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6世紀~9世紀にかけての倭(大和)朝廷軍。継体朝の古代軍事豪族軍 その2

 藤原ノ不比等卿 肖像のつもり

画像1

⇒天智(蘇我血統)系氏族の復活
「持統天皇」
<飛鳥浄御原宮672年~694年>


草壁 VS 大津
(天武朝)


高市 皇子 (654~696)(宗像)。天武天皇の息。母は宗像ノ徳善の娘。「壬申の乱」に軍団の総帥。息に長屋王。
草壁 皇子 (662~689)(蘇我)・岡宮御宇天皇・宮天皇・長岡天皇。天武天皇の息。母は天智帝の娘・(蘇我ノ)鵜野讚良皇女(持統帝)。皇太子となる。室に天智帝の娘・阿閇皇女(のち元明帝)。686年大津皇子を討伐。689年病没。息に文武帝、元正帝。孫に聖武帝。
【阿閇 皇女】 (661~721)(蘇我)・安陪皇女・日本根子天津御代豊国成姫天皇。天智帝の娘。母は蘇我石川麿の娘・蘇我ノ姪娘。草壁皇子の妃。平城京に遷都し、風土紀編纂事業を開始。和同開珎の鋳造開始。息に珂瑠皇子(文武帝)、娘に氷高皇女(元正帝)。
大津 皇子 (663~686)(蘇我)。天武天皇の息。母は天智帝の娘・(蘇我ノ)大田王女。謀反を疑われ草壁皇子軍に捕縛される。
忍壁 皇子 (*~705)刑部。天武天皇の息。川島皇子とともに帝紀の編纂。
▽川島 皇子 (657~691)天智天皇の息。大津ノ皇子の謀反を報告す。
▽志貴 皇子 (*~716)施基。天智天皇の息。のちに息の白壁皇子が光仁天皇として即位する。

⇒文武帝 葛・藤(天智血統)両蔓体制の確立
「文武天皇」 (天垂らす葛・藤の連蔓衆)葛野・藤原
<平城京710年~784年>
天武天皇 →草壁皇子 →持統天皇 →文武天皇


葛野ノ 王 (669~706)式部卿。母は天武帝の娘・十市ノ皇女。大津王朝・大友皇子(弘文天皇)の息。天智帝・天武帝の血統。持統帝に出仕。696年高市皇子の死去後、軽ノ皇子の擁立に藤原ノ史(不比等)と協力。息に池辺王、藤並王、田辺王。孫に淡海三船。<子孫は藤原氏のように栄える事ができず。配下の大伴氏も没落していく。>


▽池辺ノ 王 (*)葛野王の息。天智帝・天武帝の血統。息に淡海三船。


藤原ノ 不比等 (659~720)藤原朝臣・史。中臣(藤原)ノ鎌足の息(天智帝落胤とも)。母は額田姫(車持氏の娘とも)。田辺ノ大隈に養育される。持統帝に出仕。697年軽皇子(文武天皇)の即位に、葛野王(天智帝孫)とともに貢献。孫に聖武天皇。娘・光明子が光明皇后となる。701年中納言。717年左大臣・石上麻呂の死去。息に武智麻呂、房前、宇合、麻呂。義兄弟(妹婿)に天武天皇、大友皇子。娘婿に文武、聖武天皇、橘ノ諸兄、長屋王。


▽藤原ノ 武智麻呂 (680~737)藤原南家の祖。不比等の息。母は蘇我氏。藤原四兄弟。弟に藤原房前、宇合、麻呂。721年中納言。天然痘により死去。息に豊成、恵美仲麻呂、乙麻呂、巨勢麻呂。


▽藤原ノ 房前 (681~737)藤原北家の祖。不比等の息。藤原四兄弟。母は蘇我氏。弟に藤原宇合・藤原麻呂。天然痘により死去。息に鳥養、永手、真盾、清河、魚名、御盾、楓麻呂。

長屋 VS 藤原


▽長屋ノ 王 (*~729)左大臣。高市皇子の息。不比等の娘婿。717年左大臣・石上麻呂の死去。720年不比等の死去により執政。729年「長屋王の変」にて藤原宇合軍が邸宅を攻囲。自害。
舎人 親王 (676~735)天武天皇の息。元正天皇の命で聖武天皇の補佐。『日本書紀』を記す。藤原氏と結び新田部王とともに長屋王を追討。<『日本書紀』はどこで保管することになったことか。本当に原本通りなのか・・。>


新田部 親王 (*~735)大将軍。天武天皇の息。母は藤原鎌足の娘。元正天皇の命で聖武天皇の補佐。729年長屋王の変に邸宅を包囲。


八世紀


708年秩父にて銅産出「和銅元年」。710年平城京に遷都、713年諸国にて「風土記」が編纂される。現存するのは常陸・播磨・出雲・豊後・肥前。『出雲国風土記』の完成は733年。

