天下布武その4 各方面軍を託された軍(いくさ)奉行・信長御名代、六大軍団長と軍団長達
織田家軍団長格の一門御名代、大名(諸侯)と小名
織田家一門 三大将 (大軍団長の上位権力者)
1582年の信孝「御名代」就任後の体制。
大敵に対して複数の軍団(大軍団、遊撃軍団)が集合したときの旗頭。 戦場に信長様が不在の場合の「御名代(織田軍総帥)」。
織田軍 総帥 (山陽道・畿内(西)・中山道・東海道・北陸道の統括者) <要するに、信長近衛軍(安土軍)を除いた、ほぼ全軍を率いる権限を持つ。>
織田信忠 /oda,nobutada ←織田信忠の家臣団と軍団を参照してください。 <織田家の姓を引き継ぐものとして、「天下人」として、誰も率いた事のない規模の織田大軍団を統べる総大将として、「最強戦争オタク」の父・信長により幼少の頃から戦場を連れまわされ、実戦の中で鍛えられた(10年間戦場でほぼ生活したのではないでしょうか)。初名は信重。1576年以降に松永・雑賀・畠山・本願寺・三好・別所・荒木・波多野・浮田(帰順)・吉川・小早川・毛利を相手に奮闘。1579年からは東国に転じて武田領を圧迫。1582年信忠軍団を率い信濃・甲斐国を制圧し勝頼を討つ。そして、西国に転じて毛利輝元討伐の為、信長代理「御名代(おんみょうだい)」へ。信長の作り上げた最高傑作として、武将・信忠が存在したと・・。信忠の「忠」への改名は東西日本を大将軍として平らげた藤原忠文の「忠」にあやかる思いだったかもしれませんね。秋田城介の先の大将軍の地位をみていたかもしれません。><本能寺の変後、東(岐阜)に向かうは敵中突破で絶望的、西(大坂)に向かうは高山右近や、筒井順慶の動きが不可解で警戒したのではないでしょうか。というか、京都の豪族である津田重久や御牧兼重など元幕府衆の動きで、革嶋城や堅固な勝龍寺城にも行けない状況が京都市街内で既に起きてたかもしれませんね。足利義昭が本圀寺で三好勢を相手に持ちこたえた前例が、二条籠城を選択させたのかもしれません。包囲網の外側の準一門・塩川氏や、中川清秀に池田恒興の救援を信じていたと思います。信忠が最後の判断を誤ったとか安易に言い切れるものでしょうか?><隣接する関白・近衛前久邸が光秀に差し抑えられて?高いところから狙撃されたことが致命的でした。伊勢貞興勢が突撃してくるのも織田家転覆を狙う陰謀が感じられます。><武田松姫との縁はどうなっていたことでしょう。武田が無くても正室として迎えたのでしょうか。>
直轄地、尾張国・美濃国。
織田軍 副総帥 (南畿(西)伊勢方面の統括者) <伊賀攻略に「御名代(総帥・信長代理の意味)」。次は紀伊熊野攻略へ。>
北畠信雄 /kitabatake,nobukatu ←北畠信雄の家臣団と軍団を参照してください。 (織田信雄)(oda,nobukatu)<伊勢国司・北畠具房の養子。信長様が足利幕府創業期に足利家を苦しめた勇将・北畠顕家の姓がほしかったのかもしれません。領地的には平家流の織田家として伊勢平氏を踏襲したかったのかもしれません。><過保護的に心配されながら、名門への養子入り。甘えんぼ的な性格は弟ゆえでしょうか。>
直轄地、南伊勢国。
織田軍 副総帥 (南畿(東)南大和・紀伊、南海道(四国)方面の統括者) <高野山攻囲旗頭、四国征服に「御名代」。阿波へ。>
三好信孝 /miyosi,nobutaka ←三好・神戸・織田。信孝の家臣団と軍団を参照してください。 (織田信孝)(oda,nobutaka)<四国出兵直前に三好康長の養子。足利将軍に取って代わり天下人となった、一世代前の英雄・三好長慶(範長)の姓がほしかったのかもしれません。領地的には織田家の天下となったのち、室町幕政初期の細川管領家のような働き(四国からの兵力投入)を期待したのかもしれません。織田家家臣団の官位名も前三好政権の官位(政権継承)を意識しての任官のような気がします。><幼くして親兄弟と引き離されて育った境遇。ある意味、那古屋城で育った信長様と似た境遇を再現させられたテストパターン的な子育てです。激しい性格はその影響でしょうか。>
摂津国「大坂城」・和泉国「堺」にて四国征伐軍、出航待ち。
《個人的感想》 大軍団長の上位権力者の「信長公御名代(おんみょうだい、上様陣代)」出現は、
1576年対・摂津石山本願寺での原田直政の敗戦、救援に赴いた信長本人の戦場での負傷。
1577年対・上杉謙信との柴田勝家の敗戦が教訓なのだろう(船頭多くてまとまらないことに反省)と思います。
有無を言わせない絶対権力者・信長が 戦場に不在の時に、決戦を前に軍団長達(終生にわたり出世のライバルの関係である)の中から、
