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戦国その22 伊勢の両雄 北畠氏、世保(土岐)氏

南伊勢・北畠氏、北畠具教の家臣団。北伊勢・世保(土岐)氏。

<南朝 伊勢国司>

 南伊勢五郡領主(一志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・度会郡)

足利幕府の変遷

<伊勢国司北畠氏の系譜> 

北畠親房 (1293~1354)大納言・源氏長者・宗玄・覚空。淳和・奨学院別当。北畠師重の息。母は藤原隆重の娘。弟に通房、冷泉(春日)持房。後醍醐天皇の側近「三房」のひとり。世良親王の養育係り。1338年顕家が戦死。伊勢にて度会家行の協力を得る。1380年親王が没し出家。結城宗広とともに義良親王を後見して関東遠征。小田治久を頼る。1340年関ノ宗祐と伊佐氏を頼る。藤原長者の近衛経忠と対立。息に顕家、(春日)顕信、顕能、(唐橋)顕雄、娘婿に後村上天皇(義良親王)、冷泉持定。

▽度会家行 (1256~1349*1351)わたらい・村松。伊勢神宮外宮神官。南朝を支援。北畠親房と同盟。伊勢神道を大成する。

北畠顕能 (*~1383)(中院)・正二位・南朝右大臣・権大納言・「多芸殿」。親房の息(養子で中院貞平の息とも)。顕家、顕信の弟。伊勢国司。一志郡美杉村、多気御所。野呂隆俊の娘婿。1335年伊勢一志郡多気城入城。1338年伊勢国司。1342年霧山城築城。1348年楠木正行に呼応して幕府軍を攻撃。1351年石塔頼房と抗争。1352年楠木正儀、千種顕経とともに京都侵攻。細川頼春を討つ。1354年親房の死により家督継承。1370年伊賀進攻。近江進攻。楠木正儀を追う。援軍・細川頼元軍を撃破。1371年土岐(世保)康政を破り、安濃郡を占領。息に(大河内)顕俊、顕泰。甥に顕成(顕家の息)。

▽野呂隆俊 (*)伊勢飯高郡の豪族。伊勢平氏。五箇篠山城主。娘婿に北畠顕能。<野呂越前守・伊予守戦死後、居城は安保氏が所有。><長野氏重臣、雲林院氏の家臣にも野呂氏あり。>

木造顕俊 (*)「木造御所」・北畠顕俊。顕能の息。北畠庶流。顕泰の庶兄。一志郡を領する。「応永の変」、「正長の変」に幕府軍。北畠宗家と抗争。息に俊通、俊泰(俊康)。

<南朝方 九鬼(坊門)氏>

 出自は熊野別当家とも。熊野水軍の力を背景に志摩へと進出するか?。

藤原隆信 (*)九鬼隆信。九鬼(くかみ)氏祖。後醍醐天皇、後村上天皇に出仕。九鬼村(九鬼浦)を領する。息に隆治。

藤原隆治 (*)九鬼隆治・宮内少輔。九鬼氏二代。隆信の息。息に隆房。

藤原隆房 (*)九鬼隆房・刑部少輔。九鬼氏三代。隆治の息。息に隆長、(波切)隆良。

(比志賀・波切、九鬼氏)

 <川面氏、青山氏と結び波切を確保するか?。>

▽九鬼隆良 (*)(藤原・川面)・比志賀・(川面高義)。南朝方武将。志摩の豪族。隆房の息。兄弟に隆長。波切の川面氏の養子。1366年頃波切城主。和具の青山氏から養子を迎える。養子に隆基。

▽九鬼隆基 (*)(青山)・比志賀・隆基・(高元)。南朝方武将。志摩の豪族。隆房の息。青山氏の息、九鬼隆良の養子。息に隆次。<織田弾正忠家の重臣に青山氏あり。のち丹羽長秀の家臣にも青山氏。>

▽▽九鬼隆次 (*)(青山)・比志賀・(高継)。南朝方武将。志摩の豪族。隆基の息。

北畠顕泰 (1338~1412*)権中納言。顕能の息。兄に(木造)顕俊。弟に(除野)顕相。1392年足利義満と和睦。北朝・後小松天皇を奉じる。伊勢南五郡、大和宇陀郡を支配。騎兵1500、侍7500、小人6000兵の15000人の動員力を持つ。伊勢守護・土岐氏嫡流と抗争。1399年息・満泰とともに「応永(大内義弘)の乱」に幕府軍として参戦し軍功。満泰は戦死する。養子に俊泰(俊康)。息に満泰、満雅,顕雅。

満泰が戦没

▽北畠満泰 (*~1399)顕泰の息。足利義満を烏帽子親に元服。「応永(大内義弘)の乱」に従軍。戦死する。

▽北畠俊泰 (*~1421)「油小路殿」・(大河内)・中納言。(大河内)顕俊の息。満泰の戦死後、北畠顕泰の養子。1414年幕府方となり北畠満雅と抗争。土岐持益、仁木満長、土岐(世保)康政とともに出陣。坂内城主。息に持泰、康玄。