巨勢ノ 麻呂 (*)陸奥鎮東将軍。709年任官。
▲佐伯ノ 石湯 (*)いわゆ。征越後蝦夷将軍。709年任官。出羽(荘内)柵築城。
上毛野ノ 安麻呂 (*)上総守・陸奥守。709年任官。
多治比ノ 三宅麻呂 (*)丹治・真人。県守・広足兄弟の叔父。秩父にて銅銭を鋳造。<「富本銭」製造?>
⇔諸君ノ鞍男 (*)渡島津軽郡司・従七位。720年朝廷の命により、六人の官吏とともに靺鞨を訪問する。
⇔▼大伴ノ 旅人 (665~731)たびと・大納言。大伴安麻呂の息。母は巨勢氏。室に丹比氏。714年父の死により家督。720年征隼人持節大将軍。九州南部の「隼人の反乱」を鎮圧。724年太宰師。山上憶良と交流。730年大納言。息に大伴家持。<旅人は「万葉集」の一流の歌人として有名。><「富本銭」製造?富本銭の「富・大・十」には何か意味があるのでは。大(おお・おほ)、十(と)と読めるとすると、継体帝の名や、たたらの「おほと」などに繋がるのでは。>

(出雲)
出雲ノ 廣島 (*)出雲国造。733年『出雲国風土記』を編纂。果安の息。息に弟山。


<720年「九州隼人の叛乱」><九州混乱。旅人平定のち平穏化し、政情が安定する。>
<720年「海道蝦夷の叛乱」><東国混乱。これより長きにわたり抗争。>


⇔上毛野ノ 広人 (*~720)按察使。陸奥「蝦夷の反乱」により殺害される。
⇔多治比ノ 県守 (*)武蔵守・持節征夷将軍。宣化天皇の後裔。弟に広足。719年武蔵守。720年陸奥「蝦夷の反乱」鎮圧軍で出征。
多治比ノ 家主 (*)出羽国司。多治比県守の息。父に従い、鎮圧軍。723年任官。
佐伯ノ 児屋麻呂 (*~724)陸奥大掾。陸奥「蝦夷の反乱」により殺害される。
 
京都に近い部族から、熟蝦夷(黄色)、鹿蝦夷(緑)、都加留蝦夷(黄緑)が存在。
藤原ノ 宇合 (694~737)うまかい・馬養・持節大将軍。藤原式家の祖。不比等の息。藤原四兄弟。724年陸奥出征。726年参議。天然痘により死去。息に広嗣、良継、清成、田麻呂、綱手、百川、蔵下麻呂。
高橋ノ 安麻呂 (*)副将軍。724年陸奥出征。
小野ノ 牛養 (*)鎮狄将軍。724年陸奥出征。

<730年 諸道に盗賊・海賊鎮撫使を設置>


⇔○大野ノ 東人 (*~742)鎮守将軍(鎮守府将軍)。大野果安の息。724年征東軍に参加。724年多賀城築城。729年鎮守府将軍・陸奥按察使を歴任。733年出羽(秋田)柵再築城。737年比羅保許山遠征。740年「藤原広嗣の乱」に大将軍として出動し鎮圧。
藤原ノ 麻呂 (695~737)藤原京家の祖。遣陸奥持節大使。不比等の息。藤原四兄弟。737年奥州遠征。天然痘により死去。息に綱執(縄執)、浜成、百能、勝人。
⇔多治比ノ 広足 (*)武蔵守。兄に県守。甥に家主。739年武蔵守任官。
⇔百済王ノ 敬福 (697~766)摂津亮・陸奥守・刑部卿。百済王郎虞の息。749年陸奥国小田郡に金鉱を開発。東大寺大仏の黄金献上。
⇔秦ノ 朝元 (*)忌寸。遣唐僧の弁正の息。兄に朝慶。息に真成、忍国。娘婿に藤原清成、藤原綱手。732年遣唐使として玄宗皇帝に拝謁。740年「藤原広嗣の乱」に綱手が戦死。746年橘ノ諸兄に和歌の件で恥辱を与えられた。<藤原北家と関係の深まる秦氏。>

橘 VS 藤原
< 740年「藤原広嗣の乱」 >


藤原ノ 広嗣 (*~740)藤原式家・藤原宇合の息。737年藤原四兄弟が死去。橘ノ諸兄の台頭で太宰少弐に左遷される。吉備ノ真備、僧の玄昉を中傷。左大臣・橘ノ諸兄と対立し謀反の挙兵。
藤原ノ 綱手 (*~740)藤原式家・藤原宇合の息。豊後にて挙兵。
藤原ノ 清成 (*)藤原式家・藤原宇合の息。兄に良継。弟に百川。740年「藤原広嗣の反乱」に連座し失脚。息に種継。

