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7世紀~11世紀 新興兵家「つわもののいえ」東国六腹~ 


「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
    からくれなゐに 水くゝるとは」
—在原業平(825~880)-

 不思議なことが当たり前のように起こっていた、いにしえの神代でさえも、
  こんなに不思議で美しいことは起きなかったに違いない。
   竜田川の流れが、舞い落ちた紅葉を乗せて、鮮やかな唐紅に染まるなんて。


684年「八色姓」⇒「東国六腹(六波羅・むつはら)朝臣」上毛野・下毛野・大野・池田・佐味・車持。


<上毛野氏:カミツケノ・かみのえみの> 上野国造家後裔 下毛野同族
上毛野ノ小熊 (*~534*)上毛野君・おぐま。上毛野姓始祖。上毛野国造家。武蔵国造家・笠原家の内紛に介入。笠原ノ小杵を後援する。大和朝廷軍に敗北する。

上毛野ノ形名 (*)君・大仁・(刀)。池邉の息とも。637年東国に侵攻。蝦夷に敗れ、逆に包囲され籠城するが撃退した。息に稚子、家麻呂。
上毛野ノ稚子 (*~663)君・(若古)。赤城神社神職。関東上野の豪族。形名の息。弟に家麻呂。新羅に侵攻。2城を陥落。663年「白村江の合戦」に敗走。

上毛野ノ三千 (*~681)みつち・大錦下・(蛟)。天武帝に出仕。川島皇子、忍壁皇子と共に「帝紀」の編纂に関わる。<「帝紀」に関東系の解釈入るか。>

上毛野ノ小足 (*~709)下総守・陸奥守・男足。吉備総領。708年蝦夷に遠征。<蘇我系・下総石川家にも石足・千足・名足・年足など「足」が付きます。何か意味が。>

上毛野ノ安麻呂 (*)上総守・陸奥守・(安麿)。709年任官。
上毛野ノ広人 (*~720)按察使。陸奥「蝦夷の反乱」により殺害される。

上毛野ノ堅身 (*)朝臣・備前介・美作守。713年備前守・百済王南典とともに備前から美作の分割を奏上、美作守に就任し美作国の統治にあたる。

【上毛野ノ大椅女】 (*)おおはしめ。紀伊伊都郡の豪族、文氏の室。
上毛野ノ基宗 (*)(元棟)。916年上毛野貞並とともに上野介・藤原厚載を討ち滅ぼした事を奏上、基宗・貞並は武蔵で捕縛される。上野大掾家・藤原連江は中立。<中山道混乱。>


≪個人的感想≫ 古来、上野・下野の軍兵は、中央に動員され、九州征伐、百済遠征に参加し、戦国時代島津氏のように半島の技術者など、列島に連れ帰る事も多かったと推測されます。上毛野氏に渡来系の一派が存在することは、鉱山開発・鉄の精錬などの関係で、縁を結び帰化一族化した人たちの事なのでは。列島の各王家でも、有力豪族となるために軍事力の強化策として同様の事が起きていたのではないでしょうか。武装化する豪族こそ、のちの武士団の原型なのでは。
 技術者集団の独占こそ、自勢力が最強になり天下を統べる為の、軍事力増強の方法であり、物部氏・蘇我氏の抗争も、根本はこの点にあったのだと考えます。
 技術流出の防衛、根本資源の確保こそ、国の基本です。


<下毛野氏:シモツケノ・しもつえみの> 7世紀


下毛野尼古太の子孫、下野国那須郡大野邑、大野ノ若古が始祖。

大野ノ狭手 (*)下毛野。息に果安。<名は大伴ノ狭手彦にあやかるか。>

大野ノ果安 (*)下毛野・直広肆・君・朝臣。毛野一門。大野ノ狭手の息。大津朝の部将。672年「壬申の乱」に大伴吹負の挙兵を鎮圧し撤収。大伴軍は再挙する。息に大野東人。

