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織田軍その9 織田(羽柴)秀勝・羽柴(宮部)秀次の家臣団と軍団

織田信長家臣:羽柴秀吉の子飼衆と、織田(羽柴)秀勝・羽柴秀次の家臣団と軍団のページです。 

 織田秀勝(羽柴秀勝)(1568~1585)織田信長の実子。羽柴秀吉・寧々の養子。

「羽柴筑前守
 家老の者ども召し列れ、安土城に到りて、祇候申す」

『信長公記』
石田三成 肖像のつもり

 秀吉軍団は、成り上がりの新興勢力ゆえに 信長公から大敵毛利と戦える与力衆が手厚く加えられていた事でしょう。

 

羽柴秀吉の子飼衆 黄幌衆に続く親衛隊です。


 ○ 信長様の息子・羽柴秀勝のための一軍を率いる若手部将か。

蒔田広定 (*1545~1607)左衛門・権佐。広光の次男。母は木下氏。小姓頭衆のひとり。父・広光の跡職。のち徳川家に出仕。62歳 or 66歳

(1550年世代の武将)

織田信忠世代(1555 or 1557年生まれ)

○仙石秀久 (1551~1614)於勝・孫次郎・権兵衛・越前守。美濃出身、千石久盛の次男。荻原国満の養子。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。淡路州を率いて四国乱入を任される一軍の将。<出世の異常な早さから、もともと信長直参か。><9月黒田孝高とともに淡路渡海。三好在保、阿波木津城・篠原自遁の救援に出動。1581年という年代は黒田家の記録の誤りではないかということです。1583年頃とか大阪城を築城するにあたって、瀬戸内海の制海権を制するための軍事行動かもしれませんね。>

▽四宮光利 (*)太郎左衛門。仙石秀久の与力。

毛利重政 (1551~1597)森重政・六角・三井・鯰江・兵吉・兵橘・豊後守。尾張中嶋郡出身。森高次の息。弟に毛利高政。室は大神親長の娘。1582年備中「高松城攻囲」に従軍。毛利家への人質となる。毛利家より毛利姓を与えられる。1587年「九州島津征伐」に従軍。1592年朝鮮渡海、舟奉行。切支丹大名。<毛利勝信とともに毛利家への人質。>

○脇坂安治 (1554~1626)甚内。近江出身。浅井長政家老、脇坂安明の息。小姓衆。元、明智光秀臣。1573年上洛軍秀吉馬廻衆。「賤々岳の合戦」に軍功。七本槍のひとり。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。3万石。

片桐且元 (1556~1615)助作・車市正・直倫・直盛。近江出身、浅井旧臣直貞の息。「賤々岳の合戦」に軍功。七本槍のひとり(出世せず)。茨木城1万石。印「銀エヅル」

○藤堂高虎(1556~1630)与吉・与右衛門・佐渡守・和泉守。近江出身。浅井長政・津田信澄に出仕、近江長浜時代に羽柴秀長に出仕。1575年安土城築城に際して対の城・観音寺城の警備を尾藤知宣とともに勤める。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。「賤々岳の合戦」に軍功。8万石。<出世の異常な早さから、もともと信長直参か。>

○蜂須賀家政 (1558~1638)彦右衛門・阿波守。功臣・蜂須賀正勝の息子。1582年高松城攻囲に一軍の将。阿波国主17万3千石。

▽益田一政 (*)宮内。蜂須賀家政の家老。

平野長泰 (1559~1628)権兵衛・遠江守・長勝。美濃出身、右京進・長治の息。「賤々岳の合戦」に軍功。七本槍のひとり(出世せず)。印「白ハツリ」

大谷吉継 (1559~1600)紀介・紀之介・刑部少輔・吉次。豊後大友家旧臣、大谷盛治の息。1583年頃から秀吉側近として副状を発行。1590年「小田原征伐」に関東遠征の一軍の将。5万石。

毛利高政 (1559~1628)森高政・六角・三井・鯰江・勘八郎・民部大輔・伊勢守・友重。尾張中嶋郡出身。森高次の息。兄に毛利重政。木曾義昌の娘婿。1582年備中「高松城攻囲」に従軍。毛利家への人質となる。毛利家より毛利姓を与えられる。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍し負傷。息に高成、高定。<毛利勝信とともに毛利家への人質。>

(1560年世代の武将) 織田(羽柴)秀勝(1568年生まれ)を補佐するために選抜された子供達と言える。

石田三成 (1560~1600)左吉・三也。近江出身。五奉行のひとり。1590年「小田原征伐」に関東遠征の一軍の将。19万石。

後藤基次 (1560~1615)又兵衛。黒田孝高に養育される。

⇔伊東長次 (1560~1629)甚太郎・長実・丹後守。赤幌衆・伊東長久の息。大幌衆に抜擢される。

↓○小西行長 (*~1600)弥九郎・摂津守。備前浮田家お抱えの商人。堺の豪商の子。1581年播磨に所領を与えられる。秀吉舟奉行。のち肥後半国宇土城主、20万石。朝鮮出兵に際し一番隊隊長。

*福島正則 (1561~1624)市松・左衛門大夫・市兵衛。尾張出身。「賤々岳の合戦」に軍功。七本槍のひとり。拝郷家嘉を討ち取る。24万石。朝鮮出兵に際し五番隊隊長。

石川一光 (*~1583)兵助。羽柴(織田)秀勝家臣。「賤々岳の合戦」に福島正則を庇い拝郷家嘉に討たれる。

赤松広秀 (1562~1600)斎村・弥三郎・左京大夫・広英・広道・政広。赤松庶流、赤松政秀の息。龍野城主。1575年小寺・別所とともに信長に謁見臣従する。のち但馬竹田城主。2万2千石。1600年「関が原の合戦」に鳥取城下を放火し、家康の逆鱗に触れ切腹。赤松家は断絶する。

