色(エッセイ)
辛い時は塗り絵をする。ただひたすら世界に色を増やす。そうして、頭の中で暴れるあらゆる思考や想像や言葉たちの嵐をやり過ごす。
いくつもいくつも色を重ね、心の暗いところまで塗りつぶす。いつのまにか日が暮れて、涙を流さないまま一日を終えて眠りにつける。
いつものように塗り絵をしていた。ふと、綺麗に並ぶ三十六色の色鉛筆を見て思った。世界から色が消えたなら、私は何を思うだろう。全部の色が消えてもう絶対に戻らないというのなら、私は死んでしまうか、案外すぐに慣れるかのどちらかになりそうな気がする。
では、私だけが色褪せたならどうだろう。あるいは、私だけが鮮やかなままで、それ以外の全てが白黒やセピア色になったら、どうだろう。私はさらに考える。
私だけが褪せた世界において、私が触れたものの色を、触れている間奪ってしまうのだとしたら……。
世界は鮮やかなままだ。真っ青な空、あの子の綺麗なお洋服、美味しそうな果実。色とりどりで楽しい日々。しかし、そういった愛おしい人や美しいものに触れたら、たちまち色褪せてしまう。私のせいでそうなってしまう。色彩を奪ってしまう醜い手は、手袋をしたって治らない。
だから、遠くから鮮やかな世界を見ているしかない。私はすぐ目の前にある華やかな景色の一員になれない。憧れ、恋焦がれ続けても、絶対に届かない。悲しい。
自分だけが鮮やかな世界では逆に、自分が触れているものやその周辺に、触れている間だけ色を与えることができる。そうだとしたら……。
愛おしい人や美しいものに沢山触れて、色を取り戻してあげられたなら、それはとても素敵なことだけれど、同時に、自分のこの小さな手では世界の全てを彩ることはできないのだと痛感する。
あの空に、あの海の果てに、届かない。この手も、色も、届かない。色のない透明な雨だけがありのままの姿で降る世界で、もう知ってしまっている色彩は記憶の奥底にしか存在しないのだと理解し、小さな花々の色だけを眺めながら、静かに暮らす。これも悲しい。
一体どちらの方がより悲しいだろう。答えは出ない。机に頬杖をつき、色付きはじめた絵の中の花々を眺める。
色が失われて何年も経ってから生まれた子どもたちは、色があった世界のことなんて知らないから悲しくないし、むしろ、世界が急に色づくことを恐れたり気持ち悪がったりするかもしれない。
透明やモノクロであることが正しい世界が、この宇宙のどこかにひっそりと存在するかもしれない。鮮やかであることは、本当に美しいことだろうか。
そもそも私のこの悲しみは、どうして悲しみとして生じるのだろう。
世界から色が失われるだなんて、そんなこと実際には起きそうもない。そうであるのに勝手に想像して勝手に悲しくなって、どうして悲しいのかもわからず、一人妄想に囚われ辛くなっている。なんだか滑稽だ。
やっぱりこんな日には、塗り絵に集中するに限る。もう一度色鉛筆を手に取って、紙の中の花に色を足していく。
現実と空想の境も悲しみも、塗りつぶして埋めてしまうように。
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