○大野ノ東人 (*~742)下毛野・鎮守将軍(鎮守府将軍)。毛野一門。大野果安の息。724年征東軍に参加。724年多賀城築城。729年鎮守府将軍・陸奥按察使を歴任。733年出羽(秋田)柵再築城。737年比羅保許山遠征。740年「藤原広嗣の乱」に大将軍として出動し鎮圧。


≪個人的感想≫ 私の頭の中には、下野といえば宇都宮氏の存在があるため、宗教大国・下野国というイメージがあります。神社(氏神)を中心として一族、周辺諸族の絆があり、氏親、氏子の関係が発展して、武士団の原型となっていった側面もあると考えます。


<石川氏> 蘇我氏分流。倉麿系。連子→安麿→石足→年足(千足)

石川ノ千足 (688~762)蘇我ノ(年足)・千足。石足の息。弟に豊成。田口池守の娘婿。摂津国豪族。聖武帝に出仕。藤原ノ仲麻呂の又従兄弟。735年出雲守。744年東海道巡察使。746年陸奥守。753年太宰帥。息に名足、永年。<妻は四国阿波の田口氏か。>

▽石川ノ名足 (728~78)蘇我ノ名足。太宰少弐・下野守・大和守・陸奥守・鎮守将軍(鎮守府将軍)。768年任官。陸奥鎮守将軍。769年陸奥守。息に年足、豊成。<息・年足は、祖父の名を継承するか。伊達政宗が先祖の政宗の名を引き継ぐようなものです。>


<巨勢氏> 孝元天皇子孫。武内宿禰の次男、許勢ノ小柄宿禰が始祖。


巨勢ノ男人 (*)武内・大臣。河上の息。小柄の曾孫。継体帝に出仕。娘婿に安閑天皇。息に稲持。

巨勢ノ猿 (*)(胡孫?)。男人の孫。一門に威田荒人(稲持の息)。崇峻帝に出仕。591年葛城氏、大伴氏、紀氏とともに大将軍。任那復興に出陣。

⇔巨勢ノ比良夫 (*)武内・臣・毘羅夫。崇峻帝に出仕。587年「丁未の乱」に物部ノ守屋を滅ぼす。<先祖?の男人は継体期に大臣。>

巨勢ノ大麻呂 (*)許勢・臣・大摩呂。推古帝に出仕。628年蘇我ノ蝦夷の前で山背皇子の即位を主張。

巨勢ノ胡人 (*)許勢・武内・(胡孫?)。男人の子孫。大和高市郡の豪族。蘇我氏に従う。息に徳陀。<継体の武将・男人と直接結び付けるには苦しい世代差では?>

巨勢ノ徳陀子 (*~658)左大臣・徳多・徳太古。兄弟に大海。敏達天皇の名代。巨勢胡人の息。蘇我入鹿の側近。643年斑鳩宮を攻撃。649年左大臣就任、右大臣・蘇我石川麻呂と政権運営。651年新羅の使者に対応。新羅攻略を説く。右大臣・大伴長徳と協調。息に黒麻呂、馬飼。

巨勢ノ譯語 (*)神前臣・訳語。663年「白村江の合戦」に敗走。
巨勢ノ黒麻呂 (*)黒麿。徳陀(徳多)の息。684年朝臣の姓をあたえられる。

巨勢ノ比等 (*~673*)大納言・臣・人・毘登・ひと。大海の息。徳陀(徳多)の甥。大友皇子(弘文天皇)の臣。671年蘇我ノ果安、紀ノ大人とともに御史大夫。672年山部ノ王との内紛に王を殺害。「壬申の乱」後、残党狩りにより捕虜。流刑。息の巨勢ノ奈弖麻呂はのち大納言。