<木造氏> 

1414年足利義持により久我氏に木造荘返還。

木造俊通 (*)顕俊の息。兄に俊泰。北畠庶流。息・雅俊が俊泰と抗争。俊泰の坂内城を奪取。1415年幕府軍に敗北。息に俊康、(坂内)雅俊、(森本)俊氏。

▽木造俊康 (*)俊通の息。息に持康。<俊泰と同一人物か。別系統か。>


1414年 「小倉宮の挙兵」

幕府方、土岐持益、仁木満長、木造俊康を攻撃。

北畠満雅 (*~1429)(満政・光雅)・左中将。伊勢国司。兄・満泰の戦死により家督。1414年南朝小倉宮の要請で、幕府から離反。雅俊、顕雅を木造・大河内両城に配する。関氏とその一族・荻野氏を従え白米城を拠点に反乱。1415年土岐持益・仁木・細川・伊勢工藤氏の幕府軍を撃退。1428年称光天皇の死去により、小倉宮を擁立。「正長の変」にて将軍・義教の幕府軍・土岐持頼、長野満高、赤松満祐、山名持豊軍に敗北し戦死。息に教具。

大河内顕雅 (*)(顕政・秋雅)。満雅の弟。北畠一門。一族三大将。1415年満雅に従い幕府軍を撃退。養子に親忠。1429年満雅の死により、甥・教具を後見。養子に親郷。

▽鳥尾屋重澄 (*)富永。満雅の家老。阿坂城籠城戦に白米で馬を流し、敵を欺く計略披露。伊勢富永城主。

坂内雅俊 (*)木造・(正俊・政俊)。木造俊通の息。飯高郡。北畠一門。一族三大将。1415年満雅に従い幕府軍を撃退。俊泰の坂内城を奪取。1415年幕府軍に敗北。息に具能。


<伊勢守護・北畠氏>

 安濃郡・長野氏との抗争、伊勢外宮門前の山田三方衆との抗争。

北畠教具 (1423~1471)権大納言。満雅の息。赤松満祐の息・赤松教康を討ち幕府に忠節。1448年長野氏と抗争。1467年「応仁の乱」に足利義視を保護。東軍に属す。1468年伊勢守護・土岐政康と抗争。息に政郷、(大河内)親郷。

▽木造持康 (*)俊康の息。息に教親。<将軍・義持の一字宛がいか。>


北畠政郷 (*~1508)右近衛中将・政具・(政勝)・雅郷・逸方。教具の息。弟に(大河内)親郷。1471年父の死により家督。1479年一色義春・長野政高と抗争。1486年伊勢の宇治衆と山田衆の対立を激化させ、幕府から詰問される。息に材親、親忠、親泰、顕晴。

大河内親郷 (*~1495)北畠親郷・親文。教具の息。政郷の弟。1495年「国司兄弟(材親・師茂)合戦」に戦死。

東門院孝尊 (*)宮内大輔。教具の息。政郷の弟。跡職は兄・政郷の息・孝縁が継承する。

田丸顕晴 (*)政郷の息。多気郡。北畠一門。一族三大将。

木造教親 (*)持康の息。息に政宗。

※▼愛洲忠行 (*)伊予守。伊勢神領奉行。愛洲水軍惣領。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と宇治衆の抗争に介入し神宮に兵火を持ち込む。伊勢神宮禰宜の荒木田氏経と親交がある。養子に北畠政郷の息・政勝。田丸城主。<伊勢の守護代家とも。独立的な小領主でもあったか。奥州藤原氏の与力・信夫佐藤氏のような関係でしょうか。>

▼村山* (*)掃部助。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と抗争し外宮を焼く。

▼奥山* (*)二郎右衛門。北畠政郷家臣。1486年山田三方衆と抗争し外宮を焼く。

亰兆家の変遷

北畠材親 (1468~1517)権中納言・具方・大石御所。政郷の息。弟に大河内親忠、大河内親泰、田丸顕晴(政勝)。足利義材から「材」の字を与えられる。土岐成頼の娘婿。(細川高国の娘婿とも?)1495年木造師茂と抗争。1509年細川高国に敗北した三好長秀を伊勢山田にて討伐。愛洲氏に大湊侵攻を命じる。息に晴具、(神戸)具盛。孫に具教。娘婿に長野・宮内大輔。<1509年伊勢山田に進出する三好家との対抗上、管領・細川高国と同盟するか。義材と昵懇であったなら、細川政元・足利義澄の政権下では肩身の狭い思いをしてきたことでしょう。>

三好長秀兄弟、伊勢にて陣没

▽山室方兼 (*)北畠当主の側近。奉行。北畠具方の「方」字を与えられる。<国兼、教兼、房兼が代々当主の側近として出仕。>

大河内親忠 (*~1495)北畠親忠。政郷の息。兄に材親。1495年「国司兄弟(材親・師茂)合戦」に戦死。養子に弟・親泰。

大河内親泰 (*)秀長・頼房。親忠の弟。政郷の息。親忠の養子となり跡職を継承。北伊勢の関氏、中伊勢の長野・工藤氏と抗争。息に(坂内)具種、具良。

北畠師茂 (*~1495木造師茂。政郷の息。木造政宗の娘婿。異母兄・北畠材親と抗争。1495年舅の木造政宗の後援で反乱「国司兄弟合戦」。高柳刑部少輔・方幸、大宮式部少輔・勝直、沢兵部少輔・方満、山室民部少輔・勝兼ら11人の国人が師茂派。