新庄直定 (1562~1618)新三郎・越前守。近江出身、新庄直頼の息。

*加藤清正 (1562~1611)虎之助・肥後守・主計頭。尾張出身、加藤清忠の息。「賤々岳の合戦」に軍功。七本槍のひとり。朝鮮出兵に際し二番隊隊長。印「銀バレン」

加藤義明 (1563~1631)孫六・左馬助・茂勝。羽柴秀勝の小姓。1582年高松城攻囲に一軍の将。「賤々岳の合戦」に軍功。七本槍のひとり。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。10万石。印「紫幌張」

団直之 (1567~1615)長八・右衛門・直次・鉄牛。加藤義明の臣。のちに小早川、松平、福島に出仕。

寺沢広高 (1563~1633)広政の息。秀吉の側近として威を振う。

谷衛友 (1564~1628)甚太郎・出羽守。美濃衆。父親は竹中半兵衛と軍師の座を競う関係。父の仇をその場で討つ。

戸川達安 (1567~1627)大工・助七郎・肥後守。浮田家家老。2万5千石。

黒田長政 (1568~1623)松寿・吉兵衛・甲斐守。孝高の息。蜂須賀正勝の娘婿。蜂須賀家政は義兄弟。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。のち18万石。朝鮮出兵に際し三番隊隊長。

(1570年世代の武将)浮田(羽柴)秀家世代

○前野景定 (*~1595)小次郎・出雲守。功臣・前野長康の嫡子。羽柴秀次の家老となる。秀次事件に連座して切腹。

浮田秀家 (1572~1655)羽柴・宇喜多・八郎・家氏。浮田直家の次男。1581年直家病死後に戸川秀安、長船貞親らに補佐され家督。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。朝鮮出兵に際し八番隊隊長。

毛利勝永 (1577~1615森吉政・豊前守。黄幌衆・森吉成(毛利勝信)の息。豊前小倉6万石。1600年「関ヶ原の合戦」により失脚。加藤清正、山内一豊の食客となる。1614年大阪城入城。「夏の陣」に本多忠朝隊を破る。弟に(山内)可近。息に勝家。

西国の諸豪族


(山陽播磨)織田「羽柴」秀勝の軍団

<以下 妄想編>

 <信長様の息子・秀勝を養子とし、大切な跡取りの為に、厳選して用意された重臣と思われます(信長の意向も反映されているかと・・)。

 その遺臣は「羽柴秀次」・秀勝・秀秋兄弟が相続したと推測されます。>

↑織田秀勝 (1568~1585)羽柴・御次・於次。織田信長息、羽柴秀吉・寧々の養子。1582年高松城攻囲に一軍の将。1582年「山崎の合戦」、1583年「賤々岳の合戦」に従軍。

<織田秀勝一門御由緒衆>

*藤掛長勝 (1557~1617)(織田長勝)・三蔵・三河守・美作守。織田永継の息。外祖父・藤掛善右衛門に養育された。御次・秀勝の家老。

↑*木下嘉俊 (*~1584)(織田嘉俊)・雅楽助・周防守。中川重政・津田盛月の弟。織田信長の親衛隊、元・赤幌衆のひとり。のち豊臣(羽柴)秀次の後見人となる。1584年「長久手の合戦」に討死。<1580年京都馬揃えに織田家一門衆として行進している織田周防守はこの人物か。>

*津田信任 (*)(織田信任)・与左衛門・左近将監・信秋・入道長意。黒幌衆・津田盛月の息。1573年羽柴家大幌衆。1582年「高松城攻囲」に一軍の将。のち山城国御牧城主。35000石。のち洛外千人切り容疑者として失脚。前田家に寄食する。

高田治忠 (*)孫十郎・豊後守・河内守。羽柴秀勝の直参。1582年「山崎の合戦」に従軍。のち秀吉に仕え丹波にて一万石。1600年関ヶ原に藤掛長勝と行動を共にする。戦後失領。

↑石川一光 (*~1583)兵助。羽柴(織田)秀勝家臣。「賤々岳の合戦」に福島正則を庇い拝郷家嘉に討たれる。

↓○加藤義明 (1563~1631)孫六・左馬助・茂勝。美濃衆。羽柴秀勝の小姓。1582年高松城攻囲に一軍の将。「賤々岳の合戦」に軍功。七本槍のひとり。10万石。印「紫幌張」。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。

伊木遠雄 (1567~1615)半七・七郎右衛門・常紀・遠勝。羽柴秀勝の小姓。「賤々岳の合戦」に軍功。秀吉「黄幌衆」に抜擢される。のち御馬廻七頭のひとり。1600年「関ヶ原の合戦」に浪人。1614年真田信繁与力。

<織田秀勝譜代家老衆>

(尾張与力衆)

山内一豊 (1546~1605)猪右衛門・対馬守。尾張岩倉織田信安の老臣・山内盛豊の息。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に初陣。秀吉「黄幌衆」のひとり。1582年高松城攻囲に一軍の将。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。7万石。のち豊臣(羽柴)秀次の家老となる。<その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。京都馬揃えに参加しているということは、中国陣にて参加できなかった羽柴家中には所属していなかったということでは・・。>

前野景定 (*~1595)出雲守。前野長康の嫡男。但馬を領する。1595年5月「秀次事件」で失脚。のち事件に連座し改易。

山口正弘 (1545~1600)左馬助・玄蕃頭・宗長・宗永。尾張の山口光広の息子。のち豊臣(羽柴)秀秋の後見人になる。秀秋に代わり小早川隊を率い朝鮮渡海。1598年加賀大聖寺城主。<尾張鳴海城主、今川に内通し信長に討たれた山口教継の一族カ。><父と同名の多羅尾(山口)光広は別人。>

(美濃与力衆)

