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天下布武その6 信秀・信長に対抗して散った武将 尾張~上洛まで

 天下布武の過程で惜しくも散った武将
 先代の信秀、織田信長の家督継承から上洛まで。

 赤文字は織田家に敵対・紫文字は謀反し追放されたもの。×印は直接主従関係はないが関連するので掲載した人物。
1479年岩倉・清洲分立。1517年斯波家、今川家に敗北。松平家は知多郡分郡守護・伊勢氏の元被官。

織田信秀 (1510~1551*1552)三郎・弾正忠・備後守。織田信長の実父。代々、勝幡城主にて津島を支配する。尾張国下四郡守護代・織田大和守家の三奉行のひとり、下克上により尾張国内の軍事指導者となる。1532年清洲・織田達勝と抗争。のち1535年古渡城主。同年隣国の松平清康が「守山崩れ」で死亡。1540年三河国安祥城奪取。1541年伊勢神宮造営の費用を献じ「三河守」任官。1542年今川家に「小豆坂の合戦」にて勝利。1543年5月内裏修理費用を献じる。1544年朝倉と結び美濃乱入。1547年「稲葉山攻め」に斎藤秀龍(入道道三)に敗北(加納口の合戦)。三河国安祥城を今川軍に奪取され信広が人質。清洲織田家と和睦。1548年老臣・平手の才覚で、濃姫と嫡男・信長が婚姻。1548年「小豆坂の合戦」に大原崇孚に敗れる。1549年「織田信清の乱(柏井の合戦)」1551年末森城にて病死(1552年3月とも)。41歳。愛知県愛知郡・中島郡・春日井郡に所領。<今川家の尾張支配から、尾張を解き放ったのが信秀だったのではないのでしょうか。1533年には三河への足掛かりを築いた様子です。松平清康との抗争に勝利したがゆえに、江戸時代に先祖を気にする徳川家により三河方面への詳細な事績が抹消されたのではないでしょうか。><尾張今川家の那古野城奪取がいつの時期かが重要になってきます。信長が那古野で育つなら1532~1534年前後に入手したということでしょうか(今川に警戒心のない頃、1533年の佐久間全孝と同時クーデターのような気がしますが)。そして1535年古渡に移ったという感じでしょう。>

佐久間重行 (*~*1553)九郎左衛門・入道全孝。尾張衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。1535年松平清康戦死。1549年岡崎城主・松平広忠を暗殺する。1554年息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。<織田信秀の命で三河支配に配置されるか。信長の兄の三河安祥城主・織田信広を後見していたのかもしれませんね。><多々良(大内)氏族の山口氏との一族同然の関係から、管領代・大内義興との関連が考えられなくもありません。「応仁の乱」からの抗争の上に尾張の諸豪族の繋がりが存在するのではないのでしょうか。諸豪の連合間の争いの中で、織田弾正忠家が伸し上がれたのではないのでしょうか。>


[西三河争乱] 1533年佐久間全孝三河加茂郡広瀬城奪取、西三河・南尾張の織田信秀のクーデターに対して今川家として対処したのでは?
 ▽ 陪臣(織田弾正忠家の直参郎党ではない武将。)
 ×印は弾正忠家の家臣ではない武将。


坂井秀忠 (*~1528*29)酒井。織田信秀家臣。春日井郡品野の豪族。松平清康・信定軍により品野城を奪取される。尾張国品野城主。<三河上野城の酒井忠尚と関係ありか。もしくは、信長の侍大将となる坂井政尚の系統か?>
1535年「守山崩れ」松平清康の戦死後、織田信秀の今川領侵食。

×松平清康 (1511~1535)世良田・次郎三郎・(清安)。親今川(東条吉良)派。安城城主、松平信忠の息。1523年13歳で家督相続。山中城主・西郷信貞を破り、叔父・福釜親盛・桜井信定・東条義春・藤井利長を従え西三河の領主。1529年東三河の雄・牧野伝蔵を降し、田原城主・戸田康光、作手城主・奥平氏、長篠城主・菅沼氏を降す。1529年尾張岩崎城を落とす。1530年宇利城主熊谷忠重を降す。1533年東広瀬城主・三宅高貞、寺部城主・鈴木氏、金谷城主・中条氏、上野城主・阿部氏を降す。1535年12月美濃と結び尾張乱入。守山に向かうが「守山崩れ」事件で死亡。25歳。<1533年に何かがあったようです。清康が台頭するのは佐久間への備えとして今川家からの支援があったのではないのでしょうか。><基本的に今川家に従属していたと思います。><大河内元綱の娘、「於富」との婚姻が、岡崎松平の地位を高め、広忠と大河内の血統の「於大」の婚姻が、家康の価値を高めていると考えられます。>

(三河簗田氏)のち高力氏
▽簗田重長 (*~1535)高力・熊谷。三河額田郡の豪族。松平清康の与力。織田信秀との抗争に、息・安長とともに戦死。孫に清長。

▽簗田安長 (*~1535)高力・熊谷。三河額田郡の豪族。松平清康の与力。織田信秀との抗争に、父・重長とともに戦死。息に清長。

松平信定 (*~*1537?)桜井・松平・内膳・(信貞)。松平長親の息。松平信忠の弟。親織田(西条吉良)派。守山城主・織田信光は娘婿。1529年「岩崎城攻略」に子息・清定とともに先陣の武功。清康亡き後、清康祖父、松平長親の命で松平の盟主となり、広忠を岡崎から追放。刈屋・水野、大給・長沢の松平と婚姻関係。清康の弟・三木信孝と鵜殿康孝も従う。1537年不在時に岡崎城を奪取される。家老・石川康長、その息・石川康利、康定兄弟は殺害される。息に清定。孫に家次。尾張品野城主。<今川から織田に乗り換えたということでしょう。><支配領域的に佐久間入道全孝と特別な関わりを持つような気もします。><品野城に拠っていた戸田氏との関連も気になります。><那古屋今川家に近い松平と、駿河今川家に近い松平とで、分裂していたとも考えられなくないでしょうか。松平家惣領職は信定→清定→家次へと変遷していたのでは。岡崎が嫡流だったわけではないのでは。>