日本各地から結集した各軍団を、一つにまとめて指揮できる「総大将」を決めることは困難であり、
(各方面軍の軍団長・旗頭として軍団の威信を背負う各将は、プライドも高く、互いに「武士の面目」にかけて牽制しあう間柄だったことでしょう。
仮定の話ですが、東海道方面も小笠原長忠が健在でいれば、家康は出世を阻止されたかもしれないですし、
北陸道も別喜がいれば柴田が、山陽道も荒木がいれば羽柴が、山陰道も一色がいれば長岡が。南畿東方面では信孝と信雄兄弟で、
織田家中の領土拡張体質もあり、各遊撃軍団長達の主導権争いはきっと苛烈だったことでしょう。
優勢なときは「おれがっ、おれがっ!」って感じで。 長篠では家康よりも目だった酒井忠次もいますし<晩年家康に冷遇される>。
戦線が危ないときは同じ方面担当どうしでも 協力ではなく「見捨てる」が多発していたのでは・・。)
選ばれた大将が織田一門(兄・織田信広、弟・信治など)であってもかなり信長様に近い「分身」の間柄でないと、
兵士全軍の士気もあがらず、 勲功を挙げる為の必死の気持ちがついてこないで、「敵前逃亡」足軽の逃散がある(堅田の敗戦、長嶋の敗戦など)
ということが判ってきていたのでしょう。
嫡男の織田信忠が、1576年信長様の対石山の戦場での負傷後、「命大事に」と方針を変えた信長様に代わり、
雑賀征伐以降の畿内(対・石山)と西方(対・毛利)と東方(対・武田)の織田軍の軍事行動を纏めてきたということを、
信長公の「御名代(陣代・総指揮官)」という役割を堅実に果たしてきたということを 忘れてはいけないと思います。
政治的には、家臣たちに「上様」と尊称される信長と、「殿様」と敬愛される信忠の二人三脚の軍事政権です。
戦国時代の人々の織田家重臣の評価
1568年の上洛以前に宿老の森可成と坂井政尚の仲があまりに悪くて、信長様が両家の縁談を取り持ったと伝わります。
織田家中のライバル関係は半端じゃないのでしょう。「清洲同盟」が成立する前の「西三河乱入」に、史書に伝承の薄い森・坂井・佐久間・柴田等の初期重臣の活躍があったのではないでしょうか。
「木綿藤吉(秀吉)、米五郎左(長秀)、かかれ柴田(勝家)に、退き佐久間(信盛)」
1568年入京した頃に流行したらしいですが、織田家の畿内周辺へのPR活動の唄かもしれません。若手の木下秀吉、丹羽長秀に、重鎮の柴田勝家と、佐久間信盛を評しています。織田家四天王の小唄といったところでしょう。
「攻めるも瀧川、退くも瀧川(一益)」
1567年北伊勢攻略の旗頭として早くから活躍していた瀧川一益の評判です。上の四天王とあわせて、織田家の五虎将といったところでしょうか。織田信忠さんの軍事的後見人として次代の宿老筆頭の座は揺るぎないところまできていたかもです。
「甕割り柴田」、「鬼柴田(勝家)」
1570年頃入洛後に南近江で柴田勝家が、六角残党と力戦していた頃の評価です。強力な武将がいるという宣伝を全国的に展開することで戦わずして勝つという信長の戦略かもしれません。織田家ほど各地で色々な武将と戦った軍団はないので、当時の日本で彼らの名前を聞かないことはなかったでしょう。
佐久間と柴田は近江の中でも京に近い場所の支配を任され、畿内の中心軍として位置づけられていたのでしょう。東海道は伊勢長島に対する備えで瀧川が西方面、徳川が東方面の分担だったのではないでしょうか。信雄が北畠に入り南紀東方面の担当として熊野に備え、各地域で分担が進んでいたと推測されます。六大軍団となる前に、それぞれの細かな方面軍が実はあったのだと考えています。
「さりとてはの者(秀吉)」
1573年毛利の外交僧(安国寺恵瓊)が実務に秀でた秀吉と接して毛利家に伝えた評価です。秀吉さんは本当に仕事の鬼だったのでしょう。指している意味が「覇の者」だったら、この予言すごい!と心の底から思います。
「人は城、人は石垣」配下武将の剛勇の名前が世間に通っている事は、戦いの抑止力にもなったと考えられます。
織田家の大軍団長(織田大老衆)
注:軍団長という名称は当時ありません。柴田勝家は自分の立場を「北国表警固(伊達輝宗家臣宛手紙)」「北国御番役(神保長住宛手紙)」と表現しています。
最初に軍事的独立軍団の形成を許可されたものは、桶狭間合戦後の三河進攻以降、1561年に佐久間信盛は三河国北西部に指揮権ありか。与力に水野信元や、高橋衆(三河に原田氏あり)。
そして外様の松平元康(徳川家康)は1563年の吉良家滅亡に台頭。石川数正や、酒井忠次の下に与力が編成される頃に指揮権か。その間に柴田勝家・丹羽長秀を中心に、尾張の末盛衆・清洲衆・(守山・岩崎衆)、岩倉衆・犬山衆・品野衆の再編成が行われるか。
