなに疲れていてもそう動くのだから、そうするしか、できないというだけの。
それを、「席を譲らず、寝てるフリするヤツ」がいても、いいではないか。
なにも、「いい」(と、思われるようなこと)を、強制しなくて、いいではないか。
善なんて、悪と、きっとウラでツルんでる。
〈 自分への報告 〉
つまり、君は、まちがってる、というのが、イヤなんだ。
何が正しくて、何が間違ってるのかも、知らないで。