○一柳直末 (1546~1590)・<稲葉・林>熊・市介・市助・伊豆守・末安。近江出身。土岐家旧臣、稲葉一族、一柳直高の嫡男。秀吉「黄幌衆」のひとり③。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。織田秀勝、羽柴秀次の家老となる。<武功夜話では草創期から、弥左衛門とともに秀吉与力衆。><その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。>

一柳直盛 (*)<稲葉・林>・監物。直末の弟。1582年備中「宿毛塚城攻城戦」に敵将・真野十右衛門を捕虜とする。

(近江与力衆) 田中吉政は宮部家中から、宮部家養子・秀次家老となるか。

浅井井頼 (1570~1614*1661)喜八郎・周防守・井織。羽柴秀勝与力となる。1583年「賤ヶ岳の合戦」に軍功。秀勝の死により浪人。秀次、秀保、増田長盛に出仕。<浅井長政の息とも。>

木村重茲 (*~1595)隼人正・常陸介・重高・定光。近江出身、木村重成の父。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。のち豊臣(羽柴)秀次家老、山城淀城18万石。1595年5月「秀次事件」で失脚。

渡辺 勝 (1561~1626)速水・庄兵衛・筑後守。与右衛門・重の息。<近江出身か。>

渡辺 了 (1562~1640)勘兵衛・吉光。近江出身。浅井氏家老、渡辺任の息(養子)。元・阿閉氏の家臣。摂津「吹田城攻略」に軍功。信長から賞賛される栄誉。羽柴秀勝与力となる。1583年「賤ヶ岳の合戦」に軍功。秀勝の死により浪人。後に中村一氏・増田長盛・藤堂高虎に出仕。「小田原征伐」に先陣の将。息に渡辺宗。

(播磨与力衆)

↑明石元知 (*~1595)与四郎・則実・則春・全豊・左近将監。黒田孝高の従兄弟。淡路渡海組(水軍衆)。阿波に遠征し、各地で戦功をあげる。のち羽柴秀次の家老となる。1595年5月「秀次事件」で失脚。秀次事件に自殺。<黒田家から離れた軍事行動を行っているのは、信長様に将才を認められてのものか。>

<1581年9月「明与四」、生駒甚助とともに阿波木津城・篠原自遁の救援に出動。>

石井* (*~1592)与次兵衛。播磨明石の水軍の将。1577年頃織田家に臣従。

(備中与力衆)

○花房職秀 (1549~1616)助兵衛・職之。美作荒神山城主。秀勝与力。<浮田家から半独立の直参有力国人として扱われているのかもしれません。>


《個人的感想》 秀次事件が、織田秀勝 遺臣たちのおこした豊臣政権転覆活動だったのなら面白いのになああ~ということで、

このページはフィクションですから真に受けないで下さい。

 秀吉・秀長兄弟の中国地方攻略に影響を及ぼしたであろう尼子氏遺臣。

豊臣(羽柴・宮部)秀次の家臣団

羽柴秀次 (1568~1595)三好信吉・宮部吉継・次兵衛・孫七郎・吉継・信吉・信由。三好吉房の息、宮部継潤養子、三好康長養子、秀吉養子。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。1593年秀頼誕生。1595年5月「秀次事件」で失脚。<光秀生存説があるのに秀次生存説は何故ないのでしょう。宮部吉継の名乗りに戻って、大谷吉継へ改姓して関ヶ原に三成を助けていたらという話があればけっこう面白いと思います>

(秀次一門衆)

⇔*三好吉房 (*~1612)三輪・弥介・弥助門・長尾常寛。秀吉の姉婿。羽柴秀次の実父。1567年伊勢桑名攻略に従軍。尾張清洲11万石。1595年5月「秀次事件」で失脚。

(豊臣秀次与力家老衆)

⇔*木下嘉俊 (*~1584)織田・雅楽助・周防守。中川重政・津田盛月の弟。織田信長の親衛隊、元・赤幌衆のひとり。のち豊臣(羽柴)秀次の後見人となる。1584年「長久手の合戦」に討死。<1580年京都馬揃えに織田家一門衆として行進している織田周防守はこの人物か。>

木下吉俊 (*~1598)半介・大膳大夫・吉隆・吉種。秀吉の側近。元・祐筆。「文禄の役」に肥前名護屋城に在陣、1500兵を率いる。1593年大友吉統の失脚により、豊後大野3万五千石を領する。<美濃の豪族・西尾光教の娘婿だったとも。>

○○前野長康 (*1528~1595)勝右衛門・将右衛門・但馬守・光景。前野宗泰は稲田とともに岩倉織田氏の三家老。坪内勝定の息、北畠信雄の守役・小坂雄吉の弟。最初岩倉織田信安の臣。1570年正月禁裏警護。1570年比叡山攻囲に参加。1570年洛中警護隊。金ケ崎退き口で前野九郎兵衛に援けられる。1573年上洛軍。羽柴秀長の補佐役。別所滅亡後、播磨三木城主。後、但馬国出石城主。羽柴秀次の後見人となる。1595年5月「秀次事件」で失脚。

○前野景定 (*~1595)小次郎・出雲守。功臣・前野長康の嫡子。羽柴秀次の家老となる。秀次事件に連座して切腹。

(秀次与力衆)

⇔○○堀尾吉晴 (1544~1610)美濃出身。父は尾張岩倉織田家家老。幼くして秀吉に仕える。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。1573年上洛軍秀吉馬廻衆。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。1582年「山崎の合戦」前に丹波亀山の木村吉清を降す。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。のちに豊臣三中老。17万石。

○一柳直末 (15461590)<稲葉・林>・熊・市介・市助・伊豆守・末安。近江出身。土岐家旧臣、稲葉一族、一柳直高の嫡男。秀吉「黄幌衆」のひとり③。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。織田秀勝、羽柴秀次の家老となる。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。

