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9世紀~11世紀 蝦夷奥州(陸奥)の豪族 その1 安倍頼良(頼義)の家臣団


古代 関東経営に関わる人々
<関東・東北(坂東・陸奥)古代氏族>
 9世紀頃~

<津軽(都加留・つがる/ツガルノ・tsugaruno)>

浦田ノ臣* (*)uratano omi/うらたのおみ。蝦夷豪族。臣は官位。812年宇漢米、爾散南の族長とともに入京を許される。<浦田臣山人、浦田臣史間儺羅を輩出。>

宇漢米* (*)蝦夷豪族。812年浦田、爾散南の族長とともに入京を許される。

爾散南* (*)蝦夷豪族。812年宇漢米、浦田の族長とともに入京を許される。

<陸奥(鹿)・あらの・arano/しかの・sikano> 鹿角の地名の語源か

磐具ノ公* (*)iwaguno kimi/ いわぐのきみ。公は敬称。胆沢郡(現岩手県)の蝦夷豪族。<磐具公母礼を輩出。9世紀初頭、田村麻呂が胆沢城造営。>

邑良志別ノ君* (*)orasibeno kimi/遠流志別・於呂閇志・(遠良士別ノ公)・おらしべ。蝦夷豪族。胆沢郡。公は敬称。<715年頃邑良志別君宇蘇弥奈を輩出。>

遠胆沢ノ公* (*)tootu isawano kimi/とおつ・いさわのきみ。蝦夷豪族。公は敬称。<814年遠胆沢公母子、880年遠胆沢公秋雄を輩出。>

去返ノ公* (*)sarukaesino kimi/猿ケ石・さるがいしのきみ。蝦夷豪族。公は敬称。猿ケ石川(現岩手県北上川水系)流域の俘囚長。<805年頃去返公嶋子を輩出。>

物部斯波* (*)mononobesibano /吉弥侯・連・物部志波。蝦夷豪族。陸奥国斯波郡(現岩手県盛岡周辺)。<吉弥侯から改称。>

須賀ノ君* (*)sugano kimi/(菅・須加ノ公)・すがのきみ。蝦夷豪族。公は敬称。閉村(現岩手県沿岸部)の俘囚長。中世には閉伊郡周辺。<715年頃須賀古麻比留を輩出。><南北朝時代に東北で活躍する須賀氏に繋がるか。>

都和利別ノ公* (*)towaribetuno kimi/とわり(つわり)べつのきみ。蝦夷豪族。公は敬称。九州筑紫に移民(防人?)する。<833年頃都和利別公阿比登を輩出。>

<陸奥(鹿)>
伊治ノ公* (*)iharuno kimi/これはるきみ・いはるのきみ。蝦夷豪族。公は敬称。伊治(宮城県県北、栗原付近の豪族)の豪族。<伊治公砦麻呂を輩出。胆沢公と対立。>

和我ノ君* (*)wagano kimi/和賀・(和加ノ公)。蝦夷豪族。公は敬称。栗原郡(現宮城県)の豪族。<8世紀、和我君計安塁を輩出。><武烈天皇の遠征に従った家臣の後裔とも。久我、和我氏に分かれる。>

<関東(熟)・にぎの・nigino>
意薩ノ公* (*)osatuno kimi/おさつ・いさち・おさつのきみ。常陸国。小田郡。蝦夷豪族。公は敬称。<意薩公継麻呂を輩出。>

上毛野陸奥ノ公* (*)kamikeno mutuno kimi/吉弥侯部。蝦夷豪族。公は敬称。<上毛野陸奥公山を輩出。上毛野兄国女を輩出。>

≪個人的感想≫ 熟蝦夷は、荒(ara)御霊、和(nigi)御霊のように対象とすることにしたのか、単純に蝦夷語で南北を表す語か、
もしくは、「にぎ」の、「き」は、大和政権に馴染んだ、君子(吉弥侯)部を表すか。<足利家執事となる日記氏、仁木氏の冠する語源がどこ由来なのかも気になるところです。>
「君(公)の子」、敬称ともいえる表現は、
四道将軍の子孫の血が、倭武尊の血が、地元の豪族と交わり、根底に流れることがあるような気がします。