<織田・弾正忠家と三河衆(同盟関係)>
 1540年松平長家の拠る三河国安祥城攻略。織田信広が城主となるが1547年落城。1548年「小豆坂の敗戦」。織田家支配の空白。1562年岡崎・松平元康と同盟成立。

鈴木重辰 (*)寺部重教・日向守。1533年岩津城表で松平清康と合戦。以降、松平家と抗争。1558年織田信長に通じ今川義元に攻撃される。義元配下の松平元康・酒井忠尚の攻撃を受ける。のち寺部城を奪還。1566年佐久間信盛と対立し寺部城を奪取される。<1493年に松平親忠と抗争した寺部城主・鈴木日向守は先祖でしょうか。>

×三宅貞保 (*)御船・右衛門太夫・(定保)。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。御船城主。<三宅氏は室町幕府評定衆・中条家の家臣。>

×三宅光貞 (*)御船・右衛門大夫・(光定)。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。のち東広瀬城主。<御船城は誰が継承したのやら・・。>

×▽三宅高貞 (*~*1561)広瀬・右衛門大夫・(高定)。東広瀬城主。1533年阿部、鈴木、中条家と連合し松平清康と抗争。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。1558年今川家の将・松平元康に降伏。1558年に松平元康に奪取された広瀬城を再奪取。1561年広瀬城を再び失う。<1561年清洲同盟後の織田家の西加茂郡平定戦によるものか。><甥が三宅弥平次・明智光春。>

▽三宅高清 (*~*1558)西広瀬・帯刀。三河国人。1533年佐久間全孝が広瀬城奪取。1549年広瀬城主・佐久間全孝は松平広忠の家臣に討たれる。1554年三宅右衛門大夫・貞保が佐久間長七郎から広瀬城を奪取。以降、西広瀬城主。1558年織田信長に通じ今川義元に攻撃される。松平元康・酒井忠尚の攻撃を受ける。加茂郡西広瀬城主。<三宅貞保、高貞、光貞により広瀬城主に任命される。三宅一門でしょう。家康旗本の三宅正貞、康貞親子とは別流。>

三宅* (*)伊保・伊賀守。伊保城主。<のち三宅氏は織田家の有力外様として1582年駿河攻略後に駿河に移封されます。三宅康貞は家康に従い関東移封。>

▽三宅正貞 (*~*1561)伊保・政貞・(政定)。織田信秀に従う。鳥居忠吉の娘婿。1558年今川軍の松平元康に降伏。今川家に従う。伊保城主。息に康貞(1544~1615)、広勝、勝清、正次。<三宅伊賀守の系統。><1561年に織田信長軍に攻略される伊保城主・三宅師貞は同一人物か、今川義元により据えられた一門の親今川派のひとりか。><三宅氏の文書が残っていれば、徳川創業期の色々なまずいことが、続出してきそうな気がします。ないのかなあ・・。>

×奥平定勝 (*)作手貞勝・仙千代・(定勝)。三河中央国人。三河国山家三方衆のひとり。亀山城主。親今川派の奥平貞能の父。1546年織田家との合戦に軍功。織田信長の家督相続以降は親織田派。織田信長に応じて度々今川家に謀反。(定勝は一貫して今川派で、弟を中心とする一族が織田に離反していたとも)。1556年田峯定継を調略。今川方の菅沼定直を破る。今川方の野田定村の攻撃で阿知波定直が戦死、奥平貞勝は降伏する。1559年鵜殿長照の為に尾張大高城に兵糧を搬入。1569年武田家に従う。息に奥平貞能。従兄弟の奥平急加斎・定国は剣聖・上泉秀綱の弟子。<奥平家と織田家の繋がりは、かなり古いもののようです。><織田信長の勢力が、遠山景任を通じて奥三河まで展開していた様子です。><奥平・井伊家の古文書も残っているなら、家康の隠したい部分がいろいろ続出しそうな気もします。残って無いのかなあ・・。>

 
尾張(軍奉行)弾正忠家 織田信秀時代(*~1550年頃まで)。没年順。

 
<清洲大和守家>海東・海西・愛知・知多の四郡。

 ▽ 陪臣(織田弾正忠家の直参郎党ではない武将。) ×印は弾正忠家の家臣ではない武将。

×織田定信 (*~1543)織田達勝・大和守・信勝・(貞信)。尾張国下四郡守護代。織田大和守・敏信(*~1495)の息。兄に岩倉城主・織田信安。弟・達広は三奉行家の因幡守家を相続。(1479年以降尾張国下四郡守護代。)1513年五郎・達定の跡職を(養子として)継承する。主・斯波義達の一字を与えられ達勝。1516年斯波義達に従い遠江出陣。1532年尾張の覇権を家老(軍奉行)・織田信秀と争う。1540年織田信秀は三河安祥城を攻略。清洲城主。娘婿に織田信秀。弟・達広の息・彦五郎を養子とする。<1532年の対立は親今川・反今川どちらの立場での抗争だったのでしょう。><柴田勝家についてくる「勝」字はこの方から与えられたものでしょうか?>

<尾張衆> 1540年代~ 1542年美濃から追放された土岐頼芸を後援する名目で美濃に乱入するが斎藤道三に敗北。

×那古野* (*~1542*1548)名古屋・弥五郎。清洲衆。尾張国の豪族。1542年今川家との三河国第1次「小豆坂の合戦」に従軍し討死。今川勢、由原に討たれる。親信秀派。<過去に尾張に進出した今川軍により那古屋城の居城を奪われていたのかも。城主・今川氏豊(那古屋家養子とも)は織田信秀により城を奪取される。>

