天下布武その7 信長上洛後から嫡男:織田信忠の天下制覇の戦いで散った武将
1576年本願寺挙兵、原田直政討死以降。
原田直政 (*~1576)塙 重友。元・赤幌衆。山城、大和守護職に抜擢され南畿方面軍軍団長。1576年天王寺砦主将。「石山合戦」に討死。
1576年4月「原田直政後詰、摂津侵攻。(石山本願寺攻囲戦)」 出陣・佐久間信盛、明智光秀、荒木村重、三好康長ほか。
千秋季直 (*~1576)季忠の弟。尾張国の豪族、熱田大宮司藤原一族。兄の戦死後、家督か。
<1576年7月13日 対・毛利「摂津第一次木津川河口の海戦」 敗戦。>
▽沼間義清 (*~1576)沼・越後守。和泉水軍衆。沼任世(清成)の息。1576年から住吉浜(城)砦に在番。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に毛利水軍に敗北し討死。和泉水軍を率いる。和泉綾井城主。
沼野* (*~1576)大隈守。和泉水軍衆。1576年から住吉浜(城)砦に在番。
沼野* (*~1576)伊賀守。和泉水軍衆。沼任世の従兄弟。1576年から住吉浜(城)砦に在番。
▽沼野* (*~1576)伝内。和泉水軍衆。伊賀守の息。1576年から住吉浜(城)砦に在番。
小畑* (*~1576)尼崎衆。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。
野口* (*~1576)花隈衆。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。
真鍋* (*~1576)七五三兵衛。和泉水軍衆。1576年から住吉浜(城)砦に在番。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。
(河内水軍)
杉原* (*)兵部丞。河内水軍衆。1576年から佐久間信盛軍団与力。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北。
宮崎* (*~1576)鹿目介。鎌大夫の弟。河内水軍衆。1576年から佐久間信盛軍団与力。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。
宮崎* (*~1576)鎌大夫。杉原兵部の甥。河内水軍衆。1576年から佐久間信盛軍団与力。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に敗北し討死。
<1576年7月 対・本願寺「石山一向一揆」 敗戦。>
<伊勢衆・伊賀衆> 主に北畠家の家臣団
1567年頃 瀧川一益 北伊勢に侵攻、1568年2月神戸・長野氏、信長に臣従。
北畠具教 (1528~1576)伊勢国司八代目・左中将。多気御所・三瀬御所。1569(永禄12)年10月信長の次男・北畠信雄を養子にし、1572年隠居するが、1576年に信雄の命で「三瀬の変」暗殺される。1577年に弟・北畠具親、興福寺別当東門院僧上が還俗し伊勢にて反乱するが鎮圧され中国毛利氏の客将となる。
長野具藤 (*~1576)次郎・藤教。長野御所。北畠具教の息。1558年長野藤定の養子となる。1559年赤堀氏との合戦に敗北。関氏とも抗争し敗北する。重臣・細野藤敦とも争い多芸に逃走。1569年織田信長の弟・信包を養子とする。1576年織田信雄の命で田丸城にて謀殺される。