陸奥進攻、古代軍事氏族
(西暦790年~900年間) 毛抜き形太刀、茂草刀への進化

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 「初代 征夷大将軍」 大伴ノ弟麻呂卿の肖像のつもり。

⇔◎大伴ノ 弟麻呂 (731~809)乙麻呂・「征夷将軍」・「従三位」。大伴古慈斐の息。母は藤原不比等の娘。兄弟に益立。桓武天皇に出仕。780年「衛門佐」、782年「常陸介」、791年征夷将軍に任官。794年東征軍10万を率いる。794年京都に戦勝を報じる。795年平安京に凱旋。息に東人、宇治人、勝雄。<鶴岡八幡宮の社家へと繋がる大伴(富永)氏。関東と古くからの縁があるのでしょう。戦国時代に江戸城主(富永氏)となるのも宿縁なのかもしれませんね。>


≪個人的感想≫ 大伴氏の東北経営の為に流した多くの血も、藤原氏の台頭により闇のかなたにほうむられているかもしれません。
まさに『藤原史観』、それに重なり『江戸徳川史観』によって、更に歴史が塗り替えられ・・。 大伴氏は忘却の彼方へと葬られたのではないでしょうか。

坂上ノ 田村麻呂 (*)800年陸奥・出羽按察使、鎮守府将軍。806年征夷大将軍。

悪路王 高麻呂 (*)那須・高丸。桓武朝期の蝦夷の俘囚長。駿河に侵攻。下野国那須の豪族。坂上田村麻呂により達谷窟(陸奥岩手とも)に討伐される。鹿島神社に屠られる。

▽高島 信保 (*)矢板・信保・(信康)。遠江矢板の豪族。790年代に東国遠征途中の坂上田村麻呂が東海道にて従え家臣とする。

▽高島 信房 (*)矢板・信房。信保の弟。遠江矢板の豪族。790年代に東国遠征途中の坂上田村麻呂が東海道にて従え家臣とする。

藤原 高房 (795~852)(紀ノ)・右京少進・式部大丞・備後守・肥後守・越前守・美濃介。藤原藤嗣の息(三男)。母は紀ノ古佐美の娘。827年美濃介に任官。美濃安八郡の治水工事を監督。席田郡の賊を討伐する。のち備後、肥後、越前の守を歴任し派遣される。息に藤原生丘、智泉、時長、山蔭。

浦田 史間儺羅 (*)浦田臣・史間儺羅・うらたのおみ・しかなら・しまなら・史困難・(鹿奈良)。俘囚長。朝廷に従い804年に賞される。

吉弥侯部 兼麻呂 (*~805*)キミコベノ カネマロ・(金麿)。播磨に派遣された俘囚長。805年反乱し多根(種子島?)島に配流される。

吉弥侯部 色雄 (*~805*)シコオ・(四股雄・醜男)。播磨に派遣された俘囚長。805年反乱し多根(種子島?)島に配流される。

道公 全成 (*~805*)みちのきみ。佐渡国の俘囚長。官鵜を強奪。805年反乱し伊豆に配流される。<佐渡=道なのでしょうか。>

藤原 緒嗣 (*)東山道顴察使・陸奥出羽按察使。 桓武天皇の側近。805年東国への軍事的討伐戦を中止させ蝦夷の統制に計略を用いる。各地の俘囚の長を任命する。809年多賀国府に派遣されるが辞退し帰京。

▽百済王 教俊 (*)陸奥介。808年坂上とともに鎮守将軍。
▽坂上ノ 大野 (*)権介。田村麻呂の息。弟に広野。808年百済王とともに鎮守将軍。息に氏高。

⇔佐伯 清岑 (*)陸奥守。811年陸奥守。
▽坂上ノ 鷹養 (*)陸奥介。811年陸奥介。

文室 綿麻呂 (765~823)ふんやの わたまろ・三山朝臣・按察使・征夷将軍・参議・中納言。三諸大原の息。「薬子の乱」に連座。坂上田村麻呂とともに東征。811年征夷将軍任官。約10000兵の士卒とともに北征。紫波城に入る。従う俘囚軍とともに、爾薩体、弊伊の賊を討伐。