<恭仁京740年~744年><紫香楽宮745年>
聖武天皇 →(光明皇后) →孝謙天皇


橘ノ 諸兄 (*~*757)井出左大臣・葛城王。敏達天皇系皇族。美努王の息。弟に佐為王(橘ノ佐為)。母は県犬養宿禰三千代(文武天皇の乳母)。鈴鹿王とともに聖武天皇を補佐。743年小野東人とともに黄文王擁立計画。のち孝謙天皇に叛意を抱き756年佐伯全成と大伴古麻呂を誘うが拒絶される。
⇔▽小野ノ 東人 (*~757)台頭する藤原仲麻呂と対立。757年「橘ノ奈良麻呂の乱」に答本ノ忠節とともに高麗ノ福信により捕縛され獄死する。
⇔高麗ノ 福信 (*)背奈王・高倉・弾正・山背守・武蔵守。渡来系氏族。高句麗王族・背奈福光の息。武蔵経営に貢献。橘ノ諸兄、藤原ノ仲麻呂、道鏡に重用された。息に石麻呂。<武蔵野の開発は、将門の頃の武蔵武芝の武蔵国経営とつながるでしょうか。>

764年「恵美押勝の乱」鎮圧・謎の大将軍・伴ノ涼太
中臣恵美=藤原ノ仲麻呂
御船ノ 王 (722~785)(葛)・淡海三船・真人・駿河守・美作守・因幡守。池辺王の息。大友皇子の曽孫。756年仲麻呂により大伴古慈備とともに左遷。760年山陰道巡察使。764年恵美押勝の乱に瀬田橋を焼き押勝軍を妨害する軍功。766年東山道巡察使。<神武天皇からの天皇名をこのひとが作った。>

長者・橘氏の系譜
橘 VS 藤原


<難波宮732年頃~784年>
<757年「橘ノ奈良麻呂の乱」>


⇔橘ノ 奈良麻呂 (*~757)摂津大夫・但馬因幡按察使。左大臣・橘ノ諸兄の息。台頭する藤原仲麻呂と対立。父の死後に謀反の罪で捕縛される。<孫の橘ノ嘉智子が嵯峨天皇の皇后となり橘氏の復権。>
黄文ノ 王 (*~757)長屋王の息。安宿王、山背王は兄弟。藤原不比等の外孫。757年橘ノ奈良麻呂に天皇に擁立されるが、山背王の離反により謀反が発覚し獄死する。
道祖ノ 王 (*~757)新田部親王の息。聖武天皇の遺言で皇太子。孝謙天皇と対立し廃位される。台頭する藤原仲麻呂と対立。757年「橘ノ奈良麻呂の乱」に連座し獄死する。
⇔多治比ノ 犢養 (*~757)武蔵秩父の豪族。広足の一門。台頭する藤原仲麻呂と対立。一門の多治比礼麻呂、多治比鷹主とともに橘氏に従う。757年「橘ノ奈良麻呂の乱」に連座し獄死する。
賀茂ノ 角足 (*~757)台頭する藤原仲麻呂と対立。仲麻呂方の高麗福信、坂上刈田麻呂の調略に失敗。757年「橘ノ奈良麻呂の乱」に連座し獄死する。
⇔○大伴ノ 古麻呂 (*~757)左大弁・鎮守将軍(鎮守府将軍)。大伴御行の息(長徳の息とも)。732年「遣唐使」中国の唐に入国。鑑真の入国に協力。757年任官。のち藤原仲麻呂により、橘ノ奈良麻呂とともに罪を得て獄死。息に竹良、継人。
⇔大伴ノ 古慈備 (695~777)土佐守・大和守・古信備・古志備・古慈斐。藤原不比等の娘婿。756年仲麻呂に敵対視され淡海(葛)三船の讒言で失脚。土佐に左遷される。息に益立、弟麻呂。<竹生島縁起に残る将軍・伴ノ涼太とは?>
⇔佐伯ノ 全成 (*~757)陸奥守・鎮守府副将軍・またなり。757年任官。橘ノ奈良麻呂から天皇廃位の計画に勧誘される。謀反に連座を疑われ自害。

孝謙天皇 →淳仁天皇 →塩焼王


藤原ノ 豊成 (*~765)右大臣。藤原南家。武智麻呂の息。弟に仲麻呂。757年息の乙縄が「橘ノ奈良麻呂の乱」に関わったため左遷される。息に縄麻呂。
▽藤原ノ 乙縄 (*~781)藤原南家。豊成の息。757年橘ノ奈良麻呂と親しかったため左遷される。
多治比ノ 広足 (*)丹治・武蔵守・刑部卿・兵部卿。武蔵秩父の豪族。757年一門の多くが橘氏に関わったため左遷される。


<764年「藤原ノ仲麻呂(恵美押勝)の乱」>


藤原ノ 仲麻呂 (706~764)「恵美押勝」・恵美ノ仲麻呂。藤原四兄弟の長兄・武智麻呂の息。母は安倍貞吉(真吉)の娘。兄に豊成。弟に乙麻呂、巨勢麻呂。746年東山道鎮撫使。758年「恵美」姓。760年転大師(太政大臣)。のち孝謙天皇と対立。764年反乱を起こす。<舎人親王との間柄から『日本書紀』の校正に影響をもっていそうです。>
▽藤原ノ 真従 (*)恵美。仲麻呂の息(長男)。栗田諸姉の前夫。早世。
▽藤原ノ 真光 (*~764)恵美。仲麻呂の息(2男)。母は藤原房前の娘。761年鎮国衛驍騎将軍。美濃飛騨按察使。