織田忠寛 (*~1576)津田・掃部介・一安。筑後守・寛真の息。北畠信雄の家老、勢南奉行として権力を振るうが、私利に走り誅殺される。
奥山知忠 (*~*1576)常陸介。安芸郡今徳城主。本田と並ぶ軍奉行家。1568年織田軍を撃退。のち織田家に従う。1576年北畠旧臣、信雄の命で三瀬館の北畠具教を襲撃。奥山は具教襲撃の命を放棄し出奔する。<伊勢攻略に従う蒲生家と戦うとも。>
<加賀争乱>
鏑木頼信 (*~1576)本誓寺・右衛門。本誓寺宗誓の養子・篠田七郎(鏑木常専)の息。尾山御坊の侍大将。七里頼周と対立し討たれる。息に解勘由。松任城主。
椎名康胤 (*~1576)右衛門大夫・肥前守。稲見周茂の娘婿。長尾景直の息を養子に迎える。越中国人。はじめ親長尾派。神保長職と越中の覇権を争う。1568年一揆と同盟し上杉謙信から武田信玄方に寝返る。1570年失領。以後一揆に与し上杉家と争う。1576年死去。松倉城主。
畠山高政 (1527~1576)畠山政国の嫡男。1550年父の死により家督。河内高屋城主。1559年三好家と講和。守護代・安見氏を討伐。1562年「久米田の合戦」で三好義賢を倒す。「教興寺の合戦」に敗れ紀伊に逃走。1568年織田信長に国主に据えられるが、家老・遊佐信教に追放される。1573年弟の死により挙兵。遊佐氏に敗北。流浪する。入信し切支丹。50歳。
酒井正親 (1521~1576)雅楽頭・政家。松平清康、広忠、三代に仕える。1549年今川領駿府入りに供奉。1558年の松平元康初陣に従軍。大高城攻略に小荷駄奉行。1563年配下の菅沼藤十郎・定顕が佐崎村の兵糧を徴収したことから三河一向一揆勃発。石川軍団に配属。のち西尾城主。尾張・三河国境の抑え。息・重忠。
鳥屋尾満栄 (*~1577)富永・石見守。茂康の息。外様の沢・秋山氏、水谷氏とともに北畠四家老のひとり。1569年「大河内城の攻防」に主家に従い活躍。1577年北畠具親とともに蜂起。飯南郡。福本城主。<甲賀・大伴姓の富永氏とすれば、三河東条吉良家の家老職・富永忠元と遠い縁戚?>
鳥屋尾* (*~1577)富永・右近将監。満栄の息。1572年上洛する武田軍と呼応。1577年織田信雄の攻撃をうける。伊勢富永の領主。<一門に与四郎・定恒あり。同一人物?>
家城之清 (*~1577)家木・主水佑・主水正。伊勢一志郡家城城主。天文年間「垂水鷲山の合戦」に従軍。1569年「大河内城の攻防戦」に主家に忠節を尽くし活躍。1570年「曽原城の攻防戦」にも活躍。1577年北畠具親の蜂起に従軍し「川俣の合戦」に討死。<「槍主水」と異名をとる勇者。>
1577年2~3月「和泉・紀伊侵攻。(雑賀征伐)」 出陣・織田信忠、瀧川一益、丹羽長秀ほか。
<1577年2月紀伊守護・畠山貞政と
雑賀衆の挙兵。>
中条家忠 (*~1577)小一郎・将監・秀長。信長の馬廻、譜代の侍大将。1552年「海津の合戦」に柴田勝家とともに功名。1556年岩倉守護・織田信賢との「浮野の合戦」に武勲。1560年「桶狭間の合戦」。1570年「姉川の合戦」に従軍。1570「小谷城下の殿軍」を佐々成政・簗田広正とともに務める。<明智一門と親戚とも。><中条家は織田信長様により滅ぼされると徳川の記録ではなっているそうです・・。なんで?>
×久松定員 (*~1577)弥九郎・信俊。久松俊勝の息(嫡男)。佐治対馬守の娘婿。尾張知多郡阿古居荘の豪族。織田信長家臣。佐久間信盛の与力武将として天王寺城在番。水野信元の罪に連座し自害。