⇔▽神戸具盛 (*)政郷の息。神戸家養子。息に北畠長盛、利盛。<次男・治部少輔は赤堀氏の養子。>

▽木造政宗 (*)教親の息。息に俊茂。孫に具康。

※愛洲久忠 (1452~1538)太郎左衛門尉・日向守・移香斎。愛洲水軍。唐国(からくに)寧波に渡航。「陰流」の創始者。上州の剣士・上泉信綱の師。息に宗通。<若い頃は「倭寇」に参加するか?。北畠氏からの養子が愛洲家を継承。子孫は関東の佐竹氏に抱えられる。>

《個人的感想》 同じ南朝戦力として伊勢北畠氏と、宗良親王を奉じた三河・遠江の大河内家(菊一揆)が結びつくのは自然な事だとも思うのですがどうでしょう。東海の大河内家から迎えた姫との間に誕生した子が伊勢の大河内を名乗るとかないのでしょうか。

 

伊勢国要所図 北畠氏のライバル、土岐家↓

 1360~1500年頃 伊勢守護・土岐氏 土岐嫡流の影響下。守護所、世保

<伊勢国 世保(土岐)氏>

⇔土岐頼康 (1318~1388)世保頼康・刑部少輔・蔵人・左近将監・大膳大夫。美濃・尾張・伊勢、三国守護。大膳大夫・刑部大輔・入道善忠。土岐頼清の六男、土岐頼貞の孫。1342年叔父の自害により家督継承。革手城に本拠に定め、美濃国衆・斎藤氏を従える。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。貞和8月師直邸に参じる。常に足利尊氏党を貫く。1352年に尾張守護職、1360年伊勢守護職。将軍・足利義満の代に管領・細川頼之と対立。1379年斯波義将と共謀し頼之を失脚させる。息に満貞、康行(養子)。厚見郡革手城主。弟に(揖斐)頼雄、康貞、直氏、(池田)頼忠。<後醍醐天皇の側近、土岐頼員(*~1324)も蔵人の官位名。>

土岐頼雄 (*~1380)揖斐頼雄・出羽守・蔵人・新蔵人。頼清の息。兄・頼康の美濃支配に協力。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。息に康行、(島田)満貞。<揖斐氏は戦国時代に土岐家一門の守護者として斎藤道三に徹底抗戦。>

土岐頼忠 (1323~1397)土岐頼世・西池田・弾正忠・美濃守・刑部大輔・頼忠・入道真兼。西池田家。室は京極氏の娘。1389年足利義満の命で、土岐康行を討伐。1390年康行討伐に軍功。「美濃の乱」に勝利し、美濃守護〈1390*1392-1394〉。息に頼益。

土岐康行 (*~1404)世保康行・大膳大夫・義行。頼康の弟・頼雄の息。頼康の養子。美濃・伊勢守護。京都代官・土岐満貞と尾張守護代・土岐詮直の対決。「尾張黒田の合戦」。康行、詮直の失脚。尾張守護を奪われる。美濃守護も失う。1391年「明徳の乱」に軍功、伊勢守護に復帰。息に康政、満康。娘婿に土岐詮直。

土岐満貞 (*)島田満貞・伊予守・伊豆守。頼康の息。康行の義弟。足利義満の近習。尾張守護。従兄弟の守護代・詮直と抗争。「明徳の乱」に尾張守護を失う。息に(島田)満名、木和田安達。<織田信長の台所奉行、島田秀順との関連は。三河菅沼氏とも関連有りらしいです。>

土岐詮直 (*~1399肥田瀬詮直・宮内少輔。土岐直氏の息。尾張守護代。頼康・康行に出仕。1399年大内義弘の「応永の乱」に呼応して美濃で挙兵。頼益と抗争し戦死。

土岐康政 (*~1418)世保康政・左馬助・大膳大夫。伊勢守護家。土岐嫡流。康行の息。1399年土岐詮直とともに美濃長森城で挙兵。1404年父の死により家督。伊勢守護。1418年将軍義持の弟・足利義嗣の謀反に加担。息に持頼。

土岐持頼 (*~1440世保持頼・大膳大夫。伊勢守護家。土岐嫡流。土岐康政の息。西池田家の土岐頼世(頼忠)に家督を奪われる。1418年足利義嗣の謀反に加担。北畠満雅と抗争。1440年将軍・義教により一色義貫とともに誅殺される。伊勢北半国の守護は一色義直が継承。息に政康。