1567年頃美濃攻略の際には、森可成・坂井政尚は東美濃に指揮権ありか。火薬の原料、硫黄の産出地を目指しての進出だったのでは。
森・坂井軍団<信長軍団初期の両旗頭の軍事活動圏>
1568年上洛の際には、留守居を担った北伊勢の滝川一益が、東海道の東西を睨んで徳川家康と対になる感じです。
<佐久間・坂井・森と違い、独立軍団の軍団長となっていない柴田が入京時に主要四武将に数えられるのは、美濃三人衆や尾張(小牧)軍の指揮権を持ち、常に信長様の中核となる主力軍を率いていたからなのではないでしょうか(のちの安土城お膝元の豪族達の集合体、安土(近衛)軍を率いる福富秀勝的な立場でしょう)。>
1570年代の新領地・南近江の六将の森・坂井・佐久間・中川重政(黒幌衆)・丹羽長秀・柴田勝家。
森・坂井の戦死、中川の失脚により抜けた穴は美濃は川尻秀隆(黒幌衆)・池田恒興、近江は明智光秀・蜂屋頼隆(黒幌衆)を抜擢。
1573年朝倉・浅井の滅亡後は畿内の新支配体制を敷き、近江の宿老分割支配が発展し、のちの地方方面軍の成立への土台とし、
1574年北近江を手中にし丹羽・明智軍団を強化し若狭・丹波に向ける。
近江を中心に近畿四分割、北畿内(東・西)、南畿内(東・西)としてブロック分けし、
北畿西=惟任(明智)、北畿東=惟住(丹羽)、南畿西=原田(塙)→のち佐久間、南畿東=瀧川→のち信雄、
という編成が試されていたのではないでしょうか。
1576年柴田・別喜広正を北陸に派遣。飛騨は金森長近(赤幌衆)の管轄か。
原田直政(赤幌衆)を柴田の抜けた畿内に抜擢、戦死後は1580年まで佐久間信盛を南畿西司令官にという流れ方かと推測されます。
1576年以降の「信長御名代 織田信忠」を総帥としての畿内平定戦には、佐久間信盛や瀧川一益、惟住長秀、蜂屋頼隆が補佐役として常に戦場に有り、特に織田家の主力として畿内の各戦場に向った瀧川一益(南畿東)、惟住長秀(北畿東)は織田家のお膝元近くに領地を与えられ、畿内先方衆の旗頭として準近衛軍(織田家主力軍)的な役割を果たしていたと考えられます。
畿内で「戦場常有(常在戦場)」だからこそ「米五郎左・攻めるも引くも瀧川」という異名をとったのでしょう。見方を変えれば、辺境に出された柴田、羽柴、徳川は地方前線の辺境攻略軍団の指揮官に過ぎないのかもしれません。
<地方軍団長は遠征に送られるローマの将軍達のようなイメージです(遠征から帰還しローマに入るときは軍を解体し身ひとつというスタイルに近いのでは)。1580年の佐久間信盛さんの追放時は、軍団を解体させ、その身ひとつで追い出した姿でしたし。>
秀吉が天下を取れたのは、堀秀政が近衛軍の先遣部隊を率いて中国陣にいたこと、秀吉の兄弟・羽柴秀長が山陰方面の強力な軍団長であったこと、毛利決戦前で兵力が集中していた事という、有利な条件が揃っていたからで、地方軍団長が出世の頂点という今の認識は、どうかと思います。
という前提で以下を御照覧ください。
(畿内) 旧 大軍団長
複数の地方遊撃軍団長を臨時に統率する権利を持つ旗頭を大軍団長とします。六道の大将(六大軍団長)が選定される前の大軍団長です。↓名前をクリックすると、各大軍団長のページに入れます。
<南畿(西)方面軍> 対 石山本願寺・雑賀一揆、三好・松永家
<初代・塙(原田)直政、二代目・佐久間信盛は没落し、南畿軍団は信長様の近衛軍と、信忠軍団に分割編入され解体。>
⇔塙 直政 /ban,naomasa(*~1576)原田直政/harada,naomasa(1575年7月任官改名)・九郎左衛門・備中守・直正・正勝。尾張春日井郡比良村出身(大野木村とも)。大和国国主。信長の親衛隊、(元)赤幌衆。1569年伊勢北畠氏「大河内城攻囲」に尺限廻番衆。1574年5月山城国守護に就任。初代「(仮称)南畿内(西)方面軍軍団長」。1575年3月大和守護職に就任し筒井順慶ら国衆を与力とする。1575年5月「長篠の合戦」に鉄砲隊を率いる。1575年7月改姓。8月「越前平定戦」に従軍。1576年5月石山本願寺の「三津寺攻撃」に討死。織田信秀、織田信長は塙(はなば)家の婿。養子に森忠政。<織田信秀、信長様、柴田勝家と婚姻縁戚。信長様の親衛隊卒で強力な血縁的パイプを持つ武将です。大野木の塙義元が一門ならば、森・林家との繋がりも持ちます。><1568年の上洛以降、出世街道を驀進し与力の三好、松永、筒井、(荒木も?)等を率いる。その動員力から大軍団長としたのですが、信長様が想定していた「職権」を超えて外様衆を糾合し、石山本願寺との「決死の合戦」を勝手にしてしまったから、敗戦により一族が追討されたのでしょうか。><祖が大神・大蔵の原田氏を意識しての改姓ならば、家紋は九州原田氏と同門でしょうか。松永家も自称・原田末裔のようです。三河の高橋近辺に原田氏が所領をもっていますが。奥三河支配を意識しての原田姓受領だったのでは?><松永長頼は丹波内藤氏を継いで、松永勢力圏は丹波に達しているようですから、それを踏襲する方面軍を編成していたならば、もし原田直政が戦死しないでこのまま出世していたならば、光秀はただの与力のままだったかもしれませんね。>
