織田軍その4 六道大軍団長(北畿東・西海道):惟住長秀・長重の家臣団と軍団
惟住長秀(丹羽長秀)の略年表と家臣団と軍団
織田信長の家臣団と軍団(街道六道御番役)、
地方方面軍・独立軍団軍団長、北畿東方面軍、のち南海道・四国御番役(予定。
信長直属・旗元馬廻衆旗頭{近衛軍}
織田家畿内動員主力軍 二大軍団のひとつ惟住軍大将。
織田信長の動員主力軍・他国衆軍団の旗頭。
「 長秀、当城加勢の為 唯今着陣せり。 急ぎ帰られ候へ. 」
- 惟住(丹羽)長秀 -
<惟住長秀の所領は他の軍団長に比べ少なく出世に遅れを取った武将だという評価は、江戸徳川史観に脳内を汚染された視点からの武将評価だと思います。
織田政権では安土城の普請を一手に引き受ける屈指の財力を持ち、室町幕府四職家一色氏の富裕の源と呼ばれた所領を引継ぎ、織田家が推進した茶器が一国に値するという「茶の湯政道」を牽引し、経済の価値観を土地から違うもの(貨幣)へと変換しようとしていた、織田家の政治(近世への脱皮)を無視した歴史の見方だと思います。
織田弾正忠家が何を掌握して「天下」に上り詰めたか、今一度基本に戻って考えたほうが良いのではないでしょうか。「津島」で信定、信秀が夢見たもの、斎藤道三から信長が引き継いだ事、上洛して一番に手に入れた「都市」の存在を何故忘れてしまうのでしょう。歴史の授業で習う「楽市楽座」はどこへいってしまったのでしょう。
結局、徳川幕府が土地に縛り付ける、中世の封建制度に引き戻してしまい、「石高」基準の現在の石頭な思想へと、歴史家を縛り付けている気がします。「大航海時代」の日本はもっと自由な発想なんじゃないのでしょうか?。織田家の武将の「江戸時代的石高評価」、改めるべきでは?。>
丹羽家の本貫は春日井郡児玉と伝わる。
惟住長秀(丹羽長秀)の略年表 (1535~1585)
略年表 若狭国守護(日本海海運奉行)・四国方面軍副将(神戸信孝を後見する役割)。
<織田家の軍団長の中でも、なぜか評価の低い長秀さんの事績を再検証しようと独自にコメントを加えています(紫色文字)。『信長公記』を読んで、美濃攻め頃からは長秀さんこそ「最も活躍している武将である」といっても過言ではないと思いました。江戸時代から昭和にかけての史学者の解釈次第で歴史は大きくねじまがってないでしょうか。この年表を見て私の言ってることがおかしいと思われた方。どうぞいろんな史料や原典をあたって検証してみてください。その先にきっと真実があると思います。そして長秀さんの歴史的な認識が未来に向って変わって行けば幸いです。>
<「尾張半国、当方(今川)分国。」斯波義達の敗戦により今川那古屋家の支配。>
<岩崎丹羽家はもともと、親今川派なのでは? というか今川家臣・・。織田弾正家も津島の奉行就任時期が・・。
知多・海東郡守護一色家が土着し、岩崎丹羽(一色)家の祖となるか?、丹羽家代々の官位名が通じるようにも思えます。
児玉丹羽家の丹羽長秀の家紋、筋違いや松皮菱は相模・波多野(松田・秦野)氏系統、もしくは南朝新田党の武家の家紋のようです(室町幕府に従う幕府官僚の松田氏は幕臣として高位にある家柄)。また、越中守護・桃井氏の守護代にも丹羽氏ありです。
丹羽長秀の祖が三河守護一色家に通じるものと仮定すれば、関東公方の側近の一色家が関東での婚姻縁戚で相模松田氏(相模松田氏は後北条家の宿老でもあり、)と結び、関東公方家臣団滅亡後のち将軍・義教の追討から、三河一色家に匿われて土着したものだったらおもしろいなと思いました。
一色重臣・牧野古白と戦った、同僚の波多野(秦野)全慶と関連すれば更におもしろい(秦野氏は源ノ義家に従った源家累代の武家。*注:頼朝挙兵には従わなかった)。
尾張・三河・北伊勢の武士を語る上では「享徳の乱」の関係者子孫の動きが重要なのでは。
岩崎丹羽・児玉丹羽の両家が一色党とすれば、水野や西郷・石川・牧野家は元・家老家で、知多郡守護(幕府政所)伊勢家の家司・松平とは敵対関係かと。また酒井家が東美濃の東(千葉)家と関連するなら、千葉を祖とし上野酒井家臣の大須賀氏もあり、新旧の諸勢力により政情が混沌として、主筋の敵対関係やらが連鎖し筋目としての対立も有り・・。
古く、源ノ義家からの武門の流れが錯綜し、いろんな妄想が掻き立てられるものであります。>
(1535)尾張国春日井郡児玉出身。
