死=体験できない不確かな場所からの眼差し

人生初期のウブで素な眼差しで見渡すと、
日常生活や心身は、
退屈で、嫌悪対象であるため
非日常へ逃避したり、
刺激や好奇心、快楽に塗(まみ)れたりした

生まれつき備わっている眼差しにとって、
これが自然であり、精一杯の景色なのだ

この歳になって
日常生活や心身の変化は望めなくても
ただ、ウブで素な眼差しを超えて
ゆとりを持ち、包み照らす眼差しを持つことこそ大事ではないかと気づいた

そして,ウブで素な眼差しを越えようとすることは、死のイメージを考えることと同じだった

我々は、#自己の死  を、病、老い、肉親の死の次に来るものとして、勝手に受け入れているが、自己の死 について、死後、語ることはできないし、
生きている自己は、自己の死を体験できないから、自己は死ぬことはできない?との疑念が生じるなか、

未来の#自己の死 という体験できない不確かな場所 (イメージ)から現在へ、
順序を逆に辿る#眼差し があると気づいた
これは、全てを揺るがせにせず、受け入れる眼差しだ

また、死のイメージと眼差しの関係を突き詰めると、
死と反対概念である誕生のイメージが浮かび上がり、
私が、#母の子宮 で不安に駆られ呼吸していた時から、連綿と続く気分を基層とする眼差しがあると気づいた
この眼差しに嘘はないが、常に移ろいやすい

ひっ迫した世界情況のディテール(detail)が脅威
として迫る中

これらの二重の眼差しを、個としてではなく、類(群れ、公、普遍性)として、行使するとき

変わり映えのしない日常生活、深化成長できない心身に苛立ちながらも、
徒(いたずら)に自己や他者を、責めたり、罰したりすることに夢中にならずに、
死や気分そのものではなく、眼差しの問題として、死や気分そのものから分離できるとき、
私という個は少し安らぐ、和らぐ・・・が、

こんな面倒くさいことを考えて何がしたいのかと、
それは、
私たちの本当の#敵の正体 を、粘り強く浮かび上がらせたいのだ
敵の正体を掴むこができないため、我々は不毛なエネルギーを使っている
敵の正体を簡単に明らかにできるとの我々の慢心が、悲劇を招くことを肝に銘ずべきだ

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