土岐政康 (*~1473*)世保政康・大膳大夫。伊勢守護家。1467年「応仁の乱」の東軍に属し、伊勢で一色義直と抗争。伊勢北半国守護に復帰し国司・北畠教具と抗争。1471年長野政高と共に北畠氏と抗戦。守護職を北畠政郷に奪われる。1473年西軍の土岐成頼、斎藤妙椿と抗争。

《個人的感想》 北伊勢近辺で対斎藤道三に活躍した揖斐氏や、対織田で活躍した日根野は、地理的に、元々は世保系土岐氏の重臣だったのでしょうか・・。

 世保土岐家の家臣団が、どうやって織田家の北伊勢旗頭・瀧川一益の配下に組み込まれていったか。それも気になるところです。北伊勢に勢力を持った大木(青木)氏や、服部氏は、どこの家臣だったことでしょう。

  

北畠氏のライバル伊勢 一色(石川)家

 一色家勢力図 北伊勢半国守護<一色家>

北伊勢半国守護<一色家>

1450~1500年頃 三河・尾張の兵力を率いて伊勢乱入か。

一色義貫 (1400~1440)兵部少輔・左京大夫・修理大夫・義範。一色満範の息。山城・若狭・丹後・三河・尾張知多郡・海東郡分郡守護。16歳で足利義持に北畠満雅討伐を命じられる。幕府四職のひとり。侍所所司代。関東公方に出仕した一族の一色時家を匿い、足利将軍・義教により追討され大和信貴山にて自害。兄弟に持範、持信。息に義直、義遠。1445年弟・持範の息・教親が丹後守護。

一色義直 (1431~*1493)左京大夫・修理大夫。一色義貫の息。叔父に持範、持信。弟に義遠。丹後・三河渥美郡守護。1450年教親の死により丹後・(北伊勢?)守護。1467年「応仁の乱」に西軍。管領・細川家と対立。伊勢貞親、細川成之、今川義忠、三河守護代・東条(武田)国氏と抗争。北伊勢半国守護。1478年三河を放棄する誓書を将軍・義政に提出。息に義春、義秀。娘婿に斯波義寛。外孫に斯波義達。

一色義春 (1466~1484)五郎・左京大夫。義直の息。山名教豊の娘婿。足利義尚の側近。1474年東軍に帰参する。丹後守護職に復帰し、武田国信の家臣・逸見真正を討つ。1477年北伊勢半国守護。北畠政郷と抗争するも敗退。弟に義秀。

一色義秀 (*~1498)五郎。伊勢・丹後守護。兄の死により還俗して家督。1487年足利義尚の六角高頼征伐に従軍。1493年丹後の伊賀次郎左衛門の反乱を義直と共に鎮圧。1498年丹後にて戦死。跡職は義有が継承。

石川道悟 (*)一色家家臣。北伊勢半国守護代。1467年「応仁の乱」に東軍・土岐政康と抗争。<伊勢で敗れて、三河の石川氏へとつながるか。>

(尾張)

一色義遠 (*~1505*)吉原義清・四郎・兵部少輔・式部少輔・義清。一色義貫の息。一色義直・義春家臣。尾張知多郡守護。1467年「応仁の乱」に西軍。細川家と抗争。1477年三河守護代・東条国氏の反乱に左京大夫・義有と共に鎮圧に向う。息に義有。

一色義有 (*)一色義遠(吉原義清)の息。三河守護家。本家の一色義秀が丹後で戦死したため家督継承。1501年丹後に出征。管領・細川政元・澄元親子、丹後守護・武田元信と抗争。1505年丹後守護就任。1507年幕府細川軍を撃退。息に義清。

▽▽石川直経 (*)丹後守護代。丹後一色家家老。加悦・賀屋城主。1507年細川澄之と結んで赤沢朝経を討つ。同年、管領・細川政元軍を撃退。1516年一色九郎と抗争するも、加悦城を奪取される。

▽▽延永春信 (*~1517)丹後守護代。丹後一色家家老。1516年一色九郎の反乱に加わる。武田元信を救援した朝倉孝景により倉梯城を攻略され戦死。阿弥陀ヶ峰城主・倉梯城主。

(三河)

一色政照 (*~1481)式部家。持範の息。三河国渥美郡代。一色義直の従兄弟。1466年山名宗全に従い西軍。軍勢を率い上洛中に伊勢氏配下となった戸田宗光に所領を奪取される。田原城主。

一色時家 (*~1477)刑部少輔。関東一色家。持家の息か。1440年本家・義貫が誅殺される。のち足利義政の命で本家・一色義直が三河守護となり守護代。1476年「応仁の乱」に西軍。細川家の家臣・東条国氏を討つ。三河国宝飯郡、長山一色城主。

▽▽波多野時成 (*~1493)秦野時成・入道全慶。一色家家老。三河の豪族。主君・一色時家を討つ。1493年牧野古白に討たれる。<波多野氏がどこからやって来たのか気になるところです。関東公方の件で南下した相模の波多野氏か、丹波の波多野氏が丹後・若狭守護の一色家に仕官して、それに従い移住してきたのか。その残党は何処へ。丹羽長秀の家紋。東北斯波家重臣・河村氏との関係が気になります。>

