室町幕府前期 守護大名 その5 九州地方(西海道)
薩摩、大隈、日向、肥後、筑後、豊後、肥前、筑前、豊前。*中国地方の長門・周防もこちら
[1467年「応仁の乱」と東西両軍大名の動向]
[薩摩守護大名] 〈在任期間〉島津総州家
(島津総州家)
島津貞久 〈1336-1363〉(1269~1363)(惟宗)・三郎左衛門・上総介・上総入道。近衛基通の所領・島津荘より起る。島津忠宗の息。島津第5世。五代・貞久が足利尊氏に従い、北朝方。1318年薩摩守護。1333年北条英時に応じて鎌倉幕府軍。のち転じて少弐・大友氏とともに大宰府を襲撃。建武政権に薩摩・大隈・日向守護とされる。1335年新田義貞軍の別働隊として出陣。「竹ノ下の合戦」に離反。1336年九州落ちした足利尊氏に従う。薩摩に上陸した懐良親王と抗争。のち南朝方。谷山・肝付氏が叛乱し、川上頼久を薩摩に下向す。1342年懐良親王の薩摩入り、1350年「観応の擾乱」に畠山直顕が直義方となり、一時南朝に降服する。大隈・日向両国の守護職。のち日向は失う。出水郡、木牟礼城主。弟に新納時久、樺山資久、北郷資忠。息に(奥州家)氏久、(総州家)師久、宗久、川上頼久。
伊集院忠国 (*~1350*)貞久とともに足利尊氏に従い菊池氏を破る。1337年懐良親王の九州征西に従い南朝方。大隈の肝付兼重と同盟。1350年「観応の擾乱」に貞久・氏久親子が南朝方となり和睦。1351年息・久氏が氏久とともに直義派の畠山直顕討伐に従軍。息に久氏。娘婿に島津氏久。
▽島津氏久 (1328~1387)(大友)・又三郎・三郎左衛門尉・修理亮・越後守・陸奥守。島津貞久の息(4男)。母は大友親時の娘。大隈守護を相続。伊集院忠国の娘婿。佐多忠光の娘婿。兄弟に川上頼久、宗久、師久、氏久。岳父・伊集院忠国は南朝方の懐良親王に従う。1351年一色範氏に従い、足利直冬と抗争。1356年三条泰季に従い畠山直顕と抗争。1363年大隈守護。師久・伊久親子と惣領職を巡り抗争。1375年今川貞世、少弐冬資を暗殺(水島の変)。島津氏久・大友親世など各国守護が南朝に離反。1377年島津伊久とともに今川了俊に降伏。1378年再び反乱。息に元久、久豊。娘婿に伊集院頼久。<末子相続・・。>
⇔島津師久 〈1363-1366〉(1325~1376)生駒丸・上総介・上総三郎・三郎左衛門尉・大夫判官・入道道貞。総州家。薩摩守護を相続。島津貞久の息(3男)。次男・宗久が早世したため家督。弟・(大隅守護)氏久と対立し、日向国と抗争。息に伊久、(碇山・姶良)久安。川内郡、碇山城主。「総州家」の祖。
▽島津伊久 〈1366-1376〉(1347~1407)上総介・入道道哲。総州家。師久の息。薩摩守護。惣領職をめぐり叔父・氏久と抗争。1375年少弐冬資の誅殺事件で今川了俊に反乱。1377年氏久とともに今川了俊に降伏臣従。1382年薩摩守護に復帰。1393年息子の守久が反乱。奥州島津元久の仲裁で和解。息に守久、忠朝、久照。
島津氏久 VS 今川貞世
⇔今川貞世 〈1376-1391〉(1326~*)左京亮・伊予守・入道了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。弟・仲秋を肥前に派遣し松浦氏を抑える。1375年大友親世、島津氏久、少弐冬資を召集。少弐冬資を誅殺し、島津が反乱。1376年息(5男)満範を南九州制圧に派遣。1381年九州を統一する。1395年勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。息に満範。<九州を統一するも、将軍・足利義満により失脚する様は、源ノ義経や範頼のようです。忍耐で駿河に戻り子孫の今川氏親が1517年に東海道を統一したのですから本望でしょうか。>
(島津総州家~奥州家)