淳仁 天皇 (733~765)大炊王。舎人親王の息。栗田諸姉の後夫。758年即位。764年失脚。
▽船ノ 皇子 (*~764)舎人親王の息。淳仁天皇の兄弟。藤原仲麻呂とともに道鏡と対立。764年「恵美押勝の乱」に参軍。<『日本書紀』はどこで保管することになったことか。本当に原本通りなのか・・。>
▽池田ノ 皇子 (*~764)舎人親王の息。淳仁天皇の兄弟。藤原仲麻呂とともに道鏡と対立。764年「恵美押勝の乱」に参軍。<『日本書紀』はどこで保管することになったことか。本当に原本通りなのか・・。>
▽藤原ノ 訓儒麻呂 (*~764)恵美・久須麻呂。仲麻呂の息。母は藤原房前の娘。759年美濃守。761年大和守。763年丹波守。藤原仲麻呂とともに道鏡と対立。764年「恵美押勝の乱」に参軍。山村王を攻撃。坂上苅田麻呂により戦死。
藤原ノ 辛加知 (*~764)藤原仲麻呂とともに道鏡と対立。764年「恵美押勝の乱」に参軍。
▽藤原ノ 朝狩 (*~764)恵美ノ朝狩・陸奥按察使・鎮守将軍(鎮守府将軍)。藤原仲麻呂(恵美押勝)の息(4男)。757年陸奥守。760年任官。雄勝柵(城)築城。桃生柵(城)築城。藤原仲麻呂とともに道鏡と対立。764年「恵美押勝の乱」に連座。
氷上ノ 塩焼 (*~764)中納言。新田部親王の息。太子・道祖王の兄。藤原仲麻呂とともに道鏡と対立。764年「恵美押勝の乱」に参軍。
巨勢ノ 堺麻呂 (*~761)下総守・関麻呂・せきまろ。仲麻呂の側近。757年橘ノ奈良麻呂の謀反を奏上。761年病死。
矢田部ノ 老 (*~764)中衛将監。藤原仲麻呂とともに道鏡と対立。764年「恵美押勝の乱」に参軍。
高丘ノ 比良麻呂 (*)大外記。仲麻呂から離反。反乱を報告。
大津ノ 大浦 (*)陰陽師。仲麻呂から離反。反乱を報告。
藤原ノ 貞国 (*)的ノ貞国・いくわの貞国・播磨国司。764年新羅征討大将軍。瀬戸内海で新羅軍を撃退。勲功により播磨西5郡の領主。太田郷盾鼓原を本拠とする。<伝説の人物。>


孝謙天皇(称徳天皇)→ 


弓削ノ 道鏡 (700*~772)物部・太政大臣禅師・法王。弓削櫛麻呂の息。兄弟に清人。孝謙天皇の信頼を得て藤原ノ仲麻呂(恵美押勝)と抗争。764年「恵美押勝の乱」で権力を握る。
弓削ノ清人 (*)道鏡の弟。<天下人の影に弟あり、尊氏兄弟しかり、秀吉兄弟しかり。>
山村ノ 王 (*)少納言。764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。淳仁天皇を拘束。藤原ノ訓儒麻呂軍の攻撃を受ける。
和気ノ 王 (*)反乱を報告。764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。
白壁ノ 王 (*)光仁天皇。天智天皇系皇族。志貴皇子の息。764年「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。770年孝謙(称徳)天皇の死により即位。

↓坂上ノ 刈田麻呂 (727~786)坂上ノ犬養の息。764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に藤原(恵美)ノ 訓儒麻呂を破る軍功。770年弓削道鏡を排斥する。その功により陸奥鎮守府将軍。安芸守、丹波守。782年「氷川川継の乱」に連座。復職し伊予守、備前守、下総守。<実は聖武天皇の危惧したとおりの、危険な血筋ゆえの、政変には必ず登場するのかもしれません。>
▽石村ノ 石楯 (*)坂上ノ石楯。刈田麻呂の将。764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。
牡鹿ノ 嶋足 (*)将曹。坂上苅田麻呂の副将。764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。
紀ノ 船守 (*)764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。<久々に紀氏の台頭です。>
丈部ノ 不破麻呂 (*)直・武蔵宿禰。764年道鏡と対立した藤原氏の「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。