○一柳* (*~1595)<稲葉・林>・弥三右衛門・右近将監・可遊。近江出身。秀吉「黄幌衆」のひとり③‘。伊勢桑名城主。小田原征伐、朝鮮の役に従軍する。秀次事件に連座し切腹。

⇔○○山内一豊 (1546~1605)猪右衛門・対馬守。尾張岩倉織田信安の老臣・山内盛豊の息。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に初陣。1573年上洛軍秀吉馬廻衆。秀吉「黄幌衆」のひとり。1582年高松城攻囲に一軍の将。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。7万石。のち羽柴秀次の家老となる。

⇔○中村一氏 (*~1600)滝・多喜・孫平次・式部少輔。近江甲賀の豪族。中村一政(または一成)の息。池田恒興の娘婿。瀧川一益の縁戚。上月城救援の先手武将。1577年「石山本願寺攻め」に天王寺在陣。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「山崎の合戦」に軍功。1583年岸和田城主。1585年近江水口岡山城主6万石。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。豊臣三中老のひとり。のち岸和田城、17万5千石。息に一忠。

⇔▼木村重茲(*~1595)隼人正・常陸介・重高・定光。近江出身、木村定重の息、「大阪の役」で豊臣方旗頭となる木村重成の父。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。羽柴秀次の家老職、山城淀城主18万石。1595年5月「秀次事件」で失脚。

▼○明石元知 (*~1595)与四郎・則実・則春・全豊・左近将監。黒田孝高の従兄弟。淡路渡海組(水軍衆)。阿波に遠征し、各地で戦功をあげる。但馬城崎2万石。1595年5月「秀次事件」で失脚。秀次事件に自殺。

羽田正親 (*~1595)六蔵・長門守。羽柴秀長の直臣。のち秀保に仕える。1595年5月「秀次事件」で失脚。

(新参衆)

⇔○服部一忠 (*~1595)小兵太・小平太・采女正・忠次・春安。1560年5月「桶狭間の合戦」に今川義元、最初槍(はなやり)の将。織田信忠軍団所属。信忠の補佐役カ。のち秀吉に出仕し黄幌衆のひとり。3万5千石。秀次事件に連座して切腹。海東郡津島村出身。

⇔▽渡瀬繁詮 (*~1595)小次郎・左衛門佐・氏勝・繁勝・重詮。由良成繁の息、国繁の弟。


≪個人的感想≫ 秀吉軍団は他の軍団と違って連帯感があり、山陰、山陽の各地域に分立していても一個の軍団である絆が強いと思います。柴田軍団は与力の前田、佐々がそれぞれに動いてバラバラ。瀧川軍団にしても「神流川の合戦」以降は主力が欠けてしまい各部隊がバラバラで一益についてきていない気がします。

 秀吉軍団では宮部継潤が信長から軍団長に引き上げられていますが、彼は羽柴秀次を養子にしているし、のちの九州島津戦で彼が窮地に陥ったとき援軍を怠った尾藤知宣が秀吉の烈火の如き怒りをくらったといいます。それほどの信頼関係が成立していたのでしょう。

 ここに記した以降の家臣は、織田信長と織田信忠により近い武将達で、「本能寺の変」がなければ対等なライバル関係にあったかもしれない武将達で、森長可は信濃領国を徳川家康に簒奪されていたわけですから、羽柴秀吉より徳川家康を激しく憎んでいたと思います。「小牧・長久手」で散ってくれて徳川としてはラッキー、それで秀吉との講和がなったのかもしれません。主戦派がいなくなったわけですから。

 秀吉にしても目のうえのたんこぶだった織田嫡流に近い重臣である池田恒興・池田元助親子が散ったことでラッキーだったかもしれません。

中川清秀は柴田との戦いで消えてしまってますし、いつのまにか信長様・信忠さんに近い人物が消えてくのが天下の移り代わりなのでしょうねえ・・。

堀秀政さんもその流れには抗えなかったのでしょう。

織田(羽柴)水軍

瀬戸内衆

 中国方面軍と接触があったと推測される武将です。

↑○小西行長 (*~1600)弥九郎・摂津守。備前浮田家お抱えの商人。堺の豪商の子。1581年播磨に所領を与えられる。秀吉舟奉行。のち肥後半国宇土城主、20万石。朝鮮出兵に際し一番隊隊長。

▽来島通総 (1561~1597)村上勘兵衛・助兵衛・出雲守通昌。通康の四男。毛利、織田家に出仕。1582年4月秀吉に通じる。

<元・三好水軍>

安宅清康 (*)河内守。安宅信康の弟。三好家旧臣。水軍衆。安宅信康の跡職継承。1581年当時、毛利配下のため羽柴秀吉・池田元助の攻撃をうけ降伏する。池田元助に伴われ安土に出頭した。その後は織田水軍に組み込まれた。<池田元助の与力として、四国渡海組を輸送する予定か。>

野口長宗 (*)安宅冬康の弟。淡路水軍。淡路志智城主。

船越景直 (1540~1611)五郎右衛門・左衛門・宗観。細川氏、安宅冬康、三好長治の旧臣。淡路の豪族。船越景綸の息。荘田城主。のち秀次事件に連座。

⇔篠原自遁 (*)肥前守。阿波三好家家宰。小笠原一門。阿波名東郡の豪族。木津泊の支配者。阿波三好家家督を相続した三好長治を補佐。1578年十河在保に攻撃され降服臣従。1581年2月三好康長の救援。阿波木津城主。1582年「中富川の合戦」に逃走。以降消息不明。<十河在保に心から臣従したわけではなかったのかも。>

