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織田軍その5 六道大軍団長(北畿西・山陰):惟任光秀の家臣団と軍団

惟任光秀(明智光秀)の略年表と家臣団と軍団、長岡藤孝(細川藤孝)の家臣団のページです。

(街道六道御番役)地方方面軍・独立軍団軍団長、直属・旗元馬廻衆旗頭{織田近衛軍}古来、京都守護の最強軍「丹波軍」を任された大将。

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惟任(明智)光秀 肖像のつもり。

「日向守が働き、天下の面目をほどこし候。」 -織田信長- 

 
1582年、出雲への出向、配置替え等、主(信長・信忠)の政策に失意、謀反か。

光秀以前の南畿内担当の軍団長、原田(塙)直政・佐久間信盛の軍団 ←前者は初期山城支配、

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後者(佐久間)は西三河三宅氏(明智秀満)と関連有り、佐久間の失脚を光秀が画策とも。

惟任光秀 (明智光秀)の略年表 
(*1528~1582)略年表 丹波守護。

1528年 東美濃に誕生。
19歳(1546)山岸光信の娘婿(先妻)。光秀の庶子に山岸光連とも。
(1553)妻木広忠の娘婿(後妻)。
29歳(1556)  斎藤道三 討死。光安の家老に溝尾、三宅、藤田、肥田、池田、奥田、可児、森氏あり。明智城、義龍配下の長井衛安に攻撃され落城。

浪人時代 :「一僕のもの、朝夕の飲食さへ乏かりし身。」『当代記』

36歳(1563) 朝倉義景に出仕。
39歳(1566) 足利義昭、越前に落ちる。
40歳(1567) 織田信長と上洛下交渉。「細川兵部大夫カ中間にてありし」『多聞院日記』。<光秀は瀧川一益と交流があり、一益の北伊勢侵攻に光秀と親しい僧侶・勝恵が伊勢の豪族を説得して回ったという・・>
41歳(1568) 7/27:立政寺にて信長と会見。8/*:足利義昭とともに上洛入京。足利義昭直属の足軽大将へ昇進。12月三好三人衆阿波軍を率い上洛。波多野秀治、宗長、赤井忠家、荻野(赤井)直正、足利将軍に忠節を誓う。

42歳(1569) 1/*:山城国、「本圀寺篭城戦」。二条城普請。足利義昭より北山城の山本・渡辺を与力に与えられる。<8/*:伊勢従軍?>

43歳(1570) 1/*:信長が将軍に「5ケ条の条書」立会。4/20:「越前侵攻」。浅井の離反により敗退。秀吉とともに殿軍「金ヶ崎退き口」。長秀とともに派遣され若狭国・武藤上野から人質を確保。<丹羽長秀というライバル出現。>近江横山城攻囲。6/28:対朝倉・浅井家 「姉川の合戦」。横山城に織田軍秀吉城番。佐和山の磯野員昌と対陣。9/*:村井貞勝とともに二条城守備。11/*:丹羽長秀、瀬田に舟橋を架橋。

44歳(1571) 1/*:「比叡山焼き討ち」従軍。明智光秀、志賀郡配領。2/*:近江佐和山城主・磯野員昌の降伏。7/24:囲船を造船。水軍を率い海津浦、塩津浦、余呉入海、江北竹生島を攻撃。9/12:比叡山延暦寺焼き討ち。比叡山領拝領。城持ち大名に抜擢。

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近江坂本城(想像図)


45歳(1572) 1/*:坂本城築城。3/*:近江木戸、田中城奪取。4/*:摂津国乱入。7/*:浅井攻囲。<武田信玄の上洛に秋山軍が東美濃に侵入、明知遠山利景等が討たれる。>

46歳(1573) 2/29:囲船を造船。近江「今堅田城奪取」。7/16:足利義昭、真木島(槙島)城篭城、攻撃。7/21:静原山城主・山本対馬守を攻撃。
 内藤備前守、桑田郡・宇津頼重が将軍に忠節。摂津衆、池田・塩川も上洛し将軍御所を守備。

47歳(1574) 1/11:筒井順慶の後見、婚姻成立。松永久秀親子、岐阜に参上し降参。2/1:東美濃にて武田勝頼と対陣。9/*:河内出陣。対一向宗。
<丹波と関わりのある松永久秀との水面下での暗闘があったか。>

48歳(1575) 3/*:長岡藤孝に丹波の指揮権。内藤備前守、桑田郡・宇津頼重の討伐命令。南山城守護・原田直政、大和守護就任。6/*:明智光秀に丹波方面の指揮権移動、丹波調略。6/7:川勝継氏に信長からの光秀に協力指示書。7/3:惟任日向守を拝領(信長の奏請)。北畿内(西)方面軍成立。惟住長秀との出世競争開始。8/23越前一揆征伐、加賀乱入。丹波・赤井氏は、但馬の太田垣氏の「竹田城攻囲」。生野銀山を巡り山名氏と抗争。9/*:丹後出征。北畿(西)方面担当。