孝謙天皇(称徳天皇)→ 光仁天皇(白壁王)
770年道鏡排斥


和気ノ 清麻呂 (733~799)磐梨別公。磐梨別乎麻呂の息。769年「神託の件」で孝謙天皇の怒りを買い左遷。道鏡失脚後に播磨・豊前・美作・備前国司。
吉備ノ 真備 (695~775)下道・右大臣。下道国勝の息。716年阿倍仲麻呂とともに遣唐使。官軍を率いる。740年藤原広嗣が反乱。749年藤原ノ仲麻呂により左遷される。753年再び唐に渡る。鑑真を伴って帰国。「恵美押勝の乱」を鎮圧。
▽日下部ノ 子麻呂 (*)山背守。瀬田橋を焼く。
▽佐伯ノ 伊多智 (*)衛門少尉・宿禰・伊太智。石湯の息。越前に入国し藤原ノ辛加知を討つ。越前入りする恵美軍を撃退。「恵美押勝の乱」を鎮圧。息に佐伯葛城。
▽物部ノ 広成 (*)授刀舎人。愛発関の主将。佐伯伊多智の命で越前入りする恵美軍を撃退。「恵美押勝の乱」を鎮圧。
藤原ノ 真楯 (715~766)大納言。藤原北家。藤原房前の息。永手の弟。南家の仲麻呂が権勢を占める。永手を補佐し南家に対抗。
藤原ノ 永手 (714~771)左大臣。藤原北家。藤原房前の息。藤原豊成とともに仲麻呂と対立。南家の仲麻呂が権勢を占める。弟・藤原真楯の死去により吉備ノ真備と執政。<白壁王の擁立で、以降「天智朝系」の家臣団が復活するか。天武系が失脚・左遷されてゆくか。>
藤原ノ 良継 (716~777)宿奈麻呂。参議。藤原式家・宇合の息。740年「藤原広嗣の反乱」に連座し流罪。763年仲麻呂排斥のため佐伯今毛人、石上宅嗣、大伴家持らとともに謀反計画。764年「恵美押勝の乱」鎮圧に軍功。771年永手の死により藤原一門の主流となる。息の詫美は賊に襲われ死去。<白壁王の擁立で、以降「天智朝系」の家臣団が復活するか。天武系が失脚・左遷されてゆくか。>
藤原ノ 百川 (732~779)雄田麻呂。藤原式家・宇合の息。道鏡に仕えつつも左大臣・永手とともに権力拡大を阻止。藤原良継とともに白壁王(光仁天皇)を擁立。吉備ノ真備を抑える。<白壁王の擁立で、以降「天智朝系」の家臣団が復活するか。天武系が失脚・左遷されてゆくか。>
藤原ノ 縄麻呂 (729~779)参議。藤原南家。藤原豊成の息。父の死により藤原永手とともに政権を運営。藤原百川についで死去。
↓石上ノ 宅嗣 (729~781)物部・朝臣・参議・相模守・三河守・上総守・常陸守。乙麻呂の息。石上(物部)ノ麻呂の孫。藤原ノ仲麻呂の排斥に動くが計画が発覚。764年太宰少弐に左遷される。仲麻呂の乱により復権するが、のち他の藤原氏と権力抗争。息に継足。
↓佐伯ノ 今毛人 (719~790)参議。佐伯人足の息。兄に真守。763年藤原良継、大伴家持、石上宅嗣とともに仲麻呂暗殺計画。発覚し失脚する。764年仲麻呂失脚により復帰。775年遣唐使。息に金山、三野。
藤原ノ 蔵下麻呂 (734~775)出雲介・備前守・近衛大将。藤原式家。宇合の息。764年「恵美押勝の乱」鎮圧の軍功。淳仁天皇を淡路に護送。白壁王の擁立に貢献。771年皇太子・他戸親王の後見人。774年太宰帥。<藤原氏内部の権力闘争に敗北?>


光仁天皇→桓武天皇(山部王)


○藤原ノ 種継 (737~785)藤原式家。清成の息。母は秦ノ朝元の娘。叔父の良継、百川の死後に権勢。桓武天皇の信頼を得る。藤原小黒麻呂、佐伯今毛人、紀ノ船守、大中臣子老、坂上刈田麻呂と遷都先を視察。秦ノ足長、大秦宅守の協力で長岡京を造営。785年長岡京にて暗殺される。
↓大伴ノ 益立 (*)陸奥介・鎮守府副将軍。761年任官。伊治柵(城)築城。767年功労を賞される。
⇔○田中ノ 多太麻呂 (*)陸奥守・鎮守将軍(鎮守府将軍)。757年任官。762年鎮守府副将軍。764年任官・陸奥守。767年功労を賞される。
藤原ノ 田麻呂 (*)陸奥出羽按察使。763年任官。
⇔○石川ノ 名足 (728~78)太宰少弐・下野守・大和守・陸奥守・鎮守将軍(鎮守府将軍)。768年任官。陸奥鎮守将軍。769年陸奥守。