物部 足継 (*)匝瑳(そうさの)足継・鎮守府将軍。下総の豪族。811年鎮守副将軍。812年鎮守府将軍。陸奥国胆沢に鎮守府を建造。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波)の三郡を設置。

▽吉弥侯部 於夜志閇 (*)おやしへ。俘囚長。朝廷方として幣伊村を襲撃。

▽吉弥侯部 都留岐 (*)つるき。邑良志閇(おらしべ)村の俘囚長。文室綿麻呂の後援を受け、北方の蝦夷軍・爾薩体公 伊加古と敵対。

⇔佐伯 耳麻呂 (*)812年陸奥守。

▽宇漢米ノ公 色男 (*)ウカメノキミ シコオ・(四股雄)。812年浦田臣、爾散南とともに入京を許される。

▽爾散南ノ公 独伎 (*)尓散南・仁左南・(二左男)・ニサナノキミ。812年宇漢米、浦田臣とともに入京を許される。

▽浦田ノ 山人 (*)臣。812年宇漢米、爾散南とともに入京を許される。

▽置井出公 呰麻呂 (*)出羽国の田夷(帰農した蝦夷)。812年上毛野緑野直の姓を与えられる。

爾薩体ノ公 伊加古 (*)尓散体・仁左平・ニサタノキミ。都母村の俘囚長。吉弥侯部 都留岐と敵対。幣伊村と同盟。

吉弥侯部 止波須可牟多知 (*)トヒスカムタチ。俘囚長。813年陸奥にて「止波須可牟多知の反乱」を起す。

吉弥侯部 井出麿 (*)出雲に派遣された俘囚長。出雲国意宇に着任。814年反乱し伊豆に配流される。

⇔小野 岑守 (*)陸奥守。815年陸奥守。
▽甘南備 高継 (*)陸奥介。815年陸奥介。

佐伯 清岑 (763~827)きよみね・陸奥守。佐伯人麻呂の息。811年陸奥守。陸奥出羽按察使・文室綿麻呂と共に蝦夷の爾薩体、幣伊邑の攻略を上申。上野守、常陸守。国司の反感を買い、失政により召喚される。826年「親王任国」が開始される。息に鳥麻呂、鹿継。<皇子を東北に派遣するために、邪魔な貴族は左遷されたのでしょうか。>

甘南備 高直 (775~836)かんなび・(神奈備)・真人・陸奥介・上野介・常陸守・摂津守。甘南備清野の息(3男)。826年佐伯清岑に連座し国司解任。826年「親王任国」が開始される。息に弥雄、六雄、縄雄。 <皇子を東北に派遣するために、邪魔な貴族は左遷されたのでしょうか。>

826年朝廷改革 東国進出の強化<親王任国> 

清原夏野の奏上により、常陸国・上総国・上野国の3か国に親王が赴任し、太守職を務める。

賀陽親王 (*)常陸太守。桓武天皇の息。最初の新王任国に任命される。現地には家司の「介」が赴任した。<後に常陸の国主は、「常陸介」。親王のみが常陸守を称することができる。>

仲野親王 (*)上総太守。桓武天皇の息。最初の新王任国に任命される。現地には家司の「介」が赴任した。<後に上総の国主は、「上総介」。>

葛井親王 (*)上野太守。桓武天皇の息。最初の新王任国に任命される。現地には家司の「介」が赴任した。<後に上野の国主は、「上野介」。>

▽清原夏野 (782~837)繁野王・(小野)・清原真人・右大臣・繁野・「比大臣(ならだいじん)・双岡大臣」・(滋野)。小倉王の息(5男)。母は小野縄手の娘。室に葛井庭子。804年清原真人姓を賜う。淳和天皇に出仕。『日本後紀』、『令義解』の編纂者。834年嵯峨上皇が自邸に臨幸。息に滝雄。娘の清原春子は淳和天皇の后。<清原氏の祖とも。清原真人姓の真人は皇族の証。天智天皇の息子が出羽に逃れたとゆう伝承もあり、出羽清原氏がどなた(舎人親王の後裔にも清原氏)の後裔なのか気になるところです。>