▽島津守久 (*)総州家。伊久の息。父・師久と対立。奥州家・元久に惣領職を奪われる。川内碇山城。1393年父・伊久の川辺城を攻囲。息に久世。孫に久林。
↓島津元久 〈1393-1411〉(1363~1411)又三郎・陸奥守・入道怒翁。奥州家。島津氏久の息。従兄弟の総州家・伊久の跡職を継承。1401年伊久・守久親子と抗争。1404年将軍の仲裁で和睦。大隈・日向守護兼任。弟に久豊。息に守邦。
↓▽島津久豊 〈1411-1425〉(1375~1425)次郎三郎・修理亮・陸奥守・入道義天。島津氏久の息。薩摩・大隈・日向守護。兄・元久の跡職を継承。伊東祐安の娘婿。上原氏の娘婿。伊集院頼久の娘婿。伊集院頼久・煕久親子と家督を巡り抗争。混乱に乗じて島津嫡流の(総州家)久世を討つ。1417年頼久に勝利。1422年総州家の久世の父・守久と孫・久林を追放。息に忠国、(薩州家)周久(用久・好久)、(豊州家)季久、有久、豊久。娘婿に有馬氏澄。<有久、豊久の母は伊集院氏。忠国、周久は伊東氏。>
↓島津忠国 〈1425-1470〉(1403~1470)(伊東)・又三郎・修理大夫・修理亮・陸奥守・貴久・入道太岳。島津久豊の息。跡職を継承。薩摩・大隈・日向守護。新納忠臣の娘婿。島津勝久の娘婿。1422年総州家の久世の父・守久と孫・久林を追放。1427年伊東祐立と和睦。1430年島津久林に勝利。1450年伊集院煕久を追放。息に(相州家)友久、立久(為久)、(伊作家)久逸、(桂)勝久、忠経、忠弘、頼久。娘婿に伊集院煕久、新納忠続。
ー1467~1477年「応仁の乱」ー
▽島津季久 (1413~1477)豊後守。豊州家。久豊の息。兄・忠国に従い平山氏と抗争。1467年「応仁の乱」に西軍・山名宗全を支持し立久と抗争。その息・武久と抗争し清水城を奪取。友久が武久に敗北するを見て降伏臣従。
島津立久 〈1470-1474〉(1432~1474)又三郎・修理亮・陸奥守。大隈島津。奥州家。島津忠国の息。伊東祐堯の娘婿。島津周久の娘婿。梶原弘純の娘婿。1456年朝鮮に交流の為の使者を派遣。1459年父と抗争。1462年市来氏を征伐。1467年「応仁の乱」に東軍(細川派)。領地国の鎮圧に務める。1471年幕府から琉球渡海の航路船の取り締まりを命じられる。のち父・忠国と抗争。父を追い大隈・日向を支配。息に武久(忠昌)。
▽島津久逸 (*)伊作島津。
島津武久 〈1474-1507〉(1463~1508)(梶原)・又三郎・修理進・陸奥守・忠昌。奥州家。島津立久の息。大友政親の娘婿。1485年伊東祐国に勝利。1495年伊東氏と和睦。息に忠治、忠隆、勝久。
▽島津善久 (*)伊作島津。
▽島津友久 (1432~1494)相模守。相州家。忠国の息。甥の奥州家・武久と抗争する。武久に敗北する。
島津忠治 〈1507-1515〉(1489~1515)(大友)・又三郎。奥州家。島津武久の息。伊東尹祐の娘婿。1508年父の死により家督。1515年大隈国吉田城攻略の陣に死去。息(養子)に忠隆。
島津忠隆 〈1515-1519〉(1494~1519)(大友)・又六郎。奥州家。島津武久の息。兄・忠治の死により家督相続。弟に勝久。
島津勝久 〈1519-1527〉(1503~1573)(大友)・又八郎・修理大夫・陸奥守・忠兼・忠廉。奥州家。島津武久の息。島津忠興の娘婿。禰寝重就の娘婿。島津本家第14代。二人の兄の死により家督相続。1535年島津実久に敗北。養子に伊作島津家の島津貴久。家中の内紛により失脚。大隈、豊後を放浪。息に久孝、又四郎、宗俊。養子に貴久。
▽島津実久 (*)薩州島津家当主。島津勝久の家老。姉婿が本家の勝久。貴久の家督相続に反対し、伊作島津家と抗争。敗北し降伏臣従。出水に蟄居する。
‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐
[戦国 守護大名] 伊作島津家