柴田勝家が「光秀出頭(出世)」と嫉妬を記す。

9/*:第1次丹波征伐。11/*:荻野(赤井)直正の丹波「黒井城攻囲」。四国、長曾我部 調略。

49歳(1576) 1/15:波多野秀治 離反。丹波から撤収。坂本帰城『兼見卿記』。2/*:第2次丹波征伐。丹波出陣。4/*:本願寺石山攻囲。(光秀、発病。)本願寺一揆蜂起。 5/*:摂津三津寺攻略に原田戦死。佐久間信栄とともに天王寺砦守備。

50歳(1577) 2/*:紀伊雑賀攻めに従軍。8/17:松永久秀 離反。10/3:織田信忠に従い大和「信貴山城攻囲」。

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<総司令・織田信忠の畿内制圧>
10/10:松永久秀 爆死。10/19:第3次丹波征伐。長岡藤孝とともに「丹波亀山城奪取」。29:「丹波籾井城攻略」『兼見卿記』。
丹波国の亀山・籾井城再整備、軍事計略の拠点とする。亀山城は坂本につづき光秀の居城となる。

51歳(1578) 2/*:播磨・別所長治の離反。3/*:荻野直正死没。第4次丹波征伐。丹波「八上城攻囲」。4/*:摂津石山本願寺攻囲。第5次丹波征伐。丹波出陣、丹波「薗部城攻囲」。5/*:播磨乱入。6/*:神吉城攻囲。9/*:第6次丹波征伐。丹波出征。筒井順慶与力。10/17:荒木村重 離反、有岡城攻囲。摂津三田城攻囲。11/*:中川清秀・高山右近調略。長岡忠興 後見、両家の婚姻を結ぶ。12/*:第7次丹波征伐。丹波「薗部城奪取」。播磨の山中鹿介「上月城救援」。丹波国の薗部城再整備、軍事計略の拠点とする。

52歳(1579) 1/*:丹後国主・一色義道病死。2/*:丹波亀山入城。第8次丹波征伐。波多野家の「氷上城攻囲」。4/*:丹後国衆・和田弥十郎に丹波八上の戦況を報じる。5/*:「氷上城攻略・奪取」。6/4:波多野秀治の「八上城攻略・奪取」。安土にて秀治・秀尚・(二階堂)秀香の三兄弟を処刑。
横山城の塩見大膳・信房を降す。丹波国の氷上・八上城再整備、軍事計略の拠点とする。<大和・吉野騒乱>丹後侵攻。7/19:宇津頼重の宇津城攻略。第9次丹波征伐。8/9:赤井忠家の「黒井城攻略・奪取」。9/*:荒木村重逃亡。丹後侵攻。10/24:安土凱旋。丹波国の黒井城再整備、軍事計略の拠点とする。丹波横山城を福知山城と改名し大改修。明智秀満を城主とする。

53歳(1580) 3/*:坂本城修築。丹波国拝領。北畿内(西)方面軍、拡大。8/*:佐久間信盛の追放事件。9/*:瀧川一益とともに大和入国。検地実施。城破却。

1580年北畿内(西)方面軍から「準近衛軍」として畿内平定に。80~82年が絶頂期か。<丹波の平定により方面軍から遊撃軍化、瀧川一益、惟住長秀と同じステージ(準近衛軍旗頭)に並んだということでは。>

54歳(1581) 2/28:京都「馬揃え」開催。6/2「明智家中軍法18ヶ条」制定。8月大和国を巡検。明智光秀の妹、御妻木殿の死去(信長の側室とも)。12月内衆に法度公布。


55歳(1582) 1/*:安土参賀。2/*:甲州乱入準備。3/5:安土出陣、「信濃・甲斐乱入」に従軍。5/15:安土、徳川家康饗応。1580年「準近衛軍」から山陰道方面軍に(格下げ?)。実は信雄と同じ理由で遠征を忌避?<武田討伐後の織田家諸将の配置>6/1:毛利家 と対陣の為出陣。6/2:本能寺の変。 6/14:戦没。

『当代記』では、享年67歳と記される。<信忠の悪評の事といい、『当代記』はくせものですよね。いいとこもあるけど、悪いとこも。噂話収集本という感じでしょうか。どこまで信じるかは・・。>
信長様49歳が、67歳の老将を前線で酷使するでしょうか。没年齢は55歳くらいが妥当かと思います。

惟日→「コレヒー」と略される場合多し?。
高柳光寿『明智光秀』に伝記が詳しい。『大日本資料』第11編之1に資料。
<自分としては筒井順慶が配下武将であるということ、明智光秀が「近畿管領」とよばれることには疑問があります・・・。
 「信長公記」を読んでいて、明智光秀は軍団長ぐらいの影響力があるようにしか見えません。やらかしたことは どでかいですが。
信長・信忠を強襲した軍団の長・光秀なら、「近畿管領」くらいの地位があっただろうという現在の「定説」という固定観念こそ、乗り越えなければならないものだろうと思います。
(どちらかというと、政治的には村井貞勝さん、軍事的には丹羽(惟住)長秀さんのほうが畿内管領に相応しいと思います。それに1580年まで畿内では織田家重臣筆頭の佐久間信盛が健在ですから、それを超越して光秀の畿内管領職はありえないです。1580~1582年摂津石山の司令官が誰だったのか、そこが重要でしょう。)
丹後の処置に関しては長岡藤孝が、国衆の誅殺・謀殺・暗殺の罪を、光秀も共犯者に仕立て上げて、細川家が一色家を謀略で潰したわけではないと自己正当化している節はないのでしょうか。
1580年佐久間軍団解体後、大和の制圧には瀧川一益の軍とともに行動(単独の仕事ではない)。

