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日本神話・伝説時代 その6 ~古代豪族・神武天皇の家臣団と軍団(欠史八代)~大和朝廷の成立まで つづき

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1~3世紀の各地の文化圏。王国乱立か?

婚姻政策、各地王族の血縁的な一門化による統一王朝へ
⇒各地で続く戦争・抗争への忌避「和をもって貴しとなす」精神の萌芽

磯城大王・(紀氏の縁で尾張から旧葛城勢力の復権?)

<磯城・磐余=ワキ上池心宮>
(カエシネ)「孝昭天皇」 →東海進出。


訶恵志泥 (*)/kaesi ne. 御真津「日子」・観松彦 香殖稲尊・ミマツ「ヒコ」 カエシネ・(かえしで?)・「孝昭天皇」。懿徳天皇の息。葛城之掖上(ワキガミ)宮にて政治。室に(尾張連)奥津余曾(オキツヨソ)の妹・余曾多本毘賣(世襲足媛・ヨソタホビメ)の婿。師木県主葉江の娘・渟名城津媛(ヌナキツ)。十市(春日)豊秋狭太(トヨ アキサダ)の娘の大井媛。息に天押帯日子(アメオシタラシヒコ)、大倭帯日子国押人(オオヤマト タラシヒコ クニオシヒト)。<泥=根=禰宜=宿禰=神官の意味なのでしょう。>


多芸志 「比古」 (*)/tagisi hiko. 多芸志彦・タキシ「ヒコ」・武石彦 奇友背(アヤシトモセ)。懿徳天皇の息。<和泉・血沼(チヌ)之別の祖、多遅麻(タジマ)之竹別、葦井之稲置の祖。>

▽尾張ノ 奥津余曾 (*)/owari no okitu yoso. 尾張(葛城・春日・大伴)・連・オキツヨソ。尾張(大伴)ノ建斗米・瀛津世襲の息。母は紀ノ知名曾の妹。妹(余曾多本媛)婿に孝昭天皇。<尾張連の祖。><師木(磯城)ノ葉江と外戚同士。>


▽葛城ノ 建 宇那 比 (*)/katuragi no take una hi. 大伴ノ建宇那比。尾張(大伴)ノ建斗米・瀛津世襲の息。母は紀ノ知名曾の妹。


倭ノ 建 田勢 (*)/yamato no take(ru?) tase. 海部。笠津彦の息。孝昭天皇の家臣。息に建諸隅。


▽師木ノ 太真稚 「彦」 (*)/siki no futoma waka hiko. 磯城・県主・フトマワカ「ヒコ」。娘に(飯日媛・賦登麻和訶比賣)。娘婿に懿徳天皇。<真稚彦=真若王に通じるか。>


↓▽師木ノ 葉江 (*)/siki no hae. 磯城・県主・速。師木県主の娘・渟名城津媛(ヌナキツ)の婿に孝昭天皇。<尾張の奥津余曾と外戚同士。>


▽十市ノ 豊秋狭太 「彦」 (*)/toichi no toyoaki sata hiko. 倭国・(磯城・春日)。春日彦の息。息に五十坂彦。


↓▼十市ノ 五十坂 「彦」 (*)/toichi no iso saka hiko. (磯城・春日)・県主。大和の豪族。娘婿に孝安天皇。息に大目彦。<十市氏の躍進。五十のつく姓と、狭のつく名は、通婚の習慣で春日氏の元で育った皇子でしょうか。>


↑▽三輪ノ 豊 御気 主 (*)miwa no toyo mike nusi. (磯城)豊御気主。孝安天皇の家臣。息に大御気主。<ミケ⇔みか? 御甕>


▽物部ノ 出石 心 (*)/mononobe no izusi ko. 物部・大臣・出石心大使主・イズシココロノオミ。饒速日命の子孫。孝昭天皇の家臣。兄弟に出雲色男大使主、大矢口根大使主。息に欝色雄、大閇蘇杵。<色男=しこお=石心の読みだったりして。>


大伴ノ 大日 (*)/outomo no ou hi. 稚日臣の息。孝昭天皇の家臣。息に角日。孫に豊日。<火明(ひあかり)のヒがずっと子孫に継承されてそうな・・。>

(出雲王朝)


出雲ノ 櫛瓶鳥海命 (*)櫛月命の息。息に櫛田命。<鳥海⇔とみ。出雲神職に富家。>


多芸志彦の大王家の分家出現。

磯城大王 <磯城=室秋津島宮(シツ<シキ?>アキツシマ)>


「天押帯日子の失脚」
(後四代の大王) ヤマトタラシ、アマタラシ家誕生。


(クニオシヒト)「孝安天皇」 →北近畿進出。東海道進出。 和邇・息長氏の派生。国押人 (*)大倭帯 「日子」・日本足彦 国押人尊・ヤマト タラシ「ヒコ」 クニオシヒト・「孝安天皇」。孝昭天皇の息。兄に代わり即位。葛城室之秋津島宮にて政治。室に兄・天押帯日子命の娘・忍鹿比賣(押媛・オシカ)、師木県主葉江の娘の長媛、十市県主の娘・五十坂媛。息に大吉備ノ諸進命(オホキビ モロススミ)、大倭根子「日子」 賦斗邇(オオヤマト「ヒコ」 フトニ)「孝霊天皇」。▽天押帯 「日子」 (*)天足彦 国押人命・アメタラシ「ヒコ」 クニオシヒト・(息長・和邇)。孝昭天皇の息。母は尾張(葛城・春日)ノ瀛津世襲の妹。弟・国押人命・孝安天皇が即位。娘(押媛)婿に「孝安天皇」。息に稚押彦。<春日臣、大宅臣、粟田臣、(近江)小野臣、柿本臣、壱比韋(櫟井)臣、大坂臣、(近江)阿那臣、(丹波)多紀臣、(尾張)羽栗臣、(尾張)知多臣、(上総武射)牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、(伊勢)壱師君、近淡海国造(息長)の祖。>

