16世紀~17世紀 関東(古河)公方の家臣団と軍団。反後北条・伊達同盟、佐竹義重・義宣の家臣団と軍団
相馬義胤肖像 のつもり。
足利幕府の変遷
(陸奥国人・二本松 畠山家)
東北鎮圧に派遣された畠山氏の本流。
二本松義継 (1552~1585)源ノ・畠山義継。11代目当主。塩松の大内定綱が二本松家を頼り、伊達家との関係が悪化する。1585年伊達輝宗を拉致し刺殺する。伊達軍に攻囲され滅亡。嫡子・義綱は芦名家に亡命する。二本松(霞ヶ城)城主。
▽鹿子田* (*~1585)和泉守。二本松義継の側近。1585年伊達輝宗を拉致する。
▽高林* (*~1585)内膳。二本松義継の側近。1585年伊達輝宗を拉致する。
▽大槻* (*~1585)中務。二本松義継の側近。1585年伊達輝宗を拉致する。
(陸奥国人・岩瀬 二階堂家)
二階堂輝行 (*~1564)須賀川・弾正少弼・信濃守・照行。岩瀬郡の領主。二階堂晴行の息。輝行は伊達稙宗の娘婿。稙宗党として1542年「天文の乱」。1547年芦名盛氏と対立し、稙宗党が分裂し敗北する。1559年田村氏に今泉城を奪取される。息に盛義。
二階堂盛義 (*~1581)遠江守・信濃守。輝行の息。岩瀬郡の領主。伊達晴宗の娘婿。岩城常隆は娘婿。1566年芦名盛氏に敗北し、松山城・横田城を失う。嫡男・盛隆(*~1584)を人質に出す。1574年盛隆が葦名家の家督相続。1581年の盛義死後は息・葦名盛隆が二階堂家を吸収。1584年盛隆は家臣・大場三左衛門に殺害される。一門は1585年「人取橋の合戦」には芦名・佐竹義重連合軍側。伊達氏に敗北し滅亡。息に行親、行久、行栄。須賀川城主。
(陸奥国人・白河 結城家)
本家の下総結城氏を凌駕する時期もある
結城晴綱 (*~1573)白河・左京太夫・直広・晴広。白河結城13代当主。結城義綱の息。岩城氏と同盟。二階堂、田村、石川氏と抗争。1542年「左京大夫」に任官。1545年「天文の乱」には伊達晴宗に援軍。1539年下野国の那須家の内紛に、下総結城政勝、小山高朝に協力。1555年葦名盛氏と同盟し、弟・義親との縁談を進める。葦名、後北条氏と連携し佐竹氏と敵対。陸奥白河城主。
▽結城義顕 (*)白河。結城晴綱の息。1573年父・晴綱の死により家督相続。晴綱の死後は佐竹氏に圧倒される。1575年叔父・小峰義親と家老・和知氏に謀反で追放される。
結城義親 (1541~1626)白河・小峰・上野介・隆綱・不説斎。晴綱の一門。小峰家養子。1555年葦名盛氏の娘婿。白河結城13代。1573年結城晴綱の死去により、義顕が幼少の為に後見人。1575年和知美濃守とともに義顕を追放。佐竹氏との抗争に芦名盛氏の助勢を請う。1579年佐竹義重の次男・佐竹義広を養子に迎える。1585年「人取橋の合戦」には芦名・佐竹義重連合軍側。1587年佐竹義広が葦名家を相続したため復帰。白河郡小峰城主。1590年「小田原征伐」に参陣せず所領没収。のち伊達家に臣従。一門に列する。
↓▽大関晴増 (1560~1596)土佐守。那須氏家臣。結城義親の婿養子。1587年佐竹義広の結城家相続により廃嫡。1587年実家に戻り大関家を継承。下野国黒羽城主。息に大関政増。
(陸奥国人・田村家)
田村義顕 (*~1561)陸奥田村郡の豪族。田村盛顕の息。岩城常隆の娘婿。佐竹義舜は相婿、義兄弟。弟に田村顕頼。1504年三春城を築城。息に隆顕、顕盛。
▽田村顕頼 (*)宮内少輔・月斎。田村義顕の弟。隆顕と清顕の家老職。1559年隆顕とともに二階堂氏を攻撃、今泉城を奪取。1586年清顕の死後、伊達方として相馬義胤の三春入りを阻止。<「攻めの月斎」と異名をとる猛将。>