桜井松平忠正 (1544~1577)与一郎。桜井松平家嫡流。松平家次の息。碧海郡桜井城主。今川家人質随伴衆、常に家康に近侍した。1563年父・家次は三河一向一揆に、荒川義広に同心し失脚。忠正は中立し家康に許される。1568年遠江侵攻に従軍し掛川城攻略に軍功。酒井軍団に所属。
植村家存 (1541~1577)新六郎・家政・栄政。植村新六郎(氏明)の息。父は松平清康殺害の犯人・阿部を斬る。9歳で家康家臣。家康旗本、植村正勝とともに軍奉行。家康から「家」字を与えられる。1561年織田家との同盟の際、家康の「大刀持ち」として列席。信長の前で佩刀を許された。1563年三河一向一揆に蜂屋と一騎打ち。37歳。息に家次。
植村家政 (1541~1577)出羽守。三河国碧海郡本郷城主。旗本先手侍大将。上杉謙信との同盟に「取次ぎ」として尽力。江戸時代徳川16神将のひとりに撰ばれる。
1577年9月13日「能登七尾城後詰。(加賀手取川の合戦)」
出陣・柴田勝家、瀧川一益、丹羽長秀ほか。
×長 続連 (*~1577)長谷部・九郎左衛門・対馬守。1566年政権を畠山七人衆から取り戻すため本願寺証如と通じた守護畠山義続・義綱親子を追放する。1569年家督を嫡子・綱連に譲渡する。反上杉を貫く。1577年9月遊佐続光・温井景隆の裏切りで、嫡男・綱連とともに討死。穴水城主。
×▽長 綱連 (*~1577)長谷部。1569年家督継承。1574年主・畠山義慶を毒殺し、春王丸を擁立する。温井景隆が加賀一向一揆と結び、遊佐盛光は上杉謙信と結び、国内は混乱する。1577年9月遊佐続光・温井景隆の裏切りで討死。
1577年10月10日「松永久秀謀反。(大和信貴山城攻囲)」 出陣・織田信忠、瀧川一益ほか。
<大和・摂津衆>
松永久秀 (1510~1577)弾正忠・弾正少弼・山城守。元、三好長慶家老。弟が優れた武将だった為、兄弟で引き立てられる。1568年10月将軍・足利義昭任命の守護、幕臣。1577年に謀反。<原田直政の指示に従って、従軍はしていない。息子に一任していた様子。>
松永久通 (*~1577)彦六・右衛門(佐)太夫。松永久秀の息。原田直政、のち佐久間信盛の与力<父親の代役として参陣していた模様>。1575年原田直政に十市氏との婚姻を延期される。1576年原田直政、筒井順慶と興福寺の薪能を鑑賞。1577年に久秀に従い謀反。
越智家増 (*~1577)楢原・伊予守・家益・家盛。越智家広の弟。越智氏は大和国四家のひとつ。筒井家と越智氏は長く大和の覇権を争う間柄。1569年惣領家を継承した越智家高を、1571年に暗殺。息の家秀は筒井順慶の家臣となる。
1577年10月23日「播磨侵攻。(上月城攻囲)」 出陣・羽柴秀吉ほか。
<1577年10月羽柴秀吉上月城攻略、1578年3月~1579年6月惟任光秀「八上城攻囲」。>
赤松政範 (*)上月城主。親毛利派。1577年秀吉軍に攻略される。
福原助就 (*)福原城主。親毛利派。1577年秀吉軍に攻略される。
内藤貞政 (*~1577)定政。丹波守護代・内藤国貞の系譜か。園部城主・内藤貞勝は1565年「福知山合戦」に戦死。貞政の病死により家老・安村氏が内藤家の家政を掌握、織田家に反するが、同年明智光秀に攻略される。亀山城主。
磯野員昌 (*~*1578)丹波守。元・浅井家重臣。剛勇で知られる。1569年伊勢「北畠氏征伐」に同盟国浅井の援軍として従軍。1570年佐和山城を攻略され降服。信長の甥・織田信澄を養子とするが、信澄成長に伴い身辺に危険を感じ逃亡。<磯貝久次に捕縛される。>