16歳(1550)天文19年 この頃から信長の直臣になる。信長17歳。
17歳(1551)藤島城主・丹羽右馬充氏秀が、本家の岩崎丹羽氏清、氏職(氏勝)親子と対立。岩崎表「横山の合戦」に織田軍が敗北。氏秀親子は三河国広見城・中条秀政を頼り落ちる。<信長家臣となった時期と奇妙に符号します。人質として信長側近となったのでしょうか。岩崎丹羽家とは決定的な敵対状態で、織田信長の初敗北という抹消したい過去にも繋がり、同族とは言えない状況かもしれません。>
18歳(1552) 「萱津の合戦」
21歳(1555) 「清洲城攻囲」奪取
22歳(1556) 「稲生(原)の合戦」
26歳(1560) 「桶狭間の合戦」
27歳(1561) 5/13:対斎藤家美濃国乱入、「堂洞砦(城)攻囲」。<美濃攻めに部隊長として頭角を現す。>
(1563・64)年 永禄7年から尾張犬山城主・織田信清が斉藤龍興側に離反するが、
支城の小口城(中島豊後)、黒田城(和田新介)を長秀が調略する。<織田信広の娘と婚姻、信長一門となる。>
31歳(1565) 東美濃「猿啄城攻略」、「堂洞城奪取」に殊勲。川尻秀隆、木下秀吉とともに軍功。
<部隊長として頭角を現した同世代の木下秀吉と二人三脚。>
32歳
33歳(1567) 8/*~9/*:美濃「稲葉山城攻略」。北伊勢侵攻、滝川一益の軍団成立。
34歳(1568) 9/7:佐久間信盛、木下秀吉、蜂屋頼隆とともに南近江乱入。9/12:箕作城奪取に先陣。六角氏攻めに勲功。村井貞勝・惟任(明智)光秀・羽柴(木下)秀吉と京都の奉行。10/*:村井貞勝とともに近江の一部にて検地を実施「橋本左右神社文書」。
35歳(1569) 京都にて松井友閑とともに「名物狩り」実施。8/20:木下秀吉、蜂屋頼隆等とともに伊勢国乱入。9/*:稲葉、池田とともに夜襲をかけるが敗退。10/3:伊勢北畠氏の「大河内城攻囲」、「南伊勢」を奪取。
36歳(1570) 4/20:越前侵攻。浅井の離反により敗退。
光秀とともに派遣され若狭国・武藤上野から人質を確保。<明智光秀というライバル出現。>6/28:木下秀吉、蜂屋頼隆とともに対朝倉・浅井家「姉川の合戦」。横山城に秀吉城番。佐和山の磯野員昌と対陣。9/*:佐和山城にて本願寺に内通した近江の高宮右京亮誅殺。11/*:長秀、瀬田に舟橋を架橋。
「景清あざ丸」の刀の呪いで眼病を患う。
北畿(東)方面担当。 対 北近江、若狭、越前方面。
37歳(1571) 1/*:明智光秀、志賀郡配領。2/*:近江佐和山城主・磯野員昌の降伏。2/24:佐和山城入城。佐和山城・犬上郡5万石拝領。摂津中島城攻囲。5/12:伊勢長島一向一揆攻囲。9/1:近江小川、志村城奪取。9/12:比叡山「延暦寺焼き討ち」。嫡男誕生。<北畿(東)方面軍、成立か。>
1573年頃:北畿(東)方面軍。<長秀・一益の軍団は1582年の結果を見るより、歴史としてそれまでの経過をみていくべきかと。>
38歳(1572) 3/11:近江木戸、田中城奪取。対毛利水軍鉄甲船建造着手。
7/*~9/*:木下秀吉、蜂屋頼隆、武藤舜秀とともに北近江出陣。<秀吉改名、木下秀吉は丹羽長秀の与力だったんじゃないですか?だから「羽」を頭文字にしての羽柴秀吉では?。>
39歳(1573) 2/*:将軍・義昭謀反。近江、石山・今堅田の二城に籠城。2/24:柴田・明智・丹羽・蜂屋の鎮圧軍出陣。佐和山城の巨大船にて坂本に移動。信長上洛、のち巨船は鈍足の為に早舟に解体改修。4/3:上京放火、柴田・蜂屋・中川・佐久間・明智・長岡・荒木軍。7/18:羽柴秀吉、蜂屋頼隆、多賀(貞能or 常則)とともに山城「槙島城攻囲」。8/10~:浅井・朝倉討伐。義景母、義景息(阿君丸)の捜索を担当。浅井・朝倉滅亡。9/*:若狭国領有(織田家初めての国持ち大名)。敦賀・武藤舜秀、江北三郡・羽柴秀吉・阿閉貞大・新庄直頼・堀秀村・宮部継潤、多賀氏。高島郡・磯野員昌。<北畿(東)方面軍、拡大か。>9/24:羽柴秀吉、蜂屋頼隆とともに北伊勢一揆殲滅。
織田信長の動員主力軍・他国衆軍団 旗頭
40歳(1574) 1/*:越前一向一揆蜂起、織田家前線を敦賀・武藤舜秀が対処。<北畿(東)方面軍、稼動。>3/28:東大寺「蘭奢待」奉行。7/13:木下長秀(羽柴秀長)、蜂屋頼隆とともに伊勢長島一揆殲滅。