<元・織田主力軍旗頭 →南畿内(西)方面軍> 対 石山本願寺・雑賀一揆、三好・松永家
⇔佐久間信盛 /sakuma,nobumori(*~1582)(作間)・半羽介・右衛門尉。三浦系。尾張譜代の宿老。愛知郡山崎城主。弟に信直。1560年「桶狭間の合戦」に善照寺砦を守備。1568年9月の上洛戦に「箕作城攻囲」に武功。大和に乱入し諸城を攻略。1570年5月近江永原城在番。1571年近江野洲・粟太2郡を与えられる。1572年徳川家康の援軍に出動。1573年7月将軍追放後に河内国・三好義継を攻撃。松永久秀を降す。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆筆頭。1576年5月原田直政の戦死後、二代目「(仮称)南畿内(西)方面軍大軍団長」。1580年石山和議後に失脚。三河刈屋城主。紀州熊野十津川に没す。息に信栄。<与力の荒木、三好、松永、筒井、水野等を率いる。それにしても佐久間半羽介って、「さくまはんぱのすけ」って呼ぶのでしょうか。若い頃はかなり(ばさら)な名前です(はばのすけと読むらしいです)。最初の頃は信長様を温かい目でみてたとか、意外と気が合ってたのかもしれませんね。><結局は石山方面軍(攻囲だけしてればいい)という任務理解が職務怠慢に受け止められたんじゃないでしょうか。本願寺に対峙するだけで、南畿(東)方面(紀州)への領土拡張の意識を失っていたので、南畿(西)担当の本当の方面軍の意味を理解していないと判断されての失脚かと・・。><奥三河の支配を巡って、原田と佐久間はライバルだったのでは?>
<「石山合戦」を勝利とするならば、勲功者には褒賞を与えなければなりませんが「元寇」の時の鎌倉幕府のように、恩賞の土地がない場合、鎌倉幕府宿老・安達家が潰されて遺領が御家人に配分されたように、織田家重臣筆頭・佐久間家を潰す事が、恩賞の配分の容易な方法だったかもしれません。上げて落とされる三浦一門の悲しい宿命・・・。><信長様が西洋社会のしくみを宣教師から学習していたならば、現状は勲功に対して「土地」配分の段階で、まだ「現金給料制」へは転換していない状況であり、ゆくゆくは、土地を与えすぎた宿老の領地を、召し上げて 「御恩(土地)⇔奉公」の関係を「リセット」 しようとか、考え始めていたかもしれませんね。>
≪大軍団長 個人的感想≫ 佐久間「右衛門尉」も公式の官位となってるんじゃないでしょうか。検非違使・「佐久間(判官)」でよいのかな(妄想。1568年足利将軍を奉じての上洛にきっと宿将衆は褒賞で任官していたことでしょう。後に将軍を追放したことで『公記』では伏せられたのでは。
1575年「長篠」に武田を破ってから、やっと惟任日向やら筑前守やらの準レギュラーが任官できたんじゃないでしょうか。惟住五郎「左衛門尉」は、準レギュラーが任官する以前にすでに官位を得ていたのでは?というか義経ファンなら左衛門尉で充分嬉しいはず。酒井忠次だって左衛門尉です。官位任官で丹羽長秀が出世から遅れたというのはどうでしょうか・・。
また、滝川伊予守と、稲葉伊予守が重複するとか、当時の感覚であまり関係ないかもしれません。実際に伊予の国主となってるわけではなく名目上のものなのですから。筑前や日向も支配してるわけでないので、惟任日向の他に柴田日向守がいても変ではないのでは。>
六大軍団長 (六道御番役大将・六道衆)
1582年南海道方面軍の成立で六道(六海道)の大将・旗頭が成り立つ。
辺境独立軍団 六道地方方面軍 <御番役軍>
< ①東海・②中山・③北陸・④山陽・⑤山陰・⑥南海 >
1575年以降成立。複数の遊撃軍団(組下大名)に対して動員指揮権を与えられた旗頭を大軍団長と仮称しました。大軍団長の上位をいく指揮権を保有するのは、信長の三人の息子である嫡男・信忠、次男・信雄、三男・信孝のみで、彼らの軍団は六大方面軍とは切り離して考えたいと思います。