寺沢* (*)(毛利)・又八。尾張国の豪族。信秀の家老。<事績不明、羽柴秀吉家臣の寺沢一門に繋がるか。>

1544年9月「美濃遠征(稲葉山城攻撃)」


×織田信康 (*~1544*1547)犬山・与次郎・与二郎。織田信秀の弟。木之下、犬山城主。1542年「小豆坂の合戦」に従軍。美濃国境との領主で、岩倉織田家に属す。1544年「美濃出兵」に従軍し斎藤道三軍に敗北し戦死。中島・和田の両家老はのちに信長直参。のちに息・織田信清は出奔。その息・織田信益は安土城留守居役。犬山上は武田勝長が継承する。<信秀兄弟の中でもやや独立的な動きをする家系のようです。婚姻により付家老となり岩倉家にゆくか。清洲の槍奉行・弾正忠家から、岩倉の槍奉行家としての責を務める事となっったか。>

毛利* (*~1544*1547)藤九郎。尾張国の豪族。信秀の家老、寺沢又八の舎弟。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。斎藤道三軍に敗北し戦死。<斯波家の臣ながら軍奉行・信秀の動員に従軍か。><系譜は養子縁組などで信忠家老の毛利秀頼につながるか。>

岩越* (*~1544*1547)喜三郎。尾張国の豪族。信秀の家老。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。斎藤道三軍に敗北し戦死。

≪伊勢守家奉行≫ 

×▽織田寛近 (*)(岩倉)・岩倉武長・与十郎・遠江守・武永。岩倉方織田家。尾張国の豪族。犬山・織田広近の息。織田信秀に従い「美濃乱入」。1544年「美濃侵攻」に先陣。娘婿に岡田時常。小久地(小口)城主。<岩倉織田家と岡田重善の一門との縁があるということでしょうか。><武衛と武永をかけているのでしょうか。>

美濃攻め従軍 信秀軍団

<尾張衆(尾張国内の同盟者)> 1545年代~
1547(天文16)年信長、三河大浜奇襲で初陣。1548年平手の才覚で美濃と講和。1549年濃姫・信長の婚姻。
1547年9月「信秀の美濃遠征(加納口の合戦)」織田信康、織田因幡守、織田主水正、青山与三、千秋季光、毛利敦元。

×織田* (*~1547)播磨守。尾張国の豪族。織田軍の武将。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。美濃侵攻に際し、前線の大垣城主となる。織田軍は1547年に美濃から敗退する。

×織田* (*~1547)因幡守・(達広)。織田一門。尾張国の豪族。親信秀派の武将。清洲三奉行家のひとつ因幡守家。斎藤道三軍に敗北し戦死。息に織田彦五郎。<大和守・織田信友の実父のようです。>

×織田* (*~1547)主水正。尾張国の豪族。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。斎藤道三軍に敗北し戦死。

⇔青山信昌 (*~1544*1547)与三右衛門・余三右衛門。尾張国の豪族。信秀の家老。信長付属の那古野四老のひとり。林・平手に次ぐ老臣。1533年妙興寺と所領を争う。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。1546年古渡城にて信長の元服に列席。1547年信秀の「稲葉山攻め」に斎藤道三軍に敗北し戦死。息の青山与三・吉次が家督継承。<1547年に死去だと思います。>

×毛利敦元 (*~1547)十郎。尾張国の豪族。織田信秀に従う。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。1547年斎藤道三軍に敗北し戦死。その後、毛利(十郎)新助が家督を継承したと考えられる。<父の名を踏襲する十郎から、義元首級を討ち取る武勲により新助と改名したか。>

千秋季光 (*~1547*1549)藤原・紀伊守。熱田大宮司一門。尾張国の豪族。織田信秀に従う。1544年信秀の「美濃出兵」に従軍する。斎藤道三軍に敗北し稲葉山城下で戦死。妖刀「景清あざ丸」の伝説を残す。<一番古文書が残ってそうな熱田です。家康の隠したい過去とか、是非公表してほしいものです。既に江戸幕府にガサいれされて喪失しているのか・・。>

1547年「三河遠征(吉良大浜城攻撃)」 出陣・織田信長
信長直参(那古屋衆)


浅井* (*)備中守。千秋季忠は娘婿。季信は孫。1547年「稲葉山城攻め」に従軍。信長の盆踊りに参加し「黒鬼」担当。1556年織田信勝との「稲生の合戦」に従軍。<尾張刈安賀の浅井氏の一門か。>

市川* (*)大介。信秀の郎党。信長の弓師匠。1558年「浮野の合戦」に同僚・橋本が軍功。

平田* (*)三位。信秀の郎党。信長の兵法師匠。<清洲衆・織田三位と関係あり?(没年が近いといえばちかい・・)他にも『武功夜話』では平手三位(政秀)だったりする。>

堀田* (*)左内。信秀の郎党。信長の護衛、鷹野の六人衆(槍三本・弓三張)、槍三本のひとり。海東郡津島村出身。<津島衆カ。>

堀田* (*)孫七。信秀の郎党。信長の護衛、鷹野の六人衆(槍三本・弓三張)、弓三張のひとり。海東郡津島村出身。<津島衆カ。>

城戸* (*)小左衛門。信秀の郎党。信長の護衛、鷹野の六人衆(槍三本・弓三張)、弓三張のひとり。

堀田正道 (*)弥三郎・加賀守。信秀の郎党。信秀、信長二代の重臣。<津島衆カ。>

山田* (*)弥右衛門。織田信秀の臣。古渡城の奉行。財務に係わる。<織田信忠の家老の山田一門に繋がるか。>

「西三河争乱」

×松平信孝 (*~1548)三木・松平・蔵人。松平清康の弟。1535年守山崩れの後、織田軍を弟・鵜殿康孝とともに撃退。反信定派。1540年6月織田信秀が三河「安祥城攻略」。のち織田家に臣従し、親今川の宗家・松平広忠を岡崎より追う。親織田派。苅谷城主・水野忠政、上野城・酒井忠尚、佐崎城主・松平忠倫、山中城主・松平重弘、大原左近、今村伝次郎、大叔父・岩津親長の協力を得る。1542年頃三木城を広忠派に奪取され、織田信秀を頼り大岡城主。上和田城に松平忠倫。1547年織田信秀から「三河切り取り次第」の許可。1548年「岡崎城攻撃」に戦死。<岡崎・松平の惣領となっていたのでは。今川家に擁立された広忠のために、その立場を失っていった様子。>