田村隆顕 (*~1574)田村義顕の息(嫡男)。隆顕は伊達稙宗の娘婿。1532年家督相続。1542年「天文の乱」に稙宗党。のち晴宗派にも家中が分裂する。1548年3月伊達親子の仲介をつとめ和平。1559年仁階堂氏と抗争。1560年佐竹氏と同盟し葦名攻め。1572年葦名氏と同盟し佐竹氏を撃退。
▽田村顕盛 (*)梅雪斎。田村義顕の息。隆顕の弟。相馬派。小野新町城主。
田村清顕 (*~1586)坂上田村・玄番。田村隆顕の息。田村家5代目当主。相馬顕胤の娘婿。相馬盛胤と義兄弟。相馬氏とは対立関係にあったが、1549年婚姻を結び和睦。芦名家に対抗して親佐竹派。のち1579年伊達政宗と娘(愛姫)の婚姻を結び、伊達家と同盟関係。田村郡三春城主。伊達政宗は娘(愛姫)婿。
▽田村氏顕 (*)田村隆顕の息。田村清顕の弟。宗顕の父。
▽橋本顕徳 (*)田村家家老職筆頭。親伊達派。1586年清顕の死後、伊達方として相馬義胤の三春入りを阻止。
田村宗顕 (*)孫七郎・牛縊定顕。田村氏顕の息。清顕の甥。「郡山合戦」の後、伊達政宗の意向により清顕の跡職を継承。秀吉政権下で失領。伊達家を退散し隠居。三春城主。
(陸奥国人・相馬家)
相馬顕胤 (1508~1549)平・千葉・<伊達>・孫次郎・兵部大夫・讃岐守。陸奥国相馬郡小高城主。相馬氏14代。盛胤の息。伊達稙宗の娘婿。伊達稙宗から領土を割譲される。岩城重隆と抗争を重ねる。「天文の乱」に伊達晴宗と対立し隠居した稙宗をひきとる。
相馬盛胤 (1529~1601)平・千葉・<伊達>・孫次郎・弾正大弼。相馬15代。顕胤の息。伊達義宗の娘婿。伊達稙宗の孫。1549年家督。1564年息・義胤とともに名取郡に出陣。伊達晴宗を破る。のち小斎城、小森城を落とし伊具郡を一時制圧する。1549年田村清顕と妹が婚姻。田村氏と和睦する。伊達輝宗と抗争。1578年家督を息・義胤に譲り隠居。
相馬義胤 (1548~1635)平・千葉・<伊達>・孫次郎・弾正少弼・長門守・誠胤。相馬16代。盛胤の息。伊達(懸田)俊宗の娘婿。懸田義宗の義兄弟。1581年5月伊達政宗と伊具郡をめぐり抗争。牛越城主。1564年父とともに戦陣。1576年伊達輝宗との合戦。以降、伊達家と抗争を続ける。
(陸奥国人・石川家)
石川稙光 (1494~1530)陸奥国石川郡の領主。石川晴光の父。三芦城主。
石川晴光 (1528~1580)修理大夫。陸奥国石川郡の領主。「天文の乱」に伊達稙宗方。佐竹氏と同盟し葦名・田村氏と抗争。息に石川光専。1563年光専を廃嫡。伊達晴宗の息・昭光を養子に迎える。三芦城主。
石川昭光 (1550~1622)次郎・大和守。伊達一門衆。伊達晴宗の四男。磐城石川郡の豪族、石川晴光の養子。1585年「人取橋の合戦」には芦名・佐竹義重連合軍側。1589年11月伊達政宗に臣従。1590年秀吉の奥州仕置きにより没落。1591年岩手山転封に志田郡。本城の備え。松山城主。73歳。息は石川義宗。
(陸奥国・岩城家)
岩城重隆 (*~1569)平・二郎太郎・左京大夫・明徹。由隆の息。母は佐竹義舜の娘。重隆の二娘は伊達晴宗の室と、佐竹義昭室になる。1542年家督を相続する。佐竹義篤と抗争。佐竹義昭とは同盟関係。陸奥大館城主。
岩城親隆 (*~1594)平・<伊達>・左京大夫・宣隆。伊達晴宗の息。母は岩城重隆の娘。佐竹義重は従兄弟。岩城重隆の養子となる。妹(晴宗娘)は義重と婚姻し、義宣、貞隆を生む。佐竹義昭の娘婿。1570年頃佐竹氏の圧力に屈し従属。陸奥岩城平城主。