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1581年1月、「京都馬揃え奉行(コーディネーター)」として、諸将に触状を回す。統括したといわれますが、奉行なのですから役目柄当然かも・・。
「馬揃え」本番では村井貞成と分担して上山城衆を引率(下山城衆がいない事がきになりますが、惟住長秀率いる西岡は下山城衆の意?)。瀧川や川尻といった宿老が参加していたら、引率の分担も変化したかもしれませんね

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<織田信忠軍76~80年代活動図>


 畿内の織田主力軍を務める二本柱、瀧川・惟住が方面軍軍団長として去った後、光秀自身が織田主力軍の旗頭の座を射止めるか、と思われた瞬間、手のひらからするりと抜けていった事がショックで、「本能寺」の狂行に走った気がしなくもないです。
 というわけで私の個人的な歴史観も おしつけるつもりはありませんのですが、 どうか、
古文書や『信長公記』を自分で読んで、それから導き出した自分の意見を大切にして下さい。真実はその先にきっとあると思います。
そして丹羽(惟住)長秀さん、織田信忠さんの歴史的評価の位置づけに疑問を持つ意見に賛同していただければ幸いです。>

<光秀を利用した人物>

⇔吉田兼見 (1535~1610)卜部・兼実・「神祇管領長上」。吉田神社神職。兼右の息。弟に神龍院梵舜。長岡藤孝の従兄弟。織田信長と早くから交流。明智光秀の後援者。「本能寺の変」関係者。のち光秀との交流を隠し本能寺の変以前の日記を書き換える。息に兼治。養子に従兄弟の荻原兼従。<山城の豪族・佐竹宗実と相婿の関係。細川藤孝とも息子が縁戚関係。>

⇔近衛前久 (1536~1612)晴嗣・前嗣・龍山。関白・近衛稙家の息。本願寺教如を猶子とする。1554年関白職に就任。1559年上洛した上杉謙信を接待。1560~1561年にかけて越後下向。京都に戻るが1568年足利義昭と対立し失脚。1573年義昭追放後、織田信長に擁立され復帰。九州島津家との取次ぎを勤める。1580年本願寺との和睦交渉の使者。1581年2月「京都馬揃え」に従軍。1582年「甲州乱入」に従軍。6月1日信長茶会に列席『言経卿記』。「本能寺の変」に惟任勢に与力。<1582年本能寺に様子伺い。><信長打談合ノ衆!?>

⇔長宗我部元親 (1539~1599)宮内少輔。国親の嫡男。1560年家督を継承し本山、安芸氏を倒す。1568年織田信長と音信。斎藤利三の妹婿で元親の側近・蜷川親長が上洛。1569年「安芸氏征伐」。1574年一条氏を追い土佐国を一職支配。1581年「阿波侵攻」。1582年「中富川の合戦」。1593年池豊前を誅殺。息に信親、(香川)親和、(津野)親忠、盛親、康豊。娘婿に一条内政、吉良親実、佐竹親直、吉松十左衛門(光勝?)。

⇔蜷川親長 (1533~1610)にながわ・三郎・新右衛門尉・入道道標。丹波船井の豪族。親世(親俊)の息。弟に斎藤親三。斎藤利三の妹婿。従兄弟に石谷頼辰。足利義輝臣・元幕臣、政所代。伊勢家家老。将軍・足利義輝の死後、土佐に渡る。1575年元親の命で上洛。丹波、河内に所領を持つ。国除封の際の「浦戸一揆」を桑名弥次兵衛とともに鎮圧。のち江戸幕府に出仕。息に親満。<関白・一条家は土佐・一条家と一族。長曾我部氏は一条家の家臣。><政所所司の伊勢家の配下。政所所司代の家柄。>

▽蜷川貞周 (*)元幕臣。貞親の息。叔父に掃部助・貞朝。親長の跡職を相続し蟠根寺城城主。のちに明智光秀に出仕。息に丹後守・貞栄。<蜷川と伊勢。>

⇔↓▽蜷川貞栄 (*~1582)丹後守・丹後入道。丹波船井の豪族。元幕臣。伊勢家と一族。丹波蜷川城主。息に貞房。<蜷川氏は幕府政所代として三好政権下では重要な地位を占めた名門。長宗我部元親方の蜷川親長と一族でしょう。>

⇔石谷光政 (*)入道空然。美濃方県郡石谷の豪族(遠江の石谷とも)。幕府奉公衆。足利義輝の側近。娘婿に長曾我部元親。義輝弑逆事件の後、娘のいる土佐に渡る。婿養子に石谷頼辰。1586年九州遠征に従い、豊後の戸次川の合戦に戦死。娘婿に頼辰、長曾我部元親。<関白・一条家は土佐・一条家と一族。長曾我部氏は一条家の家臣。><石谷と斎藤、蜷川と長曾我部。あやしい。>

