libido:『河童-kappa』もしくは俳優/演劇について
おはようございます、こんにちは、こんばんは。緒方壮哉(おがたそうや)です。
noteに投稿するのは実に10年近くぶりで、というのも僕はいわゆる筆不精で、日記とか予定表とかつけるのも難しい。
ルーティーン3日坊主の代表例でございます。でも書くのは好きなんです、が、その波が激しい。近年、本を読むのもやはりペースが落ちてきて絵と文字情報で読める漫画ばかり読んでしまう、それはそれで最高なんですが。
前置きはそんなんで、とにかく僕も舞台俳優というモノを初めてはや10年になるわけで、長野から上京して早11年。たくさんのことがあったわけで、それはもう北の国からみたいなテンションにもなるわけで。
おかげさまで、たくさんの舞台や作品に出演・参加させていただいて、その合間に酒やたばこをたしなみ、単車をいじり乗りこなし(?)正直長野にいた時と何が変わったのか、しかし変化したであろう充実した毎日を過ごしております。
そして現在、所属するlibido:(theater apartment complex libido: (tac-libido.com))にて自主企画として、芥川龍之介原作の『河童-kappa』という一人芝居作品を鋭意創作中です。
もともとlibido:の拠点であるアトリエF号室で作品を上演するFシリーズの第四作目にあたり第二作目として僕は、筒井康隆原作「最後の喫煙者」を上演しました。
なぜ小説あるいは人文を上演するのか
上記の通り、僕はFシリーズを通して、上演予定の「河童-kappa」を含め二本の小説の一人芝居上演を試みています。それはなぜか?
僕は、学生時代を含め二本の戯曲を執筆しています。
夢次元堂第1回公演「オモカゲ」(2015年5月3日-5日、神奈川県立青少年センター(多目的プラザ))
libido:SFシリーズ「アンダーグラウンド・ワンダリング・ディストラクション」2023年7月21日(金)〜23日(日)、北千住BoUY
実際、戯曲と小説はやはり形式を異なります、が、僕は一人芝居においては小説や哲学や批評などの方が扱いやすい。
それらが持ってる固有の個人の文章、つまり戯曲はある程度上演を目指しているので(例外はある)俳優や空間への配慮が大きい。(上演台本の場合)しかし、読み物としての文学は作家性の方が圧倒的に文への固有性が大きい。それはどちらがいいとかではなく”一人で語る”一人芝居の場合、その方が、自由度もしくは解像度が実は高いのです。(僕の実感なので他者とは異なります)
特に純文学やエッセイに模した小説は一人称と二人称の区別がわかりやすい。同時に”読者”=観客が存在するというメタ要素も演劇の上演には乗せやすいので
演じる僕≒演じている僕=物語の内外あるいは現実とフィクション
みたいな式が作りやすい。
ちょっと長くなりそうなのでこの辺は後日。
近年考えていること-俳優と公共性について-
さて、その上で僕が最近というかコロナ以降考えていることについて記しておきたいです。というのも、というかまずは僕のことを記さなければですね。以下ざっくりプロフィールです。
僕は長野県安曇野で生まれ、松本市で育ちました。今では文化都市のイメージがありますが僕が育ったころはもう少し(ここでは省略しますが)灰色がかったイメージでした。たとえるなら長編ドラえもんの「のび太のパラレル西遊記」のワンシーンのような。
『のび太のパラレル西遊記』(1988年作品)|「シリーズ45周年記念!映画ドラえもんまつり」公式サイト (doraeiga.com)
蝙蝠は飛んでるわ、轢かれたカエルが通学路中に木の葉のように敷かれている。怖すぎるだろと。
しかし、文化の力で晴れがかった松本市。僕はそこで育ちとにかく色々あって(これもまた後日)上京。多摩美術大学に入り、演劇を始めました。
とはいえ、演劇のえの字も知らず、特殊な十代を過ごした僕は演劇や大学の現状に戸惑いました。
なんか中途半端に昭和の雰囲気を残した演劇界と、同時に新しい世代も平成を纏ったなんか繊細かつ大胆、だけどなんだかよくわからない界隈。
つまり、
固有性を取り戻そうとした昭和(俺は俺だ、世界をおれはこう捉える、そして取り戻す)と固有性を捨てようとした平成(俺は俺だけど、記号的なほうが楽じゃね?世界が俺を捉える)みたいな謎のミクスチャーがあって、僕はそのどちらにも乗れず、セカイ系も好きだけど同時にシンプルラブコメ好きみたいな、そんな僕がいて、結果どちらにも乗り切れずな僕でした。
で、(とにかく長くなりそうなので)何が言いたいかというと僕は、
決められた振る舞い(レッテル)をするのが苦手なんですよね。例えば、
「料理人だから長い帽子をかぶってタバコを吸わない」とか、「サラリーマンだからネクタイを巻いてお土産買ってローン50年」とか。
これってあるだれかを演じる俳優ならむしろ引き受けて演じ分けろという話なんですが、それってめちゃくちゃ記号的な話で内実は違いますよね。あるサラリーマンは長い帽子を被るかもしれないし、料理人もお土産は買う。
それは演技だけの話だけではなくて、現実もそう。俳優とかなんでも”河原乞食”と呼ばれてた存在が今や公的な存在になったりする現代。それはいいことなんですが、演劇あるいは芸術全般においてそういった振る舞いを時代的に問われる。これは正しい、もちろんダメなものはダメだし、ちゃんと更新すべき。
社会性を問うべきか問わないべきかで言ったら問うべきだし、今や俳優だろうがなんだろうがある程度、実情を自分の言葉で語れたほうがいい。でも、僕はそういったものに少し疲れてしまった。誤解なきように付け加えますが人間として、社会的な存在としてダメなものはダメです。でも同時にダメとは、ダメな存在とはなにか、それは問い続けなければいけません。ぼくはずっとダメな存在でした。だから問い続けます。
物語が面白い。僕が演じたいものを上演したい。そして、そのうえで物語を考えたい。社会性やテーマ性よりもっと大きなものを個人的に考えたい。
そんな近年の僕です、また更新します。つまりそこが河童を上演するにあたった理由です。また次回。
緒方壮哉
libido:F「河童-kappa」
10月11日(金)~13日(日)@せんぱく工舎F号室
原作:芥川龍之介
構成・出演:大橋悠太 緒方壮哉
https://www.quartet-online.net/ticket/libido-kappa
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