▽巨勢ノ奈弖麻呂 (670~753)大納言・(名弟麿)。比等の息。父は大津朝の将軍の為に失脚。749年大納言に就任。

巨勢ノ麻呂 (*~717)中納言・陸奥鎮東将軍・麿。紫壇の息。709年任官、陸奥遠征。息に石湯。715年中納言に就任。

巨勢ノ堺麻呂 (*~761)下総守・関麻呂・せきまろ・堺麿。仲麻呂の側近。757年橘ノ奈良麻呂の謀反を奏上。761年病死。

巨勢ノ野足 (750~816)のたり・蔵人頭・中納言・陸奥鎮守副将軍。苗麿の息。792年任官。征夷副使。810年初代・蔵人頭。息に光舟、有行。


<田中氏> 蘇我氏後裔 氏同族


⇔田中ノ足麻呂 (*~689)臣・直広参・足摩侶・たしまろ。稲目の孫・君手の息。伊勢湯沐令。大海人皇子を擁立。672年「壬申の乱」に倉歴道を守備。夜襲により敗退。息に法麻呂。<天武帝周辺の后が蘇我氏系列。「壬申の乱」には蘇我氏の後援があったのでは。>

⇔田中ノ多太麻呂 (*)陸奥守・鎮守将軍(鎮守府将軍)。757年任官。762年鎮守府副将軍。764年任官・陸奥守。767年功労を賞される。


<紀氏> 氏後裔 氏同族


⇔紀ノ阿閉麻呂 (*)あへまろ。紀氏の将軍。美濃軍を率いて大和の大伴吹負に合流。大海人皇子(天武天皇)の擁立に軍功。

紀ノ堅麻呂 (*)かたまろ。紀氏の将軍。大海人皇子(天武天皇)の擁立に軍功。

紀ノ大音 (*)臣・おおね。紀氏の将軍。大海人皇子(天武天皇)の擁立に軍功。

紀ノ船守 (*)猿鳥の息。764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。息に梶尾。

⇔紀ノ広純 (*~780)河内守。774年鎮守府副将軍。777年任官。陸奥守・陸奥按察使。鎮守府将軍。「伊治公砦麻呂の乱」に殺害される。

紀ノ真人 (*)征東副使。788年任官。
紀ノ古佐美 (*)征東大使。788年任官。789年「阿弖流為」との「胆澤巣伏村の合戦」の敗戦により失脚。


<阿倍氏> 氏後裔 氏同族


阿倍ノ人 (*)臣・比等・毘登。阿倍の布施家。587年「丁未の乱」に物部ノ守屋を滅ぼす。

▽阿倍ノ鳥 (*)臣・鳥子。阿倍の布施家。608年遣隋使の返礼使・裴世清の取次ぎ。物部依網抱とともに接待。息に倉梯麻呂(内麻呂)。

阿倍ノ倉梯麻呂 (*~649)内麻呂・麻呂・阿倍臣・左大臣。阿倍の布施家。阿倍鳥子の息。蘇我氏と結ぶ。645年の政変後に左大臣。

阿倍ノ御主人 (635~703)布施・普勢・右大臣・みうし。阿倍の布施家。左大臣・倉梯麻呂(内麻呂)の息。672年「壬申の乱」に軍功。息に広庭、人主。<河内の布施に通じるか。>

阿倍ノ広庭 (659~732)中納言。御主人の息。阿倍の布施家。


阿倍ノ比羅夫 (*~*663?)阿倍・引田臣・越国守・後将軍・筑紫太宰帥。阿倍の引田家。阿倍ノ目の息(もしくは浄足の息)。658年奥州遠征。663年唐・新羅連合軍に敗北した百済の援軍として朝鮮渡海。663年「白村江の合戦」に敗走。息に宿名麻呂、引田広目、安麻呂、船守。
阿倍ノ宿奈麻呂 (*~720)大納言・少麻呂。阿倍の引田家。比羅夫の息。

▽阿倍ノ仲麻呂 (698~770)阿倍船守の息。阿倍の引田家。比羅夫の孫。717年多治比県守に同行し唐に渡る。長安にて科挙に合格。玄宗皇帝に出仕。唐にて客死。73歳。