41歳(1575) 4/*:石山攻囲。5/21:対武田家「長篠の合戦」に羽柴秀吉とともに出陣し勝利する勲功。<北畿(東)方面軍、稼動。> 7/3:「惟住」姓拝領。8/15:越前一向一揆殲滅。羽柴秀吉、不破光春、丸毛長照、武藤舜秀、蜂屋頼隆、津田信澄が従軍。<北畿(東)方面軍、若狭水軍、稼動。浅井旧臣の磯野、阿閉も従軍した様子。>若狭国完全拝領。柴田勝家、簗田広正、塙(原田)直政の方面軍・遊撃軍成立。
42歳(1576) 1/*:安土城築城 開始。「惟住五郎左衛門に仰せ付けらる。
-(中略)-尾(張)・(美)濃・伊(勢)・三越(同盟国の越後・越中・越前)・若狭・畿内の諸侍、京都・奈良・堺の大工・諸職人など召し寄せ(略)」『信長公記』
<北畿(東)方面軍、稼動。天下の「安土城」普請が戦争に匹敵する事業ならば、佐久間信盛に匹敵する七カ国に動員をかける(与力を率いる)旗頭となります。全国から広く人材が求められ、常備軍に必要な浪人や人夫が採用され、家臣団が強化されたのではないでしょうか。>
5/*:石山城攻囲、佐久間信盛軍団成立(南畿西方面軍)。8/8:加賀乱入。<越後上杉謙信との関係悪化。>丹羽(惟住)長秀、瀧川一益、羽柴秀吉、柴田勝家の北陸方面軍の後詰出陣。<北畿(東)方面軍、稼動。>
<羽柴秀吉の戦線離脱は、長秀の中国方面を憂う判断と、戦線離脱の許可があっての播磨方面への抜擢かと推測されます。(墨俣の合戦ような、秀吉賛美の脚色か?)>1576年9月対・上杉戦「手取川の合戦」敗走。後幸塚・大聖寺に築城。佐久間盛政が守備。
43歳(1577) 若狭小浜城に本拠を移す<対・上杉>
2/*:紀伊「雑賀一揆討伐」に羽柴秀吉、武藤舜秀、蜂屋頼隆とともに出陣。<北畿(東)方面軍、西域に派遣。>10/10:織田信忠に従い、羽柴秀吉とともに大和多聞山城攻略。<織田家の主力軍として信忠の畿内平定に従軍(準近衛軍化)。>
44歳(1578) 4/4:蜂屋頼隆とともに摂津石山城攻囲。4/10:丹波に遠征し「薗部城攻囲」。4/29:羽柴秀吉、蜂屋頼隆、武藤舜秀とともに播磨乱入。7/15:但馬に遠征し、のち播磨「神吉城攻囲」。11/10:織田信忠とともに摂津出陣。羽柴秀吉、蜂屋頼隆、武藤舜秀とともに荒木村重の「有岡城包囲」。
45歳(1579) 武藤舜秀死去。
46歳(1580) 3/9:加賀一向一揆殲滅。若狭高浜城主の逸見昌経死去。 溝口秀勝、信長直参抜擢。本願寺退去後の石山城主。摂津国の戦後処理を、近江高島郡の領主・津田信澄とともに奉行。<摂津(石山)に軍事拠点(大阪城の原型)を設営か。>北畿(東)方面軍(準近衛軍)が摂津表を担当し、南畿・南海道方面に転換拡大。<元・北畿(東)方面軍(現・準近衛軍)、西域に拡大、この時点で惟任光秀の北畿(西)方面軍が出遅れ。>
47歳(1581) 2/28:京都馬揃え 惟住長秀が織田家武将の筆頭。「一番隊(若狭・摂津衆「準南海道方面軍」)」。『公記』に「左衛門尉」。「二番隊(河内・和泉・紀伊衆「準南海道方面軍」)」は副将・蜂屋頼隆が率いる。7/7:長浜城下にて越中木舟城主・石黒成綱親子誅殺。7/17:佐和山城にて越中願海寺城主・寺崎盛永親子誅殺。9/3:伊賀乱入、筒井順慶、蒲生賢秀、多賀貞能、京極高次、若狭衆を率いる。名張郡を鎮圧。
48歳(1582) 3/5:信濃・甲斐乱入。「上野国・草津温泉での湯治」を許可される。5/14~20:徳川家康、武田信君饗応。6月大阪城本丸駐留。津田信澄は千貫櫓、三好信孝は和泉堺に駐留。
<四国征伐に影響を及ぼすであろう細川家の遺臣達と、四国の要所。>
<渡海前の織田家諸将の担当域>
49歳 柴田勝家を破る。
<いつの頃から、自身を襲う「胃腸の石(ガン?)」の病魔に気がついていたのでしょうか・・。南海道の方面軍に配属となったのも「死に華」を咲かせる為の戦場(いくさば)を志願してかもしれませんね。
惟住長秀(丹羽長秀)の家臣団と軍団
記号凡例 ○信長与力(目付) ▽子息・家臣・陪臣 織田信忠(1555~1582)世代 ・次世代 ※家臣ではない
