青木昆陽は解体新書の生みの親

 解体新書は皆さんご承知のことと思うが幕末にオランダ語で書かれたターヘルアナトミアの翻訳書でその後の日本医学の礎になった。
しかし、オランダ語はまだ当時は一般的ではなかったうえに医学訳語が日本にはまだなかったので翻訳は大変であった。「眉は目の上の毛髪である」という一文を訳すのに一週間かかり訳せたときには訳者一同が手を取り合って喜んだと言いっている。そんな調子なのでトータル3年半を要することとなった。訳者と言ってもオランダ語が出来たのは前野良沢だけで杉田玄白以下は良沢が訳した文から日本語の医学用語を作成して日本文を完成させることだけをやっていた。したがって、良沢が実質的な翻訳者なのだが、どうして良沢がオランダ語が出来たかというと青木昆陽に師事してオランダ語を学んだからである。
 青木昆陽はサツマイモの栽培を広め飢饉の際に多くの人命を救ったことで有名であるが、本来は儒学者であった。師事した儒学者の伊東東涯が農学者でもあったことから農業にも関心を持ち飢饉が発生しても薩摩では死者が少ないことからサツマイモの存在を知り幕府に提案を行いそれが認められて幕臣に登用された。そして、そののち将軍の吉宗からオランダ語の習得を命ぜられ長崎に行きオランダ語を学んだのであった。
 良沢は中津藩の藩医であったが40歳を過ぎてから一念発起し昆陽に師事してオランダ語を学んだということであった。
しかし、解体新書には訳者として前野良沢の名前はない。詳細は不明だが良沢は完璧主義者だったようで自信がない訳に自身の名前を記すのはためらったようだ。

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