佐藤忠能 (*~1578)紀伊守。永禄7・8年、美濃国加治田城主。子息・信氏。娘婿に岸信周の息・岸信房(信友)。斎藤新五郎・長龍を養子とする。<斎藤道三の末子といわれるのが斎藤長龍で、龍興の弟なのが斎藤利堯ということじゃないでしょうか?>
下山* (*~1578)甲斐守。北畠氏旧臣。伊賀衆旗頭。親織田派。瀧川雄利と同心。1578年伊賀攻めの拠点、丸山城築城。1578年第一次「伊賀の乱」前哨戦で伊賀衆の計略により討死
<1578年2月別所氏離反。1577年7月「上月城防衛戦」毛利軍の出撃により敗戦。>
1578年4月「摂津侵攻。(石山本願寺攻囲)」 出陣・織田信忠、瀧川一益ほか。
1578年5~7月「播磨侵攻。(三木城攻囲)」 出陣・織田信忠、瀧川一益、惟住長秀ほか。
1578年6月26日「九鬼水軍上洛戦。(和泉淡輪沖の海戦)」 出陣・九鬼嘉隆ほか。
1578年10月「荒木村重謀反。(摂津有岡城攻囲)」 出陣・織田信忠、瀧川一益、池田恒興ほか。
<1578年11月6日 摂津「第二次木津川河口の海戦」。>
安宅信康 (*~1578)甚太郎。安宅冬康の息。三好家家臣。石山本願寺と結ぶ。織田信長に従うが病死。
宮田光次 (*~1578)喜八郎。羽柴秀吉の古参の臣。「羽柴四天王」のひとり。幌衆のひとり。播磨三木城攻めに戦死。
谷 衛好 (1529~1578)大膳亮。美濃出身。元美濃斎藤の臣。羽柴秀吉の与力。播磨平田城主。播磨三木城攻めに戦死。<竹中半兵衛のライバル。>
<東播磨衆>
赤松政秀 (*)村秀。赤松義村の息、弟・晴政を補佐する。赤松家庶流。竜野城主。赤松晴政の息・義祐のあと本家に代わり西播磨を統べる。1564年勢力を挽回した室津城の浦上政宗を攻撃し滅ぼす。東播磨の別所安治と結んで、姫路城主・黒田職隆や御着城主・小寺政職を攻撃する。子息に広貞、広英。広英は羽柴秀吉に仕え但馬竹田城主となる。
尼子勝久 (1553~1578)孫四郎。出雲尼子家。新宮党の子孫。旧領回復のため 織田家の援助を得る。毛利の大軍の攻囲により、播磨上月城にて自害。
▽尼子氏久 (*~1578)助四郎。出雲尼子家。新宮党。尼子勝久の弟。上月城にて切腹。
×柿崎晴家 (*~1578)平三郎・左衛門大夫。越後の有力国人・柿崎景家の息。1570年から北条氏で人質時代を過ごす。1575年父の織田家に内通が発覚し誅殺され、家督を継承する。1578年「御館の乱」で景虎を支持し誅殺される。<人質生活を送った親北条派ということか>
×赤井直政 (1529~1578)荻野・才丸・悪右衛門。赤井家老。時家次男。赤井忠家の叔父。隣国但馬国の生野銀山の採掘権を握る。はじめ但馬竹田城主。1575年明智光秀を撃退。
荒木氏綱 (*)園部城主・内藤貞勝は1565年「福知山合戦」に戦死。氏綱が継承するか。1578年織田軍により攻略され退去。園部城主。子息は惟任与力。
<丹波・丹後衆> 亀山、籾井、園部、氷上、八上、宇津、黒井城。
×赤井忠家 (1549~1605)市郎兵衛。奥三郡を支配。赤井家清の息。1557年芦田・足達家との戦いで父が戦死、家政は叔父・赤井直政が執り行う。1579年明智軍に降伏し退去。黒井城主。のち秀吉、家康に出仕し千石。
稲継* (*~1579)壱岐守。丹波国氷上郡母坪城主。赤井家家老。
×波多野秀治 (*~1579)千熊丸・左衛門大夫。宗家の元秀の跡職を継承。1560年一族・波多野宗高ら12000の軍勢で上洛。正親町天王の即位に参列する。1566年八上城を内藤氏から奪還。当初、将軍方についた丹波国人衆を明智光秀に従い攻略する。毛利家との関係から離反。1575年頃から織田氏の山陰進出。1577年から1年半籠城する。羽柴秀長、惟住長秀、惟任光秀に攻囲され降服するが、安土城下で処刑される。八上城主。