岩城常隆 (1567~1590)平・左京大夫。岩城親隆の息。母は佐竹義昭の娘。1585年「人取橋の合戦」には芦名・佐竹義重連合軍側。陸奥岩城平城主。1590年小田原に参向。息、政隆。家督は父・親隆の意向で養子の佐竹義重の三男・貞隆が継承する。
↓▽岩城貞隆 (1583~1620)平・佐竹。佐竹義重の三男。母は伊達晴宗の娘。岩城常隆の養子となる。相馬義胤の娘婿。岩城家家督を継承する。
↑▽伊達政隆 (1591~1615)平・伊達・岩城・長次郎。岩城常隆の息。祖父・親隆は伊達晴宗の息。伊達政宗に出仕。1591年岩手山転封に江刺郡岩谷堂城主。伊達氏に仕え一門に遇せられる。26歳。
(佐竹家 歴代当主) 関東八家のひとつ。
奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂西・那珂東)を支配。強力な分家、山入氏との内紛・覇権争い
▽佐竹御由緒家・佐竹御三家。
佐竹義舜 (1470~1517)常陸国佐竹第16代当主。佐竹義治の息。岩城常隆の娘婿。1490年分家の山入(佐竹)義藤、山入(佐竹)氏義により太田城を追われる。舅の岩城常隆を頼る。大山城に居住。岩城氏の加勢を得て1504年太田城を回復。1507年から約百年間続いた佐竹一門の内紛、山入一揆を鎮圧。山入氏を滅ぼす。1512年白河結城氏と抗争し依上保を奪取。佐竹中興の祖となる。
▽佐竹義信 (1476~1533)「北殿」・又次郎・左衛門尉。佐竹義治の息(四男)。佐竹義舜・義篤の家老職。兄・義武の戦死により家督。久米城主。
佐竹義篤 (1507~1545)徳寿丸・大膳大夫。佐竹義舜の息。佐竹氏17代当主。母は岩城常隆の娘。小田成治の娘婿。戦国佐竹氏の領国を、義舜との親子二代で形成。弟の宇留野義元と家督争い。1534年~1540年にかけて抗争し破る。北進政策を推進。結城氏と抗争。下野那須氏の内紛に介入し下野進出。常陸国太田城主。
佐竹義元 (*~1540)宇留野義元.。佐竹義舜の息。那珂郡の豪族・宇留野氏の養子。兄・義篤と家督争い、1534年~1540年にかけて抗争。那珂郡の部垂城主。
佐竹義昭 (1531~1565)徳寿丸・次郎・右京大夫・義従。戦国大名。佐竹義篤の息。母は小田成治の娘。岩城重隆の娘婿。のち大掾憲幹の娘婿。1545年家督相続。北進政策を推進。羽黒山城を拠点に白河結城氏と抗争。岩城氏と同盟。八溝金山を経営。水戸城主、江戸忠通を破る。後北条氏に圧迫された関東管領・上杉憲政を保護。関東管領職を辞退。1556年下野国、皆川氏を攻撃。1557年宇都宮広綱を後援し宇都宮城を回復。1560年結城晴朝を攻撃。陸奥南郷寺山城主の結城晴綱を攻撃。葦名盛氏と抗争し陸奥南郷を支配。1562年上杉輝虎に従い「小山城攻囲」。1563年那須資胤と抗争。1564年上杉輝虎軍に参陣し、小田氏治の「小田城攻略」。「土浦城攻囲」。南進政策に転換。府中城主、大掾憲幹を傘下に降す。水戸城主、江戸氏と同盟。<関東管領・越後上杉謙信に従い、後北条家の抑え。>
▽佐竹義堅 (*~*1566)東・「東殿」源六郎・左近大夫・将監・義賢。佐竹政義の息。佐竹義昭の家老。佐竹一門の佐竹義里、佐竹義廉と交代で佐竹家執事を歴任。1566年那須資胤を攻撃するも「治部内山合戦」に敗北し降伏する。息に佐竹義喬。
▽佐竹義里 (*)南・「南殿」・三郎・次郎左衛門・義隣。佐竹義舜の息(四男)。母は岩城常隆の娘。佐竹義昭、義重の家老。義堅、義廉とともに執政。1567年大関高増の後援で下野国に遠征。那須資胤との「大川井山の合戦」に敗北。義昭の息・佐竹義尚を養子に迎える。
▽佐竹義住 (*~1539)北・「北殿」。佐竹義信の息。弟に佐竹義廉。佐竹義昭の家老職。宇留野(佐竹)義元との1539年「部垂表の合戦」で戦死。