▽▽牧野成時 (*~1506)利成・入道古白。一色家家老。三河の豪族。のち今川氏に従う。1505年今川氏親に従い松平家を攻撃。息に信成、三成(成三とも)、信高、能成。今橋城主。


《個人的感想》 北伊勢にも石川氏、丹後にも石川氏、一色家のあるところ石川氏が派遣されるとするならば、三河の石川氏は・・。三河・阿波守護・細川成之の執事、三好家の東海道への影響力も気になるところです。三好長秀がなぜ伊勢山田に拠るのか、意味があると思います。

<南朝方 九鬼(坊門)氏> 

伊勢志摩波切村を拠点、泊浦を支配。

九鬼隆長 (*)・掃部。四代。

九鬼光長 (*)藤原・坊門。坊門隆長(隆良?)の息。五代。息に政長、宮崎光信。<隆基と同一人物か>

九鬼政長 (*)光長の息。六代。<隆次と同一人物か?>

▽九鬼泰隆 (*)隆次の息。息に定隆、重隆。<七代は政隆とも。系譜に混乱あり。>

▼九鬼定隆 (*)宮内大輔。泰隆の息。弟に重隆。<八代に浄隆とも。>

▼九鬼重隆 (*)泰隆の息。定隆の弟。息に隆持。

<志摩衆>

『北畠物語』 英虞七人衆 <豪族同士で複雑に縁戚関係・志摩国南部の七人衆>

①相差、②(国府)三浦、③(甲賀)武田、④(波切)九鬼(川面・青山系)、

⑤青山、⑥佐治(和具)、⑦浜島。


『九鬼世系』 志摩13頭衆 ①~⑬湊 <三浦氏・和田氏が多い事は、尾張佐久間氏との一族関係に関連しそうです。伊勢御師・福井氏と佐久間氏との古くからの交流にも関連しそうです。>

①(小浜)小浜景隆、久太郎真宗の息。1569年逃亡。息に光隆。<小浜民部の跡職か?。のち駿河に逃走、駿河に一族が居るか?。>

②(楽島)安楽島、越中守。<荒島の豪族。荒島→安楽島>

③(安楽)三浦、豊後守。

④(甲賀)甲賀(武田)、雅楽助。

⑤(千賀)千賀、志摩。1569年逃亡。<知多半島の佐治氏の縁戚。>

⑥(的矢)的矢、次郎左衛門。<美作守が継承するか。>

⑦(浦)浦、豊後守。<三浦氏か。安楽の三浦豊後と同一人物か?。今浦の和田大学と同一人物とも。>

⑧(国府)国府(三浦)、内膳正。<三浦新助と同一人物か?。>

⑨(波切)九鬼(川面)浄隆、光隆、嘉隆。

⑩(越賀)越賀隼人(佐治隆俊)

⑪(和具)和具(青山)豊前。

⑫(岩倉・田城)田城左馬(九鬼澄隆?)。

⑬(鳥羽)橘宗忠(鳥羽主水?)。

<嘉隆流を本筋とするために、岩倉田城に澄隆か?>

 志摩国要所図。

<その他の志摩海賊衆>

⑭(浜島)小野田、豊後。英虞湾の豪族。

⑮(和田)和田。英虞湾の豪族。

⑯(川面)川面、権大夫。英虞湾の豪族。<波切九鬼氏と縁戚。>

⑰(鵜方)森、縫殿之助。英虞湾の豪族。

⑱(御座)御座、源四郎。

⑲(船越)舟越、左衛門。

⑳(安乗)三浦、新助。1569年逃亡。

(国崎)楠、嘉十郎。<国崎嘉十郎と同一人物か。>

(石鏡)大木、上総介。

(今浦)和田、大学。

(菅島)菅島、能登。

(神島)小久保、主水。

(伊雑)迫間、五郎左衛門。

 

 

《個人的感想》 大嶋氏の三好家との縁は1509年の三好長秀の伊勢山田への逃走に何か関連があるのでしょうか。1560年の三好家の松永・松山両大将の伊勢侵攻の噂も、北畠と三好家の悪縁によるものか、織田・今川どちらかの間者が噂をばらまき、北畠の動きを封じ込んだかでしょう。

 大河内城イメージ図

伊勢国司 北畠具教、北畠具房の家臣団

1473年「北方一揆」・梅戸氏の要請で北畠氏の守護代・岩内顕豊が、長野氏と美濃斎藤氏を破る。

北畠晴具 (1503~1563)左近衛中将・具国。「多気御所」。伊勢国司七世。北畠材親の息。細川高国の娘婿。弟に田丸具忠、神戸具盛(孫も具盛)。1509年父・材親は伊勢山田にて三好長秀兄弟を討つ。1521年細川高国を多気に迎える。1522年連歌師宗長を接待。1543年六角家と同盟し、土岐・長野・関氏とともに北近江の京極氏を攻略。北伊勢の長野藤定と抗争。息に具教、具親、具政。<細川高国と結び、細川晴元・三好元長と敵対。>

