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戦国その26 播磨国の伏龍:黒田孝高の家臣団と軍団 美濃国の鳳雛:竹中重治の家臣団

黒田孝高・長政の家臣団

1578年織田軍、毛利家と「上月城」を挟んで対陣。

 信長公の「御名代(陣代・総指揮官)」、信長嫡男、織田信忠の家臣団↓

播磨 戦国大名

白マス創業期武将配置。黄色マス嘉吉の謀反世代
嘉吉の変、赤松討伐軍
毛利家前線 侍大将配置


<西播磨 小寺家>

小寺政職 (1517~1582)藤兵衛。西播磨の有力国人領主。赤松家重臣。小寺則職の息。黒田孝高の主君。1521年浦上村宗に敗北し、赤松晴政とともに細川晴元の元に落ちる。1531年村宗を破り復帰1579年9月曽根・衣笠城の軍と合流し、三木城に後詰。1580年織田信長から離反。息に氏職、正則。播磨御着(五着)城主。<対織田の毛利家前線武将に小寺あり。>

▽小河信章 (1554~1593)伝右衛門。小寺家家臣。小河良利の息。小寺家滅亡後、孝高家臣。のちに「黒田24騎」のひとり。

▽曽我一信 (*)大隅守。小寺家家臣。播磨国妻鹿の豪族。祐道の息。のち別所氏に所領を奪われ黒田家客将。重隆の弟・佐々木(黒田)久連の娘婿。息に母里友信、野村佑勝。

▼野村佑勝 (1560~1597)曽我・太郎兵衛。曽我一信の息。母里友信の異母弟。母方の野村家を相続。のちに「黒田24騎」のひとり。

▼母里友信 (*)曽我・太兵衛。小寺家家臣、曽我一信の息。母里家を相続。有岡城幽閉の官兵衛救出に栗山、井上とともに潜入。のちに「黒田24騎」のひとり。

▽衣笠景延 (1552~1631)久右衛門。播磨国明石郡の豪族。小寺家家臣。端谷城主・衣笠範景の弟。のちに「黒田24騎」のひとり。

⇔櫛橋伊定 (*)左京亮・豊後守・則伊。小寺家家臣。のち別所家家臣。播磨国印南郡の豪族。黒田家との国境を警備。志方城主。娘婿に黒田孝高。息に伊則(政伊)、則政。娘婿に赤松政範、井上之房。

<播磨国衆>

井口吉次 (1565~1621)(赤松)・村田・兵助・出羽守。播磨国加古郡の豪族。赤松氏分流。黒田長政とともに長浜城に人質。黒田家に出仕。のちに「黒田24騎」のひとり。菅正利とともに朱具足。

⇔▼明石元知 (*~1595)与四郎・左近将監・則実・則春・全豊・左近将監。仙恵の息。黒田孝高の従兄弟。淡路渡海組(水軍衆)。羽柴秀吉に出仕。阿波に遠征し、各地で戦功をあげる。のち羽柴秀次の家老となる。秀次事件に自殺。

毛利家の勢力図

 <毛利家家臣 備後小寺家>

小寺元武 (*)十郎左衛門尉。備後世羅郡の国人。毛利家家臣。小倉元実と共に大友家への使者。能島村上家への使者、笠岡村上氏を味方につける。1564年伯耆河岡城に派遣され、南条宗勝とともに因幡計略。国人、武田高信を調略。

小寺就武 (*~1580)木工允。備後世羅郡の国人。毛利家家臣。1580年浮田家の備前虎倉城を攻囲。1580年備中「上加茂の合戦」で敗北。岩熊城主。<因幡には小寺佐渡守・元武が派遣される。>

播磨国要所図

  

黒田官兵衛 肖像のつもり。

  <黒田衆>

▲黒田重隆 (1508~1564)黒田高政の息。備前福岡出身。龍野・赤松政秀家臣。小寺家へ離反。息に職高、高友。<前職は目薬商人。>

▽佐々木久連 (*)黒田・興右衛門・黒田久連。高政の息。重隆の弟。娘婿に曽我一信。

(黒田一門衆)

黒田職隆 (1522~1585)小寺。備前福岡出身。黒田重隆の息。小寺政職の娘(養女)婿。孝高の父。1543年小寺家の敵対勢力・香山重道を討つ。1545年小寺政職の養女の婿。1564年浦上政宗の息・清宗と娘が婚姻、同盟を結ぶが赤松政秀の奇襲により浦上親子が死去。赤松家を宿敵とする。姫路城主。