▲島津忠良 (1492~1568)日新斎。島津善久の息。伊作島津第10代。1494年祖父・久逸、父・善久の死により家督。1506年伊作当主。母の再婚者の養父・島津運久から相州家を継承。1526年息・貴久を勝久の養子に送る。1536年伊集院城を攻略。1539年島津実久の居城・加世田城を攻略。1542年加治木城攻略。婿に肝属兼続、樺山善久、種子島時堯、肝属兼盛。
⇔島津貴久 〈1527-1566〉(1514~1571)修理大夫・陸奥守。伊作島津忠良の息。1527年本家・島津勝久の跡職を相続。入来院重聡の娘婿。肝付兼興の娘婿。1537年薩州家・島津実久を鹿児島城に破る。島津本家(奥州家)を実力で相続する。1549年肝付兼演が降服する。1554年入来院叛乱。1556年菱刈重豊、蒲生範清を降す。1561年肝付兼続を破る。息に義久、義弘、(日置)歳久、(永吉)家久。
[大隈守護大名] 〈在任期間〉島津奥州家
(島津奥州家)
島津貞久 〈1336-1363〉(*~1363)惟宗・上総介・上総入道。近衛基通の所領・島津荘より起る。島津忠宗の息。島津第5世。五代・貞久が足利尊氏に従い、北朝方。1318年薩摩守護。1333年北条英時に応じて鎌倉幕府軍。のち転じて少弐・大友氏とともに大宰府を襲撃。建武政権に薩摩・大隈・日向守護とされる。1335年新田義貞軍の別働隊として出陣。「竹ノ下の合戦」に離反。1336年九州落ちした足利尊氏に従う。薩摩に上陸した懐良親王と抗争。のち南朝方。谷山・肝付氏が叛乱し、川上頼久を薩摩に下向す。1342年懐良親王の薩摩入り、1350年「観応の擾乱」に畠山直顕が直義方となり、一時南朝に降服する。大隈・日向両国の守護職。のち日向は失う。出水郡、木牟礼城主。弟に新納時久、樺山資久、北郷資忠。息に(奥州家)氏久、(総州家)師久、宗久、川上頼久。
⇔↑島津氏久 〈1363-1376〉(1328~1387)陸奥守。奥州家。大隈守護。島津貞久の息。母は大友親時の娘。大隈守護を相続。伊集院忠国の娘婿。佐多忠光の娘婿。貞久の息(4男)。兄・師久が薩摩を継承し、大隈守護となる。1375年今川貞世、少弐冬資を暗殺(水島の変)。島津氏久・大友親世など各国守護が南朝に離反。師久と対立し抗争。「奥州家」の祖。息に元久。
島津氏久 VS 今川貞世
⇔今川貞世 〈1376-1391〉(1326~*)左京亮・伊予守・了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。1375年貞世、少弐冬資を暗殺(水島の変)。島津氏久・大友親世など各国守護が南朝に離反。1381年九州を統一する。1395年勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。息に満範。
島津元久 〈1391-1411〉(1363~1411)又三郎・陸奥守・入道怒翁。島津氏久の息。従兄弟の伊久の跡職を継承。薩摩守護兼任。弟に久豊。息に守邦。
島津久豊 〈1411-1425〉(1375~1425)修理亮・陸奥守・入道義天。島津氏久の息。元久の跡職を継承。息に忠国、周久、季久、有久、豊久。
↓島津忠国 〈1425-*〉(1403~1470)修理亮・陸奥守・貴久・入道太岳。島津久豊の跡職を継承。息に友久、立久、久逸、勝久、忠経、忠弘、頼久。
島津為久 〈1433-*〉1456年朝鮮に交流の為の使者を派遣。
島津忠重 〈1435-*〉
↑島津忠国 〈1441-*〉修理亮・陸奥守・貴久・入道太岳。島津久豊の息。島津久豊の跡職を継承。百姓一揆と抗争。平山武豊を討つ。息に友久、立久(為久)、(伊作家)久逸、勝久、忠経、忠弘、頼久。弟に用久。末吉城主。
↓▽島津用久 (1401~1459)薩摩守。薩摩・大隈守護代。島津久豊の息。兄・忠国の守護代。息に国久、延久。出水亀ヶ城主。薩州島津家初代。
ー1467~1477年「応仁の乱」ー