山室* (*)北畠氏当主の側近。奉行人。<国兼か。のち教兼、房兼が代々当主に出仕。>


北畠具教 (1528~1576)(細川)・伊勢国司八代目・左中将・権中納言。「多気御所」。伊勢大河内城主。北畠晴具の息。母は細川高国の娘。六角定頼の娘婿。「剣聖」塚原卜伝の弟子。1558年北伊勢の豪族、長野藤定の養子に具藤を送る。1560年三好家の松永・松山が伊勢侵略を伺う。1569年10月信雄(北畠具豊)を嫡男・具房の養子に迎え織田家と和睦。1572年多気郡三瀬館に隠居する。1576年織田信雄の命で暗殺される「三瀬の変」。息に具房、(長野)具藤、親成。娘婿に不破光治、津川義冬、田丸直政。

↓▽北畠具親 (*~1586)東門院・宮内少輔。北畠晴具の息。具教の弟。六角義賢の娘婿。興福寺別当東門院僧上。1577年に蜂起するが日置大膳軍に敗北。飯南郡。のち毛利氏の客将となる。伊賀の豪族、吉原氏が具親を後援したことにより、北畠信雄の伊賀侵攻の原因をつくる。1582年変後に安保直親とともに伊勢五箇篠山城に蜂起。津川義冬に敗北する。のち蒲生家の客将。

⇔↓木造具政 (*)(北畠)・兵庫頭。木造氏8世。旧北畠氏一族。北畠晴具の息(3男)、具教の弟。北畠一門筆頭。弟に具次。1568年多気御所の馬揃えにて田丸・坂内・大河内の下位に席次を置かれ、叛心。兄を見限り信長に臣従する。秋山・沢氏の攻撃を撃退。戸木城主、戸木御所。息に長政、長雄。<のち、兄・具教に反乱することで、

本意は達せられたのでしょうか。>


⇔▽北畠具房 (1547~1580)(六角)・左中将。具教の息。母は六角定頼の娘。鈴木家重の娘婿。大河内城主。1572年織田信雄に家督を奪われ隠居。1576年「三瀬の変」で助命され、瀧川一益の保護下に置かれる。のち京都にて病没。養子に織田信雄、中院親顕。<隠居の親が居て、浅井長政と似たような立場になっていたと推測されます。>

長野具藤 (*~1576)北畠・工藤・次郎・藤教。長野氏16世。北畠具教の息。安濃花岡城主。1558年長野藤定の養子となる。1559年赤堀氏との合戦に敗北。関氏とも争い敗北する。重臣・細野藤敦とも争い多芸に逃走。1569年織田信包を養子とする。1569年「大河内城攻略」に従軍。1576年織田信雄の命で田丸城で誅殺される。長野御所。<長野氏の分家は雲林院(氏井)氏。>

北畠親成 (*~1576)式部少輔・式部大輔。北畠具教の息。興福寺東門院の僧から還俗。1569年「大河内籠城戦」に参加。織田軍を撃退する軍功。和議に反対する抗戦派。1576年織田信雄の命で田丸城で誅殺される。一志郡。

北畠政成 (*~1576)左衛門督・「東御所」。北畠政勝の息。松永久秀養女の婿。一志郡美杉村。1569年織田軍の襲撃を受けるが撃退。妹婿に北畠具房。霧山城主。

芝山秀定 (*~1576)出羽守。東御所・北畠政成の家老。一志郡美杉村住人。大宮と並び政務奉行。1569年北畠具教の救援に向うが失敗。息に秀時。

<伊勢 北畠一門御由緒衆>

大河内具良 (*~1576)北畠・左少将・左中将。北畠家御親類衆。大河内頼房(親泰)の息。兄に坂内具種。母は北畠晴具の娘。北畠一門。大河内氏5世。1572年官位任官。1573年左中将。田丸城にて北畠信雄の臣・柘植三郎左衛門に討たれる。大淀城主。

大河内教通 (*~1576)北畠・相模守。具良の息。

大河内* (*)北畠・宮内少輔。北畠家御親類衆。多気城主。1569年「大河内籠城戦」に織田軍の捕虜となる。

森本* (*)(北畠・木造)・飛騨守。多気城守備。1569年「大河内籠城戦」に多気城を攻撃され落城。1569年船江城一揆に参加。<木造氏一門の森本飛騨守のようです。代々「飛騨守」なのでどの人物やら・・。>

(伊勢神領奉行家)

 岩出城を拠点とする。

坂内房郷 (*)(北畠・大河内)・坂内御所。度会郡の豪族。親忠が大河内家を相続し、房郷は坂内家を継承。伊勢神宮と所領問題。大和宇陀の豪族・沢氏と抗争。養子に具種(親能)。