<774年「海東蝦夷の叛乱」 桃生柵(城)落城>
<774年 蝦夷征東(登米郡攻撃)>


⇔○坂上ノ 刈田麻呂 (727~786)甲斐守・安芸守・丹波守・伊予守・備前守・下総守・陸奥鎮守将軍。犬養の息。770年任官・陸奥鎮守将軍。772年「弓削道鏡」追討に軍功。陸奥鎮守府将軍に任官。782年「氷川川継の乱」に連座。息に田村麻呂。
○佐伯ノ 三野 (*~779)陸奥守・美濃・鎮守将軍(鎮守府将軍)。764年「藤原仲麻呂」討伐に軍功。771年任官。
⇔○大伴ノ 駿河麻呂 (*~776)越前守・陸奥守・陸奥按察使・鎮守将軍(鎮守府将軍)。746年「橘奈良麻呂の乱」に連座し失脚。773年陸奥守に任官。774年蝦夷と抗戦。<「万葉集」に大伴坂上郎女との相聞歌を遺す。>
<776年 「蝦夷反乱」 山道の二道(雄勝・志波)で2万人蜂起>
○紀ノ 広純 (*~780)河内守。774年鎮守府副将軍。777年任官。陸奥守・陸奥按察使。鎮守府将軍。「伊治公砦麻呂の乱」に殺害される。<紀氏の台頭です。軍事貴族の地位を確立している様子です。>
佐伯ノ 久良麻呂 (*)近江介・陸奥鎮守権副将軍。776年任官。777年出羽遠征。
大伴ノ 真綱 (*)陸奥介。777年任官。「伊治公砦麻呂の乱」に捕縛される。
道嶋ノ 大楯 (*~780)牡鹿郡大領。「伊治公砦麻呂の乱」に殺害される。
石川ノ 浄足 (*)陸奥掾。「伊治公砦麻呂の乱」に消息不明。

<780年 伊治公「砦麻呂」の反乱 伊治城、多賀城の落城。>


○藤原ノ 継縄 (*)中納言・征東大使。780年任官。
⇔↑大伴ノ 益立 (*)征東副使・陸奥守。780年任官。大伴古慈斐の息。母は藤原不比等の娘。弟に弟麻呂。
紀ノ 古佐美 (*)征東副使。780年任官。781年陸奥守。
大伴ノ 真綱 (*)陸奥鎮守副将軍。
安倍ノ 家麻呂 (*)出羽鎮狄将軍。<「安倍」の祖か。>
藤原ノ 小黒麻呂 (733~794)持節征東大使。781年任官。陸奥按察使。藤原北家。室は秦ノ嶋麻呂の娘。「平安京遷都」に活躍。息に葛野麻呂。<秦氏と縁を結ぶ藤原北家。>
↓○大伴ノ 家持 (*718~785)越中守・因幡守・薩摩守・太宰大弐・上総守・伊勢守・鎮守将軍(鎮守府将軍)・中納言。大伴旅人の息。藤原仲麻呂排斥に係わる。764年薩摩守に左遷される。767年太宰少弐。770年光仁天皇により中央復帰。桓武天皇の代に782年「氷川川継の乱」に連座。782年疑いが晴れ任官。陸奥按察使鎮守将軍。任地にて死去。息に永主。<「万葉集」の編集者。>
⇔○百済王ノ 俊哲 (*~795)下野守・陸奥鎮守副将軍・鎮守将軍(鎮守府将軍)。百済王敬福の孫。理伯の息。775年大伴駿河麻呂の奥州遠征に従軍。780年陸奥鎮守副将軍。787年任官・鎮守将軍(鎮守府将軍)。791年再任官。
○多治比ノ 宇美 (*)丹治・武蔵守・陸奥按察使・鎮守副将軍・鎮守将軍(鎮守府将軍)。武蔵秩父の豪族。780年陸奥介。788年任官・陸奥按察使・鎮守将軍。791年武蔵守。
内蔵ノ 全成 (*)陸奥守・鎮守副将軍。。781年任官。
入間ノ 広成 (*)宿禰・陸奥介・征東副使。782年任官。789年蝦夷に敗北。
安倍ノ 墨縄 (*)猿嶋・臣・鎮守権副将軍。 782年任官。789年の敗戦により失脚。


<782年「氷川川継の乱」>

藤原京家 対 藤原式家


他戸ノ 皇子 (*~775)オサベ。光仁天皇の息。山部親王(桓武天皇)を擁立した藤原式家により排斥される。
氷川ノ 川継 (*)塩焼王の息。782年山部親王(桓武天皇)に対して謀反。
大和ノ 乙人 (*)氷川川継の将。782年山部親王(桓武天皇)に対して謀反。
藤原ノ 浜成 (724~790)参議・太宰帥・浜足。藤原京家。藤原麻呂の息。781年桓武天皇の即位により左遷。782年「氷川川継の乱」により失脚。娘婿に氷川川継。
▽藤原ノ 継彦 (749~828)散位。藤原京家。浜成の息。782年「氷川川継の乱」により失脚。
山上ノ 船主 (*)やまのうえ。782年「氷川川継の乱」により失脚。桓武天皇呪詛の疑いで隠岐に流罪。のち赦免され帰京。<山上憶良の息か。>
三方ノ 王 (*~782?)みかたのおう・御方王・三形王・大監物。室に弓削姫。782年「氷川川継の乱」により失脚。桓武天皇呪詛の疑いで隠岐に流罪。<大伴家持・中臣清麻呂・甘南備伊香と歌の交流。>
伊勢ノ 老人 (*)散位。782年「氷川川継の乱」により失脚。
大原ノ 美気 (*)散位。782年「氷川川継の乱」により失脚。
藤原ノ 魚名 (721~783)右大臣・川辺大臣。藤原北家。房前の息。光仁天皇の擁立に貢献。天皇の側近として権勢。782年天皇の死により失脚。大宰府に左遷される。息に鷹取、鷲取、末茂。