×松平広忠 (1526~1549)千松丸・仙千代・次郎三郎。親今川(東条吉良)派。水野忠政の婿。1535年父・清康急死。桜井松平信定に追われる。家老・阿部定吉に補佐され伊勢に落ちる。東条・吉良持広の協力で縁戚の吉良家老・三河牟呂城主・富永忠安(忠康)に保護される。1537年今川義元の協力で岡崎城奪取。1543年水野信元が織田に臣従したため水野氏の妻を離縁。1545年9月三河「安祥城攻囲」、織田援軍に敗戦。1547年田原城主・戸田康光、政直親子(宗光、尭光親子とも)の謀略で竹千代が織田信秀に奪取される。1548年織田方の三河山中城主・松平重弘を攻撃。のち三河広瀬城主・佐久間入道・全孝の刺客・岩松(新田)八弥に殺害される。24歳。

<西尾張の争乱>
今川義元の命で、尾張蟹江城を服部友貞と、三河松平党が強襲。蟹江城を奪取する。「蟹江七本槍」の大久保忠員、大久保忠勝、大久保忠世、大久保忠佐の兄弟。阿部忠政、杉浦鎮貞、杉浦鎮栄が軍功。


<東尾張争乱> 藤島・岩崎、丹羽家抗争
<尾張衆> 1550年代~  那古屋城城主:信長 
1551年同盟者・丹羽氏秀の後詰、岩崎・丹羽氏織(今川派か?)を攻撃し敗退。


丹羽氏秀 (*~*1551)右馬充。岩崎丹羽親子と対立。1551年「横山の合戦」に敗北。藤島城主。氏秀親子は三河国広見城・中条秀政を頼り落ちる。

×丹羽氏清 (*)岩崎氏清・一色。今川家臣。丹羽惣領家。1551年岩崎表に織田信長軍が敗北。息に氏織(氏勝)。

×丹羽氏職 (1523~1597)岩崎氏勝・一色・源六・勘助・右近大夫。今川家臣。丹羽惣領家。尾張岩崎城主。室は織田信秀の娘、織田信長の義兄弟。守山城主織田信次家老。1551年岩崎表に織田軍が敗北。

×織田信実 (*~*1550)四郎次郎・四郎三郎。織田信秀の弟。1542年「小豆坂の合戦」に従軍。信長家督継承以前に死没。

《個人的感想》 父・信秀の病気により親今川家の旧勢力が盛り返してきたのでしょう。

(父・信秀の病気と死。1552年今川家への離反衆、主の大和守家・清洲衆との抗争)

1552年4月17日「山口教継の乱(赤塚の合戦)」

 出陣・(那古屋衆)内藤勝介、蜂屋、荒川、長谷川
山口教継 (*~1552*)左馬介・左馬助・(義継)。織田信秀の馬廻衆。「小豆坂の合戦」に軍功。今川家との国境、鳴海城主となるが信長の代に今川家に降服する。1551年信長勢と「赤塚合戦」を繰り広げる。中村に進出。息に九郎二郎。<信長赤幌衆・山口飛騨守と関連アリカ、清洲侍大将衆にも山口氏あり。><山口重勝の父・山口重勝は戸部新左衛門と抗争。><今川義元から「義」の字を与えられたらしい。>

山口教吉 (*~1552*)九郎二郎。教継の息。星崎根上衆を率いて今川家に臣従する。のち今川義元に誅殺される。鳴海城主。<跡職を継承した信長の1551年の岩崎敗戦により見限ったのでしょうか。><1556年美濃乱入に山口取手助が戦死。信長に従った一門か。>

清水* (*)又十郎。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。
柘植* (*)宗十郎。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。
中村* (*)与八郎。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。<秀吉関係者でしょうか?>

荻原* (*~1552)助十郎。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。

成田* (*)弥六。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。
芝山* (*)甚太郎。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。
中島* (*~1552)又次郎・又二郎。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。<犬山衆でしょうか。>

祖父江* (*~1552)久助・久介。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。 <祖父江一族も一時は今川方に・・>

横江* (*~1552)孫八。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。
荒川* (*)又蔵。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。織田の捕虜となる。<荒川一門は分裂していますね。>

水越* (*~1552)助十郎。今川に離反。「赤塚の合戦」に従軍。山口方。

《個人的感想》 前時代の管領代・大内義興の影響で、尾張の多々良氏の勢力が増強されたのでは。湊を重要視する大内家ならば伊勢湾の制海権もなんとかしようと考えていたのでは。三好元長の父・三好長秀が伊勢山田で討ち死にするのも、伊勢湾の交易に対して三好家が何らかの進出方法を考えていたのでは。
 山口・佐久間氏と、佐久間氏と関連のある「織田信長肖像画」を伝える寺を建てた余語氏、余語氏は近江出身といわれ、当時の六角氏は大内義興と結んで将軍・足利義稙、義晴と細川高国を支持していますし、東尾張に進出した豪族の連合体とも考えられるかもしれません。

信長直参 <那古野衆> 
今川那古野家の家臣団を吸収したか。

荒川 * (*)与十郎。織田信長の那古屋城時代の家臣。1551年山口親子との「赤塚の合戦」に先手足軽大将衆。信長方。<三河吉良一門の荒川の分家でしょうか。>

荒川 * (*)喜右衛門。織田信長の那古屋城時代の家臣。1551年山口親子との「赤塚の合戦」に先手足軽大将衆。信長方。

⇔内藤 * (*)勝介。織田信長譜代家老。信秀から付属された四家老のひとり。1542年今川家との「小豆坂の合戦」に従軍し軍功。1546年古渡城にて信長の元服に列席。1551年山口親子との「赤塚の合戦」に先手足軽大将衆。信長方。<足軽衆のまとめ役として四家老の末席か。>