▽阿倍ノ帯麻呂 (*)意比麻呂・美作守。阿倍船守の息。阿倍の引田家。比羅夫の孫。仲麻呂の弟。殺人の罪で投獄される。
阿倍家麻呂 (*)(安倍)・宿奈麻呂・石見守。小嶋の息。780年「宝亀の乱」に征東大使・藤原継縄に従い、出羽鎮狄将軍となり任地に赴く。781年上野守。789年石見守。息に黒人。

<兵家「つわもののいえ」>

佐伯・甘南備・小野・文室・匝瑳・良岑・御春・坂上・南淵・多治比・菅原・大江・中原氏


陸奥守輩出
<佐伯氏> 大伴氏同族  大神系佐伯氏は別系統。


佐伯ノ丹経手 (*)連・にふて。蘇我馬子の将。蘇我馬子の命で宅部皇子を襲撃。息に子麻呂。<孫・大目は天武天皇派。>

佐伯ノ東人 (*)山背大兄の側近。628年蘇我蝦夷と対立し、巨勢(許勢)大麻呂、紀塩手とともに山背大兄を擁立。

⇔佐伯ノ子麻呂 (*~666)連。佐伯丹経手の息。中大兄皇子に協力し殿中にて蘇我蝦夷を殺害する。息に大目。

⇔▽佐伯ノ大目 (*)連。蘇我入鹿を殺害した佐伯子麻呂の息。大海人皇子を擁立。

佐伯ノ石湯 (*)いわゆ。征越後蝦夷将軍。709年任官。出羽(荘内)柵築城。息に伊多智。

佐伯ノ児屋麻呂 (*~724)陸奥大掾。陸奥「蝦夷の反乱」により殺害される。

⇔佐伯ノ全成 (*~757)宿禰・陸奥国介・陸奥守・陸奥鎮守副将軍・またなり。東大寺大仏製造用の黄金を献上。749年陸奥介に就任。752年百済王敬福の跡職を継承。753年大伴伯麻呂とともに久米舞の奉納。陸奥守就任。757年陸奥鎮守府将軍就任。橘ノ奈良麻呂から天皇廃位の計画に勧誘される。藤原仲麻呂を排斥する為の「橘ノ奈良麻呂の乱」に連座し失脚。<佐伯一門。>

佐伯ノ伊多智 (*)衛門少尉・宿禰・伊太智・イタチ。石湯の息。越前に入国し藤原ノ辛加知を討つ。越前入りする恵美軍を撃退。息に佐伯葛城。

佐伯ノ今毛人 (719~790)参議。佐伯人足の息。兄に真守。763年藤原良継、大伴家持、石上宅嗣とともに仲麻呂暗殺計画。発覚し失脚する。764年仲麻呂失脚により復帰。775年遣唐使。息に金山、三野。

⇔佐伯ノ三野 (*~779)陸奥守・美濃・鎮守将軍(鎮守府将軍)・佐伯美濃。。764年「藤原仲麻呂」討伐に軍功。771年任官。鎮守将軍。

⇔佐伯ノ久良麻呂 (*)宿禰・近江介・中衛中将・衛門督・久良万侶。鎮守権副将軍。紀ノ広純の援軍として派遣される。776年任官・陸奥鎮守権副将軍。777年出羽遠征。777年「志波邑の俘囚討伐」に軍功。

佐伯ノ人麻呂 (*)祖父は尾張守・佐伯大麻呂。息に清岑。
▽佐伯ノ清岑 (763~827)きよみね・常陸守・陸奥守。佐伯人麻呂の息。嵯峨天皇・淳和天皇に出仕。811年陸奥守。陸奥出羽按察使・文室綿麻呂と共に蝦夷の爾薩体、幣伊邑の攻略を上申。上野守、常陸守。国司の反感を買い、失政により召喚される。826年「親王任国」が開始される。息に鳥麻呂、鹿継。<皇子を東北に派遣するために、邪魔な貴族は左遷されたのでしょうか。>