▽小寺高友 (1525~1592)黒田高友・恒屋・休夢斎。重隆の息(2男)。小寺則職家臣。別所氏家臣の恒屋氏討伐後、その跡職を継承。

▽松井重孝 (1548~1600)黒田・惣八郎・黒田重孝。重隆の息(4男)。母は近江長浜の豪族・渡辺一綱の娘。叔父の大和豪族・松井宗元の跡職を継承。のち播磨に帰国。

(黒田家譜代家臣)

▽桐山信行 (1554~1625)孫兵衛。職隆の家臣。九州入国に神楽山城を原種良とともに守備。のちに「黒田24騎」のひとり。<近江の桐山氏出身。>

井上之房 (1554~1634)弥太郎・九郎右衛門・周防守・政国。黒田家家老。職隆の小姓あがり。有岡城幽閉の官兵衛救出に栗山、母里とともに潜入。のちに「黒田8虎・24騎」のひとり。

竹森次貞 (1550~1621)清原・新次郎・新右衛門。播磨国加古郡日岡社神職、清原貞俊の息。はじめ職隆家臣。黒田孝高家臣。福原助就を討つ軍功。のちに「黒田24騎」のひとり。

黒田孝高 (1546~1604)小寺・万吉・官兵衛・黒田如水。洗礼名シメオン。櫛橋氏の娘婿。浦上清宗の義兄弟。織田家に出仕。

▽久野重勝 (1545~1592)四兵衛。黒田家譜代家臣。播磨国加東郡の豪族。重誠の息。孝高の小姓あがり。孝高側近。のちに「黒田24騎」のひとり。「朝鮮の役」に負傷し陣没。

吉田長利 (1547~1623)八代。六郎太夫。播磨の豪族、八代道慶の息。黒田家家老吉田氏の名跡を継承する。のちに「黒田24騎」のひとり。

益田正親 (1542~1611)与助。播磨出身。黒田孝高により士分に出世。のちに「黒田24騎」のひとり。

<孝高一門衆>

黒田利高 (1554~1596)小一郎・兵庫頭・兵庫助。黒田職高の息(次男・2男)。織田家に出仕。羽柴秀吉馬廻衆。のち豊前高森城主1万石。のちに「黒田8虎・24騎」のひとり。43歳。

黒田利則 (1561~1612)甚吉・修理亮。黒田職高の息(三男・3男)。織田家に出仕。羽柴秀吉馬廻衆。のちに「黒田8虎・24騎」のひとり。52歳。

黒田直之 (1564~1609)惣吉・惣右衛門・図書助。黒田職高の四男。織田家に出仕。羽柴秀吉馬廻衆。妹は一柳直末の室。羽柴秀長に出仕。のちに「黒田8虎・24騎」のひとり。

▽尾上武則 (*~1588)黒田・安右衛門。黒田孝高の妹婿。尾上加古郡の豪族。尾上城主。黒田家客将。豊前一揆との合戦に戦死。紀伊岸和田城主の岸氏から養子。娘は黒田長政の側室。

 福島正則と喧嘩の後で仲直りの証として兜を交換したらしいです

播磨国 戦国大名

黒田長政 (1568~1623)(櫛橋)・松寿・吉兵衛・甲斐守・筑前守。孝高の息。蜂須賀正勝の娘婿。蜂須賀家政は義兄弟。のち18万石。朝鮮出兵に際し三番隊隊長。

 <黒田家老衆(播磨国譜代衆)>

栗山利安 (1550~1631)善助・四郎右衛門・備後守。赤松旧臣。黒田家家老。のちに「黒田8虎・24騎」のひとり。

藤岡* (*)(後藤)・九兵衛。後藤基次の叔父。有岡幽閉の際に、黒田家から離反。

▽後藤基次 (1560~1615)又兵衛。叔父・藤岡の離反により黒田家から追放される。仙石秀久に出仕し軍功。黒田長政により帰還が許される。のちに「黒田8虎・24騎」のひとり。

加藤重徳 (*)元伊丹家家臣。荒木村重に出仕。黒田孝高幽閉の際に門番。黒田孝高に便宜を図る。息に一成。

▽黒田一成 (1571~1656)加藤・三左衛門。重徳の息。九州攻略戦に黒田長政の影武者。菅正利、三宅家義とともに長政の窮地を救う。のちに「黒田8虎・24騎」のひとり。