▽佐竹義廉 (*)北・又七郎・左衛門督。佐竹義信の息(次男)。佐竹義昭の家老。義里、義堅とともに執政。1539年「部垂表の合戦」での兄・義住の戦死により家督。久米城主。
<常陸国・佐竹義重の家臣団と軍団>
佐竹義重 (1547~1612)次郎・常陸介。戦国大名。佐竹義昭の嫡男。母は岩城重隆の娘。1562年家督相続。後北条氏と終生敵対。常陸・下野の大名の宇都宮、皆川、那須、茂木、多賀谷氏の盟主。1566年謙信の参陣要求。2月常陸国「小田城攻囲」に従軍せず。岩城・白川(結城)義親を攻撃。武田信玄と同盟を結ぶ。伊達政宗の南下を抑え、白河、岩城、石川、葦名を従える。「鬼義重」と呼称される。1590年秀吉から20万貫の所領安堵。息に義宣、(葦名)義広、岩城貞隆。
▽佐竹義喬 (*)東・「東殿」・九郎・薩摩守。佐竹義堅の息(嫡子)。佐竹義重の家老職。弟・義久を養子に迎え家督を譲る。
▽佐竹義尚 (*)南・五郎・左衛門尉・資綱。佐竹義昭の息(次男)。母は岩城重隆の娘。佐竹義重の息。府中城主。大関高増に迎えられて那須家の養子の予定。那須資胤と家督争い。那須家との和睦により、重臣・佐竹義里の養子となる。
▽佐竹義斯 (*)北・又七郎・左衛門督。佐竹義廉の息(嫡男)。1564年小田氏治の追放後に小田城主。1565年小田氏治の攻勢により太田城に退去。1572年那須資胤との和睦に奉行。惣領・佐竹義宣の室に那須資胤の娘を迎えた。
▽佐竹義久 (1554~1601)東・中務大輔。佐竹東家。佐竹義堅の息(次男)。佐竹義重に従い各地に遠征。1595年秀吉の臣・石田三成と親しく、真壁・鹿島の二郡6万石を与えられる。武熊城主。
佐竹義宣 (1570~1633)徳寿丸・次郎・右京大夫。佐竹義重の息。那須資胤の娘婿。のち多賀谷重経の娘婿。岩城・葦名を援助して伊達政宗と抗争。1590年秀吉から21万貫の領地を保障される。1590年江戸重通と抗争し、水戸城を奪取し居城とする。常陸南方33館を滅ぼし常陸統一。1595年54万石を保障される。<秀吉の側近・石田三成と親交があったことで有名。>
▽佐竹義種 (*)南・左衛門尉・淡路守。佐竹義重・義宣の家老職。佐竹義尚の息。1590年秀吉の小田原に参陣の御伴衆。1595年義宣に6000石を与えられる。
▽佐竹義憲 (1570~*)北・又七郎・左衛門督。久米城主・(北)佐竹義斯の息。佐竹義重の息(三男)・貞隆が岩城氏に養子に迎えられた際に付家老として岩城入り。植田城主。
<常陸国・佐竹義重の家臣団と軍団>
外様国人衆
⇔芦名盛重 (1576~1631)佐竹・結城・平四郎・義広。佐竹義重の次男・佐竹義広。最初、結城義親の養子、のち芦名家から養子に迎えられる。芦名20代当主。芦名譜代の金上、富田と、佐竹氏からの側近・大縄、刎石氏の対立が深まり家中が分裂する。1589年「摺上原の合戦」に敗れ領国を失う。
▽大縄* (*)讃岐守。佐竹家臣。佐竹義広に従い会津入り。葦名旧臣と対立。1589年「摺上原の合戦」に敗れ領国を失う。
▽刎石* (*)駿河守。佐竹家臣。佐竹義広に従い会津入り。葦名旧臣と対立。1589年「摺上原の合戦」に敗れ領国を失う。
↑▽岩城貞隆 (1583~1620)平・佐竹。佐竹義重の三男。母は伊達晴宗の娘。岩城常隆の養子となる。相馬義胤の娘婿。岩城家家督を継承する。
(佐竹譜代家老衆)
岡本禅哲 (*~1583)佐竹義篤・義昭・義重の三代家老。
小貫頼久 (*~1603)清三郎・佐渡守・大蔵丞・頼安。佐竹義重・義宣の宿老。小貫頼俊の息。堀之内大台城主。