×波多野秀尚 (*~1579)秀治の弟。1577年惟任軍に攻略され落城。安土城下で処刑される。亀山城主。
×二階堂秀香 (*~1579)秀治の弟。安土城下で処刑される。
×波多野宗高 (*)西波多野家。秀治とともに毛利氏を説得して正親町天王の即位費用を捻出させる。氷上城主。
×波多野宗長 (*~1579)西波多野家。宗高の息。秀治に従い織田軍と戦う。籠城の末自害。息・宗貞は久下城にて戦死。氷上城主。
一色義道 (*~1579)式部大夫・左京大夫。一色義幸の息。1570年織田信長に将軍謁見の上洛を催促される。一色七郎の反乱を鎮圧。1575年8月越前一向一揆征伐に水軍として従軍。1575年丹後一職支配を許可される。1578年堺に赴き九鬼の鉄舟を見学。丹後平定の途中で病死
井上* (*~1579)佐渡守。丹後国宮津小寺山城主。一色家家臣。
×北条景広 (*~1579)弥五郎・丹後守。高広の息。上野国厩橋城主。謙信の死後、上杉景虎を支援して上杉景勝に討たれる。
<若狭・越前衆>
武藤舜秀 (*~1579)宗右衛門。越前敦賀城主。遊撃軍団の軍団長として活躍。摂津伊丹の荒木村重攻囲の陣中にて陣没。
堀江景忠 (*~1579)中務丞・藤秀・景秀・加賀国人。
<1579年8月柴田勝家の加賀出征。>
古田重則 (1529~1579)吉左衛門。羽柴秀吉の与力。播磨三木城攻めに討死。子息は丹羽長秀の婿、古田重勝。
梶川一秀 (1538~1579)三河衆。元・水野信元の与力。丹羽郡羽成城主。
荒木村重 (1535~1586)道糞。波多野氏傍流、荒木高村(義村)の息。元・池田勝正の側近。のち足利義昭の家臣となる。1573年足利義昭の元から離れ、信長の直参。1573年7月、主家・池田勝正は追放され、村重に摂津一職が与えられる。1574年伊丹城を奪取し有岡と改名。1578年10月第二次木津川海戦の前に毛利氏に造反。1579年9月籠城を支えきれず逃亡。52歳。
向井政勝 (*~1579)伊兵衛。向井正重の息。1571年武田氏に迎えられる。駿河持舟城の抗争で戦死。
柘植宗時 (*~1579)三郎左衛門・保重。元、木造氏家老。妹婿に木造具康。永禄12(1569)年、木造家を織田に臣従させる。第一次伊賀乱入で伊賀衆の計略により討死。
徳川信康 (1559~1579)松平・次郎三郎・岡崎信康。徳川家康の嫡男。母は関口義広の娘。1566年12月徳川に改姓。1567年織田信長の娘(五徳姫)婿。1570年岡崎城主。家老職に長沢松平康忠、大草松平康安が付属される。1575年遠江国で武田勝頼との対陣で殿軍を務め活躍するという。家老の大賀・石川の謀反発覚。1579年父・家康と不和。三河衆の旗頭として期待されるが、武田家に内通の疑惑があり誅殺される。21歳。娘は本多忠政、小笠原秀政の室。
能見松平重吉 (1493~1580)能見松平嫡流。松平信光の息(八男)。三河松平一門の長老。元・西郷家(大草松平)家臣。松平清康の側近。今川義元の三河占領に、鳥居忠吉とともに松平家を束ねる。今川軍に従い、鈴木日向守・重辰の「寺部城攻略」に軍功。1558年の松平元康初陣に従軍。息子・重利は1560年に討死。1563年三河一向一揆に家康方。酒井忠尚の上野城を攻略する。岡崎信康の初陣の後見。石川軍団に配属。孫・昌利。82歳。<信康と係わりを持ってしまっています。>