惟住長秀 (1535~1585)丹羽長秀・万千代・五郎左衛門尉・「鬼(米)五郎左」・越前守。元斯波家家臣、丹羽長政の息。母は織田信秀の娘(能呂氏とも)、自身は織田信長の妹婿(織田信広娘とも、養女か)(1563婚姻)。熊野水軍の将・杉若無心の娘婿。1570年若狭国、武藤友益征伐の口実から越前に侵攻。1571年近江佐和山城主。1575年に惟住姓。のち若狭国小浜城主。石山本願寺降服後、大阪城本丸に駐留。1582年変後、秀吉に協力し惟任光秀を倒す。越前・若狭・加賀二郡123万石を領する。息に長重、長正、(羽柴)高吉、(蜂屋)直政、長紹。<左衛門尉の「尉」が官位としてポイントなんじゃないでしょうか、7カ国の与力を従えた佐久間(右衛門尉)と、7カ国に動員力を持つ惟住(左衛門尉)の双璧が、当時の織田家最大の動員を誇る軍団だったりしないのでしょうか。><無職者(浪人衆)を安土普請で採用したり、秀吉の川並衆採用のような手法で、常備軍の人材も集めていたのでは?。丹羽家に人材が多いのは安土普請効果なのでは?。><惟住の姓ですが、藤原摂関家の家司で北近畿を支配し頼朝にも重用された惟宗(島津)忠季に由来するものでは。長宗我部・神保も近衛家司ということで、「取次ぎ」をするために「惟」の字が与えられたのかもしれませんね。織田家を利用しようとする近衛前久の理想がのしかかっているのかもしれません。><幌衆の「織田越前守」、1585年当時に丹羽長秀が織田家との縁戚を強調して「織田越前守」と一時名乗ってれば、当時の人が記録に長秀=「織田越前守」と書いたりしないかな?(妄想。><兄である丹羽将監が越前守を与えられたとも>
丹羽長忠 (*)将監・越前守。春日井郡稲生村の豪族。元・斯波家家臣、丹羽長政の息。丹羽長秀の兄弟。早世する。<兄がいたようです。兄弟間の家督の件では、前田利家と同様の手法で、信長様側近の長秀が、嫡流・長忠を廃し家督を相続したというパターンでしょうか。>
▽丹羽秀重 (*~1615)惟住・九兵衛尉。元斯波家家臣、丹羽長政の息。長秀の弟。大阪平野口にて戦死。<はっきりした事績が残されていません。縁の下の存在・長秀さんの、更に縁の下な存在の人かもです。>
▽丹羽長重 (1571~1637)惟住・鍋・五郎左衛門・加賀守。惟住長秀の嫡男、信長の娘婿。1585年父の死により家督を相続。秀吉の「佐々成政征伐」に軍規を乱し、若狭15万石に減封された。弟に長正、長紹。息に光重。<前田利長は信長の婿どうしでライバル。>
<1551年岩崎丹羽家の分流で信長と同盟を結び、惣領の丹羽氏織と抗争した丹羽氏秀という人物がとても気になります。彼を救援するため出陣した織田信長が初の敗戦を味わったとも・・。> <そこで想像を膨らませてみたのですが(笑)、1551年信長様17歳の頃の同盟者の藤島・丹羽氏秀親子が尾張を追われ、人質となった弟(長秀16歳)が信長様の側近として台頭するも、本家の岩崎丹羽家とは敵対関係で一門から勘当されているので、系譜は児玉党に出自を求め、両方の系図からつながりは削除される。春日井郡は信長時代に与えられた所領だったりしないでしょうか。岩崎丹羽氏勝が1580年に追放されるのも、1551年に織田信長が敗北したという、この宿縁によるものだったり・・。過去を消すには惟住という姓の方が都合よかったのか。そういうストーリーがあると面白いですねえ~(妄想。>
<惟住(丹羽)長秀の一門(連枝衆)>
*縁戚
○*↓山田高定 (*)修理。斯波氏旧臣。尾張衆。惟住(丹羽)軍団所属。惟住(丹羽)長秀の娘婿。溝口秀勝とともに家老職。<山田家は美濃源氏の系統で鎌倉時代から美濃・尾張に勢力を持つ名族。織田信忠の弓衆・山田勝盛も一族か。><清洲の若武衛さん付きで、武衛(斯波義統)様襲撃事件を生き残るか。><上杉家・河田長親配下の越中豪族に山田修理進(修理亮)あり。1580年頃織田家に降服。ややこしや。>
*↓浅見忠実 (*)宮内少輔。浅井長政旧臣、近江(佐和山)衆。惟住(丹羽)長秀の妹婿。<京極家に仕えた浅見家は元、浅井家と同格もしくはそれ以上の有力豪族。長秀さんにとって、北近江・佐和山支配の重要人物かもです。><一族の大学助・景親は柴田勝家の配下。>
*↓青山宗勝 (*1561~*1600)助兵衛・修理亮。尾張衆。惟住(丹羽)長秀の娘婿。惟住(丹羽)軍団所属。4万6千石。関ヶ原に没落。のち越前丸岡城主。<信長の那古屋城の時代の四家老のひとり、青山与三右衛門は一門か。><息子・虎(忠元)は信長様の小姓ということで、年齢構成がおかしいです。弟を養子としていたのでしょうか?虎は1578年正月に矢部・大津とともに重臣に杯と酌をふるまっています。1580年には本願寺への使者を務めているのです。>