和田昭為 (1532~1618)石井・掃部助・安房守。石井為忠の息。佐竹義昭・義重・義宣の三代家老。1571年車斯忠との争いから出奔。佐竹義重の命により一族は処刑される。昭為は白川結城家に匿われるが、のち白川家を内紛に導き、1574年その功により佐竹家に復帰。
車斯忠 (*)家老・和田昭為と抗争。
船尾昭直 (*)岩城・九郎三郎・兵衛尉・山城守。岩城一門。船尾隆直の息。岩城家から出奔、1553年頃佐竹家の客将となる。赤館城主、滑津城主を勤め、奥州進出の前線に立つ。佐竹義広を補佐し、1589年伊達政宗と合戦。
真壁久幹 (1522~1589)小次郎・右衛門佐・安芸守。真壁郡の国人領主。真壁宗幹の息。1561年佐竹家に従属し、柿岡城主。1569年「手這坂合戦」に軍功。「小川岱合戦」、「沼尻合戦」に従軍。
真壁氏幹 (1550~1622)常陸真壁城主。佐竹義重の家臣。<塚原卜伝の弟子とも。棒術に秀で「鬼真壁」と呼ばれる勇士。>
(常陸国衆)
江戸重通 (1556~1598)但馬守。江戸通政の息。結城晴朝の妹婿。常陸守護佐竹氏と同盟。1577年佐竹義重とともに下野小山出陣。府中城主、大掾清幹と抗争。1590年北条方に与力したため佐竹義宣に居城を奪取される。結城氏の下に落ちる。娘は結城晴朝の養女として結城秀康の室。水戸城主。
小田政治 (1492~1548)堀越公方・足利政知の息。常陸国の豪族・小田成治の養子。古河公方・結城氏と抗争。山内上杉氏に従い「河越の夜戦」に従軍し大敗。
▽小田氏治 (1531~1601)小田政治の息。1564年1月謙信に背き居城を、上杉同盟軍、佐竹義昭・宇都宮広綱に攻囲される。菅谷氏を頼り土浦に落ちる。1566年2月再び謙信の攻撃により落城。1569年太田資正、梶原政景、真壁道無に「手這坂合戦」で敗北。1572年佐竹義重に攻撃され上杉謙信を頼る。1590年小田城奪回。秀吉政権で失領し、結城秀康に出仕。息に守治。常陸国小田城主、藤沢城主。
<下野国衆>
(小山・結城家 歴代当主)
結城政朝 (1479~1547)七郎。下総結城当主。結城成朝(氏広)の息。2歳で家督相続するが後見人・多賀谷和泉守が実権掌握。成長するにおよび和泉守を誅殺。1499年下野・宇都宮忠綱と連合し、佐竹義昭・岩城重隆の連合軍を破る。「高林合戦」に勝利し領域を拡大。のち小山氏の内紛に介入し息・高朝を小山氏家督とする。息に政直。
結城政直 (*)七郎。政朝から家督継承。弟は小山高朝。
結城政勝 (1503~1559)三郎・左衛門督。政朝の息。政直から家督を継承。1537年古河公方・足利晴氏と結び、小山高朝・山川政貞・水谷政村と出陣、結城領に侵攻した多賀谷家重と小田政治の同盟軍を撃退。1539年那須家の内紛に介入し、佐竹・小田・宇都宮氏と合戦。1547年結城政朝の死去に乗じて宇都宮尚綱が結城領に侵攻、小山・水谷氏と結び撃退する。1555年北条氏康と結び、小田氏治を破り戦国結城家の最大版図を創出。56歳。
結城明朝 (*~1548)政勝の息。病死。
小山高朝 (1508~1574)結城。下野国、小山城主。結城政朝の息。小山政長の養子。兄に結城政勝。実家の結城家と同盟し、宇都宮家と抗争。1560年上杉謙信の関東遠征に従うが、千葉胤富と席次を争い敗北し後に不和となり、小山城を上杉軍に攻囲される。降伏し隠居、家督を秀綱に譲る。
▽小山秀綱 (*)結城。下野国、小山城主。小山高朝の息。上杉軍に降服した父・高朝の隠居により家督。1563年4月上杉同盟軍、佐竹義昭・宇都宮広綱に攻囲される。