≪個人的感想≫ 後の、坂東での平氏優位の状況は、親王任国の効果だったのではないでしょうか。
 国津神系の在地豪族や、開拓系渡来氏族も、後ろ盾を得る為に、次々と親王を娘婿に迎え歓迎し、朝廷の威光をもって、自らの支配権を正当化していったのではないでしょうか。
清原氏の奏上ということにも、東北地方の政情と、中央の政権闘争の中で何かつながりが、裏があるような気がします。

物部 熊猪 (*)匝瑳ノ熊猪・そうさののくまい・鎮守府将軍。下総匝瑳(そうさ)の豪族。834年鎮守府将軍。息に匝瑳末守。<のち下総といえば、千葉・・・。坂東平氏が、物部の地盤をひきついだということでしょうか。>

小野 宗成 (*)出羽守・朝臣。830年秋田城に在任中、大地震と疫病に見舞われる。837年出羽国分寺、国分尼寺仏像と経巻を納める。<小野氏、清原氏との婚姻関係も官職に影響しているか。>

837年「奥羽百姓騒乱」


▽物部 末守 (*)そうさののすえもり・匝瑳末守・鎮守府将軍。下総匝瑳の豪族。837年鎮守府将軍。839・840年良岑木連とともに蝦夷対策の為に兵3000人の出征要請。

良岑 木連 (804~849)越前守・よしみねのいたび・木蓮。大納言・良岑安世の息。830年父の死により家督。831年下野介。836年陸奥守。839・840年物部末守とともに蝦夷対策の為に兵3000人の出征要請。843年文室宮田麻呂の謀反に鎮圧軍。息に忠基、安恒。

御春 濱主 (*)鎮守府将軍。840年鎮守府将軍。<戦国東北の三春の田村氏に連なる家系でしょうか。>

843年「文室宮田麻呂の謀反」


文室 秋津 (787~843)武蔵守。備前守・三諸大原の息。綿麻呂の弟。武芸に秀でる。817年甲斐守、818年武蔵介。832年武蔵守。833年恒貞親王の春宮大夫となり後見。842年「承和の変」に恒貞親王の失脚により出雲守に左遷。息に真屋、有真、永年。娘婿に小野良実。

▽文室 有真 (*)出羽守・下総守。秋津の息。840年出羽守。848年班山城田使長官。近江介。854年相模権守。856年陸奥守。861年坂上当道との引き継ぎ遅延により、葛木種主とおともに微罪。863年下総守。

文室 宮田麻呂 (*~863*)筑前守。備前守・三諸大原の息。綿麻呂の弟。摂津難波の豪族。840年筑前守。新羅の張宝高と密貿易。841年張宝高の部下・李忠と交易問題。文室家家人・陽侯氏雄の密告により謀反の疑い。843年伊豆国に配流される。息に(佐渡)忠基、安恒。<伊豆は流刑地・・。>

▽陽侯 氏雄 (*)筑前権少目。主・文室宮田麻呂の謀反を密告。宮田麻呂の失脚により筑前権少目就任。

丸子 廻毛 (*)わにこ・(道嶋・牡鹿)。上総に派遣された俘囚長。843年朝廷に反乱を起す。鎮圧され57人が捕縛され処刑される。<信濃・相模の古代氏族に丸子氏あり。>

坂上 当宗 (*)陸奥介・鎮守府将軍・(正宗)。浄野の息。田村麻呂の孫。摂津住吉平野の豪族。839年伊賀国の悪党退治。846年鎮守府将軍。息に良宗。養子に氏高の息・樹並(秋田城介)。<摂津住吉と、山城の清水、何かの縁があるのでしょうね。>