⇔菅平達長 (*~1614)菅達長・菅・平右衛門。三好水軍。淡路岩尾城主。淡路海族衆。のち長宗我部家に出仕。1585年7月の四国征伐後、秀吉配下となる。

森 村春 (*)志摩守。三好水軍。阿波土佐泊の支配者。土佐泊城主。

⇔香川信景 (*)之景・元景。西讃岐の国人領主。元・細川家家老。讃岐国天霧(雨霧)城主。三好義賢、毛利元就に従う。信長の上洛に逸早く従い、信景と改名する。織田家の援助を受け、長宗我部元親の圧力に抗する。のち元親と協調し、元親次男・香川親和を娘婿に迎える。1579年岡豊城にて歓待される。

⇔石井* (*~1592)与次兵衛。播磨明石の水軍の将。1577年頃織田家に臣従。

<その他、関係者>

◎尼子勝久 (1553~1578)孫四郎。尼子家再興のために奮闘。播磨上月城で毛利軍に包囲され、孤立し自害。

◎島井茂勝 (1539~1615)宗室・虚白軒。北九州、博多の豪商。茶人。

<織田軍の四国征伐戦> 黒田家の記録では1581年に羽柴軍も渡海したことになっているが、池田元助軍が主に動いたようです。


1581(天正9)年

2月三好康長、阿波渡海。十河(三好)在保、阿波勝端城入城。

7月三好在保・篠原自遁が一宮成助を攻撃。長曾我部元親、久武親直を一宮後詰に派遣。

三好康長 渡海上洛し戦況報告。

11月池田元助、淡路制圧。岩屋城、由良、洲本城制圧。<池田元助がやはり淡路島を制圧した様子。>

1581(天正9)年、内々に村上武吉が信長に鷹を贈る。

1582年6月矢部善七郎・家定、淡路に先陣。<矢部家定は先行して淡路まで渡っていた様子。「本能寺の変」は遅れて聞いた事でしょう。>

<秀吉の四国長曾我部征伐>

 1581年という年次は黒田家の記録が誤りの様子です。1583年に展開された作戦のようです。

9月黒田孝高、淡路渡海、野口長宗と合流。

生駒親正、明石則実、仙石秀久を阿波へ派遣。<ここで、仙石秀久さんが活躍するようです。>

<信長評>同じ時代に生きた人達の評価です。

-ルイスフロイス-「彼は良き理解力(理性)と、明晰な判断力を有し、神及び仏の一切の礼拝、尊敬する崇拝、ならびに異教徒的な占いや、迷信的な慣習の軽蔑者であった。」(略)「尊大にすべての偶像を見下げ、霊魂の不滅、来世の賞罰などないと見なしていた。」日本史

<すさまじく無神論者というか・・。本当にすごい人ですw。 究極の侍魂です!!>

「私(フロイス)達との談話は2時間半から3時間に及び、その間彼(信長)は、四元素(地・水・火・風)の性質、日月星辰、寒い国・暑い国の得質、諸国の習俗について質問し、これに対して大いなる満足と喜悦を示しました。」

<織田軍団が科学力的にも、中世戦国大名から脱皮していくさまが伝わってきそうな話です。>

「3時間余り彼等(オルカ゛ンティーノ・ロレンソ)を引きとめ、司祭が欧州から日本に来るのにどのような旅をしたかを地球儀によって示すことを希望した。彼はそれを見聞した後、手を叩いて感心し驚嘆の色をみせた」

<信長様は日本に決着つけて、大航海時代の海に乗り出したくて、たまんなかったでしょうね。>


≪個人的感想≫長篠合戦図屏風では、徳川天下の時代に描かれたので、すみっこで不当な扱いを受けているもようw きっとその他にも徳川家に敵対したりで不都合な武将は、名前を削除されたり、省略されたりしていることでしょう。賤ヶ岳の合戦図屏風では羽柴秀吉と丹羽(惟住)長秀との親友ぶりがみれるし、元気なとこが好きです。

それにしても信忠様が生きていればなあ~、この二人の姿を九州あたりで見れたかもなのに。惜しい・・・・(嘆。

 

≪個人的感想≫

 初期に織田信長の本軍から独立して軍団長格になるものには、尾張弾正忠家の信秀古参重臣には(美濃から移住)、柴田、佐久間(西三河)がいます。尾張衆に丹羽木下、塙、簗田。他国衆に明智、荒木、長岡など。

 1575年前後にそれぞれの改名や任官には信長様の意向が深く関わり、惟任(明智)・惟住(丹羽)・別喜(梁田)、柴田・原田(塙)、滝川・川尻、荒木・羽柴(木下)の重臣間の結束をとりもったり、ライバル関係を創出し競合させようとの意図もみえます。

疑問1:現代の通説でみると瀧川・丹羽(惟住)が大大名になるのは遅いということになってますが。>

 1567~68年当初は瀧川一益・丹羽(惟住)長秀の遊撃(独立)軍団長への出世が一番早いのでは?(1561年に佐久間信盛が西三河衆の旗頭なら佐久間が一番ですが)。長秀については方面軍軍団長に就任していないとされますが、柴田に「惟任出頭(勝家も惟住長秀の出世には驚いていないが、惟任光秀の出頭があまりに抜擢すぎて驚いていたのでは)」と評された出世時の光秀軍団が、丹波方面に面する坂本城から藤孝の勝龍寺城ラインの在地武士で構成されるとするならば、惟住(丹羽)軍団には佐和山城から伸びる北国街道沿い越前の敦賀(武藤舜秀)、琵琶湖の北側の高嶋郡(磯野員昌~津田信澄)、若狭小浜に向かう九里半街道沿いの在地武士が含まれていたのではないでしょうか。とすれば、長秀のその支配圏は当時の宿老・佐久間信盛に次ぐ大軍団長なのでは・・。惟任・惟住の両軍団、北畿(東・西)方面軍と仮称したいです。

 明智(土岐源氏)・細川(幕府管領家)の改称は織田(越前織田神社の神官家)より名族の家筋の姓を軽んぜよと、信長様が暗に圧力をかけているものでしょうか。また、北畿方面軍では惟任・惟住の名で、明智光秀丹羽長秀の両人が互いの働きを意識する組み合わせを創出しています。