結城晴朝 (1534~1614)七郎・左衛門督。小山高朝の次男。叔父・結城政勝の養子。小山秀綱は兄。1559年養父の死により家督継承。死に乗じた小田氏治が結城領に侵攻、小山高朝・水谷政村の後援で撃退。北条氏康との同盟関係から関宿城在番となるが、結城領を多賀谷政経に簒奪され、山川氏重の協力で死守。1574年北条氏政が関宿城・小山城を攻略したことにより北条家と決別。山川・佐竹・宇都宮・那須家と反北条同盟。小田原攻めに佐竹義宣、宇都宮国綱とともに参陣。結城秀康を養子に迎える。
結城朝勝 (*)宇都宮。晴朝の養子。
(結城御由緒家、一門衆)
山川氏重 (*)結城。結城氏庶流。結城晴朝を補佐。
多賀谷重政 (*)結城。結城一門。下妻城主。1548年北条家の関東侵攻に備えて結城家との同盟を結ぶ。
多賀谷為広 (*)結城。隠岐守。1548結城政勝に同盟の人質として赴く。
多賀谷政広 (*)結城・新十郎・安芸守。為広の息。重政の甥。
多賀谷重経 (1558~1618)結城・佐竹の両氏に属す。後北条家に対抗。早くから織田信長に通じる。
水谷政村 (1524~1598)下館の国人領主。結城政勝の娘婿。1539年結城政勝と結び「大串の合戦」に軍功。久下田城を築き、家督を弟の水谷勝俊に譲る。
<下野国衆>
(上杉謙信の旗頭)色部勝長(病死)・長尾時宗
(佐野)古河公方直属
佐野昌綱 (*~1574*1579)藤原・山太郎・正綱。佐野豊綱の息。藤原秀郷流の名門。佐野15代目当主。1558年長尾景虎に通じ、1559年1月北条軍35000に包囲される。謙信が50騎で攻囲を突破し入城。1563年5月上杉同盟軍、佐竹義昭・宇都宮広綱に攻囲される。1570年謙信に攻撃され、武蔵国館林城を失くす。1585年嫡男・宗綱は足利・長尾顕長との抗争で戦死。下野国、唐沢山城主。<小山・結城・下河辺・足利・佐野・阿曾沼は秀郷流一族。>
⇔▽長尾* (*)佐野・虎房丸。1564年2月謙信の命により、佐野昌綱の養子となる。色部勝長・萩原伊賀守・吉江織部に後見され唐沢山城を守備するが、10月養父・佐野昌綱の謀反により追われ、越後に帰還する。<1564年の一時期だけ佐野の家督だったようです。>
▽佐野宗綱 (*~1585)下野国、唐沢山城主。常陸の佐竹氏と結び後北条氏に対抗。1585年北条方の上野国館林城主・長尾顕長との「彦間の合戦」に戦死。<単騎で突撃し鉄砲で撃たれてしまったらしいです。勇猛だったということでしょう。>
(皆川)
皆川俊宗 (*)藤原。秀郷流の名門。下野国、皆川(法螺貝)城主。1551年成勝が死去し、27歳で家督継承。1556年7月佐竹義重を撃退。<結城氏と一族。>
▽皆川広照 (*)藤原。秀郷流の名門。下野国、皆川(法螺貝)城主。皆川俊宗の息。1563年16歳で初陣「川連城攻略」。1564年宇都宮氏と抗争。1566年北条氏政に攻囲される。
(宇都宮)
宇都宮広綱 (1543~1580)1550年父・尚綱の戦死により、那須高資に居城を奪取される。7歳に流浪。家老の芳賀高定に養育される。那須高資を討ち、宇都宮城主となっていた一門の壬生綱房から居城を奪還。15歳で当主となる。宇都宮城主。
宇都宮国綱 (1568~1607)北条氏の攻勢により窮地。早くから秀吉に通じ所領を確保。1595年秀吉の不興をかい失領。
(那須)
那須資晴 (1557~1610)宇都宮・結城・佐竹氏と抗争。1595年「小田原の役」に参陣せず失領。息の資景が所領を回復する。下野鳥山城主。
▽大田原晴清 (1567~1631)那須資晴に従属。1595年「小田原の役」に参陣。秀吉に陳謝し、那須資景の代に所領を回復。下野大田原城主。
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