青山 * (*)藤六。織田信長譜代家老。1551年山口親子との「赤塚の合戦」に先手足軽大将衆。信長方。<信秀から付属された四家老、青山与三右衛門の一門か。>

戸田 * (*)宗二郎。織田信長の那古屋城時代の家臣。1551年山口親子との「赤塚の合戦」に先手足軽大将衆。信長方。<三河渥美の戸田の分家でしょうか。>

加藤 * (*)助丞。織田信長の那古屋城時代の家臣。1551年山口親子との「赤塚の合戦」に先手足軽大将衆。信長方。

赤川 * (*~*1552)平七。織田信長の那古屋城時代の家臣。1551年山口親子との「赤塚の合戦」に先手足軽大将衆。信長方。今川の捕虜となる。<重臣・赤川(坂井)景弘の一族か。>

<1551*1552年 信秀の死後、主の大和守家と再び対立。清洲城にて守護殺害の下克上勃発>
1552年8月16日「清洲織田家の挙兵(萱津<海津>の合戦)」 出陣・(守山衆)織田信光、(末盛衆)柴田勝家


<守護代・織田信友の家臣団=清洲の家老衆>

 坂井・河尻 清州の両職。

×▽坂井 * (*~1552)酒井・甚介・甚助。守護代・織田信友の家臣。清洲おとな衆(四老のひとり)。坂井大膳の弟。1547年美濃国出征中の織田信秀の虚をついて挙兵。1552年松葉城攻略。織田信光小姓、赤瀬清六に切り負け退却。柴田勝家・中条家忠に討たれる。

×▽坂井 * (*~1552)酒井・平手(公記の誤記?)・大膳。守護代・織田信友の家臣。清洲おとな衆(四老のひとり)。1547年美濃国出征中の織田信秀の虚をついて挙兵。1552年深田城、松葉城攻略。落城後、甲斐に逃走。<いつから坂井氏は尾張の小守護代になったのか。今川家との関係はどうなのか。今川家臣として尾張清洲監視の目付けとして清洲にいたのなら、落城の際、美濃・伊勢ではなく駿河に出奔するのもうなずけます。三河の酒井氏の分流なのかもしれませんね。>

×▽河尻重俊 (*~1552)与一・与一郎・重俊。守護代・織田信友の家臣。清洲おとな衆(四老のひとり)。1547年美濃国出征中の織田信秀の虚をついて挙兵。1552年深田城、松葉城攻略。<1555年頃に戦死する河尻左馬丞は息子か。>

<守護代・織田信友の家臣団=清洲の侍大将衆> ▽ 陪臣(織田弾正忠家の直参郎党ではない武将。) ×印は弾正忠家の家臣ではない武将。

×▽坂井 * (*~1552)彦左衛門。1552年「萱(海)津の合戦」 織田信光の援軍により信長軍に敗北。<余呉氏と関連有りか。><坂井氏が酒井氏と関わりがあるとすれば、古河公方の家臣となった元々美濃の東(千葉)氏家臣の酒井氏がいて、美濃遠山氏謀反の際に多く討たれた坂井一族というのは東氏に仕えていて美濃に残っていた坂井(酒井)一族なのかもしれません。>

×▽黒部 * (*~1552)源。清洲衆。1552年「海(萱)津の合戦」に討死。

×▽野村 * (*~1552)清洲衆。1552年「海(萱)津の合戦」に討死。
×▽海老 * (*~1552)半兵衛。清洲衆。1552年「海(萱)津の合戦」に討死。

×▽乾 * (*~1552)丹波守。清洲衆。1552年「海(萱)津の合戦」に討死。

×▽山口 * (*~1552)勘兵衛。清洲衆。1552年「海(萱)津の合戦」に討死。

×▽堤 * (*~1552)伊予。清洲衆。1552年「海(萱)津の合戦」に討死。<丹羽長秀の一門衆か。>


<深田衆> 深田城主・織田右衛門が清洲織田家の人質に。

伊東 * (*~1552)弥三郎。深田城主・織田右衛門の家老。1552年坂井大膳ら清洲衆の襲撃にあう。深田城の守備隊、討死。<赤幌衆・伊東長久の系譜か。>

小坂正氏 (*~1552)小坂井・久蔵。前野家の親戚。深田城主・織田右衛門の家老。1552年坂井大膳ら清洲衆の襲撃にあう。深田城の守備隊、討死。岩倉家老前野宗康嫡男、小坂雄吉が家督継承。<子孫は伊勢の北畠信雄の家臣へ。>

赤瀬 * (*~1552)清六。守山衆。織田信光の小姓。1552年清洲衆・坂井甚助との一騎打ちに敗北戦死。中条家忠が仇を討つ。

大森 * (*)平右衛門。知多郡郡代。1552年信長より知多郡篠嶋から守山への商人の警護を命じられる。

平手政秀 
(1492~1553)監物・中務大輔。尾張国志賀城主。<尾張弾正忠家宿老>織田信長の後見人。1533年公家・山科言継、飛鳥井雅綱を接待。1543年織田信秀の使者として上洛。天皇家に御所修理料壱千貫を献上。1547年「吉良大浜攻撃」に従軍。1548年才覚で斎藤道三娘との婚姻を取り持つ。1553年1月自害。長男(実弟)に(野口)五郎左衛門<弟・政利を養子>。次男に監物・久秀(宗政1524~1574)。三男に甚左衛門。春日井郡小木村に政秀寺が建立される。<武功夜話に平手三位とあるのは誤記ですか?>