佐伯ノ葛城 (*~789)陸奥介・鎮守副将軍・征東副使。787年任官。
⇔佐伯ノ耳麻呂 (*)宿禰・鎮守府将軍・征夷副将軍・陸奥守。809年鎮守府将軍。811年文室綿麻呂の補佐として征夷副将軍。812年陸奥守就任。


<甘南備氏> 橘氏同族 敏達天皇後裔


甘南備ノ清野 (*)真人・判官。779年遣唐使。794年武蔵守。息に高直。
▽甘南備ノ高直 (775~836)かんなび・(神奈備)・真人・陸奥介・上野介・常陸守・摂津守。甘南備清野の息(3男)。826年佐伯清岑に連座し国司解任。826年「親王任国」が開始される。息に弥雄、六雄、縄雄。 <皇子を東北に派遣するために、邪魔な貴族は左遷されたのでしょうか。>

 
陸奥守輩出
<小野氏> 春日氏同族 孝昭天王後裔 近江国滋賀郡 小野妹子流。

小野ノ妹子 (*)春日・臣。春日皇子の息。607年通訳・鞍作福利とともに中国に渡る。608年遣隋使。息に毛人、広人。

小野ノ 牛養 (*)春日・鎮狄将軍。724年陸奥出征。
小野ノ東人 (*~757)春日・備前守。広人の息とも。740年「藤原ノ広嗣の乱」に連座。台頭する藤原仲麻呂と対立。757年「橘ノ奈良麻呂の乱」に答本忠節とともに高麗福信により捕縛され獄死する。

小野ノ宗成 (*)春日・出羽守・朝臣。830年秋田城に在任中、大地震と疫病に見舞われる。837年出羽国分寺、国分尼寺仏像と経巻を納める。

小野ノ永見 (*)春日・征夷副将軍・陸奥介・(水見)。毛野の息(竹良の息とも)。妹子の直系。815年任官。息に野主、岑守、石雄、沢守、滝雄。

(小野兄弟)
▽小野ノ野主 (*~837)摂津守・左中弁。征夷副将軍・永見の息。嵯峨天皇に出仕。

▽小野ノ岑守 (778~830)右小弁・美濃守・陸奥守。永見の息。妹子の直系。815年陸奥守。俘囚長、吉弥侯部 等波醜を臣従させる。822年太宰大弐。息に篁、千株、葛絃。娘婿に藤原敏行。

▽小野ノ石雄 (*)鎮守将軍。永見の息。813年の東北蝦夷の反乱・「吉弥侯部 止波須可牟多知の乱」。征夷大将軍・文室綿麻呂に従い参陣。息に春枝、春風、春泉。

(小野三兄弟)
▽小野ノ春枝 (*)鎮守府将軍・陸奥権守。小野石雄の息。856年鎮守府将軍。860年に再び着任。870年陸奥守。

▽小野ノ春泉 (*)出羽権掾。藤原梶長の次官。879年「秋田川の合戦」に敗北し逃走。

⇔小野ノ春風 (*)武蔵介・対馬守・陸奥鎮守府将軍・摂津守・大膳大夫・検非違使・左衛門佐・右兵衛少将・陸奥権守・讃岐権守。小野石雄の息。幼少を東北の辺境で育つ。夷語に堪能で、剛勇できこえた。大宰府に出仕するが讒言により罷免される。878年出羽国人の叛乱で藤原興世が敗北。藤原保則の推挙により鎮圧軍に参加。前任者・安倍比高に師事。出羽反乱軍を鎮める。息に清如。

<武蔵七党・野党> 鎌倉の「野」党、南北朝の「野」党の祖。


▼小野ノ篁 (802~853)陸奥守・たかむら・野相公・野宰相・野狂。岑守の息。藤原南家・(右大臣)藤原三守の娘婿。832年太宰少弐。842年陸奥守在任中、竹駒神社創建。息に葛絃(弟・養子か)、俊生、良真(良貞)、忠範、保衡、利任、葛絵。