島津立久 〈1470-1474〉(1432~1474)修理亮・陸奥守。1462年市来氏を征伐。1467年「応仁の乱」に東軍。領地国の鎮圧に務める。1471年幕府から琉球渡海の航路船の取り締まりを命じられる。のち父・忠国と抗争。父を追い大隈・日向を支配。息に武久(忠昌)。
▽島津久逸 (*)伊作島津。
島津武久 〈1474-1507〉修理進・陸奥守・忠昌。島津立久の息。大友政親の娘婿。1485年伊東祐国に勝利。1495年伊東氏と和睦。息に忠治、忠隆、勝久。
▽島津善久 (*)伊作島津。
島津忠治 〈1507-1515〉又三郎。島津武久の息。
島津忠隆 〈1515-1519〉又六郎。島津武久の息。
島津勝久 〈1519-1527〉(1503~1573)又八郎・修理大夫・忠兼・忠廉。島津武久の息。島津本家第14代。二人の兄の死により家督相続。1535年島津実久に敗北。養子に伊作島津家の島津貴久。家中の内紛により失脚。大隈、豊後を放浪。
▽島津実久 (*)薩州島津家当主。島津勝久の家老。姉婿が本家の勝久。貴久の家督相続に反対し伊作島津家と抗争。敗北し降伏臣従。出水に蟄居する。
‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐
[戦国 守護大名] 伊作島津家
▲島津忠良 (1492~1568)日新斎。島津善久の息。伊作島津第10代。1494年祖父・久逸、父・善久の死により家督。1506年伊作当主。母の再婚者の養父・島津運久から相州家を継承。1526年息・貴久を勝久の養子に送る。1536年伊集院城を攻略。1539年島津実久の居城・加世田城を攻略。1542年加治木城攻略。婿に肝属兼続、樺山善久、種子島時堯、肝属兼盛。
⇔島津貴久 〈1527-1566〉(1514~1571)修理大夫・陸奥守。伊作島津忠良の息。1527年本家・島津勝久の跡職を相続。1537年薩州家・島津実久を鹿児島城に破る。島津本家を実力で相続する。1549年肝付兼演が降服する。1554年入来院叛乱。1556年菱刈重豊、蒲生範清を降す。1561年肝付兼続を破る。
[日向守護大名] 〈在任期間〉
▽畠山直顕 〈1336-1337〉(*~*1358)亮七郎・修理亮・治部大輔。美濃畠山氏。畠山宗義の息。畠山義生の曾孫にあたる。足利尊氏に従い九州に下向。1336年島津貞久とともに薩摩・大隈・日向に転戦。1336~1337年日向守護。1340~1359年再び日向守護。1349年「観応の擾乱」に。足利直冬と結び直義派、薩摩守護・島津貞久・氏久と抗争する。1353年以降唯一の北朝方として、南朝の懐良親王に対抗。1358年少弐頼尚、大友氏泰の弟・氏時が寝返り没落する、以降消息不明。
大友氏顕 〈1337-*〉孫太郎。
▽畠山直顕 〈1340-1359〉(*~*1358)亮七郎・修理亮・治部大輔。美濃畠山氏。畠山宗義の息。畠山義生の曾孫にあたる。足利尊氏に従い九州に下向。1336年島津貞久とともに薩摩・大隈・日向に転戦。1336~1337年日向守護。1340~1359年再び日向守護。1349年「観応の擾乱」に。足利直冬と結び直義派、薩摩守護・島津貞久・氏久と抗争する。1353年以降唯一の北朝方として、南朝の懐良親王に対抗。1358年少弐頼尚、大友氏泰の弟・氏時が寝返り没落する、以降消息不明。
一色範親 〈1360-*〉
阿蘇惟武 〈1364-1377〉阿蘇大宮司。
島津元久 〈1391-1411〉又三郎・陸奥守・入道怒翁。
島津久豊 〈1411-1425〉修理亮・陸奥守・入道義天。大隈八代。伊東氏と抗争。
島津忠国 〈1425-1470〉修理亮・陸奥守・貴久・入道太岳。大隈九代。百姓一揆と抗争。平山武豊を討つ。弟に用久。末吉城主。
▽島津用久 (1401~1459)薩摩守。薩摩・大隈守護代。島津久豊の息。兄・忠国の守護代。息に国久、延久。出水亀ヶ城主。薩州島津家初代。