稲田 * (*~1553)大炊助。岩倉織田家家老。主、織田信安に誅殺される。


<尾張守護職 斯波武衛家>
 ▽ 陪臣(織田弾正忠家の直参郎党ではない武将。) ×印は弾正忠家の家臣ではない武将。

×斯波義統 (*~1553)武衛。1553(天文22)年7月守護代の清洲織田家の三おとな、坂井・河尻・織田三位により包囲され自害。

×森 * (*~1553)刑部丞。義統の側近。1553(天文22)年7月兄弟で表口にて防戦し討死。

×柘植宗花 (*~1553)義統の側近。1553(天文22)年7月裏口にて防戦し討死。

×柴田 * (*~1553*1556)角内。1553(天文22)年7月表口にて防戦し討死?<柴田一族カ?いろんなところに清洲守護代の織田信友の配下として(森兄弟の)首二つ取るとも訳されているのですが、公記の記事がどっちの所属を指してるのか自分が読むぶんには判りかねます。><斎藤道三の侍大将・柴田角内は1556年に一騎打ちで武名を揚げています。別人でしょうか。父と息子か・・。>


1553年7月18日「清洲 織田家の謀反(安食成願寺の合戦)」 出陣・(末盛衆)柴田勝家


×織田信友 (*~1554*1555)広信・彦五郎・信友・因幡守家出身。守護代・織田大和守家養子尾張国下四郡守護代、織田達勝養子カ。1547年美濃国出征中の織田信秀の虚をついて坂井大膳と挙兵、古渡城を攻囲するが、平手政秀の才覚により和睦。1552年再び家老・坂井大膳と謀り、弾正忠派を攻撃する。1553年斯波義統を殺害。清洲城主。1554or1555年「安食の合戦」に柴田勝家軍に敗北。1554年7月or1555年織田信光・信長により攻略され自害。<一時は南尾張の竜虎として、信友か信長かの時代があったのでしょうね。>

×▽織田 * (*~1554*1555)三位。清洲おとな衆(四老のひとり)。坂井・河尻に協力し、伊賀守を人質とする。1555年「安食の合戦(中市場合戦)」に斯波家家臣、由宇喜一<結城一?>に討たれる。<信長様に兵法を伝授した平田三位または、平手政秀のことだったら、ドラマなんですけど(笑。>

×河尻 * (*~1554*1555)左馬丞。守護代・織田信友の家臣。清洲おとな衆(四老のひとり)。1555年清洲城下で柴田勝家と戦う。彼が戦死したため、信長の命で川尻秀隆が家督を継承した。<与一の息カ。>

<織田信友家臣団=清洲侍大将衆> 


×原 * (*~1554*1555)守護代・織田信友の家臣。1555年「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲城下で信長配下・柴田権六の活躍により信長軍に敗北。

×雑賀 * (*~1554*1555)修理。守護代・織田信友の家臣。1555年「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲城下で柴田勝家と戦う。討死。

×八板 * (*~1554*1555)守護代・織田信友の家臣。1555年「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲城下で柴田勝家と戦う。討死。

×高北 * (*~1554*1555)守護代・織田信友の家臣。1555年「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲城下で柴田勝家と戦う。討死。

×古沢 * (*~1554*1555)七郎左衛門。守護代・織田信友の家臣。1555年「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲城下で柴田勝家と戦う。討死。

×浅野 * (*~1554*1555)久蔵。守護代・織田信友の家臣。1555年「安食の合戦(中市場合戦)」、清洲城下で柴田勝家と戦う。討死。<信長の弓衆で浅野長政の養父、又右衛門さんの一族でしょうか。>


<1554年1月今川の拠点「村木城攻撃」。7月叔父・信光と同心し守護代織田信友を謀殺。>


1554年1月「今川領侵略、緒川城(水野氏)後詰軍(村木城攻略)」 出陣・織田信長、織田信光、水野忠政。
1554年4~5月「織田信光の挙兵(清洲城奪取へ)」 出陣・(守山衆)織田信光、(末盛衆)柴田勝家

×織田信光 (*~1554*1555)小幡・虎千代・孫三郎・豊後守。織田信秀の弟。1542年第1次「小豆坂の合戦」に武功。1548年第2次「小豆坂の合戦」小豆坂七本槍のひとり。信長に協力し織田彦五郎(信友)の清洲城を奪取。春日井郡守山城主。1554*那古屋城城主。1555年11月家臣・坂井(酒井)孫八郎に暗殺される。<犬山に比べて比較的に弾正忠本家に忠実に活躍。清洲衆・坂井氏の恨みを買ったのかも・・。>

松平清定 (*~1545*)桜井松平・内膳正・与一。信定の息。父とともに吉田城の合戦、品野城攻略に軍功。1545年坂井(酒井)忠尚、榊原長政とともに「広畔畷の合戦」に敗北。息に家次。事績詳細不明。<織田信光と縁戚。>

山岡* (*~1554)河内守。織田信秀、信長家臣。1554年今川軍の攻撃により落城。三河国重原城主。<山岡景佐が、山口盛隆の娘婿になるようなのですが、西三河と近江瀬田に何か交流があったのでしょうか。>


南尾張を統一し、北尾張岩倉伊勢守家と、美濃斎藤家を睨む。

織田信長 (1534~1582)上総介・第六天魔王。母、土田氏。織田信秀の嫡男。那古屋城城主。1547年に吉良大浜初陣。1548年平手政秀の才覚により斉藤秀龍娘婿となる。1551年父・信秀の死により織田家相続。1555年織田惣領家の清洲城を奪取。1556年「長良川の合戦」に義父・秀龍が義龍に討たれる。1560年「桶狭間の合戦」で今川義元に勝利。


<尾張衆> 1555年代~ (1555年~1558年まで弟・織田信勝との暗闘)
1555年7月「津田信次の臣、角田・丹羽氏勝の乱(守山城の攻防)」 出陣・柴田勝家、飯尾定宗、飯尾尚清、津々木蔵人。