▼▼小野ノ保衡 (*)葛絵の息。武蔵秩父の豪族。武蔵七党・猪俣党、横山党の祖。<武蔵国造家の婿となるか。>

⇔小野ノ好古 (884~968)野大弐・讃岐権守・備前権介・近江権介・備前守・山城守・太宰大弐・伊予権守・讃岐権守・備中権守・参議。葛絵の息。葛絃の息(養子か)。939年「天慶の乱」に、藤原慶幸、大蔵春実とともに藤原純友討伐に軍功。息に永樹、千古。娘婿に大蔵春実。

小野ノ道風 (894~967)内蔵頭。太宰大弐・葛絃の息。息に奉時、長範、奉忠、奉明、公時。書をよくし藤原佐理、藤原行成と「三蹟」のひとり。

小野ノ春継 (*~932)讃岐介。藤原純友の妹婿。私怨でもって伊予国大洲館の藤原純友を攻撃し、逆襲にあい戦死。朝官の「介」同僚を殺害したため純友が海賊化したとも。

⇔小野ノ諸興 (*)武蔵権介・武蔵押領使。秩父豪族。武蔵小野牧の経営者。933年武蔵国秩父にて、小野氏経営の小野牧が勅使牧に変遷する。935年「平ノ将門の乱」勃発。<武蔵の小野、保衡の子孫か。>

小野ノ利春 (*)義材の息。963年武蔵国司。


<文室氏> 天武天皇後裔


⇔文室ノ綿麻呂 (765~823)ふんやの わたまろ・三山朝臣・按察使・征夷将軍・参議・中納言。三諸(文室)大原の息。征夷大将軍(3代813~816)。810年「薬子の乱」に連座。坂上田村麻呂とともに東征。811年征夷将軍任官。約10000兵の士卒とともに北征。紫波城に入る。従う俘囚軍とともに、爾薩体、弊伊の賊を討伐。息に巻雄、氏雄、能雄。

⇔文屋ノ大原 (*)陸奥介・鎮守副将軍。
▽文室ノ巻雄 (810~887)相模掾・播磨大掾・伊予介・美濃守・伊予権守・備前守・因幡守・因幡権守・相模守。綿麻呂の息。任明天皇、陽成天皇に出仕。息に房典(近江少掾)、茂典。

文室ノ秋津 (787~843)武蔵守。備前守・三諸大原の息。綿麻呂の弟。武芸に秀でる。817年甲斐守、818年武蔵介。832年武蔵守。833年恒貞親王の春宮大夫となり後見。842年「承和の変」に恒貞親王の失脚により出雲守に左遷。息に真屋、有真、永年。娘婿に小野良実。

▽文室ノ有真 (*)出羽守・下総守。秋津の息。840年出羽守。848年班山城田使長官。近江介。854年相模権守。856年陸奥守。861年坂上当道との引き継ぎ遅延により、葛木種主とおともに微罪。863年下総守。

文室ノ宮田麻呂 (*~863*)筑前守。備前守・三諸大原の息。綿麻呂の弟。摂津難波の豪族。840年筑前守。新羅の張宝高と密貿易。841年張宝高の部下・李忠と交易問題。文室家家人・陽侯氏雄の密告により謀反の疑い。843年伊豆国に配流される。息に(佐渡)忠基、安恒。<伊豆は流刑地・・。>

文室ノ道世 (*)下野権介・下野介・鎮守府将軍。854年鎮守府将軍。
文室ノ甘楽麻呂 (*)陸奥介・鎮守府将軍。865年鎮守府将軍。
文室ノ有房 (*)ふんやの・出羽権掾・雄勝城司。藤原梶長の次官。879年「秋田川の合戦」に敗北し負傷。878年出羽秋田俘囚の乱に、出羽権守・藤原保則の指示に従う。

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