1580年「但馬侵攻。」 出陣・羽柴秀長・宮部継順。
<但馬衆>
垣屋光成 (*)小治郎・新九郎・平右衛門・越前守・隠岐守・入道宗歓。宵田城主。垣屋続成の嫡子。1512年山名致豊を追放し、山名誠豊を擁立する。太田垣輝信・八木豊信・田結庄是義と但馬を四分割支配する。1560年赤松則貞の但馬侵攻を撃退する。反毛利派。弟に信貞、峰定。
垣屋豊続 (*~1580)垣屋氏庶流。1575年、田結庄是義の愛宕山城を攻撃する。竹野郡轟城主。親毛利派。太田垣輝延・八木豊信と結び、吉川元春と「芸但和睦」。反毛利派の嫡流・光成と対立する。
吉川平吉 (*~1580)1580年鳥取城攻囲に一軍の将。防己尾城の攻略戦に戦死。<平助と混同されているんでしょうか。>
1580年1月「播磨侵攻。(三木城攻囲)」 出陣・羽柴秀吉ほか。
<播磨国>
別所安治 (*)龍野城主・赤松政秀と結び、姫路城主・黒田職隆や御着城主・小寺政職を攻撃する。
小寺政職 (*)黒田孝高の主君。
宇野祐重 (*~1580)元・赤松家老。西播磨守護代。赤松家没落後、毛利家に従う。播磨宍粟郡山崎を領する。播磨国長水城主。
<西播磨衆>
別所長治 (*~1580)赤松。東播磨守護職。叔父・三木賀相に補佐され、13歳で家督。当初織田家に臣従するが、羽柴秀吉と対立し、1578年に謀反。織田信忠軍に攻囲される。1579年9月の毛利家からの救援が失敗し2年間の籠城で滅亡。弟・友之とともに自害。三木城主。
▽別所吉親 (*~1580)賀相。別所長治の叔父。1577年羽柴秀吉と対立、主に謀反を進める。
▽三宅長治 (*~1580)別所家家老。1577年羽柴秀吉と対立、主に謀反を進める。
櫛橋伊定 (*)志方城主。1578年別所氏に従い毛利家に臣従。織田信忠軍に攻囲される。
神吉頼定 (*)神吉城主。1578年別所氏に従い毛利家に臣従。織田信忠軍に攻囲される。
淡河定範 (*)淡河城主。1578年別所氏に従い毛利家に臣従。
<1580年3月柴田軍、「尾山御坊攻囲」。1581年亀田岳信と講和。>
1580年代~ 4~8月石山本願寺退去。
松永* (*~1580)丹波。隼人の息。尾山御坊の旗頭。1580年3月に討死。
鈴木義明 (*~1580)出羽守。加賀国、鳥越城主、別宮城主。1570年大坂から派遣される。鳥越城築城。親子で一揆「白山門徒山内衆」を率いる。一揆最後の拠点となるが1580年11月落城。信長の下に首級が送られた。息に右京進、次郎右衛門、太郎。
岸田常徳 (*~1580)1580年8月に討死。
坪坂* (*~1580)新五郎。坪阪包明とともに加賀に派遣される。1580年10月に討死。安土城に首を送られる。
得田* (*~1580)小次郎。1580年10月に討死。安土城に首を送られる。
徳田重清 (*~*1580)志摩守。加賀岩淵城主、加賀千代城主(のちの小松城)
宇津呂* (*~1580)丹波・慶西。波佐谷城主。安土城に首を送られる。
1580年8月2日「石山本願寺、教如退去。(石山和睦)」 出陣・織田信忠、佐久間信盛、瀧川一益ほか。
林 秀貞 (*~1580*)新五郎・佐渡守・通勝。<尾張弾正忠家宿老>信秀、信長、信忠三代に仕える織田家随一の老臣。1556年織田信勝を後援し、柴田とともに信長に叛した「稲生の合戦」に敗北。信長に赦免される。1573年9~10月北伊勢「長島一向一揆」攻撃に従軍。1574年7~9月伊勢「長島一向一揆」殲滅戦に従軍。1578年播磨「三木城攻囲」に従軍。1580年8月信長に過去の失態(1573年伊勢一向一揆に敗北)を責められ追放。那古屋城主。<槍奉行・林家・・。>