ー1467~1477年「応仁の乱」ー
島津立久 〈1470-1474〉(1432~1474)修理亮・陸奥守。1462年市来氏を征伐。1467年「応仁の乱」に東軍。領地国の鎮圧に務める。1471年幕府から琉球渡海の航路船の取り締まりを命じられる。のち父・忠国と抗争。父を追い大隈・日向を支配。
▽伊東祐堯 (*~1485)1444年国衆・曾井氏を征伐。日向清武城を奪取。1457年土持宣綱を討ち、財部(たからべ)土持氏を滅ぼす。
島津武久 〈1474-1507〉修理進・陸奥守・忠昌。
島津忠治 〈1507-1515〉又三郎。
島津忠隆 〈1515-1519〉又六郎。
島津勝久 〈1519-1527〉(1503~1573)又八郎・修理大夫・忠兼・忠廉。島津武久の息。島津本家第14代。二人の兄の死により家督相続。1535年島津実久に敗北。養子に伊作島津家の島津貴久。家中の内紛により失脚。大隈、豊後を放浪。
▽島津実久 (*)薩州島津家当主。島津勝久の家老。姉婿が本家の勝久。貴久の家督相続に反対し伊作島津家と抗争。敗北し降伏臣従。出水に蟄居する。
‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐
[戦国 守護大名]
▲島津忠良 (1492~1568)日新斎。島津善久の息。伊作島津第10代。1494年祖父・久逸、父・善久の死により家督。1506年伊作当主。母の再婚者の養父・島津運久から相州家を継承。1526年息・貴久を勝久の養子に送る。1536年伊集院城を攻略。1539年島津実久の居城・加世田城を攻略。1542年加治木城攻略。婿に肝属兼続、樺山善久、種子島時堯、肝属兼盛。
⇔島津貴久 〈1527-1566〉(1514~1571)修理大夫・陸奥守。伊作島津忠良の息。1527年本家・島津勝久の跡職を相続。1537年薩州家・島津実久を鹿児島城に破る。島津本家を実力で相続する。1549年肝付兼演が降服する。1554年入来院叛乱。1556年菱刈重豊、蒲生範清を降す。1561年肝付兼続を破る。
[肥後守護大名] 〈在任期間〉 阿蘇・菊池家
少弐頼尚 〈1336-1550〉(1294~1371)太宰少弐・筑後守。弟に経貞。1334年豊前国・筑前国守護職。1335年肥後国守護。1336年九州落ちした足利尊氏を全面支援。「多々良浜の合戦」に菊池武敏を破る。上洛し「湊川の合戦」でも軍功。九州探題となった一色範氏と対立。1350年「観応の擾乱」では、九州探題・一色範氏に対抗して足利直冬に従う。一色氏と結んだ大友氏泰に敗北。後に菊池家が勢力を拡大すると、大友氏時と同盟し菊池家に対抗。1359年菊池武光との筑後「大保原の合戦」に敗北し勢力を失う。大宰府浦之城城主。息に忠資、直資、冬資、頼澄。
▽少弐直資 〈-〉(*~1359)頼尚の嫡男。1359年「大保原の合戦」に菊池軍と合戦。叔父・武藤とともに先鋒第一陣20000人大将。宇都宮隆房に討たれる。弟に頼高、頼澄。息に頼興、頼国。
大友氏時 〈1359-1361〉(*~1368)刑部大輔。大友貞宗の息。足利尊氏に寵愛され、養子となる。1362年兄の大友氏泰の死後、家督相続。南朝の菊池武光の勢力が増大し、少弐頼尚と共に菊池氏と抗争する。「筑後川の合戦」に敗退し、勢力を回復できぬまま病死。
阿蘇惟澄 〈1361-*〉筑後守。本家と対立し南朝方。息に惟村。のち惟村と対立。
⇔阿蘇惟村 〈1362-*〉阿蘇大宮司。父・惟澄と対立。1375年懐良親王、阿蘇氏当主に惟武を任命し、阿蘇惟村が北朝に転じる。
菊池武政 〈1373-1374〉次郎・肥後守。
菊池武朝 〈1374-1376〉肥後守・左京権大夫・武興・入道常朝。
↑阿蘇惟村 〈1379-*〉阿蘇大宮司。父・惟澄と対立。1375年懐良親王、阿蘇氏当主に惟武を任命し、阿蘇惟村が北朝に転じる。