⇔石谷頼辰 (*~1587)斎藤・孫九郎。美濃の豪族。足利義輝家臣、幕府相番衆。斎藤利賢の息。母は蜷川親順の娘。養父に石谷光政。室に石谷光政の娘、相婿に長宗我部元親。兄弟に斎藤利三、三続、妹婿に蜷川親長(道標)、長宗我部元親。息に加兵衛。娘婿に長宗我部信親、斎藤三続。<明智・肥田・石谷氏の先祖は幕府の直参で奉公衆。守護代・斎藤家と争うこともできた勢力。><遠江国人に石谷氏あり。もと今川家臣。>

⇔↓∵伊勢貞興 (1559~1582)能千代・小法師・三郎・与三郎・伊勢守。元幕臣、幕府政所執事家。幼少時、若狭に落ちる。1565年義輝死去後、足利義栄に兄・貞為が出仕。1568年義昭が織田信長に擁立され上洛。兄・貞為が失脚し家督継承。1571年足利義昭により政所執事。1582年「山崎の合戦」に従軍し戦死。<蜷川と伊勢の主従関係。>

⇔革嶋秀存 (*~1582)佐竹。山城国葛野郡革嶋南荘の豪族。一宣の息。元幕府衆。織田家家臣。弟に政宣・忠宣。瀧川一益与力。明智光秀に従い山崎合戦に敗北。伊勢に落ちるが病死。<京都町中に城を持つ。織田信忠の京都脱出を阻止するか?。><革嶋家の古文書は石谷家並に重要なのでは。><明智家臣の溝尾氏と縁戚関係にあり、弟・忠宣は妹婿が明智重臣の誰からしい。積極的に明智に加担した疑いを持たれていた。>

↓○佐竹宗実 (*)出羽守。山城衆。室は吉田兼見室と姉妹。山城国愛宕郡高野地侍。弟に左近允。丹波八上城攻囲に参陣。<革嶋と佐竹。><吉田兼見と相婿とも。朝廷とのパイプラインです。斎藤利三とともに重要な人物かも・・・。><革島氏と同族であるなら、本能寺の変に革島秀存を引き込むことに貢献しているかもしれませんね。>

⇔森川氏俊 (*)堀部・佐々木。堀部氏兼の息。尾張国春日井郡比良に領地。織田家家臣。徳川家康に随行。本多忠勝の与力。息に氏信、正次、重俊。<堀部氏から母方の森川に改姓・・・。><木俣守勝と同じような立場です。>

⇔曲直瀬道三 (1507~1594)堀部・正盛・洗礼名:ベルショール。堀部親真の息。1516年京都相国寺、1528年関東足利学校に学ぶ。田代三喜斎に医術を学ぶ。1546年上洛。足利義輝、細川晴元、三好長慶を診察。松永久秀を弟子とする。1562年毛利元就を診察。1569年能登・畠山義綱を診察。1574年正親町天皇、織田信長を診察。1584年オルガンティノ診察。キリスト教に入信。<堀部家出身ということで。><松永久秀がある時期から周辺人物を毒殺しまくるのも、何かきっかけがあったのでは?と思いますが。まさか・・><国を治療するというのは要人を暗殺も・・>

織田信長の主力軍=準近衛軍(信長直属の他国先方衆)
与力・長岡藤孝(長岡は山城西岡衆、丹波船井・桑田郡の土豪を与力)。
山城西岡の革島氏は長岡与力から除外され、瀧川一益の配下。山城国の豪族・革島氏は瀧川と婚姻→ 瀧川一益の軍団

惟任光秀(明智光秀)の家臣団と軍団

 ○与力(信長目付)として付属せられたもの ∵本能寺変後に臣従したもの。 ▽部下や子弟。 ▼陪臣や孫世代。
  織田信忠(1555~1582)世代は青文字  明智光慶世代は緑文字。
 
惟任光秀 (*1528~1582)明智光秀・(進士)・十兵衛・日向守。美濃出身。土岐家一門。明智光綱の息。母は山岸貞秀の娘とも。山岸光信の娘婿。妻木広忠の娘(養女?弟・範熈の娘とも)婿。朝倉義景、足利義昭、織田信長に仕える。1571年比叡山焼き討ちの後、南近江滋賀郡の領主。坂本城主。1575年官位任官。北畿内(西)方面軍旗頭。1575年丹波侵攻し敗退。1576年2月再度丹波攻め。4月原田直政の支援。1576年急病に倒れる。1577年2月雑賀攻め従軍。10月松永久秀攻め。1577年丹波侵攻。1578年娘婿・荒木村安の父・荒木村重謀反。1579年丹波国宇津城を攻略し周山城築城。1579年八上城主、波多野秀治を攻略。息に光慶。丹波亀山城主。<実は切支丹なんでしょうか。斎藤道三が一代で美濃を獲ったと信じられてきたくらいですから、きっとまだまだ不明なことだらけなのでしょう。><惟宗氏が九州の名族なのは理解できますが、惟任・惟住の姓は、戦国以前にあったのでしょうか? 現在まで資料でその苗字を目にしたことがありません。 摂関藤原家・近衛家の家司(家宰・家侍)が惟宗姓を宮侍として名乗れるようなので、近衛前久が上杉謙信を見限って上洛し織田に接近した際に、織田重臣の2人と出会って、東美濃で斎藤大納言正義(近衛家の庶子)と名乗る人物の配下に、光秀・長秀の先祖が係わりがあったとかの旧縁で、2人に「惟」の字をあたえてみたとかありえないでしょうか。信長様も謙信相手に利用価値ありとおもい容認したとか。又は惟宗家の祖、秦氏を意識して、秦氏と縁の深い山城・丹波とか、秦氏を祖とする神保・長宗我部などの古代氏族との縁を意識しての改名だったのではないでしょうか、あの時点で九州の事を考えているというのは話が飛躍しすぎているように思えます。日向守の官位は1570年代に三好三人衆の頭目であった三好日向守を意識しての任官だったのではないでしょうか。三好家の所領、丹波・摂津・河内支配に当時の三好の将の官位を相続することに意味があったのでは(妄想。>