菅 正利 (1567~1625)六之助。元・美作豪族。播磨国出身。黒田孝高に仕官。のちに「黒田24騎」のひとり。

三宅家義 (1552~1619)山太夫。菅正利とともに黒田家に出仕。のちに「黒田24騎」のひとり。

野口一成 (1559~1643)佐助。播磨で育ち黒田家に出仕。のちに「黒田24騎」のひとり。

<黒田家臣・他国衆(外様衆)>

林 直利 (1569~1629)松本・太郎右衛門。元・武田家家臣。母は林氏。1575年播磨に移住し、黒田家に出仕。のちに「黒田24騎」のひとり。

原 種良 (1557~1639)原田種良・宝珠山・弥左衛門。豊前国豪族。黒田家に出仕。のちに「黒田24騎」のひとり。

堀 定則 (1557~1636)明石・久七・平右衛門。黒田家家臣・住江茂右衛門の家仕。黒田孝高により士分に出世。のちに「黒田24騎」のひとり。

⇔毛屋武久 (1554~1628)武蔵守。近江国出身。和田惟政、六角義弼、山崎片家、のち織田家に出仕し柴田勝家、前田利家、池田恒興、佐々成政の与力。のちに「黒田24騎」のひとり。

 <黒田八虎>

〈側近〉5虎将

井上・栗山・後藤・母里・(加藤)三左

〈黒田一門〉

兵庫・修理・図書

 <黒田24騎>

〈側近〉5虎将

井上・栗山・後藤・母里・(加藤)三左、

〈馬廻部将〉

小河・菅・桐山・衣笠・毛屋・竹森・野口・野村・益田・林・原・久野・堀・三宅・村田・吉田

〈黒田一門〉

兵庫・修理・図書


≪個人的感想≫
 「黒牛の兜」が、美濃国からもたらされ、黒田家中で流行したということは、当時の美濃衆は「黒牛兜」をつけてたということでしょうか。
 しかし、美濃の兜といえば、「日根野兜」。
 「黒牛の兜」もやはり、当時有名な日根野産なんでしょうかね・・。
 美濃の日根野家が、本願寺勢力と結びつき、信長様にとことん楯突きながらも赦免され、馬廻衆に加えられたのは、
流行の先端を行く甲冑を次々と、生み出していたからでしょうか。
 しぶとく生き残る日根野家とともに、本願寺一揆と関連ある、織田三奉行の「藤左衛門家」の織田信張が、和泉国の
堺周辺の治安担当者になっているのも気になります。融和が目的なのでしょうか。
 本願寺勢力、堺商人との結びつき、鉄の職人、生産力、いろんなものが関連しての人の配置なのでしょうね。
 黒田家の目薬商売ネットワークと「堺」、鎌倉時代からの社寺系の豪族・広峰との関連と、
柴田勝家の家老で、山陽道出身という小島氏、どのような縁で織田家重臣の家臣となるのか気になるところです。


(牛頭天王)広峰神社

 社家 734年吉備ノ真備(吉備国王族)、聖武天皇に勧め創建。972年広峰山に移遷。

南北朝期北朝方として「湊川合戦」に参戦。75社家、戦国永禄期に広峰34坊(34家)。江戸安永期に25家。

広峰* (*)(凡河内・廣峯)。広峰社家。

肥塚* (*)鎌倉御家人子孫。先祖が播磨に所領を得、広峰社家となる。

金田* (*)鎌倉御家人子孫。先祖が播磨に所領を得、広峰社家となる。

魚住* (*)赤松庶流。広峰社家。

小松原* (*)赤松庶流。広峰社家。

谷口* (*)赤松庶流。広峰社家。

椙山* (*)広峰社家。

谷* (*)広峰社家。

神崎* (*)広峰社家。

竹田* (*)広峰社家。

竹井* (*)広峰社家。

内海* (*)広峰社家。

粟野* (*)広峰社家。

大坪* (*)広峰社家。

芝* (*)広峰社家。

尾代* (*)広峰社家。

柴田* (*)広峰社家。<織田家の・・。尾張下社・上社って・・。旗印の御幣も気になりますが。>

馬場* (*)広峰社家。<浮田家の・・。>

福原* (*)広峰社家。<毛利家重臣筆頭の・・。>

▽黒田* (*)社家手代衆。社家に仕える家使(手代)・50家衆のひとつ。永禄年間に戦国大名家か。


≪個人的感想≫

 尾張津島の牛頭天王社を通じて、織田信長との縁や商業的繋がりがあったかもしれませんね。

 吉田兼実の新興の神道と、広峰社の古来の神道と、織田信長はどちらを重視していたことでしょう。本能寺変前の惟任日向と吉田氏との関わり・・。

 柴田勝家を倒し、秀吉が天下をとったことで、神道の世界も何かの変化があったかもしれませんね。


美濃国 竹中重治の家臣団

⇔▽竹中重治 (1544~1579)半兵衛・重虎。竹中重元の息。元美濃斎藤の臣・菩提山城主。安藤守就の娘婿。のち稲葉山城を攻略、浅井氏の客将となる。「軍略にかけて当代随一」。1564(永禄7)年斉藤龍興と対立し稲葉山城を奪取するが、北近江の堀家を頼り隠居する。のち秀吉の要請により織田家に出仕。1570年横山城留守居。1575年播磨三木城攻略中に陣没。家老に不破矢足。