⇔今川貞継 〈1380-*〉(*)名和・伊予守。貞世の息(2男)。<南朝の名門・名和氏を乗っ取り継承するか?>
⇔↓今川仲秋 〈1384-*〉(*)中務少輔・右衛門佐・国泰(国康)・頼泰(頼康)・仲秋・入道仲高。遠江・尾張守護。範国の息。兄に今川貞世(了俊)。貞世の弟。1368年山城守護。九州遠征に従う。1371年肥前松浦に派遣される。1375年水島の変に山内某(通忠?)とともに少弐冬資を打ち取る。1388年遠江守護。1389年将軍・義満の「厳島参拝」に随行。甥・貞臣を後見。息に貞秋、氏秋、直秋、(肥前千葉)国秋。
⇔今川貞臣 〈1391-1399〉(*)今川義範・陸奥守。貞世の息(嫡男)。父に先行して九州豊後上陸。高崎城に拠る。田原(大友)氏能の補佐で菊池武光家臣の平賀新左衛門を討つ。1390年今川貞臣、宇土城を攻略し南朝方に打撃を与える。駿河今川惣領家の氏家が貞臣に跡職を希望するが、惣領家は泰範が継承する。息に貞相、(角和貞行)。孫に範将。
↑阿蘇惟村 〈1404-*〉阿蘇大宮司。父・惟澄と対立。1375年懐良親王、阿蘇氏当主に惟武を任命し、阿蘇惟村が北朝に転じる。
菊池兼朝 〈-〉肥後守。
ー1467~1477年「応仁の乱」ー
菊池重朝 〈1467-1493〉(1449~1493)肥後守。肥後国菊池郡隈府城主。肥後北部六郡支配者。1467年「応仁の乱」に東軍。
▽相良為続 (1447~1500)肥後国人領主。相良家惣領。1467年家督相続。宿敵・名和家と抗争。八代古麓城、豊福城を奪取。のち菊池能運に敗北。1493年「相良氏法度七条」人吉城主。
菊池能運 〈1493-1504〉武運。勢力を拡張する相良為続を破る。
菊池政朝 〈1504-1505〉肥後守。
阿蘇(菊池)惟長 〈1505-1513〉(1480~1537)菊池・肥後守・武経。肥後国主、菊池家に入るが、1511年失脚。弟・惟豊の矢部城を奪取。
‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐
[肥後戦国 守護大名]
菊池義武 (*~1554)大友義武・菊法師丸・十郎・重治・義政。大友義長の息。大友義鑑の弟。肥後の国人、菊池武包の養子となる1551年菊池家相続に失敗した阿蘇惟長(菊池武経)の跡職を継承する。飽田郡隈本を本拠とする。鹿子木親員、田嶋重賢が両家老として補佐する。1534年大内家と結び筑後に侵攻。失敗し島原に出奔。姻戚の相良氏の後援で肥後に復帰。1550年大友義鑑の「二階崩れ」に乗じて隈本城にて挙兵するが、甥の大友義鎮軍に敗北する。1554年木原にて大友義鎮により討たれる。
[筑後守護大名] 〈在任期間〉 大友家
宇都宮冬綱 〈1336-1337〉(*)城井・弥六・左衛門尉・常陸介・常陸前司・入道・高房・守綱。下野宇都宮出身、父・貞綱。豊前宇都宮頼房の養子。1331年「元弘の乱」鎮圧に島津氏とともに上洛。「建武新政」に筑後守護。九州探題襲撃に参加。1336年九州落ちした足利尊氏に従う。北朝で豊前・筑後守護。<豊前宇都宮頼房、養子・(下野)宇都宮冬綱>
⇔▽一色直氏 〈1347-*〉(*~*1357)宮内少輔・右京権大夫・少輔太郎・入道。範氏の息子。肥前守護。1346年九州探題を世襲する。1347年筑後守護。1348~1351年肥前守護。太宰少弐頼尚と抗争。1353年筑前国「針摺原の合戦」に敗北。1357年南朝の征西将軍懐良親王と菊地武光に九州を追われる。京都に帰還。1356年再度、九州に上陸するが筑前国「麻生山の合戦」に敗北し京都に戻る。
大友氏持 〈1363-*〉刑部大輔。
大友氏継 〈1364-1371〉(*)孫三郎。九代。大友氏時の息。親世の兄。1368年家督相続直後に南朝勢力が増大し、南朝に降る。弟・親世は北朝に残り、兄弟で抗争する。