*⇔※○古田重勝 (1560~1606)彦三郎・大膳大夫・兵部少輔・信勝・重恒。美濃出身。羽柴秀吉の与力・古田重則の息。丹羽長秀の娘婿。父・重則は1579年8月播磨三木城攻撃に戦死。近江日野城主。のち伊勢松坂5万5千石を領する。<※直臣ではない。なのでここにいていいのか微妙です~><惟住軍団と羽柴軍団のただならぬ縁戚関係です。>
*↓粟屋勝久 (*)越中守。若狭衆。若狭武田元明・四家老のひとり。惟住(丹羽)軍団所属。守護・武田義統と対立。朝倉家の越前侵攻に最後まで抵抗。丹羽長秀の娘婿。佐柿国吉城主。<長秀さんにとって若狭国支配の重要人物のようです。>
*種橋* (*)斯波家家臣。丹羽長秀の娘婿。<戦国時代に東北の斯波家から尾張斯波家に流れてきた武将もいるということでしょうか。>
種橋成章 (*~1572*)藤十郎。斯波家家臣。のち丹羽家家臣。比叡山攻略に戦死。息に一章、大膳、成吉。<自分の身代わりとなった成章の討ち死にに応えて息子を一門に迎え優遇したとかでしょうか。><1543年に東北の芦名家で戦死した種橋藤十郎あり。子孫が尾張に流れてきたのでしょうか。>
種橋* (*)大膳。丹羽家一門衆。<芦名盛隆の側近だったらしいです。暗殺現場にいて、犯人を撃ち仇をとったらしいです。徳川家の植村さんのような事績です。>
種橋一章 (*)惣兵衛。丹羽家一門衆。成章の息。息に外記・重成。重成は1643年の二本松移封に従う。<ご子孫が系図をお持ちのようです。>
種橋成吉 (*)孫三郎。丹羽家一門衆。成章の息。
*赤田 堅 (*~1593)渡辺堅・隼人正。近江源氏・渡辺綱の子孫。赤田保地頭家。元・浅井家家臣。浅井氏家臣の信濃守・姓の息。丹羽長秀の娘婿(丹羽長紹の同母)。惟住(丹羽)軍団所属。のち丹羽長秀の家臣。<伊勢の豪族の赤田氏は分流か。浅井家臣の(越後赤田荘系)赤田隼人正・(源ノ)隆が浅井方で「姉川の合戦」に参戦。犬上郡の豪族。小谷籠城戦に参加し戦死。八町城主。息に堅(秀吉家臣1593年没)、信濃守・興。この隼人正は赤田堅のことを指すか。>
*松原* (*)伊賀守。越前の豪族。丹羽長秀の妹婿(丹羽長政の娘)。<松原直元との関係不明、同一人物か。↓><美濃の斎藤道三の家臣に松原義保という人物がいますが・・、一門か。>
⇔松原直元 (*)五郎兵衛・「鬼松原」。佐々隼人・政次(1560年没)の娘婿。甥に佐々清蔵(1582年没)。のち佐々成政家老。肥後入植にて国人の掃討に軍功をあげ「鬼松原」と呼ばれる。のち秀吉に出仕。のちに佐々政次の孫・重勝を養子に迎える。<三善一守と同一人物説もありますが、もとから越中国人とは考えられないので丹羽家改易後に佐々に転仕して現地で三善家と縁を結んだのでしょう。>
《個人的感想》 徳川の世に、丹羽家が元々は斯波家家臣との伝承を基に、東北の斯波家を意識しての、東北への配置換えが行われたのでしょうか。
最上や、大崎の家臣団を、斯波の縁で、丹羽家が受け皿として浪人を引き取る事もあったのでしょうか・・。
惟住長秀:対→ 斎藤道三、義龍の家臣団 六角義賢の家臣団 三好長慶(範長)の家臣団 浅井長政(賢政)の家臣団 <主力軍(西翼)稼働期> 長宗我部元親の家臣団
<丹羽(惟住)長秀の御由緒家>
*縁戚
※⇔↓*○蜂屋頼隆 (1534~1589)蜂谷・般若介。美濃衆。信長の元黒幌衆のひとり。丹羽長秀の妹婿。和泉国の軍団長。四国平定軍の副将格。<なのでここにいていいのか微妙~。幌衆の中では一番長秀さんと相性が良いのかもしれませんねえ。または、瀧川一益にとっての川尻秀隆、柴田勝家にとっての佐々・前田のような監視役かもしれません。><元・大津長昌の妻を嫁に貰う。><遺領を継承する、大谷吉継とどうつながっていくのか。まったく縁はないのか、謎の深い人物です。>
⇔※*大津長昌 (*~1579)伝十郎・長治。信長の側近<※直臣ではない。なのでここにいていいのか微妙~>。丹羽長秀の妹婿。荒木攻略の陣中にて病没。<岩室長門守さんにつづいて失った信長様の信頼する側近さんでした。長秀さんにとっても痛手。><大津殿は堀秀政さんを養育したらしいです。ちゃんと後継を育てていたという・・。>