明智光慶 (1569~1582)惟任光慶・(妻木)・十五郎・十兵衛。明智光秀の嫡男。母は妻木氏。丹波亀山城主。「山崎の合戦」後に自害。14歳。姉婿に津田(織田)信澄、明智(三宅)秀満、長岡(細川)忠興。<容姿は欧州の王子の様だと宣教師に記録される。>

▽隠岐惟恒 (*~1582)五郎兵衛。明智家家臣。光秀嫡子・惟任(明智)光慶の守役。亀山城代。<隠岐佐々木氏(京極・尼子)の支流か。尼子再興の為に上洛するか。1582年代の当主は隠岐清家。のち毛利の擁立した隠岐経清に追われたらしい。><尼子勝久との関連を考えると、ひとりやふたり出雲佐々木系の武将が家臣団に仕官していても変ではないでしょう。>

▽筒井定頼 (*~1582)惟任定頼・(明智)・自然丸・十二郎。明智光秀の息(次男)。大和の筒井順慶の養子(筒井・小泉定次が正式に養子になる以前の話)となる予定。<筒井氏の養子には信孝も予定があり、信澄も大和国主を渇望していたといいますから、下からの突き上げで光秀の領土自体、織田家の第二世代の誰かが狙っていたとも考えられないでしょうか。隣国に居る津田信澄さんが不気味だったことでしょう。><定頼という名は筒井氏ではなく土岐家を意識しているような。>

<明智(惟任)光秀の一門(連枝)衆>

 * 親戚または婚姻関係でゆかりのあるもの

明智光安 (*~1556)兵庫頭・入道宗宿。美濃出身。室は斎藤利胤の娘。明智光継の息(3男)。1556年織田信清と結び斎藤義龍と対決し、揖斐光就、長井道利軍の攻撃で滅亡。家老に溝尾、三宅、藤田、肥田、池田、奥田、可児、森氏あり。中条家忠、明智光近(のち斎藤利次室)は娘婿。長山明智城主。<明智光春の父とされる。>

明智光春 (1537~1582)左馬助・光俊。美濃出身。明智光安の息。<『明智軍記』に登場。「(三宅)弥平次・秀満とは別人か?」説あり。別人として成立すれば、どえらいことです。これからは左馬助で登場する人物、弥平次で登場する人物を分けていくべきなのでしょうか。><どちらかが坂本城在番で亀山城にて謀反告白の家老の中には含まれて居ないのかもしれませんね。><光春は三河の三宅一門とは別系統として考察する必要ありか。>

明智光継 (1468~1538)民部少輔。武田信豊の娘婿。娘婿に斎藤秀龍。息に光綱、光安、光久。<最初対立し、和睦の為に道三と婚姻関係を結ぶか。>

明智光綱 (1497~1535)光継の息。義兄弟に武田義統。1535年戦死。進士(山岸)信連の娘婿。跡職は弟・光安が継承。息に光秀。<道三と争い戦死とも。>
<美濃明知城の飯羽間遠山氏との関係、坂井政尚との関係が気になる美濃明智一族です。>

*明智光久 (1516~1582)次右衛門。美濃出身。明智光継の息(3男)。光綱、光安の弟。息の明智光忠とともに、惟任光秀に出仕。丹波八上城主。<光継の室は若狭の武田信豊の娘とも。>

▽*明智光忠 (*1540~1582)二郎四郎・次右衛門・治右衛門。光秀の叔父・光久の息(光安の息とも)。明智光秀の娘婿とも。丹波攻略戦で頭角を表す。本能寺の変に奮戦し負傷。山崎合戦に参加できず。「山崎の合戦」敗戦に知恩院にて自害。娘婿に細川忠興(側室として)。丹波八上城主。<『細川家記』に丹波攻略に活躍したさまが記されているそうです。>

▼明智光近 (*~1582)十郎左衛門。明智光秀の縁戚。光忠の息か。1582年「山崎の合戦」に従軍。<光忠20代頃の息子とすると、「山崎」の頃は20歳程の若手の武将ですね。><片桐且元に討たれたらしい。>

(山岸・進士氏)


▲山岸貞秀 (*)進士。美濃揖斐の豪族。娘婿に明智光継(光綱とも)。外孫に光綱(光秀とも)。揖斐城主。<婚姻を結んだ明智側の世代、伝承が微妙にずれているのかもしれません。><山岸氏の娘は丹波・波多野氏との和睦の為に人質となった、光秀の母という伝承だが、母というより祖母かも?。>