↓▽坂上 当道 (813~867)陸奥守・鎮守府将軍・(正道)。大野の弟・広野の息。田村麻呂の孫。摂津住吉平野の豪族。853年備前介。藤原有貞とともに京都督。859年常陸権介、陸奥守、鎮守府将軍に就任。860年上総介兼任。息に好蔭。

848年「上総俘囚叛乱」


伴ノ 三宗 (*)大伴・みむね・健宗。鎮守府将軍・下野権介・武蔵権介。真意の息。842年「承和の変」に恒貞親王失脚し、連座した一族の伴ノ健岑の名を憚り「健」を改名。851年鎮守府将軍。息に良雄。<のちに出羽権介・伴ノ有梁が、将門の弟・将種を婿に迎える。><鶴岡八幡宮の社家へと繋がる大伴(富永)氏。関東と古くからの縁があるのでしょう。戦国時代に江戸城主(富永氏)となるのも宿縁なのかもしれませんね。>

文室 道世 (*)鎮守府将軍。854年鎮守府将軍。

855年「奥陸奥争乱」蝦夷部族間の対立


小野 春枝 (*)鎮守府将軍・陸奥権守。856年鎮守府将軍。860年に再び着任。870年陸奥権守。

⇔↑坂上 当道 (813~867)備前介・陸奥守・鎮守府将軍・常陸介・上総介・まさみち・(高道)。広野の息。859年鎮守府将軍、陸奥守兼任。息に好蔭。

▽伴ノ 春宗 (*)大伴ノ春宗・陸奥介。859年陸奥介。865年再度、陸奥介就任。

文室 甘楽麻呂 (*)陸奥介・鎮守府将軍。863年陸奥介。865年鎮守府将軍。

⇔良岑 経世 (*)867年陸奥守就任。

御春 岑能  (*)権介・鎮守府将軍。866年陸奥権介。868年鎮守府将軍。870年再任。


<869年 太平洋岸にて東北大地震、「貞観の大地震(なへゆる)」>
869年博多にて「朝鮮半島 新羅 海賊の入寇」


⇔小野 春枝 (*)870年陸奥介、のち同年に陸奥権守就任。
御春峯能 (*)870年鎮守府将軍就任。
 
⇔安部 貞行 (*)874年陸奥守就任。<安倍氏の姓、初見。引田阿倍から安陪へ変化か。>


875年「渡荒狄 80艘襲来、出羽百姓虐殺」
<女真族の襲来か?>

875年「下総俘囚の反乱」
武蔵・上総・常陸・下野の軍兵が下総に派遣される。


安倍 比高 (*~*878)散位・従五位下・(日高)。大納言・阿部宿奈麻呂の系譜。安倍黒人の息。862年武蔵介、864年出羽権介、865年陸奥守。876年鎮守府将軍。878年着任まもない小野春風に引き継ぐため在職。<現地の下司として俘囚長・安倍忠頼を登用するか?><東北との関わりが深い阿倍ノ比羅夫の系譜を利用し、継承したのでしょうか。>

878・879年「元慶の乱」 出羽俘囚の叛乱
陸奥俘囚長・安倍忠頼が鎮圧に軍功。


藤原 興世 (*)従五位下・出羽守。清和天皇の側近。876年八坂神社への勅使。粟田神社を創建。出羽俘囚の「元慶の乱」が発生。878年秋田城から逃走。

▽良岑 近 (*)(百済)・よしみね・秋田城司・秋田城ノ介。桓武天皇の子孫、もと皇族。878年「元慶の乱」に変装し逃亡。<のちの織田信忠の官位。秋田安藤氏の官位。>

▽伴ノ 貞道 (*~878)大伴・擬大領。最上郡郡司。878年「元慶の乱」に戦死。<のち源ノ義家に従う伴氏の武士団は、大伴貞道の一門か。><鶴岡八幡宮の社家へと繋がる大伴(富永)氏。関東と古くからの縁があるのでしょう。戦国時代に江戸城主(富永氏)となるのも宿縁なのかもしれませんね。>