 敦賀の武藤が他の越前衆から独立的な軍事行動をする事、浅井の重臣・磯野員昌を長秀が調略したこと、高島郡の津田信澄が長秀とともに大阪城在番になること、北近江からの若狭支配へのルートが確保されていることと考え合わせると・・。丹羽(惟住)長秀の軍団は一向一揆の下火のある越前に対して睨みをきかせる軍団なのでは。

 1575年7月の丹羽(惟住)長秀の信長様の覚えがよくなるメリットを捨てての「越前守」任官辞退は、すでに越前を領している勝家に遠慮したものかもしれませんね、有名な話ですが木下秀吉が織田家一、二の重臣の柴田・丹羽(惟住)にあやかって、苗字を羽柴にしたいと信長に懇願した話しもあり、任官辞退劇は柴田と重臣筆頭の勢力争いを繰り広げられる程の実力者と見られることを避けたというか、常に副将的存在で居続けようというか、同僚に配慮する長秀なりの処世術だったかもしれませんね。

 最近読んだ本では、この時に長秀さんの任官に用意された官位は「壱岐守」だったらしいです(どれがほんとなのかなあ・・。)なんにせよ辞退したことだけは確かな様子。謙虚に五郎左衛門のままでいたかったんだろうけど、結局の「越前守」への任官は、後年に羽柴筑前守さんに官位をどんどん抜かれて行った時にはさすがに焦ったのでしょうか。というか 本能寺変後の官位任官推薦の権限(頼朝の欲しがったもの)は誰の手に渡ったのでしょう・・。

 近江長浜時代の秀吉も天下人となって後世の評価があがるまで、最初は長秀さんの与力(副将格)かもしれないと思うのですが・・、秀吉は秀勝養子の件で織田家準一門となり、播磨出陣で遊撃(独立)軍団長として、やっと地位向上したような感じがするのですが。

 しかし、織田の主力軍とはナンゾヤと最近は織田家関係の本を読むと痛烈に思います。信長様の旗元(旗本)衆はもちろん主ですが、織田軍団として主というか、柱を成していたのは、初期は佐久間・柴田、後期は瀧川・惟住だったんじゃないのでしょうか。

 地方方面軍は局地的にへばりつきでありますし、 また信長様の個人的な特別な軍団というわけではなく、

 織田の中核軍として畿内の人に一般的に認識されていたのは、信忠を補佐して畿内の平定に奔走していた丹羽(惟住)・瀧川の両大将の軍団だったんじゃないのかなあ・・・。「米五郎左」主力部隊(織田本軍として人数を揃える(養える兵糧を準備するので大変です)役目)、「攻めるも瀧川、引くも瀧川(攻撃部隊として主役)」役割分担があって、その異名の通りの活動が荒木村重の有岡城攻撃に見えてるような気がします。

 「遊撃軍団」という通説の名称が、二人の職務に軽さを与えているというか、光秀・秀吉に劣るという印象を植え付けているのではないのでしょうか。二人が関東・南海道に派遣されるまでは、当時、織田家の本軍といえば瀧川・惟住の率いる軍団だったんじゃないのでしょうか。

秀吉が天下をとったのは、毛利との決戦に備え織田の戦力が中国表に集中されていたことと、地理的な要因で優位だったこと、運がよかったこと。

 瀧川・丹羽(惟住)は運が悪かったとしか・・。決して器が劣っているとは思えません。

疑問2:惟につづく「任」と「住」になにか二人の特徴を示すの意味があるのかなあ・・。信長様の真意はなんでしょう?>

 九州では鎌倉時代に宗一族の惟宗家があります。通説では、原田・別喜(戸次)の4人で九州の名族の名を冠することで、これに羽柴秀吉の「筑前守」が山陽道を指しているとされます。織田家の天下布武の意志と、旗頭武将の赴任先を暗に示しているものでしょう、ということでのちに惟任(明智)は山陰道から、惟住(丹羽)は南海道から西方に向かうことになりますし、通説どおりなのかなあ~。

 <最近思うところがあって、信長様の事ですから部下の改姓には、前提として何か故実がありそれに絡めて名付けているのではないか仮定しました。原田は平安時代末期に清盛が、京都を制圧し後白河法皇を幽閉したときに活躍した重盛の娘婿・原田種直。惟宗は鎌倉時代初期に「承久の乱」に若狭守護として後鳥羽上皇に反抗したの島津(津々見)忠季。

 戸次は建武新政に新田義貞の尊氏討伐軍から足利尊氏側に寝返りをうって後醍醐天皇の政権に終止符を打った元近衛家の武人の家系(大友)出身の大友貞載さんを意識して名付けられたものではないでしょうか?徹底して反公家というか、あらぶる武家魂を体現した過去の猛将に由来するものでは??(妄想です)。>

 <また最近は・・。大和国の松永久秀が九州の原田種直を祖とする一門とかなので、松永に対して塙(原田)直政が何か特別な関係をもち、上位者としてあるために原田姓となったのでしょうか。筑前守は三好家惣領が代々称しているようです。

 惟宗氏に関しては「元・近衛家直属の侍だった」とかなので、朝廷と織田政権との近しい関係を公表するために、近衛家から「惟」の字を貰ってきたのかも・・。上杉謙信とも親しい間柄の近衛ですから、その家の家侍の字を冠した織田家武将が北畿内を制圧することは、上杉謙信に対しても友好的なアピールとなったのかもしれませんね~と、ふと思いました。>

 <またまた最近は・・。信長様の信仰について関連ありそうなパターンで考えてみました。原田は大蔵氏、惟住・惟任・別喜(戸次)は大神氏に通じるようです。どうやら白山などの山岳信仰の神道系の家柄の名字のようでもあります。本願寺の仏教に対して、神道で切り返したのでは。>