<日本統一の為の六大方面軍(大軍団の担当地域)があり、その六大軍団の旗頭となるもの①~⑥を六大軍団長と仮称しました。徳川家康は松平信康を殺害した時点で同盟者という立場ではなく、圧力に屈して確実に従属しているものと判断しました。軍団長の名前と官位、軍団配置(担当先)のそれぞれで信長様の遊び心がみられます。>
<元・織田動員主力軍旗頭 →北陸方面軍(北陸道御番役軍)> 対 越前・加賀・越中一向一揆、越後上杉家 <対の将・梁田(別喜)広正が没落し、柴田勝家が旗頭として一本化。> (*年号=生没年あやしい印)
⇔柴田勝家 /sibata,katuie(*1525~1583)権六・修理亮。斯波系。最初の室は飯尾尚清の妹。尾張譜代の宿老。織田信勝の後見人。1553年7月「海津の合戦」、1554年「清洲城攻略」に軍功。1556年8月林秀貞と結び、織田信長の失脚を謀るが「稲生の合戦」に敗れる。以降、信長に忠節を尽くし、1568年上洛に従う。1570年5月近江長光寺城主。6月佐久間信盛とともに「落窪の合戦」に六角氏残党を撃破。1573年将軍義昭との抗争では京に出陣。<この間、明智光秀の出世に嫉妬>1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1575年から越前国主として八郡を領する。「(仮称)北陸方面軍大軍団長」。1577年加賀攻略に瀧川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉を率いる。1580年加賀平定。1581年「京都馬揃え」に参加。与力の佐々成政に越中、前田利家に能登が与えられる。1582年には越中魚津城まで進出、「松倉城攻囲」の陣中で「本能寺の変」を知る。原田直政は婿(直政は同世代のようなので勝家の姉妹か?)。息に勝里、勝敏。<与力から前田利家、佐々成政、佐久間盛政、柴田勝豊が(組下)遊撃軍団長に出世。><瀧川、丹羽、羽柴、池田、明智なにかしら信長様と縁戚のようです。柴田、佐久間が織田家と一切かかわりがないとは思えません・・。秀吉の時代に敗者は織田との接点を消されたのでしょう。><お市の方以前の妻には、やはり飯尾氏の娘だったようです。越前の本に記されているようです。>
柴田軍団<大軍団が分裂して新たな軍団長が生み出される様子は、秀吉軍団の成立を踏襲している事例ではないでしょうか。金森長近は第二の秀吉とも言えるかと。>
<東海道(西)・南畿(東)方面軍・「織田動員主力軍旗頭」・中山道方面軍 →関東・陸奥方面軍(中山道御番役軍)第一軍> 対 上杉家(北条家)*信長甲州入りから威嚇行為で挑発。「本能寺の変」により越後表から撤退。) <瀧川一益軍団が上野国にて成立し、北条・上杉の楔となる。>
⇔瀧川一益 /takigawa,kazumasu(*1525~1586)(冨永)・左近将監・入庵。上野国国主。近江大伴系冨永氏(家紋の木瓜から伴氏)。近江の甲賀の野侍の代表として重臣に抜擢される。信長の乳兄弟・池田恒興と親戚。織田信長の婿(信秀の娘か)。1567年北伊勢攻略の旗頭として活躍。1568年2月北伊勢の長野・神戸両氏に織田一族を養子縁組に和平。伊勢長島一向一揆の抑えとして敢闘。1572年頃からは京畿の行政に係る。1573年義昭との起請文では林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家と連署。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。一揆鎮圧後、北伊勢五郡を長島城で統括。伊勢長島城主。この頃から織田信忠の軍事行動に遊撃軍(織田動員主力軍の一角「東翼」)として従軍。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。荒木村重謀反に際し摂津に出動し有岡城を攻略。1582年の織田信忠の「甲斐乱入」では、信忠の後見として従軍。武田勝頼を天目山まで追い詰め討取る軍功。上野国と信濃2郡を拝領する。「関東八州の御警固番役、東国取次ぎ役」「(仮称)関東・陸奥方面軍大軍団長」。「本能寺の変」前は北信濃の森長可を援護して越後表に出陣。娘婿に柴田勝敏。<織田家と婚姻関係、池田家とは親戚関係にある。与力に津田秀政、道化、真田、内藤、小幡等。><家康は上洛中、一益は越後上杉家に向っていたということは、関東の北条は川尻秀隆が一人で抑えていた、ということで一益さんは東北に睨みをきかせる任務だったのでしょうか。><一益の取次ぎで奥州の諸大名がこぞって馬・鷹を献上しています。><大和から柴田勝家が去ったあと縁戚の原田直政が「旗頭」に抜擢されたように、摂津は、瀧川一益が関東に去ったあとを、縁戚の池田恒興が留守番として配置されたのでは。そして「清州会議(瀧川に代わり池田)」への伏線が出来たのでしょうか。><のち秀吉の時代、蒲生氏郷が瀧川一益軍団の遺臣を多く抱えていたので、経験値をあてにされて陸奥に配置されてしまったってことはないのでしょうか。> 織田信長の動員主力軍=(直属の他国先方衆)