<大野郡>

⇔▲竹中重元 (*)遠江守・道治・重親。美濃国大野郡(揖斐郡とも)大御堂の豪族。重氏の息。弟に重光。杉山久左衛門の娘婿。重治の父。1556年「長良川の合戦」道三側の城主。西美濃十八将のひとり。1564年斎藤義龍へ謀反。1560年頃岩手弾正信久の居城、岩手城を奪取する。息に重行、重治、重矩、彦八郎。大御堂城主。不破郡菩提山城主。

竹中重光 (*)重氏の息。兄に重元。息に重利、重定。

⇔▽竹中重利 (*)源介。重光の息。弟に重定。重治の従兄弟。長松城主。

▽竹中重行 (*)重元の息(長男)。半兵衛の兄。甥に重門。

⇔▽竹中重矩 (*~1582)久作。重元の息(3男)。半兵衛の弟。1570年「姉川の合戦」に遠藤直経を討つ軍功。1582年「甲州乱入」に従軍し、信長本軍として諏訪に在陣、人数もち諸将に名を連ねる。「本能寺の変」時は美濃の自領にあり、美濃一揆により討死。甥に重門。

▽竹中* (*)彦八郎。竹中重治の兄弟。

<「竹中16騎」美濃稲葉山城攻略メンバー>

竹中重定 (*)周防守。重光の息。兄に重利。美濃竹中家一門衆。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

安藤* (*)甚左衛門。美濃竹中家一門衆。安藤守就の息(5男)。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

永井* (*)長井・小右衛門。美濃竹中家一門衆。安津守就の息(4男)、永井雅樂頭の息。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

⇔不破矢足 (*)喜多村・十助・直吉。美濃竹中家一門衆。安藤守就の娘婿。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。1570年「姉川の合戦」に遠藤直経を討つ軍功。幼少の黒田長政を五明の地に匿う。五明城主。

杉山* (*)内蔵助。近江の豪族。美濃竹中家一門衆。竹中重治の叔父。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。息に文右衛門。

杉山* (*)文右衛門。近江の豪族。美濃竹中家一門衆。杉山内蔵助の息。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

沢* (*)澤・(竹中)・右京・河内守。竹中重元の娘婿。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

(竹中譜代家臣)

所* (*)竹中・善左衛門・太郎五郎。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

伊藤* (*)治右衛門。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

後藤 (*)小兵衛。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

橋村* (*)若狭守。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

外村* (*)九兵衛・(竹中)・奥右衛門。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

明泉寺* (*)(竹中)・筑後守。明泉寺了願の息。弟に七郎左衛門。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

明泉寺* (*)(竹中)・七郎左衛門。明泉寺了願の息。兄に筑後守。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

阿波* (*)彦六・鳴戸之助。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

牧野* (*)六兵衛。竹中重治の家臣。1564年「稲葉山城奪取」に従う16人のひとり。

≪個人的感想≫

 戦場での織田軍の総帥は、信長の長男・織田信忠があり、彼の直属軍団(準近衛軍)があります。

そして、織田家の本軍を構成する、各大名・小名と、その与力、子分衆の寄り集まった大軍団(織田主力軍)。

地方方面軍として、各地の前線(六海道)を維持する方面軍軍団長の軍団があります。

黒田家の軍団は、地方方面軍軍団長、羽柴秀吉の与力大名、

かつ、上司である方面軍軍団長を監視し(軍監)、独自の家臣団を持つ信長直属の遊撃軍団長でもあります。

 同輩には、秀吉の弟で、のちに山陰方面軍の軍団長となり因幡に進出する羽柴秀長、

その与力の前野長康(尾張川並衆)、宮部継潤(北近江衆)、南条元継(元・尼子氏の外様衆)、亀井茲矩(尼子浪人衆)らが、

 秀吉軍団には、

竹中重治(美濃衆)、蜂須賀正勝(尾張旧岩倉衆)、生駒親正(信長準一門)、浮田直家(備前衆で元・赤松家老浦上氏の重臣)、別所重棟(東播磨衆)らがいたと言えます。

 協力者として摂津鎮圧に功のあった池田恒興(信長乳兄弟)と元助(之助)親子、その与力の中川清秀、古田織部、高山右近や、

信忠嫁の家系である塩川長満らの塩川氏一門がある状況です。

 摂津軍団は総帥・信忠が甲斐武田氏と対峙するにあたり、信頼する重臣・瀧川一益に近い血筋の腹心を配置していった様子です。


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