丹羽氏勝 (1523~1597)源六・右近大夫。尾張の豪族、室は織田信秀の娘。過去度々信長と対立するが、臣従後は勇猛さを買われ信長馬廻衆。尾張岩崎城主。1580年8月信長に過去の失態を責められ追放。
安藤守就 (*1503~1582)伊賀平左衛門・伊賀守・道足。元・斎藤家重臣。美濃三人衆のひとり。竹中重治は娘婿。美濃国北方・江渡城主。1566年龍興の奉行から引退、子息・定治が奉行職を継承。永禄10(1567)年頃斎藤龍興を見限る。11570年6月「姉川の合戦」に従軍、9~12月朝倉勢と近江「坂本の対陣」に従軍。1571年5月伊勢「長島一揆攻撃」に従軍。1572年織田信忠初陣の「江北出兵」に従軍。1573年4~7月京都「足利義昭征伐」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1574年7~9月伊勢「長島一向一揆」殲滅戦に従軍。1575年5月「長篠の合戦」に従軍。1575年8月「越前一向一揆征伐」に従軍。1576年4~5月「本願寺攻囲」に従軍。天正8年8月、武田に内通した罪で追放。
安藤郷氏 (*)安藤守就の弟。尾張岩倉家老山内盛豊の娘婿、山内一豊の姉婿。
▽安藤尚就 (*~1582)平左衛門・日向守・定治・範俊。安藤守就の息(長男)。美濃鏡島城主。1566年龍興の奉行。永禄10(1567)年頃斎藤龍興を見限る。天正8年、武田に内通した罪で追放。1582年変後、弟・七郎とともに挙兵。稲葉家に再興を阻止される。北方城主。
▽安藤守行 (*~1582)七郎衛門。安藤守就の息(三男)。美濃北方城主。天正8年、武田に内通した罪で追放。1582年兄・尚就とともに挙兵。稲葉家に再興を阻止される。
1580年11月「加賀侵攻。(尾山(金沢)御坊攻略)」 出陣・柴田勝家、佐久間盛政ほか。
1581年3月「能登侵攻。(大和信貴山城攻囲)」 出陣・菅屋長頼ほか。
逸見昌経 (*~1581)駿河守・宗全。若狭武田家家老。1561年逸見昌経とともに丹波の松永長頼と謀り、君主・武田義統に反乱。以降も武田義統と対立、山県盛信と抗争する。のち織田家に従う。武藤景久の追放後領地を与えられる。1575年8月「越前一揆征伐」に水軍を率いて上陸。若狭高浜城主。跡職は溝口秀勝が継承。<先祖は丹後・一色家と結んで度々叛乱。>
安宅清康 (*~1581)河内守。安宅信康の弟。兄の死後に家督。織田家に臣従。
浅井政澄 (*~1581)新八・政貞・信広。元、信長赤幌衆のひとり。江北・浅井氏の一族とも伝わる、早くから信長に仕える。毛利(斯波)秀頼の妹婿。1571年5月伊勢「長島一向一揆攻撃」に従軍。のち信忠の重臣、信忠の後見人的役割ヵ、1574年7~9月伊勢「長島一揆殲滅」に従軍。1578年播磨「三木城攻囲」に出陣。まもなく没する。
浮田直家 (*~1581)主家の浦上宗景を追放。美作・備中の有力国人・三村家親を暗殺。舅の中山信正を暗殺。娘婿の後藤*を暗殺、姉婿の谷川久隆を暗殺し、備前・美作・備中に勢力を拡大する。1577年から羽柴秀吉の中国侵攻がすすみ、配下の上月城を攻略され、織田信忠に従属を打診。その後病死。備前岡山城主。53歳。