↓大伴ノ 弟麻呂 (*)常陸介・征東副将軍。 783年任官。
百済王ノ 英孫 (*)陸奥鎮守権副将軍。785年任官。


桓武朝
桓武天皇 (737~806)第50代天皇。


<長岡京784年~794年>
<785年 藤原種継の暗殺事件>

佐伯ノ 葛城 (*~789)陸奥介・鎮守副将軍・征東副使。787年任官。
藤原ノ 葛野麻呂 (*)(秦ノ)・葛野・陸奥介。母は秦ノ島麻呂の娘。藤原北家。小黒麿の息。787年任官。<秦氏と縁を結ぶ藤原北家。>
池田ノ 真枚 (*)鎮守副将軍。787年任官。789年の敗戦により失脚。
多治比ノ 浜成 (*)征東副使。武蔵秩父の豪族。788年任官。792年任官。征夷副使。
紀ノ 真人 (*)征東副使。788年任官。


<平安京794年~>

画像2


 征夷大将軍・大伴ノ弟麻呂卿 肖像のつもり。


<789~794・797~801年 アテルイ「阿弖流為」の反乱 >
⇔紀ノ 古佐美 (*)征東大使。788年任官。789年「阿弖流為」との「胆澤巣伏村の合戦」の敗戦により失脚。
巨勢ノ 野足 (*)陸奥鎮守副将軍。 792年任官。征夷副使。
文屋ノ 大原 (*)陸奥介・鎮守副将軍。

九世紀


⇔大伴ノ 家持 (718~785)持節征東将軍。太宰帥・旅人の息。藤原仲麻呂と政争。763年藤原良継、石上宅嗣、佐伯今毛人と謀反の罪で捕縛される。782年「氷上川継の乱」に連座。陸奥にて死去。
⇔●大伴ノ 弟麻呂 (731~809)征夷大使・乙麻呂。大伴古慈斐の息。母は藤原不比等の娘。784年征東副将軍。794年任官・征夷大将軍(初代)。
⇔●坂上ノ 田村麻呂 (785~811)越後守・陸奥出羽按察使・鎮守将軍・征夷大将軍(2代797~811)。坂上刈田麻呂の息。三善清継の娘婿。792年任官。征夷副使。793年大伴弟麻呂を補佐し奥州遠征。794年第一次蝦夷討伐。797年征夷大将軍。801年第二次蝦夷討伐「阿弖流為」に勝利。802年胆沢城築城。志波城築城。
⇔橘ノ 逸勢 (782~842)但馬権守・「非人」。橘ノ入居の息。奈良麻呂の孫。804年に最澄・空海とともに派遣された遣唐使。840年但馬権守。842年嵯峨上皇の没後、仁明天皇により「承和の変(恒貞親王の廃嫡、実子・道康親王の擁立)」に謀反の罪で捕縛される。<「三筆」のひとり。>
物部ノ 足継 (*)鎮守副将軍・鎮守将軍。811年鎮守副将軍。812年鎮守将軍。
大伴ノ 今人 (*)出羽守・征夷副将軍。811年任官。征夷副将軍。
○佐伯ノ 耳麻呂 (*)鎮守府将軍。809年任官・鎮守府将軍。
○物部ノ 足継 (*)鎮守府将軍。812年任官・鎮守府将軍。
坂上ノ 鷹養 (*)811年任官。征夷副将軍。
<811年 「蝦夷の反乱」 爾薩体・幣伊>
●文屋ノ 綿麻呂 (765~823)征夷大将軍(3代813~816)。三諸大原の息。811年爾薩体・幣伊の蝦夷討伐。
小野ノ 氷見 (*)815年任官。征東副将軍・陸奥介。

↓藤原ノ 高房 (795~852)右京少進・式部大丞・備後守・肥後守・越前守・美濃介。藤原藤嗣の息(三男)。母は紀ノ古佐美の娘。息に藤原時長。<孫に藤原利仁。>
○物部ノ 熊猪 (*)鎮守府将軍。834年任官・鎮守府将軍。
<838年 諸国国司に盗賊・海賊追捕令>
多治比ノ 門成 (*)丹治・真人・武蔵守。秩父豪族。846年武蔵守任官。
多治比ノ 石雄 (*)丹治・真人・武蔵守。秩父豪族。850年武蔵守任官。
⇔○坂上ノ 当道 (*)鎮守府将軍。859年任官・鎮守府将軍。
⇔大伴ノ 健岑 (*~*865)伴ノ健岑。恒良親王の春宮帯刀舎人。842年「承和の変」に謀反の首謀者として捕縛される。隠岐に流罪。