⇔※*伊木忠次 (*不詳)香川・長兵衛・清兵衛・豊後守。丹羽長秀の娘婿。池田軍団所属。斎藤氏の旧臣。美濃国伊木山城主。織田信長に出仕し、伊木姓を賜う。のちに池田恒興に仕える<※直臣ではない。なのでここにいていいのか微妙~>。池田家の別働隊・池田元助に属し、四国征伐に従軍予定カ。のちに三木城37000石を領する。<四国渡海ともなれば、池田元助隊とも相性ばっちりです。>
⇔※*稲葉典通 (1566~1628)虎・彦一・能登守。稲葉嫡流・稲葉貞通の息。母は斎藤道三の娘。丹羽長秀の娘婿。父の手に属して信長馬廻衆<※直臣ではない。なのでここにいていいのか微妙~>。5万石。息に一通。<四国征伐に従軍予定カ。信忠軍団として東に配置される稲葉直政と対照的に、西に配置される稲葉となれば面白いですねえ。>
※⇔杉若無心 (*)藤七・越後守。紀州の豪族。熊野水軍を率いる。惟住長秀を娘婿に迎える。1585年秀吉の紀州征伐に従い軍功。19000石。息に杉若氏宗。孫に丹羽(藤堂)高吉。<1581年熊野別当の堀内氏善が織田家に従うので、その頃臣従か。息子(藤堂)高吉が1579年生まれということは1578年には縁戚関係・・。><越前の杉若氏という説もあります。先祖が越前とつながっているなどでしょうか。紀州に地縁のないよそ者が、支配者としていきなり熊野水軍を率いることができるのでしょうか。元々紀伊在地の武将なのでは?水軍衆なので越前三国湊ほか各港に一族が番屋をもっているのでは。><※直臣ではない。なのでここにいていいのか微妙~>
堤 教興 (*)権右衛門尉。越前衆。妹婿に丹羽長秀。甥に丹羽長正。孫娘は青山宗勝の室。<大和守清洲衆の戦死者に堤氏あり。一族か?。伊勢神宮の外宮御師にも織田家と親しい堤氏あり。><越前朝倉氏家臣の堤氏とも。杉若・堤とも、斯波氏の部将として織田家とともに尾張国に下向したのでは?。越前に残存した一族もあり、そのような噂が残っているのではないでしょうか。更に丹羽氏が越前に領地を得たことで、故地に帰還して越前出身の武家になっているのでは。>
丹羽長秀の軍団、初期与力(寄騎)衆
1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲。
近松 * (*~1569)豊前守。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<近江近松と関連有りでしょうか。>
神戸 * (*~1569)伯耆守。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<北伊勢衆でしょうか。光明寺城主とも。>
神戸 * (*~1569)市介。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<北伊勢衆でしょうか。神戸伯耆の一門か。>
山田 * (*~1569)大兵衛。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<尾張・美濃源氏の山田氏子孫か。もと斯波氏家臣・山田高定の一門か。>
寺沢 * (*~1569)弥九郎。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。息に甚右衛門。<織田重臣、寺沢又八の一門か。><羽柴秀吉与力の寺沢広政の一門か。><坂井家と縁戚関係にあるようです。>
溝口 * (*~1569)富介。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<丹羽長秀家臣から信長様直参となった溝口秀勝の一門か。>
斎藤 * (*~1569)五八。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<斎藤長龍の系統か、斎藤利三の系統か・・。>
古川 * (*~1569)久介。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。
河野 * (*~1569)三吉。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<稲葉氏と関連する河野氏か。>
金松 * (*~1569)兼松・久三衛門・久左衛門。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<信長様旗元の英雄・兼松正吉の一門か。>