坂内具種 (*)星合親能・(北畠・大河内)・坂内御所。北畠家御親類衆。大河内頼房(親泰)の息。大河内具良の兄。坂内家の養子。息に教房、教賢、具泰、具房(具祐)。

坂内具房 (*)(北畠・大河内)・坂内御所・右近将監・具祐。北畠家御親類衆。息に具義。

坂内具義 (*~1576)(北畠・大河内)・坂内御所・兵庫頭。北畠家御親類衆。北畠具教の側近。織田信長に誅殺される。

▼坂内* (*~1576)千松丸。田丸城にて討たれる。

藤方朝成 (1530~1597)刑部少輔・具祐。北畠一族。小森上野城主・藤方慶由の息。北伊勢の長野家と代々抗争。1569年居城にて織田軍の侵攻に備える。1569年信長に臣従し、のち織田信雄の直臣。1576年北畠具教を殺害する。伊勢陸田城主。

⇔↓▽ * (*)加留・左京。藤方朝成の命で1576年北畠具教を殺害する。

北畠具就 (*)小原。1569年織田軍の侵攻に備える。藤方氏とともに小森上野城を守備。

岩内鎮慶 (*)北畠。晴具の弟。岩内家を興す。

岩内光安 (*~1576)主膳正。北畠家御親類衆。1569年居城にて織田軍の侵攻に備える。伊勢岩内城主。

波瀬具之 (*~1576)蔵人・具祐。北畠家御親類衆。一志郡領主。1559年神戸家と抗争する長野家と結び赤堀氏を攻撃。赤堀氏に敗退。<永禄年間に波瀬御所が赤堀氏を攻撃。>

▽阿曽* (*)弾正忠。波瀬与力。1559年赤堀具之の赤堀城攻撃に従軍。

▽矢川* (*)下野守。波瀬与力。1559年赤堀氏攻撃に従軍。

福山* (*)北畠家御親類衆。

(北畠・愛洲家)

玉丸=田丸城主。 政略婚により八幡(源氏)愛洲氏を乗っ取り。

田丸顕晴 (*)北畠・(愛洲)・左中将・田丸御所・政勝。北畠政郷(*~1508)の息。北畠材親の庶兄とも。池山伊賀守の謀反で戦死。晴具の侍大将・舟木兵部少輔が謀反鎮圧。息に具忠。<北畠政勝=愛洲政勝?。>

池山* (*)伊賀守。田丸家臣。弟に五郎兵衛。主・顕晴に山岡党を率いて反乱し田丸城を制圧。<五ケ所愛洲氏の田丸城奪還に連動して謀反するか?。>

田丸具忠 (*)(愛洲)・北畠・田丸御所。顕晴(材親とも)の息。信雄の代に一之瀬御所。息に直政。<愛洲具忠?。>

田丸直政 (*)北畠・(愛洲)・中務少輔・具直・具政・忠昌・直息・直昌・田丸御所。北畠家御親類衆。蒲生賢秀の娘婿。北畠一族。渡会郡の豪族。志摩国境付近の伊勢国田丸・岩出城主。のち織田信雄の直臣。北畠信雄の命で北畠具教の弟・具親を討つ。5万5千石。のちに蒲生家に出仕。息に直茂。

※愛洲* (*)玉丸。北畠氏の守護代家。「明応の内乱」に材親に反乱する。一族に水軍の五ケ所氏。玉丸山(田丸)城主。

<伊勢 北畠譜代家老衆>

「北畠四家老家」 沢・秋山・水谷・鳥屋尾(伴・冨永)

水谷俊之 (*)刑部少輔。松尾立野城主。外様の沢・秋山氏、譜代の鳥屋尾氏とともに北畠四家老のひとり。親織田派。北畠具房を説得し北畠信雄を養子に迎える。<長島籠城の水谷氏と一族か。とすれば、楠木党が北畠氏の家老に。>

↓鳥屋尾満栄 (*~1577)鳥屋野尾・富永・石見守。茂康の息。外様の沢・秋山氏、水谷氏とともに北畠四家老のひとり。1569年「大河内城の攻防」に主家に従い活躍。1577年北畠具親とともに蜂起。飯南郡。福本城主。<甲賀・大伴姓の富永氏とすれば、三河東条吉良家の家老職・富永忠元と遠い縁戚?>

↓▽鳥屋尾* (*~1577)鳥屋野尾・富永・右近将監。「北畠四家老家」。満栄の息。1572年上洛する武田軍と呼応。田丸城から具房の息・昌教を救出。1577年北畠具親とともに蜂起。織田信雄の攻撃をうける。伊勢富永の領主。<一門に与四郎・定恒あり。同一人物?><伊賀の富永とも関係あるかもしれませんね。>

↓吉田兼房 (*~1595)兵庫頭。北畠軍の旗頭。1577年北畠具親とともに蜂起。茂原城主。諸国流浪する。息に兼宗。

⇔井上専正 (*)味兵衛・入道教順。北畠家老家。反織田派。のち本願寺顕如の客将。<とことん織田家と戦う路線。忠臣ですね。>

大多和* (*)兵部少輔。北畠具教・具房の家臣。1569年居城にて織田軍の侵攻に備える。八田城主。

↓家城之清 (*~1577)家木・主水佑・主水正。北畠晴具・具教・具房の家臣。侍大将。天文年間(1543年?)「垂水鷲山の合戦」に従軍。長野藤定との合戦に軍功。1569年「大河内城の攻防戦」に主家に忠節を尽くし活躍。1570年「曽原城の攻防戦」にも活躍。1577年北畠具親の蜂起に従軍し「川俣の合戦」に討死。伊勢一志郡家城城主。<「槍主水」と異名をとる勇者。><舟木とともに田丸の池山氏討伐軍。>