<北畿(東)方面軍・「準近衛軍・織田主力軍旗頭」 →南海道方面軍(南海道御番役軍)・織田家執事>
北畿方面: 対 若狭武田家 越前国一向一揆 安土城普請
南海道方面: 対 四国・長曾我部家 <雑賀一揆(土橋家) 高野山> <南海道方面軍は*三好信孝を総指揮者として、惟住長秀が後見。>
⇔丹羽長秀 /niwa,nagahide(1535~1585)惟住長秀/korezumi,nagahide(1575年7月改名)・五郎左衛門尉。児玉系丹羽氏。尾張譜代の宿老。信長兄・織田信広の娘婿。1568年上洛戦に従い、「箕作城攻略」に武功。京畿の行政に係り、明智光秀・中川重政・木下秀吉とともに奉行。1570年「姉川の合戦」では徳川家康軍の与力となり奮闘。1571年2月「佐和山城攻略」。近江佐和山城主。犬上郡を領する。「(仮称)北畿内(東)方面軍大軍団長」。1570年頃から若狭を伺い、1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1573年朝倉滅亡以降、若狭国国主。1574年越前一向一揆の蜂起に対して、不破光治を加えた北畿(東)方面軍が機能。1575年7月改姓。越前守は辞退。1575年8月の越前国「一向一揆征伐」に北畿方面軍が機能。1576年安土城普請総奉行。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。石山本願寺開城後は蜂屋頼隆とともに大阪の軍事に携わる(織田動員主力軍の一角「西翼」)。四国出征予定。「(仮称)南海道方面軍*軍団長」。<甲州攻めの瀧川的な立場では>」。<馬揃えの『公記』の記事に記入される五郎「左衛門尉」が官位として公式に認められていれば、検非違使の「惟住判官」と呼ばれてもおかしくないということでしょうか、義経の様にOO判官と呼ばれるのが照れくさくて「五郎左でけっこう」といっての惟住五郎左だったりして・・(妄想。
惟住軍団<美濃の池田郡・不破郡の部将も浅井領と面し、警戒態勢にあったはずで、横山城在番の木下秀吉が一人で浅井軍団を抑えきったとは考えられません。勝者(天下人秀吉)の歴史の中での「歴史改ざん」なのでは。>
長秀管轄の若狭国は室町初期に一色家富裕の収入の根源といわれた重要な国です。経済に明るい丹羽長秀にかかる期待が伺われます。筆頭・佐久間信盛軍団に匹敵する7ケ国の人工を集めて安土城を築城し、そこから織田家の中心をなす常備軍の人材や、内政に関わる才能(官僚)などの人材発掘にも多大な貢献をしたことでしょう(美濃侵攻に秀吉及び浪人の集う川並衆を活用したのも実は長秀さんでは・・)。敦賀の武藤、和泉の蜂屋が湊を抑える役割を果たしていたなら、長秀さんの軍団は畿内の豊富な資金を抑えた織田家主力の「常備軍」足りえたのでは・・。
甲斐乱入で信忠に瀧川一益が副えられた様に、信孝の四国征服戦では、惟住長秀が後見人として実質的な責任を担っていたと考えています。 なので私の偏見で「(仮称)南海道方面軍大軍団長」にします。与力軍団長に縁戚の蜂屋頼隆、津田信澄 等。顕如の退去後、大阪城(石山本願寺)本丸に入り、熊野水軍の杉若無心との婚姻関係からして西国を睨む人事だったのでしょう。石山撤退後の大坂では次の拠点となる本願寺跡地の整備を行っていたのかもしれません。「大坂城」は秀吉が建設する前に既に長秀・信澄達がおこなっていた可能性もあるのでは・・。>
<* 信孝は信忠さんと同じく地方軍団長の地位よりも、もっと上位「信長御名代」の地位にいるような気がしています。一門衆NO.3なので。嫡男・信忠を方面軍軍団長とは呼びませんので、兄弟である信孝をただの方面軍軍団長とすることに自分の中では抵抗感があります(ただの一武将として育てられたとしても、この時点では将才を認められたのでは?)。ここで信孝を南海道方面軍軍団長とする通説とは認識が違ってしまいますので、HPを読んでいる方はご理解下さい(自分の妄想ですw)。 ということで、六大方面軍の南海道代表は惟住長秀さんで推します(謎)。
その後のことを想像していくと、信忠さん(または北畠信雄さん)が東方征服担当、三好信孝さんが西方征服担当の軍事指揮者となり、頼朝兄弟達のように天下統一に向かい役割分担して望むことはありえないのでしょうか。 織田政権の歴史が続いていたなら、どう織田軍団が発展していったのか、信長様の死後、2人が織田に復姓し信忠さんの織田家継承のライバルとなってくことはないのか、「下剋上」をより楽しめたことでしょう。>