*山岸光信 (*)進士・(明智)・勘解由左衛門・(入道信周?)。光継(光綱?)の息。光綱(光秀?)の弟。「西美濃18人衆」のひとり。揖斐郡の豪族。山岸家跡職継承。光秀の庶長子の光連を養育する。娘婿に明智光秀(もしくは光安?)。府内城主。<光重と同一人物か?光秀の先妻の父とも。>

*明智光重 (*~1582)山岸光重・進士・作之丞。美濃衆。光秀母(光綱の室)の弟(光信?)。娘婿に明智光秀。<斎藤家の西美濃18将山岸氏の一門。堀、進士、安田(天野)と同族とも。><光秀の息とも。光連=光重なのでしょうか。><娘婿は光秀ではなく、明智姓を継承する光忠や秀満なのでしょうか。><光重が光秀の庶子とも・・。錯綜してますね;;。>

*進士貞連 (*)(山岸)・作左衛門。美濃出身。光秀の側近。1582年「山崎の合戦」に従軍。勝竜寺城を守備。のち細川家、前田家に出仕とも。<明智光秀の名乗りに進士というともあり、光秀の一門衆なのかもしれません。美濃・山岸家と同族とも。><山岸貞連と同一人物か。><光秀とは義兄弟か?。><明智(山岸)光重の一門か。>

▽明智光連 (*)進士・山岸光連。光秀の息(庶長子)。<貞連と同一人物か。>

▽堀口貞之 (*~1582)(坂本)・三之丞。弟に三大夫・貞春。山岸氏与力。1582年「山崎の合戦」に従軍。<新田系の堀口氏の子孫のようです。>

(三宅氏)

 畠山家臣に三宅氏あり。能登・越中、河内・紀伊にも地盤。西三河三宅氏は・・。

*三宅綱朝 (*)(明智綱朝)・藤兵衛。美濃出身。明智光安の家老。1556年明智城守備。のち光秀の側近。1582年「山崎の合戦」に備え、山城国勝龍寺城主。<明智秀満の一門か、秀満の父・出雲守の事か。><明智光廉と同一人物とも。遠山系で母方の三河三宅氏を継承したとも。><三好家臣の摂津の豪族にも三宅氏がいるようです。><式部大輔・秀朝は世代的に息か。>

*明智光廉 (*)三宅光廉・甚助・十平次・長閑斎。美濃出身。光秀の叔父。<遠山景行と同一人物とも。><遠山氏は三河西加茂郡の豪族、広瀬城主の三宅一門と縁戚関係が深い。><徳川家康の接待にも、明智光廉・秀満は三宅の縁でパイプ役として活躍していたのかもしれませんね。>

↓▽*明智秀満 (*1536~1582)三宅秀満・弥平次。三宅出雲守の息。明智光秀(光廉)の娘婿(元・荒木村次の室)。丹波福知山城(元・横山城)主。本能寺の変に奮戦。安土城に在番し、山崎合戦に参加できず。坂本城で自害。息に藤兵衛・重利。<叔父・明智光安の息とも。光春と秀満の二人の事績が混合されひとりの人物として成立するか?><三河西加茂郡の三宅氏と繋がりがあるようです。><三宅氏は佐久間一族と因縁があるので、佐久間信盛を讒言するとすれば、西加茂郡の情勢が大きく影響していたのではないでしょうか。><ちなみに三河三宅一族は徳川家の与力として1582年武田家滅亡後に駿河に所領を与えられ、対北条の前線に配置されます。>

↓▽三宅業朝 (*~1582)周防守。1582年明智秀満、妻木範賢の与力。<三宅綱朝の一門か。>

↓▽三宅秀朝 (*~1582)式部大輔。明智家古参の家臣。明智光安の家老。1556年明智城守備。のち光秀に出仕し、1582年京都所司代。

⇔*遠山景行 (1509~*1572)与助・入道宗叔。景保の息。三河西広瀬城主の三宅高貞の娘婿。1572年「上村の合戦」に秋山信友に敗北し戦死。息に景玄、利景、娘婿に小里光次、三宅伊通。明知城主。<*光秀家臣ではない。息の景玄が秀満と同一人物説ありなので掲載します。><武田に離反したとも。>

(明智一党)


↓▽*明智秀貞 (1555~*)猪飼野秀貞・半左衛門。近江堅田衆・猪飼野昇貞の息。明智光秀の娘婿。1580年12月津田宗及茶会に明智掃部とともに列席。変後、1582年8月にも宗及茶会に招待される。「山崎の合戦」後は丹羽長秀に保護される。のちに徳川家臣。<「光秀の野望」的に近江堅田支配、琵琶湖支配も狙っていたのでは。猪飼野氏ら土豪の血縁関係を利用しようとしての「明智」姓なのでは。>

▽明智* (*)掃部。1580年12月明智(猪飼)秀貞とともに津田宗及茶会に列席。1582年(8月!!)にも宗及に招待されている。<堅田衆?><明智姓を与えられた並河掃部のこととも。>