×織田秀孝 (1539~1555)喜六郎・信孝。母、土田氏。織田信秀の息。守山城主・織田信次家臣の洲賀才蔵に誤殺される。信勝が怒り守山に兵を繰り出し、信次は逐電。<守山籠城戦の主力となる岩崎丹羽家は今川氏に通じて織田信長に反抗する事もあったようなので、信次家臣団の中で分裂が起きていたのかもしれませんね。>

1556年3月「三河遠征、今川領侵略、吉良義昭救援(三河野寺原の合戦)」 出陣・織田信長、水野忠政。

×吉良義昭 (*~1563)東条。元・西尾城主。1554年兄・義安が今川家の捕虜となり吉良家督。当初、親今川派。今川義元との同盟者。1556年織田信長と結び今川家に謀反。西尾城を奪われる。1560年「桶狭間」にて義元戦死。1561年三河統一戦に松平元康に「藤波畷の合戦」に敗北。1563年三河一向一揆に旗頭として徳川家康と対立。東条城主。<1560年今川からの独立の機会に、下克上をした松平元康に対して歯がゆい思いをしたことでしょう。>

1556年4月美濃の斎藤親子騒乱の影響。
<1556年斎藤義龍の後援で兄・織田信広の謀反。弟・織田信勝(達成)は北尾張守護・織田伊勢守・信賢と結ぶ。南尾張の内乱。>

佐脇 * (*~*1556)藤右衛門・藤左衛門。清洲斯波家家老。赤幌衆、前田利昌五男・佐脇良之の養父。信長の兄・織田信広の挙兵に際し、清洲城にて信広に害された。<公記では在命する様です。>

1556年4月「美濃遠征、斎藤義龍謀反、道三後詰戦(長良川大浦の合戦)」 出陣・織田信長。

×斎藤秀龍 (1494*1504~1556)長井利政・新九郎・左近大夫・規秀・入道道三。京都妙覚寺の僧・長井(西村)新三衛門の息。土岐家家老・長井長弘に父が出仕する。1525年土岐頼武、家老・齋藤利良を追放。1527年土岐頼芸を美濃国主に迎える。1533年長井長弘死去。1538年齋藤家を継承。1539年稲葉山城を拠点とする。1547年「加納口の合戦」。1548年朝倉・織田連合軍により和睦。1548年織田信秀と同盟し娘(濃姫)を信長の嫁に。1548年大桑城を襲撃し、頼武を討つ。1552年土岐頼芸を追放し国主となる。朝倉義景が美濃郡上郡に侵入、東常慶、一向宗安養寺の奮戦により撃退。1554年家督を嫡子・義龍に譲り鷺山城に隠居。1556年「長良川の合戦」で義龍に敗北する。道三側2700兵。63歳。稲葉良通の姉(深芳野)婿(義龍の母)。明智光継の娘(小見ノ方)婿(濃姫の母)。

土田秀久 (*~1556)土岐・明智・弥平次。東美濃衆。美濃国可児郡出身。生駒吉乃の夫。信長の生母「土田御前」の一門(信長の母・土田御前の甥)。信長の従兄弟。1556(弘治2)年「長山の合戦」に討死。<重要人物。明智とも繋がりがあるといわれています。><美濃の明智城救援に赴き戦死したともいわれていますが、実際どうなんでしょうね。>
美濃道三救援(森可成が負傷する敗戦)

山口 * (*~1556)取手助。信長馬廻衆。1556年美濃後詰に従軍。義龍軍との「大浦の合戦」に戦死。

土方 * (*~1556)喜三郎。信長馬廻衆。1556年美濃後詰に従軍。義龍軍との「大浦の合戦」に戦死。

1556年 岩倉織田伊勢守・信安が一色義龍と同盟し、信長と敵対。


1556年8月「織田信勝の反乱(稲生の合戦)」 出陣・織田信長、森可成、佐久間盛重、織田(菅屋)信辰。

×織田信時 (*~1556)喜蔵・安房守・秀俊。織田信秀の息(養子説も・実父信康)。織田信長の庶兄。村井貞勝と縁戚。家人・角田新五郎に討たれる。守山城主。<娘は池田恒興の養女となり、飯尾敏成(信宗の息)の室。のち下間頼龍の室という。><『公記』「利口なる人」>

×▽角田* (*~1556)新五・新五郎。守山党。守山城家老職。信次、信時の二代の家老。1555年丹羽氏勝を守山城に引き入れる。織田信時の両家老。織田信勝の末盛党と対立。のち1556年守山城主・織田信時(秀俊)に対して謀反。主・織田信時を自害させる。のち林秀貞に出仕。1556年織田信勝派。「稲生の合戦」に松浦亀介に討ちとられる。<織田信光の代からの家老ということでしょうか。坂井氏との対立から離反するという。>

<尾張弾正忠家宿老> 1556年信長の家臣団・那古屋衆分裂。

佐々成経 (*1527カ~1556)孫介・盛種。佐々成政の兄。織田信秀の馬廻衆。「小豆坂の合戦」に武功、小豆坂七本槍の一人。1556年織田信勝と信長の跡継ぎ争い「稲生の合戦」に信長側で柴田勝家勢と戦い、山田治部とともに討死。

山田 * (*~1556)治部左衛門。信秀の郎党。1556年織田信勝と信長の跡継ぎ争い「稲生の合戦」に信長側で佐々成経とともに討死。

林通具 (*~1556)美作守・通春。信秀の郎党。信長の筆頭家老・林秀貞(通勝)の弟。斎藤道三の戦死後、信長弟・信勝を擁立し信長に反抗。1556年「稲生の合戦」に戦死。<槍奉行・林家・・。><時期的に斎藤義龍、または今川義元の尾張勢力の調略によるものか?><入れ替わるように森可成が台頭。>