 宗教についてはキリスト教と光秀さん、切支丹かといわれる光秀のイメージとは、どう解釈していいのか謎ではあります。安土山を中心に「八百万神のひとり」として信長様自身が神になるつもりなら、キリスト教(唯一神)に感化されていると噂のある光秀さんからみれば大悪行・・。神道の元締め吉田家と仲の良い光秀さん。光秀は吉田家にはめられたのでしょうか。

 山陽道方面でも同様に荒木と羽柴のライバル関係を創出しつつ、明智と荒木の関係をとりもつ婚姻政策があり、配下の微妙な勢力バランスの関係を楽しんでいる感も漂います。

 関東方面に、徳川家康瀧川一益川尻(河尻)秀隆と川の字を集めているのは、毛利両川をどこかで意識しているような遊び心も持っているような気がします。「織田家の三川のほうが優れているぞ」みたいな(妄想! それはないかなあ~(笑)。

 川尻家、坂井家は信長様の主筋、清洲織田家の四おとな衆の一家なので、そこから親信長派として主筋から跳びだした(離反した)ので重く用いられたのでしょうか。

 別喜(簗田)広正の家系は「桶狭間の合戦」での今川義元撃破に大功があり情報戦に通じているといわれる簗田一族です。織田信長が「桶狭間」に向かう時白山神社の支社に立ち寄ってお祈りをしたとか。白山の神官家に簗田氏があり・・、加賀に配置されるのはこの縁でしょうか。

 簗田家はもともと守護・斯波氏のおとな衆の格の高い家柄のようです。で那古屋氏とも仲が良いようですし。北陸方面に柴田とともに派遣されたのは旧領主「斯波家」の縁か。

 原田直政は柴田勝家と姻戚関係(佐久間・飯尾・長谷川も絡む一大勢力)があり、信長様のその派閥への期待度が感じられます。田のつく名前は柴田にあやかれということでしょうか。召集指令書を右筆に書かせている時に、信長様が頭に思い浮かんでくる部下の名字のうち、単に柴田・原田の語呂が良いので「発音しやすいように改名させてゆくんだあ~」なんてことは・・・・・。なんでも合理主義の信長様なら、ありえることかもしれませんねw。(じつのところは織田・柴田と、塙さんの血縁の濃さを本人たちに再認識させるためか。)

 信長様の人材登用というか重用される重臣達のグループは、 →(じいさま信定とりたて)=林(稲葉分流)・森・平手派閥 →(おやじ信秀とりたて)=柴田・原田・佐久間・村井・派閥 → (奥さん濃姫より美濃衆)=明智・斉藤・金森・市橋派閥 → (信長様とりたて)=池田・瀧川・丹羽・羽柴・生駒派閥の競争と循環だったりするかもなあ・・。

疑問3:筒井順慶の対応について。織田親子死亡への流れ。>

 信長様は1576年以降は前線にはたちませんが、毛利家にたいし京都まで信長・信忠親子が上洛してしまったのは、強敵との直接対決に際しては軍団長クラスで編成された軍団は、織田一門の将が旗頭「御名代」でないと、諸将は対立して規律を維持できないのだということを痛感していたのではないでしょうか。

 本願寺との直接対決の中での原田直政戦死事件、武田信玄との「味方ケ原の合戦」での徳川家への救援・佐久間信盛軍団の撤退事件や、上杉謙信との「手取川の合戦」に向って、宿老・柴田勝家の旗頭のもと、能登七尾救援軍が編成されますが、羽柴秀吉の加賀戦線離脱事件や、毛利家との対立の中では羽柴秀吉軍団と荒木村重軍団の主導権争いから、荒木謀反の事件等があり、軍団が崩壊しています。信長様はこういった失敗から必ずなにかを学び取っていったのでしょう。(本能寺の変は惟任と羽柴を束ねる為の自身と信忠さんの出陣が死を招きましたが・・)。

 信長様の家臣団は1576年頃からの後半部分は諸侯、官僚と役割分担が明確になってきているような気がします。各地方方面軍の大軍団長に対して、信長様の下で近江・美濃・尾張出身の莫大な規模の近衛軍(本軍)を束ね、実質的指揮者となる元赤幌衆の福富(福住)秀勝がいるとおもいます。

 福富の動かす信長守護の本陣に対して、先手大将として前線担当の堀・野々村たちのような各特化された個性の大将があったのでしょう。

 各地方軍団長の方面軍の後詰として、まず織田家主力軍の(信忠)・惟住・瀧川が動き、その次に信長様直属の織田家近衛軍団(本軍)が動いた時に、敵対大名との最終決戦がおこなわれていたのではないでしょうか。

 「本能寺の変」につながる失政としては各地の戦国大名と大軍団長が後詰が来るまで単独で睨み合えるように、大軍団長の(旗元・内衆)を誇大化させてしまっとことでしょう。佐久間信盛が直臣を育成していないと叱責したことから、軍団長の養兵を奨励してしまった点に問題があったと推測されます。(佐久間を讒言して、信長様のこの考えを誘導したのなら、光秀の策略はここから・・。)

 惟任光秀に従う約一万の軍団が末端に漠然とした命令しか伝わらない状態だったので、足軽達は「徳川家康を信長様の命で討ちに行くらしい。」と誰を討つのかわからず本能寺へ突撃してしまったのでしょう。事が理解できてからは事変の共犯者として、織田信忠打倒に協力するしか道は残されていなかったのかとも思われます。

 信忠軍団主力が甲斐・信濃の領国支配に残留(留守居)していたため、上洛した信忠さんの手勢も少なかったかもしれませんね。なぜ京都に信忠さんが主力を引き連れて上洛しなかったのかというと、信長様が戦闘指揮からの引退とかねて、近衛軍の全権を委譲するという通達をしていたからではないでしょうか。