○東条松平家忠 (*~1581)(吉良?)・青野家忠・甚太郎。三河国幡豆郡。陣代に松井(松平)忠次。酒井軍団に所属。1572年「味方ヶ原の合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。家康の息・忠吉を養子に迎える。<東条吉良家に養子に入り跡職を継承したことになってるようです。><同姓同名、深溝の松平家の松平家忠が『家忠日記』を残す。>
福釜松平親俊 (*~1581)右京亮。福釜松平嫡流。1563年三河一向一揆に家康方。酒井軍団に所属。
東条・津平松井康親 (1521~1581)(松平・松井)・左近将監・忠次。東条松平陣代。幡豆郡津平城主。1561年本多広孝の与力として、小笠原三九郎とともに東条吉良氏を包囲。吉良氏追放後は東条城主。酒井軍団に所属。1572年「味方ヶ原の合戦」に従軍。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。のち家康の命で康親と名乗る。駿河三枚橋城主。
福釜松平親俊 (*~1581)右京亮。福釜松平嫡流。1563年三河一向一揆に家康方。酒井軍団に所属。遠江「二俣城攻略」に病を得て急死。息に康親。<水野家や織田領に最も近い。>
大久保忠俊 (1498~1581)(宇津)・新八郎・忠利。大久保忠茂の息。1529年清康に従い軍功。松平広忠の家老。1537年岡崎城奪取に軍功。1549年10月今川軍先鋒として安祥城攻撃。織田信広を捕虜とする。1555年尾張蟹江城攻略に軍功。今川義元に戦功を賞される。1563年三河一向一揆に家康方。
<1581年3月越中 佐々成政「荒川の合戦」にて上杉軍に勝利。3月徳川家康「高天神城攻略」。12月羽柴秀吉「鳥取城攻略」。>
石黒* (*~1581)左近。謙信に属す。1578年謙信死去後は織田家に出仕。1581年近江長浜で信長の命により、丹羽長秀に処刑される。
遊佐続光 (*~1581)美作守。能登畠山重臣筆頭。能登守護代遊佐家。畠山義続、義綱、義慶、春王丸の四代に仕える。「一宮の合戦」で温井総貞に破れ越前に落ちる。1555年義綱が温井氏を打倒したため越前から能登に帰還する。1566年政権を畠山七人衆から取り戻すため本願寺証如と通じた守護畠山義続・義綱親子を追放する。1575年河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。1577年長続連一族を討ち上杉家に臣従。謙信の死後、織田軍に降服し七尾城を開城するが、菅屋長頼に討たれる。
遊佐盛光 (*~1581)四郎右衛門。畠山義慶の臣。能登畠山重臣筆頭。能登守護代遊佐家。1575年河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。1577年長続連一族を討ち上杉家に臣従。上杉家の河田長親に従う。謙信の死後、鰺坂長実を追放し、織田軍に降服して七尾城を開城するが、菅屋長頼に討たれる。
1581年7月「因幡侵攻。(鳥取城攻囲)」 出陣・羽柴秀吉ほか。
能勢頼通 (*~1581)十郎。能勢頼之(頼幸)の息。摂津能勢郡丸山城主。摂津の豪族、父・頼之は長満に討たれる。塩川氏とは因縁の宿敵。1580年塩川軍を破る。反織田家。1581年織田信長派の塩川長満に暗殺される。
1581年9月「伊賀国侵攻。(大河内城攻囲)」 出陣・北畠信雄、瀧川一益ほか。
田屋* (*~1581)河合郷の土豪。茶器「山桜の真壺」、「きんこうの茶壺」を提出して降伏するが誅殺された。
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