<北畿(西)方面軍・準近衛軍 →中国(北)方面軍(山陰道御番役軍)> 対 一色家 波多野家 赤井家(長曾我部家とは同盟::::対 三好家)
(織田家内部抗争 対 秀吉) 秀吉配下、羽柴秀長・宮部継潤軍団の山陰道進出により、領土拡張域を分断される。
⇔明智光秀 /akechi,mituhide(*1528~1582)惟任光秀/koretou,mituhide(1575年7月任官改名)・土岐・十兵衛・日向守。美濃土岐系。妹・妻木殿(*~1581)が織田信長の側室。1568年9月頃から歴史の表舞台に登場、美濃衆・越前衆・幕府衆の織田方の最右翼として重臣に抜擢される。1571年近江国坂本城を築城。「(仮称)北畿内(西)方面軍大軍団長」。1573年には旧主・足利義昭が追放される。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。北畿の平定に軍功。1580年赤井・荻野・波多野氏を攻略、1581年丹波国国主。「(仮称)山陰方面軍大軍団長」。丹波亀山城主。没年には55歳 or 67歳説がある。養女の娘(妻木氏)婿に村井貞成。息に光慶。<後醍醐帝の頃から天皇に献身的な土岐源氏。>
<琵琶湖制圧に「大筒」が登場しますが、光秀が「囲舟」とともに製造し導入したものでしょうか。信長様に買われたのはそういう「新兵器」を導入する才能かもしれません。><経歴については明らかでない部分が多いですが、立身出生ぶりから濃姫や土田氏つながりで美濃国主・斎藤道三や織田信長に近い縁があったのでしょう。妹(妻木殿)が信長側室だったならば、妹死亡で1581年に準一門の地位があやうくなっています(『多聞院日記』)。>
<摂関家の九条・近衛家の家人は姓に「惟」を含める様なので、上杉家から織田家に鞍替えした武家伝奏の近衛殿あたりから名字を送られたのではないでしょうか。武家に横領された貴族の荘園に居座る戦国大名を討伐することの大義、伝統を尊重する謙信に対して「近衛(摂関家)」を楯(大義)として、信長様が宣伝情報合戦に利用できるものは利用しようという合理的な選択をしたのかもしれません。近衛家と秦氏との関連から、山城丹波は秦氏系の武人を意識し、若狭は惟宗(島津)家の武人を意識してのものだったのではないでしょうか。>
<変後、光秀が吉田兼見等の後押しで征夷大将軍に任官されていた、という説もありますが。鞆ノ浦から再び将軍を擁立しようとした手紙はなんだったのでしょうか?。まったく別に朝廷(近衛?)は光秀を擁立しようとしていたのでしょうか。ということであれば、光秀は操り人形であり、光秀を謀反に誘う計画を立てた主体者は、信長の政権を望まなかった京都貴族達だったということになるかもしれません。>
<「甲州攻め」従軍、信長本軍。惟住・惟任軍団が揃い踏み。><瀧川一益が関東の御番役になり、自分は動員主力軍の旗頭になったと勘違いしたのかもしれませんね。>
<惟任さんは本能寺直前に南條氏の下にいる元尼子家臣で石見の豪族・福屋隆兼とも連絡していることから、山陰道で頑張ろうという気持ちはあったようです(カモフラージュかなあ・・・)。信長様的には、やはり山陰道方面軍の主力を任される予定だったのでは。><天下統一後の構想を、もし信長様と宿老が語り合っていたとすれば、自ら「天主(生き神)」を目指す、何もかもを突き抜けたところへ「イッテ」しまっている発想の信長様の考えを聞いて、光秀さんなりに全力阻止したくなるほどの恐怖(伝統秩序の崩壊と、日本の行く末の恐ろしさ)を感じたのかもしれません。「本能寺の変」の原因は光秀の思い描く「常識的な美しい秩序の天下」と、信長様の思い描く先駆的「絶対君主的な天下」へのズレが、根底にはあるのかもしれませんね。光秀からの長岡藤孝への手紙の文面から考えると、光秀の思い描く「天下」の方が正しくおもい、それをつくりたくなったのかもしれません。 信長様がよく言う「天道」的に、今回は私が正しいと・・。いろんな細々とした要因と、実行を決断する「大義」とが、光秀の中で重なりあったのが1582年6月2日なのでしょう。>
<北畿(東)方面軍与力・準近衛軍 →中国(南)方面軍(山陽道御番役軍)> 対 毛利家 (浮田・別所・荒木・山名)
(織田家内部抗争 対 光秀) <弟・秀長の軍功により山陽道→山陰道に戦線拡大し、同じ軍団長格の惟任光秀の領土拡大を阻止。>