明智* (*~1582)巳蔵。1582年「山崎の合戦」に戦死。<明智姓を与えられた武将か。>

明智* (*)九太夫。<明智姓を与えられた武将か。>

↓明智利光 (*)斉藤利光・平三郎。稲葉家家老・斉藤利三の息。父とともに稲葉家を出奔。明智光秀家臣。

↓▽明智三存 (*)斉藤三存・与三兵衛。稲葉家家老・斉藤利三の息。父とともに稲葉家を出奔。明智光秀家臣。

御由緒(堀田・恩田・杉生)→(堀部?・杉原?の誤字か)
堀田* (*)(明智)・十郎兵衛・(正種?)。娘婿に明智光秀。<尾張国津島に堀田氏あり。>

▽明智* (*~1582)杉生・恩田・孫十郎・三右衛門。美濃出身。光秀の義理の弟。1582年本能寺に突撃した。続いて二条御所攻撃に先陣。戦死する。<義弟ということは光秀側室の弟とかでしょうか。>

(その他)

▽明智市尉 (*)明智市・(右衛門尉・左衛門尉?)。1569年岐阜に滞在した山科言継を訪問。薬を拝領する。<岐阜に居るという事は織田信長家臣か。>

<明智(惟任)光秀の御由緒家
(明智一門・家中)>

 謀反の際にあてにしたと考えられる親類衆。
(妻木嫡流)
*妻木広忠 (*1514~1582)源二郎・藤右衛門・藤左衛門。美濃出身。土岐郡の豪族。娘(養女?弟・範熈の娘とも)は明智光秀の室。坂本城留守居。1582年「本能寺の変」に従軍。「山崎の合戦」に参陣。近江坂本にて自害。跡職は孫の妻木頼忠が継承する。美濃国妻木城主。

*▽妻木貞徳 (1544~1618)源二郎・伝兵衛・貞行。美濃出身。土岐郡の豪族。妻木広忠の息、明智光秀の義兄弟。延友信光の娘婿。妻木氏は明智光秀の妻の実家。娘婿に寺沢広高(1563~1633)。

*▼妻木頼忠 (1565~1623)雅楽助・長門守。美濃土岐一族庶流、妻木貞徳の息。1582年「山崎の合戦」に戦死した妻木広忠の跡職を継承する。美濃に帰還した森長可に降服。関ヶ原には東軍に属す。美濃妻木城主。息に家忠(家頼?)。<1580年に死亡した光秀の妹、御妻木殿との関係が気になるところですが。>

(妻木分家)
*妻木範熈 (1514~1582)勘解由左衛門。美濃出身。土岐郡の豪族。広忠の弟。室は水野信元の姪。妻木氏は明智光秀の妻の実家。息に範賢、範武、範之。娘(熈子)婿に明智光秀。<信長様側室に光秀の妹ツマキ殿という方がいたようです。>

↓▽妻木範賢 (*)主計頭。範熈の息。土岐郡の豪族。1582年秀満とともに近江制圧。近江侵攻に荒木行重、荒木重仲、三宅業朝、今峰泰正が与力。長浜城主。阿閉貞征・貞大親子、武田元明、京極高次を調略。

▽妻木範武 (*~1582)忠左衛門。範熈の息(次男)。兄に範賢。1582年「山崎の合戦」に従軍。

▽妻木範之 (*)七右衛門。範熈の息(3男)。丹波亀山城の留守居。<敗戦後に城は木村吉清に乗っ取られたのでしょうか。>

(丹波国御由緒、川勝・小畠)
 丹波「明智」党


⇔*↓○川勝継氏 (1531~1602)(明智継氏)・下田・丹波守・大膳亮・備後守・兵部大輔。丹波国桑田郡国人。川勝広継の息。蘆田氏の婿。足利義輝に出仕。1573年長岡藤孝に従い「山城淀城攻略」に従軍。のち光秀の婿となる。小畠氏とともに準明智一門衆。1575年の丹波侵攻に惟任軍の与力、下宇津の宇津頼重と抗戦。東丹波の波多野氏と対立。1579年宇津城攻略、宇津氏滅亡。丹波美山城主。兄弟に越後守・光隆、越前守・朝政、九兵衛・朝道あり。<信長様の命で光秀与力となったので、信長様の下知に従う立場だったのでしょう。>

⇔*↓▽川勝秀氏 (1555~1607)(明智秀氏)・主水正。川勝継氏の息。室は姉小路氏。弟に重氏、氏久、三右衛門。1582年秀吉に出仕し丹波阿鹿郡に知行。息に川勝広綱。娘婿に西洞院時直。静原島城主。

⇔*↓▽小畠国明 (*~*1578)(明智国明)・越前守。丹波船井郡の豪族。川勝氏とともに親明智派。川勝氏とともに準明智一門衆。1575年の丹波侵攻に惟任軍に与力、下宇津の宇津頼重と抗戦。1577年丹波侵攻に参陣。東丹波の波多野氏と対立。波多野氏の拠る「八上城攻略戦」に戦死。<信長様の命で光秀与力となったので、信長様の下知に従う立場だったのでしょう。><戦功により明智姓。息に明智伊勢千代丸。><きっと縁組が成されたのだと想像されます。>

