
当たり前を疑うことの難しさ
突然ながら、アメリカの公用語が何かご存じだろうか?
何年か前に公益財団法人日本相撲協会のことで日本で大きな話題が沸いたもののひとつが「相撲は日本の『国技』ではない」ということであった。
もうこの時点でわかった方もいらっしゃるだろうが、アメリカの公用語はないのである。
先日、アメリカ人の友人と「やっぱりアメリカにいると英語ができた方がいいから、もっと頑張らなきゃ…」と話していた時に「Masa、そもそも英語はアメリカの『公用語』ではなくて、みんなが勝手に話しているだけだから、実は英語使わなくていいんだよ」と言われたときのことがあまりに衝撃的だった。
すでに、こちらの方が同じ内容を書かれているために、使わせてもらうと、「公用語」というのはすなわち、「法律で定めてある言語」ということになる。
とはいえ、それが一筋縄でいくものでもなく、参議院法制局の公式ホームページでは、「公用語は日本語であるなどと定める条文はないんだ。ただ、法律上「国語」という用例はあるし、そのような条文は日本語のことを国語といっているのだと理解できるよ。」ということが書いてあるように、解釈によって公用語を定めているように見せている部分もある。
ここでは、「公用語とは?」を話したいのではなく、タイトルの通り「当たり前を疑うことの難しさ」である。
「常識を疑え!」というのは、我々世代(30代)では耳に胼胝ができるほどに聞いてきた内容だと思う。
しかし、そもそも常識は何も気にせずに享受しているからこそ常識なのだから、それを疑うということは非常に難しい。
しかも、アメリカの「公用語」が「英語」なのかどうかを疑ったところで、何か新しいことができるのかと言えば、そうでもない。
せいぜい、蘊蓄が増えていくだけである。
しかしながら、「アメリカの公用語って英語なんだっけ?」という1円の価値にもなりそうにないものを疑う癖をつけておくことで、当たり前を疑うことへの習慣がつくものである。
そういう意味では、「『常識を疑え!』って本当に大事なんだっけ?」というものをさらに疑うという禅問答のようなことにもなり得る。
何が言いたいかと言えば、そんなくだらないことを調べたり考えたりしている時間がただただ楽しいという、主張でもなんでもない内容である。
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