<867年 伊予国越智郡宮崎村に海賊横行。>
新興軍事氏族・大和朝廷軍
<878年 出羽俘囚の叛乱。出羽守・藤原保則、鎮守府将軍・小野春風が是を鎮圧。>
⇔○小野ノ 春風 (*)対馬守・陸奥鎮守府将軍・摂津守・大膳大夫・検非違使・左衛門佐・右兵衛少将・陸奥権守・讃岐権守。小野石雄の息。幼少を東北の辺境で育つ。夷語に堪能で、剛勇できこえた。大宰府に出仕するが讒言により罷免される。878年「出羽国人の叛乱」で藤原興世が敗北。878年任官・鎮守府将軍。藤原保則の推挙により鎮圧軍に参加。出羽反乱軍を鎮める。
⇔▽清原ノ 令望 (*)878年「出羽俘囚の反乱」の鎮圧に軍功。<出羽清原氏の祖となるのではという説もあり。>
⇔○安倍ノ 三寅 (*)鎮守府将軍。884年任官・鎮守府将軍。
<894年新羅海賊、対馬襲撃。対馬島司・文室善友が撃退。>


十世紀


⇔↓○藤原ノ 利仁 (*)鎮守府将軍。藤原北家・魚名流。藤原時長の息。母は秦豊国。越前国敦賀の豪族・藤原有仁の娘婿。911年上野介、つづいて上総介、下総介、武蔵守に任官。915年下野の高倉山の山賊を鎮圧し鎮守府将軍に任官。息に公統、叙用。娘は秀郷の孫・文脩の室。
⇔上毛野ノ 基宗 (*)916年上毛野貞並とともに上野介・藤原厚載を討ち滅ぼした事を奏上、基宗・貞並は武蔵で捕縛される。上野大掾家・藤原連江は中立。<中山道混乱。>


<932年 摂政・藤原忠平 追捕海賊使を定める。>


○藤原ノ 利行 (*)鎮守府将軍。
小野ノ 春継 (*~932)讃岐介。藤原純友の妹婿。私怨でもって伊予国大洲館の藤原純友を攻撃し、逆襲にあい戦死。朝官の「介」同僚を殺害したため純友が海賊化したとも。

<933年備前国に海賊横行。><山陽道混乱。>


○平ノ 国香 (*)鎮守府将軍。
○平ノ 良兼 (*)鎮守府将軍。
○平ノ 良将 (*)鎮守府将軍。
小野ノ 諸興 (*)武蔵権介・武蔵押領使。933年武蔵国秩父にて、小野氏経営の小野牧が勅使牧に変遷する。

[日本国の乱逆のはじまり] [ 平ノ将門 ]・[ 藤原純友 ] 

⇔935年 源ノ護の三子息と平ノ良望(国香)が、[ 平ノ将門 ]に敗死する。


⇔↓○藤原秀郷 (*)田原藤太・俵藤太・下野守(国司)・下野押領使・武蔵守(国司)・鎮守府将軍。下野大掾家。下野の安蘇郡佐野荘の豪族。916年罪を得て流罪される。939年「平ノ将門の乱」で将門を討ち取る。<近江粟田郡田原か、相模大住郡田原の出身。弓術に秀で近江三上山の大ムカデ(大蛇)退治に活躍。><子孫の藤原秀康は「承久の乱」の大将。>


↓935年 海賊大将・[ 藤原純友 ]蜂起 
<936年↓南海道使・紀ノ淑人、伊予に派遣さる。><南海道混乱>
<938年橘ノ近安、朝廷の追討令により関東の諸氏に追捕される。><関東混乱。>
<938年出羽国の俘囚叛乱 ><奥州混乱。>


●藤原ノ 忠文 (873~947)宇治民部卿・征夷大将軍(4代940)。藤原枝良の息。母は息長息継の娘。
○平ノ 貞盛 (*)鎮守府将軍。


<947年鎮守府将軍・平ノ貞盛が狄賊坂丸を討つ。><奥州混乱。>


○源ノ 信孝 (*)鎮守府将軍。

<953年駿河益頭郡司・伴ノ成正が賊徒に殺害される。><東海道混乱。>


↑○▽藤原ノ 千常 (*)鎮守府将軍。藤原秀郷の息(5男)。息に秀清、文脩。


<954年駿河介・橘ノ忠幹が賊徒に殺害される。><東海道混乱。>


小野ノ 利春 (*)963年武蔵国司。

<988年 尾張国司・藤原元命の悪政、百姓らが31か条の「尾張国解文」を奏上し、藤原元命は罷免される。>


○藤原ノ 文脩 (*)鎮守府将軍。藤原秀郷流。藤原千常の息。藤原利仁の娘婿。下野国にて軍功。988年鎮守府将軍に任官。
⇔↓橘ノ 則光 (*)陸奥守・陸奥前司。藤原道長に近侍。1019年陸奥守。任地にて砂金を収集。
↑○▽藤原ノ 兼光 (*)鎮守府将軍。藤原秀郷流。藤原文脩の息。藤原利仁の孫。


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