⇔島津氏久 〈1375-*〉(1328~1387)陸奥守・越後守。奥州家。大隈守護。島津貞久の息。貞久の四男。兄が薩摩を継承し、大隈守護となる。1375年今川貞世、少弐冬資を暗殺(水島の変)。島津氏久・大友親世など各国守護が南朝に離反。師久と対立し抗争。「奥州家」の祖。息に元久。
⇔今川貞世 〈1375-1395〉(1326~*)左京亮・伊予守・入道了俊。今川範国の息。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。1375年貞世、少弐冬資を暗殺(水島の変)。島津氏久・大友親世など各国守護が南朝に離反。1381年九州を統一する。1395年勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。
大友親世 〈1399-*〉(*~1418)修理大夫。十代当主。1368年北朝に従う。1370年に赴任した九州探題・今川貞世に協力する。
大友親著 〈1401-1426〉(*)式部大輔。
大友親綱 (*)大友家惣領第13代。
ー1467~1477年「応仁の乱」ー
大友親繁 〈1469-1482〉(1411~1493)豊後守。大友親綱の弟。大友家惣領第15代。1444年大友家惣領職。1456年朝鮮に交流の為の使者を派遣。1467年「応仁の乱」に東軍に属し、西軍の大内家と抗争。
大友政親 〈1482-1484〉(1444~1496)豊前守。大友親繁の息。大友家惣領第16代。1473年大友家惣領職。将軍・足利義政により豊後・筑後守護に承認される。家督を義右に譲るが不和となり、大内家の内政干渉もあり抗争激化。1496年赤間関で大内軍の捕虜となる。娘婿に島津武久(忠昌)。
大友親豊 〈1484-*〉中務大輔・修理大夫・義右。大友政親の息。義理の兄弟に島津武久(忠昌)。大友家惣領第17代。
大友親治 〈1499-*〉備前守。大友親繁の息。大友政親の弟。大友家惣領第18代。
大友義長 〈1501-1516〉(1478~1518)修理大夫・親匡・義親。大友親治の息。大友家惣領第19代。1501年家督相続。豊後・筑後・豊前守護兼任。11代将軍・足利義澄により承認される。1515年「大友家条々」を制定。
‐1523年「日明貿易」京兆家・細川高国と大内義興の抗争。「寧波の乱」勃発‐
△大友義鑑 (1502~1550)親安。豊後・豊前・筑後守護職の大友義長の息。大友家20代。1518年家督相続。大内義興の娘婿。1534年豊前宇佐の佐田朝景を「勢場ヶ原の合戦」に破る。1538年将軍・足利義晴の調停で佐田氏の背後にいる大内義隆と和睦。1544年朽網親満の乱を鎮圧。義晴の嫡男・菊幡丸(義輝)元服の資金を援助する。1550年義鎮を廃嫡するが「二階崩れの変」で死去。
[筑後戦国 守護大名]
⇔大友義鎮 (1530~1587)洗礼名フランシスコ。1554年竜造寺隆信の佐嘉城帰還を援助し肥前守護職を得る。1556年豊前・筑前制圧のため府内より出陣。1557年大内家の混乱に乗じ豊前門司城を奪取。1558年毛利氏に門司城を攻略される。1559年豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職となる。1559年豊前「門司城攻防戦」で毛利隆元に敗北する。1561年田原親宏に命じ門司城を攻囲。1562年丹生城を築城。1563年毛利方の松山城を攻撃し敗退。1564年毛利氏と講和する。1569年吉川元春が豊前に侵入。1569年毛利方と「多々良浜の合戦」。1570年竜造寺隆信の佐嘉城を攻囲、「今山の合戦」に大敗。1576年宇佐八幡宮を焼き討ちする。1576年隠居。臼杵丹生島城主。1578年日向遠征に出陣。「高城川・耳川の合戦」に敗退する。1582年天正少年遣欧使節団。
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