(美濃国御由緒、溝尾・三沢)
 美濃「明智」党

*溝尾茂朝 (1536*1538~1582)(明智秀次)・三沢秀次・少兵衛・庄兵衛・勝兵衛・「明少」。美濃出身。光秀古参の臣。溝尾庄左衛門の跡職を継承するか。1570年代北近江攻略に活躍。1573年信長が抜擢した越前三奉行のひとり。「本能寺の変」に従軍。山城国勝龍寺城主。山崎の合戦で自殺。<明智光秀が越前奉行となったが業務多忙なため三沢秀次が越前に残ったとも。><明智姓を賜るということは猪飼氏のように縁戚関係を結んだ結果か。><越前北ノ庄三奉行として残された津田元嘉・木下祐久・三沢秀次が滝川・羽柴・明智と もともと関連なく、信長様直属の奉行とすれば、三沢秀次は信長様から光秀に与力として付属された武将ということになります。>

*▽溝尾秀朝 (*~1582)(明智秀朝)・三沢・式部・式部大輔。溝尾茂朝(明智秀次)の息。山城国二条城主。1582年6月本能寺の変後、京都所司代。<三宅式部とも混同されているようです・・。><溝尾氏は山城の革嶋氏と縁戚関係。>

(近江国堅田御由緒、猪飼野)
 近江「明智」党

*↓猪飼昇貞 (*)猪飼野昇貞・甚介・定尚・正勝。近江堅田の土豪。堅田衆。1568年足利義昭・織田信長の上洛に協力。1570年近江浅井氏との交戦状態に入り去就を選択する。1570年11月居初・馬場氏とともに信長方に臣従。坂井政尚を旗頭に派遣される。近江坂本時代に光秀与力。大津湊代官。息子・秀貞は光秀の養子。<近江堅田衆は下記↓。>

↓▽*明智秀貞 (1555~*)猪飼野秀貞・半左衛門。近江堅田衆・猪飼野昇貞の息。明智光秀の娘婿。1580年12月津田宗及茶会に明智掃部とともに列席。変後、1582年8月にも宗及茶会に招待される。「山崎の合戦」後は丹羽長秀に保護される。のちに徳川家臣。

<明智(惟任)光秀の御由緒家
(織田家武将・外様)>

*※津田信澄(1558~1582)織田信澄・(磯野)・信重。織田一門。織田信忠の従兄弟。<光秀さんにとって、条件のよい縁組だったのか・・・・(磯野員昌の二の舞?)。筒井順慶の地位を狙っていた信澄さんの存在、光秀さんにとっても不気味ですな。> ※臣従したわけでないので、ここに書いていいのか微妙~。

*※桜井家次 (*)桜井松平。明智光秀の婿。<※臣従(直臣化)したわけでないので、ここに書いていいのか微妙~。事跡よくわかりません。><三河桜井松平(昔から親織田派)に同姓同名の人物がいるようで、桜井松平家次は三河・美濃国境近くの尾張品野城主。東美濃と隣接する縁があるかもしれません。あと類する名前としては溝尾勝兵衛の前名、三沢秀次・・。><白山神社の神職に桜井正次という人物がいます。越前にもいた光秀ですから白山に食込んでいてもおかしくはありませんね。><佐々家中のにも桜井氏あり。尾張桜井さんと縁があるのでしょうか?>

*▽↓井戸治秀 (*)忠右衛門尉。大和の豪族・井戸良弘の息(次男)。明智光秀の娘婿。本能寺の変後、明智軍に参加。のち徳川家に出仕。

⇔*※荒木村次 (*)池田。明智光秀の婿。元・摂津領主。荒木(池田)村重の息。織田家からの離反とともに明智光秀娘と離縁(その後、三宅秀満の室に)。のち豊臣家に出仕。※臣従(直臣化)したわけでないので、ここに書いていいのか微妙~→佐久間軍団を参照してクタ゛サイ。

⇔*↓※長岡忠興 (*)細川。明智光秀の婿。丹後領主。長岡(細川)藤孝の息。※臣従(直臣化)したわけでないので、ここに書いていいのか微妙~↓ページ下位長岡軍団を参照してクタ゛サイ。

⇔*※菅沼定盈 (1542~1604)明智光秀の婿。奥三河豪族。<※臣従(直臣化)したわけでないので、ここに書いていいのか微妙~。土岐家つながりです、東美濃の土岐、三河の三方衆も土岐氏との重婚があるようです。><年齢構成的にどうなんでしょう・・・。>→徳川軍団を参照してクタ゛サイ。

⇔○↓筒井順慶 (1549~1584)藤勝・藤政。興福寺一乗院坊宗徒の頭領。大和支配を目論む松永久秀と長く争う。1573年12月久秀が足利義昭と結び織田家に反したことで、筒井家の地位が高まる。1575年「長篠の合戦」に鉄砲50丁を提供。1576年原田直政、松永久通と興福寺の薪能を鑑賞。1576年原田直政の戦死。1577(天正5)年2月雑賀攻略に従軍。8月松永討伐。10月に宿敵・松永久秀を打倒。河内森河内城を守備。1578年5月織田信忠に従い別所征伐「播磨出征」。6月「神吉城攻囲」。8月惟任光秀援軍、丹波出征。10月大和国人・戒重氏を攻撃。1578年11月荒木村重征伐「有岡城攻囲」。12月播磨出征、「三木城攻囲」。1580(天正8)年から大和国一職支配を任される。伊賀攻め旗頭。明智光秀の次男を養子とする。

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