⇔木下秀吉 /kinosita,hideyosi(1536~1598)羽柴秀吉/hasiba,hideyosi(1574年改名)・木下・藤吉郎・筑前守。弟に秀長(長秀)。尾張愛知郡中村出身、生駒家に寄食。1554年頃織田信長に直仕(津島堀田家で仕官とも)。尾張の農民・野侍の代表として重臣に抜擢される。1565年に信長の書状に副状を発給。1568年上洛に丹羽長秀とともに軍功。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1574年近江国長浜城を築城。播磨国国主。「(仮称)山陽方面軍大軍団長」。弟・秀長が山陰方面に進出し、兄弟で中国方面軍。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。次男となる養子・羽柴秀勝は織田信長の息。<信長様の人材登用の象徴です。下層の階級から天下を取りました。><三好家当主が代々「筑前守」です、本願寺との対立もしくは三好家を意識して畿内に高名な「筑前守」を選んだのでは?><与力軍団長の荒木、別所に離反されるが、支配を強め宮部継潤(養子に秀次)、羽柴秀長、浮田忠家(直家の弟)、黒田孝高等が台頭。秀吉の跡は養子・織田秀勝が継承予定となり準一門衆の出世安泰コースを作る。><九州制圧戦にて長崎の湊の光景を見て恐怖し、伴天連禁止・南蛮貿易禁止に走ったそうですが、信長様なら同じ光景を見てどう反応したことでしょう。秀吉ではなく信長様が天下統一して九州まで行ってほしかったです。>
羽柴軍団:羽柴兄弟が光秀の領土拡張先を分断。
<東海道(東)方面軍→関東方面軍(海道御番役軍)> 対 (北条家)*信長甲州入りから威嚇行為で挑発。
<徳川家康軍団は対今川・武田の役割を終え、対北条家への次段階へ進む。先祖・松平長親は(主筋の?)伊勢早雲と争う。>
⇔松平元康 /matudaira,motoyasu(1542~1616)徳川家康/tokugawa,ieyasu(1566年に改称)。母系は吉良家重臣の大河内氏。織田信長の同盟者。嫡男・信康は信長の娘(徳姫)婿。今川、武田の西進を抑えきった。「(仮称)元・東海道方面軍大軍団長」。「(仮称)関東方面軍大軍団長」。1567年息子・岡崎(徳川)信康は織田信長の娘婿となり織田一門化。三河守の官位、徳川姓を得る。1568年上洛戦には藤井・松平信一が旗頭。信長の命で娘(亀姫)婿に奥平信昌。秀康、秀忠誕生により対立する嫡男・信康を自害させる。<祖父・松平清康さんの偉業により、生まれながらに三河の戦国豪族。先祖が無名(押大臣・日野勝光や伊勢貞宗と結びつきのある松平氏後裔か?)の勢力から天下を取りました。度重なる火事場泥棒、一番油断ならない御仁です。東海道方面軍旗頭の地位を争うライバルである小笠原長忠も家康が見捨てたということでしょう。><息子の信康とは深刻な対立関係にあったようです。長じるに及び疎遠というか、武田信玄と義信のような戦国時代の親子関係なのでしょう。>
<家康を殺すつもりだったんじゃないかと書いてる書は、信長在命中の頃のものなのでしょうか?「本城」という下端兵士が、謀反軍に参加した自分を納得させるため、もしくは自分は謀反と関係ないと、処断されず生き残るために、知らなかったと嘘をついているのでは?。
実行犯が第三者を装っているのでは?。犯人の言い訳を鵜呑みにして良いものでしょうか?。>
<1582年「本能寺の変」がなければ、北条家に対して川尻秀隆と徳川家康どちらが主導権を握ったでしょう・・。伊勢氏の代官だった松平氏、その子孫の後北条氏と徳川の関係・・。もう少し「本能寺の変」が後だったら、その辺がはっきりしたことでしょう。上洛した家康を殺害する予定だったのではという話も、今まで忠節を尽くしてる家康相手にどうしてそのような話がのぼるのか。それは、当時の人たちは後北条(伊勢)と徳川(松平)の、昔の主従関係(朝倉と浅井のような)を知ってたからじゃないでしょうか。><秀吉の天下で徳川家康が「関東移封」に素直に従ったのも織田信長在命中の規定路線で既にあった話しだったからかもしれませんね。>
<武田滅亡後も駿河・甲斐・上野の土地を、武田攻めの協力者・北条家に一寸たりとも恩賞としてあたえなかったのは、「本能寺の変」後の北条家のあっさりとした離反ぶりから、信長様はのちに敵対関係となるのは明白なくらいの圧力を、北条に対しかけていたのではないでしょうか。やっぱり滅ぼす予定だったのでしょう。信忠さんのもとに婚約者の「武田松姫」が迅速に送り届けられないことは、「人質」という意味だったんでしょう。>
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