藤原 梶長 (*)押領使・陸奥大掾。興世に代り鎮圧軍の将として派遣される。879年「秋田川の合戦」に敗北。陸奥国に逃走する。<秋田城周辺の12か村が独立。上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡の俘囚。添河、覇別、助川の俘囚は朝廷方に残る。>

▽文室 有房 (*)ふんやの・出羽権掾・雄勝城司。藤原梶長の次官。879年「秋田川の合戦」に敗北し負傷。

▽小野 春泉 (*)出羽権掾。藤原梶長の次官。879年「秋田川の合戦」に敗北し逃走。

▽藤原 宗行 (*)出羽権掾・出羽権介・統行。藤原梶長に従い秋田城に駐屯。蝦夷軍の奇襲により敗走する。

藤原 保則 (*)左中弁・出羽権守。備中、備前の守を歴任。興世の跡職。鎮守府将軍に小野春風を抜擢。陸奥・上野・下野の軍兵を率いる。879年鹿角の俘囚が降伏。出羽俘囚の反乱を鎮圧する。<「蝦夷兵1人が官軍100人に勝る」と蝦夷人を評する。><俘囚長3名が秋田以北を「己地」として自治を求めた・・・。安倍・清原と、あと1人の俘囚長?>

藤原行則 (*)出羽介。秋田城の国司(城司)。880年在任中に大地震に見舞われ、被害状況を上申する。

小野 春風 (*)対馬守・陸奥鎮守府将軍・摂津守・大膳大夫・検非違使・左衛門佐・右兵衛少将・陸奥権守・讃岐権守。小野石雄の息。幼少を東北の辺境で育つ。夷語に堪能で、剛勇できこえた。大宰府に出仕するが讒言により罷免される。878年出羽国人の叛乱で藤原興世が敗北。藤原保則の推挙により鎮圧軍に参加。前任者・安倍比高に師事。出羽反乱軍を鎮める。

▽坂上 好蔭 (*)(東漢・大蔵)・陸奥介。百済氏族の子孫。当道の息。坂上田村麻呂の曾孫。小野春風の副官。息に是則。

▽南淵 秋郷 (*)(息長・坂田・酒人)・みなぶちの・上野国押領使。小野春風の副官。もと皇族。

↓▽清原 令望 (*)真人。出羽権掾。長統王(清原長統)の息。兄弟に正文。秦ノ富成の娘婿。878年「出羽俘囚の反乱」の鎮圧に軍功。894年従五位上・太宰少弐に任官。息に仲海。<出羽清原氏の祖となるのではという説もあり。><男鹿半島の橘氏も清原真人の称号を持つようです。出羽俘囚の族長家系は婚姻により「清原真人」を与えられ相伝しているのでしょう。>
大鳥井が清原惣領家の本拠地。

↓安倍 忠頼 (*)878年「元慶の乱」鎮圧に活躍した陸奥俘囚長。<同時代の上総平氏・平ノ忠頼と同名。><藤原保則が俘囚長に自治を認めたとも。安倍、清原氏の台頭はこの頃からか。両氏の名乗る鳥海の別姓は同族を意味する何かなのではないでしょうか。>

安倍 三寅 (*)みとら。近江権大掾・因幡権守・左近将監・鎮守府将軍。三河守・安倍氏主の息。884年鎮守府将軍。886年因幡権守。息に勝嗣。<中央貴族の安倍友上→氏主→三寅の系譜。>

御春 種實 (*)種実。従五位下・鎮守府将軍。887年鎮守府将軍。<868年の御春岑能に続く任官。>

883年 上総市原郡俘囚の叛乱。
893年 出羽俘囚の叛乱。


対等の講和をするが俘囚長達は中央の命で処刑される。再び出羽国争乱へ。中央へは蝦夷の内紛と報告される。

⇔△藤原 時長 (*)民部卿・常陸介・鎮守府将軍。兄弟に中納言・藤原山蔭。越前敦賀の豪族・秦ノ豊国の娘婿。<陸奥にて秀郷流藤原氏とどのような関係をむすんだのでしょう。>