 「天下の儀 御与奪(与奪って表現どうなんでしょう?、普通は譲与では)とは、近江の信長様直轄、「近衛軍」を信忠さんに譲渡するので、その近衛軍を率いて毛利攻めの織田本軍となれという意味合いがあったのかと。足利義昭がまだ生きており、将軍職にしがみついていることから、息子の織田信忠が「将軍職」を自称し、実力で天下を覆らせてみせるということか。信長の自称「尾張守」や、美濃・近江の実効支配などが、権威を真っ向から否定するやり方だったので、息子もそれを踏襲するという、世の中への宣言だったのかな?とも思えます。<また、摂津の池田恒興隊も明智組下というよりは、信忠付属の遊撃軍団というものではないのでしょうか。塩川家は信忠さんの外戚ですし。1580年以前の信忠さんの畿内(摂津方面)での軍事活動を忘れすぎてるような気がします。>

 山陽方面軍の後詰として、まず織田家新主力軍の惟任・池田が動き、その次に新当主・信忠直属の織田家近衛軍団(本軍)が動いた時に、敵対大名・毛利家との最終決戦をおこなう算段だったのではないでしょうか。

 新主力といっても、惟任さんの任期は対・毛利戦だけで、しかも山陰に配置されたならば二度と畿内に戻ってくることはないので、その点にも失望を感じていたのではないでしょうか。織田軍といえば「米 五郎左」のように、畿内に君臨したい。瀧川のように「かかれ、ひけ」と戦場の織田全軍に指令を出す指揮官になりたいという思いが叶わぬまま、洛内から去ることが「面目をうしなった」、自分を重用しないことが「天下のさまたげ」と感じたのかもしれませんね。

 「新二条御所の戦い」は、信忠さんが譲り受けた近衛軍の隊長格、福富・菅屋・野々村等と、信忠さん親衛隊のはじめての共同戦線だったかもしれませんね。安土にいる時から、もうすこし早く寡兵をして、近衛軍全軍が召集されていたなら、惟任軍といえども及ばない大軍団となっていたでしょうに・・。

 光秀さんは、ほんと信長親子の一瞬の間隙をついたというか、こういう隙をつくところが、将としてやはり「ずば抜けていた」ということだなあと改めて感じます。

 それにしても、筒井順慶。同じように兵士を率いて上洛しようとしていたとしたなら、信忠さんは新二条御所で順慶の後詰を期待して籠城したのでは???。<京都を脱出せずに、なんのあてもなく新二条城にたて籠るとは思えないのです・・。>

 筒井順慶は上洛途中で事件を聞いて急いで大和に帰還したことになっています。が、この時「洞ヶ峠」あたりに来てたんじゃないでしょうか? 大和に引き返した、この順慶の態度こそ、本来の意味で「洞ヶ峠」だったのかもしれませんね(妄想。 

 そして明智光秀の協力要請に対しての「洞ヶ峠」までの出陣。のちに「山崎の合戦でも「洞ヶ峠」あたりで傍観、ひたすら「洞ヶ峠」を繰り返したんじゃ?

 のちに筒井家家老の松倉右近が秀吉に重用されるのは何故か。筒井家浪人の島左近が石田三成に迎えられるほど有名になったのは何故か。筒井家の両家老により、表には出てこない歴史を変える状況判断があったのかもしれませんね(妄想。

 あと気になってるのは大坂に駐留していた四国渡海軍の減り方です。惟住(丹羽)長秀は、津田信澄を討つという三好信孝の暴走をとめられず、在坂織田軍を同士討ちさせてしまい、その失態から織田重臣筆頭の地位から転落してしまっていたのではないのかな・・・。信孝さんも自ら「御名代」という地位を投げ出してしまった軍団崩壊の暴挙だったのかな。四国にもう少し早く渡って長曾我部を討っていたら、織田家家督の「御名代」が待ってたかもですね。

信長様が当時西洋で全盛期を迎えていた絶対王政をどこまで理解していたか判りませんが、宣教師から西洋の王政のしくみを聞いていたことは間違いないでしょう。

 それにしても、織田家は世界の「大航海時代」の時流に乗って、西洋の文明に触れて、第一次「文明開化」ともよべる中世から(西洋的な)近世への脱却をはかる先駆者となりえたのではないでしょうか。

 秀吉さんのやったことと、信長様の目指していたものは、どう違っていたでしょう。徳川家によって閉鎖的鎖国庄屋社会に引き戻されますけどっ! <徳川家康きらいなのか俺(汗)。>

信長様の理想はもっと高いところにあったかもなあ~(妄想)。織田家の引っ張る日本を見たかったです。

ただただ、信忠さんを惜しみます。 「判官びいき」じゃなくて「城介びいき」ということで・・。

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その後の織田信長・信忠の軍団編成

 <本能寺の変がなければと、その後の家臣団の成長を予想した信長の軍団編成表です。もし上杉・伊達家の家臣団のような格式を設けるならばという前提で考察してみました。個人的な考察です。>

<織田家連枝衆> 御一家 三将軍

織田信忠(尾張・美濃国、岐阜城120万石)

(軍事指揮権を委託する一門の二将、信長御名代。)

 北畠<織田>信雄(南伊勢・伊賀国41万石)   三好<織田>信孝(伊勢神戸18万石+阿波・讃岐)

(部隊長級一門衆)

長野<織田>信包(伊勢上野2万石) 

津田<磯野>信澄(近江高島郡、大溝城2万石) 

織田<平手>長益 ・津田<織田>長利 ・織田<羽柴>秀勝(播磨姫路)

 織田<武田>勝長(尾張犬山城2万石)

<大軍団長> 大々名六将:六大老<六大方面軍軍団長> (一国一職支配、大名の軍事指揮権を与えられた将)本城と支城を保有 実質50万石級。

柴田勝家(直轄領越前三郡・加賀国、32~50万石)など。


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