×鎌田 * (*~1556)助丞。織田信勝派。「稲生の合戦」に津田信重に討ち取られる。

×富野 * (*~1556)織田信勝派。「稲生の合戦」に高畠左京進に討ちとられる。

×山口 * (*~1556)又次郎。織田信勝派。「稲生の合戦」に木全六郎に討ちとられる。

×橋本 * (*~1556)十蔵。織田信勝派。「稲生の合戦」に佐久間盛重に討ちとられる。

<1556年~ 北尾張にて風雲。上四郡の支配者、織田信賢との対決。>

×織田信安 (*~1591)七兵衛・伊勢守。尾張国上四郡守護代。(1479年以降)丹羽・羽栗・中島・春日井の四郡。信長と当時並び称される「うつけ殿」。第四代・岩倉城主。1556年息・織田信賢に追放される。美濃白金に隠居。

×▽織田信家 (*~*1556)岩倉織田信安の息。兄・信賢と家督を争う。これにより北尾張の家臣団分裂。<信家方に味方した岩倉衆は織田信長に与力したか。>


×織田信勝 (*~1558)土田達成・勘十郎・武蔵守・建成・信成・(信行)。母、土田氏。織田信秀の息。1556(弘治2)年11月兄に叛心あり、柴田勝家の讒言により信長の命で黒幌衆の筆頭・川尻秀隆に誅殺される。津田信澄の実父。末盛(末森)城主。<親父殿から佐久間盛重、柴田勝家と織田家中きっての猛将を付属されているわりに津々木氏を重用する。><晩年は弾正忠達成を名乗り兄と対抗したようです。>

津々木* (*~1557)蔵人。織田信勝の側近となる。柴田勝家と対立。<織田信勝さんのお気に入りです。>

⇔佐久間* (*~1558*)甚四郎。1558年大高城を今川軍に奪取され、一族の多くが戦死。大高城主。<山口教継が大高城を奪ったことになっていますが、松平勢とも言われています。1560年には今川家の支城であることは間違いないです。><信盛の甚九郎と名乗りが似ていますから、山崎佐久間なのでしょう。>


1558年3月7日「北尾張、今川領侵略(品野城攻略)」 出陣・織田信長。

竹村長方 (*~1558)長七郎。尾張品野城の桜井松平家次と抗争。1558年3月家次の奇襲により敗北落城。尾張国山崎城主。<犬山の信清や、岩倉の信賢との最前線を支えて来た武将だったのでは?。>

▽竹村* (*~1558)孫七。長方の一門。尾張品野城の桜井松平家次と抗争。1558年3月家次の奇襲により敗北。戦死。<犬山の信清や、岩倉の信賢との最前線を支えて来た武将だったのでは?。>

松平家次 (*~1563)桜井・監物丞。桜井松平清定の息。信定の孫。尾張北東の品野城主。1545年父・清定、坂井(酒井)忠尚、榊原(大須賀?)長政とともに岡崎松平・広忠と抗争。1553年東条松平の松平忠茂と抗争。今川義元に訴える。1558年信長軍と抗争。1563年「三河一向一揆」に参加。<三河上野城が坂井(酒井)忠尚の居城で、品野城は桜井松平が今川の圧迫に尾張を追われた際に信秀により、国境よりに封じられたとかじゃないのでしょうか?、それから織田家を離反して今川に付属したと考えられます。家康により品野城主とされたというのは違うと思います。><親戚の織田信光が討たれた事でより織田家と疎遠になったことでしょう。>


1558年7月12日「岩倉挙兵(浮野の合戦)」 出陣・織田信清、森可成、中条、橋本。

×林 * (*~1558)弥七郎。「隠れなき弓達者」『公記』。1558年「浮野の合戦」に、橋本一巴と一騎打ち、負傷し佐脇良之に討たれる。<槍奉行・林家・・。>

×山内盛豊 (*~1558)但馬守・守豊。岩倉織田家の家老職。尾張羽黒郡の土豪。山内一豊の実父。1558年「浮野の合戦」に戦死。<じつは山内家はそれほど落ちぶれていないのでは?>

橋本一巴 (*)信長の鉄砲師匠。1558年「浮野の合戦」に武功。

1559年1~3月「北尾張統一戦(岩倉城攻囲)」 出陣・
<岩倉家譜代家老衆> 1556年一色義龍と同盟。

×▽織田信賢 (*~1559)左兵衛・伊勢守。信安の息(因幡守の息とも)。1556年父親(養父)・信安を追放して家督。1558年美濃国斉藤義龍と謀り織田信長を攻撃。1558(永禄元)年5月に第一次「浮野の合戦」織田信長勢(2000兵)、7月第二次「浮野の合戦」信賢勢(2000兵)、犬山信清の加勢を得た織田信長勢(3500兵)に敗れる。1559年落城し美濃へ落ち延びるという。<一時は尾張を二分して、北の信賢、南の信長だったんでしょうね。>

×織田信清 (*)犬山・十郎・十郎左衛門・下野守。信長の叔父、織田信康の息。美濃国境に領地があり、次第に独立する。家老に中島・和田。

×前野宗康 (*)前野家13代。岩倉織田家の家老職。織田信安の軍奉行。北畠信雄の家老・小坂雄吉(嫡男)、羽柴秀吉の臣・前野長康(次男)の父。1559年信長軍の攻勢により岩倉城から退去。

<美濃争乱>

遠藤胤縁 (*~1559)東遠藤家。遠藤胤好の息。遠藤常堯に暗殺される。

1560年 『信長公記』 「 人間五十年、下天の内をくらぶれば、
        夢幻の如くなり。一度生を得て、
滅せぬ者のあるべきか~ 」 ~ヾ(* ̄O ̄)ゞ”とて、「 螺(ほら)ふけ、具足よこせ!!(*`Д´)” 」と、
 御よろいをめし候て、御出陣なさる。 -太田牛一-
1560年三好家の松山・松永が伊勢に侵攻するという噂が流れ、伊勢の情勢が混乱。

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