⇔平ノ 維扶 (*)陸奥守。

(西暦900年~950年)


 ⇔↓○藤原 利仁 (*)左近将監・上野介・上総介・下総介・武蔵守・鎮守府将軍。武蔵守藤原北家・魚名流。藤原時長の息。母は秦豊国。越前国敦賀の豪族・藤原有仁の娘婿。911年上野介、つづいて上総介、下総介、武蔵守に任官。915年下野の高倉山(高座山)の山賊(蔵安、蔵宗)を鎮圧し鎮守府将軍に任官。息に公統、叙用。娘は秀郷の孫・文脩の室。<下野・藤原秀郷の系統と、越前・藤原利仁の系統が結合・・。><官位「左近将監」は関東管領にとって縁起物の官位だったりしそうです。>

* 蔵安 (*)(下毛野?)・高座山。下野国の豪族。915年朝廷に反乱し藤原利仁により討伐される。<武蔵武芝とよく似た名前です。坂東在地豪族なのでしょう。>

* 蔵宗 (*)(下毛野?)高座山。下野国の豪族。915年朝廷に反乱し藤原利仁により討伐される。


<915年十和田火山の噴火、地震。>


上毛野 基宗 (*)上野国の豪族。915年上毛野貞並とともに上野介・藤原厚載を討ち滅ぼした事を奏上、基宗・貞並は武蔵で捕縛される。上野大掾家・藤原連江は中立。<中山道混乱。>

○藤原 利行 (*)山本。越前国角鹿(敦賀)の豪族。藤原房前の息。朱雀帝家臣。915年下野従軍。鎮守府将軍。931年越前国黒龍村、毛谷神社神職。
源ノ 嘉生 (*)秋田城介・義生・よしお。苛烈な税の取り立てにより、「出羽俘囚の反乱」勃発。<朝廷の神官・大中臣奥生との、名の「生」の通字の関係が気になるところです。>

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939年「天慶の乱」と「出羽俘囚の叛乱」、秋田城攻撃。
939年尾張国主暗殺事件勃発。



⇔平ノ 良将 (*)鎮守府将軍・良持。高望王の子息(三男)。下総の豪族・犬養春枝の娘婿。鎮守府将軍となる。平ノ将門の実父。下総国豊田郷を領す。遺領を兄・良望(国香)が収めた為、子息の将門が平家一門から叛乱する。

⇔○平ノ 良兼 (*~939)鎮守府将軍。高望王の子息(次男)。
⇔平ノ 良望  (*~935)平ノ国香・常陸大掾・鎮守府将軍。高望王の息。母は藤原良方の娘。常陸の(常陸前掾)源ノ護の娘婿。縁戚関係を結ぶ。935年弟・良将(良持)の遺領を収公しようとして甥・将門と対立。鎮守府将軍に就任する前常陸大掾・(略して常陸前掾)源ノ護、縁戚の平ノ良兼と結ぶが、甥の平ノ将門に居館を襲撃され討たれる。常陸国真壁郡を領す。息に貞盛、繁盛、兼任。<最初は弟・良将が嫡子で、鎮守府将軍となるか。>

平ノ 将門 (902~940)相馬・滝口・小次郎・「新皇」。下総国出身。①高望の三男・良将の息。平下総介・良兼の娘婿。京都で藤原忠平の郎党を務める。将門は下総を本拠とし、935年源ノ護・平良兼と争う、また領地をめぐって叔父・良望(国香)と対立し殺害。939年源ノ経基が告発、将門「平ノ将門の乱」を起こす。「新皇」と称し、関八州を席捲する。王城を下総猿島郡石井郷に造る。940年平ノ貞盛・藤原秀郷の連合軍に破れ、猿島で討死。下総国豊田郷を領す。<939年経基が朝廷に将門を告発。叔父・平ノ良文とは同盟関係にあるようです。父の良将と良文の母つながりなのでしょうか。>

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