鈴村 * (*~1569)主馬。丹羽家与力。1569年伊勢北畠氏の大河内城夜襲に丹羽長秀攻め口に所属し戦死。<鈴木・主馬允とも。>
人材の宝庫、長秀の軍団。甲州攻めに織田信長本軍。
<丹羽(惟住)長秀の内衆・(尾張)譜代家老衆、長秀の旗元(旗本)>
成田道徳 (1526~1588)弥八郎・弥左衛門・重政・(義金?)。惟住(丹羽)家家老。2万7千石。丹羽家減封に羽柴秀吉を罵倒する。のち勝山城主。<のち反秀吉に動き処罰される。織田家宿老・丹羽家家臣としてのプライドか。><勝山城は柴田家一門・柴田義宣の養子となる柴田(佐久間)勝安の跡、越前に入封した丹羽長秀家臣・成田義金が城主。なにか血縁関係があったのでしょうか。><ちなみに次ぎの城主は長谷川秀一。>
▽成田三章 (*)新九郎。道徳の息。息に道利、定好、三成。<種橋さんと名が似ています。「章」の字も丹羽家の特徴か。>
▽成田正成 (*~1622)庄次郎・弥三衛門・兵庫・重忠。道徳の息。息に正貞。
寺西正勝 (*~1600)次郎介・筑後守・景成。惟住(丹羽)家家老。長秀の死後、秀吉直参に出仕。1584年稲葉重執とともに津田宗及茶会に列席。1万石。息に寺西是成。
▽寺西是成 (1557~1619)下野守・清行・忠澄・入道吸庵。正勝の息。1585年父とともに秀吉直参。1600年父の死により家督。加賀小松城主。
江口正吉 (*~1603)伝次郎・三郎右衛門。惟住(丹羽)家家老。1582年清洲会議後の長秀の京都所司代。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。長秀死後、長重を支える。1600年前田軍を撃破。のちに結城秀康に出仕。1万石。息に正信<文武に丹羽長秀に信頼されていた様子です。><丹羽長秀の家中でも、坂井に比べ若手の武将。>
▽江口正信 (*)三郎右衛門。
戸田勝成 (1557~1660)半右衛門・武蔵守・重政・勝重。惟住(丹羽)軍団所属。羽柴秀吉古参の臣・戸田勝隆の弟。長秀の死後、秀吉直参に出仕。2万石。<信長様により兄が秀吉に与力として付属させられているので、弟は長秀に与力として付属させられたと考えてもよいか。><前田利家に信長の幌衆選定の事を質問したのはこの世代の人物だから?><父の名が不明。幼い家康を売りさばいた三河の戸田氏の一門か。。>
*↑青山宗勝 (*~*1600)助兵衛・修理亮。尾張衆。惟住(丹羽)軍団所属。長秀の娘婿。4万6千石。関ヶ原に没落。のち越前丸岡城主。息に正次、忠元、長勝。<息子・虎(忠元)は信長様の小姓ということで、年齢構成がおかしいです。1561年生まれは虎なのでは?。もしくは弟を養子としていたのでしょうか。虎は1578年正月に矢部・大津とともに重臣に杯と酌をふるまっています。1580年には本願寺への使者を務めているのです。><青山氏も先祖が不明。三河の青山忠門・忠成親子は一門でしょうか。>
▽青山正次 (*)宗勝の息。弟に信長の小姓の「虎」・忠元。
▽青山長勝 (*)丹羽・助兵衛。宗勝の息。兄に信長の小姓の「虎」・忠元。
上田重元 (*~1573)甚左衛門・甚右衛門。丹羽家家老・上田重氏の息。弟に重光。早世により祖父・重氏が重安を後見。
▽上田重光 (*)重氏の息。丹羽家家臣。重元の弟。
▽上田重安 (1563~1650)(武田)・亀丸・左太郎・主水正・宗笛。尾張出身。重元の息。従兄弟に重道。惟住(丹羽)軍団所属。庭匠の才あり。1582年「変」の勃発後、津田信澄を討取る軍功、文武の臣。1万7千石。長秀死後、秀吉に出仕。関ヶ原に西軍に属し失領。のち蜂須賀、浅野家に出仕。息に重秀。
<丹羽(惟住)長秀の軍団・尾張与力衆>
○*↑山田高定 (*)修理。斯波氏旧臣。尾張衆。惟住(丹羽)軍団所属。丹羽長秀の娘婿。溝口秀勝とともに家老職。息に正次。<山田家は美濃源氏の系統で鎌倉時代から美濃・尾張に勢力を持つ名族。><清洲の若武衛さん付きで、武衛(斯波義統)様襲撃事件を生き残るか。><上杉家・河田長親配下の越中豪族に山田修理進(修理亮)あり。1580年頃織田家に降服。姓と官位が同じ人物が織田家にいることになります。ややこしや。>