豊田* (*~1555)五郎右衛門尉。北畠晴具・具教・具房の家臣。侍大将。飯高郡の豪族。天文年間(1543年?)「垂水鷲山の合戦」に従軍。垂水釈迦房とともに長野藤定との合戦に軍功。1555年斎宮城、智積寺城を奪取。本田美作守の鎮圧軍に敗北戦死。<九鬼嘉隆の娘婿に豊田氏あり。>

野呂* (*~1555)三郎。多気郡の豪族。水軍大将。1555年斎宮城、智積寺城を奪取。本田美作守の鎮圧軍に敗北戦死。

奥山知忠 (*~*1576)常陸介。北畠具教・具房の家臣。本田と並ぶ軍奉行家。1568年織田軍を撃退。1569年蒲生家と抗争。のち織田家に従う。1576年北畠旧臣、信雄の命で三瀬館の北畠具教を襲撃。奥山は具教襲撃の命を放棄し出奔する。安芸郡今徳城主。<伊勢攻略に従う蒲生家と戦うとも。><遠江の奥山家とは関連があったのでしょうか。南朝方として先祖は繋がるかもしれませんね。>

<本田党>

 三河本多党と関連ありか。南朝勢力として出張っていたのでは。

本田* (*)美作守。北畠具教・具房の家臣。1555年飯高郡の豊田氏、多気郡の野呂氏の一揆を鎮圧。1569年船江城にて織田軍の侵攻に備える。息に本田康親。船江城主。<康親=親泰でしょうか。>

→▽本田* (*)右衛門尉。北畠具教・具房の家臣。本田美作の叔父。1569年船江城にて織田軍の侵攻に備える。1569年船江城一揆に参加。討伐軍の稲生勘解由を討つ。<大宮氏と対決姿勢。>

中西* (*)清右衛門。北畠具教・具房の家臣。本田家与力。1555年飯高郡の豊田氏、多気郡の野呂氏の一揆鎮圧に従軍。

中西* (*)甚太夫。北畠具教・具房の家臣。本田家与力。1568年北畠具教の命で、織田家に通じた柘植三郎左衛門の娘を処刑。

高嶋* (*)次郎左衛門。北畠具教・具房の家臣。本田家与力。1555年飯高郡の豊田氏、多気郡の野呂氏の一揆鎮圧に従軍。

本田親泰 (*)左京佐・左京亮・親康。美作守の息。北畠具教・具房の家臣。奥山と並ぶ軍奉行家。織田家に従い、大宮家と対立。船江城主。

→林 * (*)備後守。北畠具教・具房の家臣。宇陀郡日牧出身。1569年船江城一揆に参加。

《個人的感想》 三河の本多氏がどこからやってきたのか、伊勢の本田氏との関係が気になるところです。


(大宮党 阿坂城)

大宮* (*~1569)入道・含忍斎。北畠具教・具房の家臣。芝山と並び政務奉行。1569年阿坂城にて織田軍の侵攻に備える。1569年息の大之丞・景連が木下秀吉に手傷を負わせた。「三瀬の変」に北畠政成とともに討死。伊勢阿坂城主。息に景連。<大宮党は国司兄弟合戦に北畠師茂派の中心勢力。>

▽大宮景連 (*)大之丞。入道含忍斎の息。伊勢阿坂城主。<本田氏と対決姿勢。>

大宮* (*~1569)兵部少輔。北畠具教・具房の家臣。阿坂住人。軍奉行。1569年阿坂城にて織田軍の侵攻に備える。

⇔▽遠藤* (*)五郎左衛門。北畠具教・具房の家臣。1569年阿坂城にて織田軍の侵攻に備える。秀吉の調略に呼応し、阿坂落城。

(大河内城)

天花寺* (*~1569)小次郎。北畠具教・具房の家臣。1569年曾原(蘇原)城にて織田軍の侵攻に備える。1569年「大河内籠城戦」に軍功。1569年船江城一揆に参加。1569年当主・北畠具房の出陣により敗退し戦死。

↑芝山秀定 (*~1576)出羽守。北畠政成の家老。一志郡美杉村住人。大宮と並び政務奉行。1569年北畠具教の救援に向うが失敗。

日置* (*)大膳亮。日置・次大夫は弟。北畠具教・具房の家臣。北伊賀柘植三方衆。長野と並び寺社奉行。1569年「大河内城の攻防」に主家に従い活躍。のち織田信雄の直臣。北畠信雄の命で伊勢田丸城内にて、長野具藤・北畠房兼・坂内兵庫を討つ。「小牧長久手」のち徳川家家臣。細首城主。

朴木* (*)隼人正。北畠具教・具房の家臣。1569年「大河内城の攻防」に籠城軍。織田家へ和議の使者。 

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