⇔○奥山重定 (*~1594)佐久間・弥太郎・佐渡守・盛昭。佐久間盛重の息。尾張愛知郡五器所村出身。元・信長馬廻衆(1567~1569年間)。惟住(丹羽)軍団所属。1560年「桶狭間の合戦」に軍功。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆。のち丹羽長秀の家老(与力か)。1585年5月丹羽長重の国替えにより、太田一吉とともに秀吉直参に。1万1千石。家督は次男・雅楽助正之が継承する。佐久間(奥山)正之は関ヶ原に西軍に属す。<信長様から与力として配置されるか。>
⇔○村上頼勝 (*~1604)政之助・次郎右衛門・周防守・義明。惟住(丹羽)軍団所属。長秀の譜代家臣。養子に堀秀政の息と、戸田忠勝。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。塩津湊を守備。のち秀吉に従い加賀国能美郡65000石。<柴田勝家軍団の与力として柴田軍団にあり小松城主となるという説にはなんとなく違和感があります。陪臣として徳山則秀の留守居を務めているところで柴田軍が秀吉に敗北し、北上してきた秀吉軍団の丹羽長秀軍に降服しそのまま臣下に加わったというのが、しっくりくるような・・。ということは徳山氏の家臣か?。>
▽村上忠勝 (*~1623)戸田義国・次郎右衛門・周防守。頼勝の娘婿・戸田(内記)氏繁の息。村上頼勝の養子。惟住(丹羽)軍団所属。9万石。のち小松城主。<地味に勢力のある戸田一族。><頼勝は養父・義明さんの名前のようです。>
⇔安食定政 (*)弥太郎。元・織田信長直参。惟住(丹羽)軍団所属。1560年「桶狭間の合戦」に武功。1567~69年頃の馬廻衆。のちに長秀の与力。1584年太田一吉と連名で越前奉行。<春日井郡山田荘安食出身カ?であれば太田牛一と同郷。>
⇔平子種吉 (*)弥伝次。種豊の息。織田家尾張代官。菅屋長頼家臣、のち丹羽長秀家臣。
⇔○溝口秀勝 (1548~1610)竹・竹丸・金右衛門・伯耆守・定勝。尾張中嶋郡溝口の豪族。溝口勝政の息。惟住(丹羽)軍団所属。幼少より長秀に出仕。1581年若狭国にて逸見昌経の跡職を相続。5000石。信長の希望で信長直参武将に昇格する。若狭高浜城主。6万石。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。海津湊を守備。<信長様から信長直臣の与力大名として再配置されるか。><伊勢大河内城攻撃に丹羽長秀手勢で戦死した溝口富介あり。><「本能寺の変」に武田元明とは組していなかったようです。>
▽山庄 * (*)山荘・喜左衛門。丹羽長秀家臣。若狭在番。溝口秀勝の与力。1582年秀勝とともに若狭国衆軍の旗頭。
<丹羽(惟住)長秀の軍団・美濃衆>
○青木重直 (1528~1613)加賀右衛門・刑部卿法印。美濃の出身。元、土岐頼芸、斎藤道三の家臣。織田信長に出仕。息に青木一重。
⇔▽青木一重 (1551~1628)(渥美)・忠助・所右衛門・重通・民部少輔・宗佐。美濃斎藤家臣・青木重直の息。一重は元・今川家家臣。今川のち徳川、丹羽、羽柴・豊臣、徳川に出仕。1570年「姉川の合戦」に真柄十郎を討取り功名。惟住(丹羽)軍団所属。1584年4月長秀の死により秀吉に出仕。摂津豊島に所領。1万石。<槍先に生きる。><羽柴家の青木一矩とは別系統のようです。><同じ青木姓の正玄も武辺者で原長頼、中村一氏、蒲生氏郷に出仕。><三河(横須賀衆)の渥美一門と深い係わりがある様子です。>
大島光義 (1508~1604)甚六・鵜八・雲八・光吉。美濃出身。光宗の息。元・斎藤氏家老・長井氏の家臣。武市通春の娘婿。1512年父の死により家督。大杉弾正に養育される。のち織田家に仕えて美濃関城主。信長直参として1582年近江に所領。「本能寺の変」のち丹羽家家老。弓頭、1万1千石。息に光成、光政、光俊、光朝。娘婿に蒔田弘定。
▽大島光成 (1539*1559~1608)次右衛門・光安。光義の息。兄弟に光政、光俊、光朝。丹羽長秀の家臣。本能寺の変後も長秀に従う。7千石。息に光親。養子に吉綱。
▽大島* (*)新八郎。1582年信長より南近江に所領を与えられる。
▽大島光政 (1565~1622)栗山光政・茂兵衛。光義の次男(↑キ゛ョッ、年齢差)。栗山家に養子。加治田城主、斎藤新五郎長龍の家臣。1千石。
▽大島光俊 (1572~1618)久左衛門・光定・光重。光義の息(3男)。息に義治、光隆。
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