↓▼和邇 「日子」押人 (*)(春日・息長)・稚押彦命・和邇押彦・忍彦。天押帯日子の息。大王家の強力な分家。妹(押媛)婿に「孝安天皇」。「孝安天皇」は義兄弟。息に彦姥津命。孫に彦国葺。甥に彦坐王。<系統的に押=息長に通じるようです。><母方の尾張(春日)氏の領地を割譲されるか。>

↑▽師木ノ 葉江 (*)(磯城・春日)・県主。大和の豪族。娘・渟名城津媛(ヌナキツ)の婿に孝昭天皇。娘・長媛の婿に「孝安天皇」。

▽十市ノ 豊秋狭太 「彦 」(*)倭国・(磯城・春日)。春日彦の息。息に五十坂彦。

↑▽十市ノ 五十坂 「彦」 (*)(磯城・春日)・県主。豊秋狭太彦の息。大和の豪族。娘婿に「孝安天皇」。息に大目彦。<十市氏の躍進。五十のつく姓と、狭のつく名は、通婚の習慣で春日氏の元で育った皇子でしょうか。>

↓▼十市ノ 大目 「彦」 (*)(磯城・春日)・大目・県主。師木一門。大和十市の豪族。娘(細媛)婿に「孝霊天皇」。<磯城大目彦とも。>

▽物部ノ 大 木食 (*)饒速日命の子孫。孝安天皇の家臣。<三河国造の祖。>

▽物部ノ 三見 (*)宿禰。饒速日命の子孫。孝安天皇の家臣。<漆部連の祖。>

▽物部ノ 六見 (*)宿禰。饒速日命の子孫。孝安天皇の家臣。<小治田連の祖。>

▽尾張ノ 建 田背 (*)孝安天皇の家臣。<倭ノ建田勢と名が似てます・・。>

倭ノ 建 諸隅 (*)/yamato no take(ru?) ・海部。倭ノ建田勢の息。孝安天皇の家臣。息に倭得魂。<同名の尾張ノ建諸隅が職責を継承するか。>


▽大倭ノ 邇支倍 (*)孝安天皇の家臣。


▽紀ノ 「比古」麻 (*)孝安天皇の家臣。


大伴ノ 角日 (*)大日の息。室は紀ノ智名曽の娘・乎束媛。孝安天皇の家臣。息に豊日。孫に武日。

(出雲王朝)


出雲ノ 櫛田命 (*)出雲の豪族。櫛瓶鳥海命の息。息に知理命。

天押帯日子の大王家の分家出現。葛城氏の母から、新たに和邇・息長氏の血統。
 


磯城大王 <磯城=黒田磐戸宮>


(フトニ)「孝霊天皇」 →大吉備ノ諸進の山陽道・吉備進出。


賦斗邇 (*)大倭根子 「日子」・フトニ・太瓊・「孝霊天皇」。孝安天皇の息。(磯城)黒田廬戸宮にて政治。室に十市(磯城・春日)県主ノ大目彦の娘・細比賣(クハシ)、春日之千千速真若比賣、淡路ノ和知都美命の娘・意富夜麻登玖邇阿禮比賣(倭国香媛・オホヤマトクニアレ)、その妹・蝿伊呂杼媛(?某弟媛)。息に大倭根子日子 国玖琉(オホヤマトネコヒコ クニクル)、日子刺肩別(ヒコサシカタワケ)、比古伊佐勢理毘古(ヒコイサセリビコ)。大吉備津日子(オオキビツヒコ)、日子寤間(ヒコサメマ)、若日子建 吉備津日子(ワカヒコタケ キビツヒコ)。<根子=禰宜に通じるか。大神官だったのでしょうか。>


[意富 夜麻登玖邇 阿禮 比賣](オホ ヤマトクニ アレ) 蠅伊呂泥媛・倭国香媛。淡路ノ(磯城)和知都美命の娘。大倭根子日子・「孝霊天皇」の室。娘に(大物主)神女の倭迹迹日百襲 媛(ヤマト トトヒ モモソヒメ)。息に吉備津彦。<男王の名称であまりに華美な贈り名が送られる王は、「記紀」編纂の後世に盛られたもので、その時期、実際はその代の女王、「神女」が政治を担っていて、男王はただの執政官だったかもしれませんね。>


[蝿伊呂杼 媛] 淡路ノ(磯城)和知都美命の娘。蠅伊呂泥媛・倭国香媛の妹。大倭根子日子・「孝霊天皇」の室。


▽大吉備ノ 諸進 (*)オオキビ モロススミ。孝安天皇の息。播磨に派遣され吉備を伺う。吉備に大和の祭祀を広める。孝霊天皇の叔父。<針間(播磨)氷河之前に拠点を築くか。>


↓▼五十狭芹 「彦」 (*)吉備津彦・(五百狭?)・イサセリ「ビコ」・大吉備津日子・吉備津彦・上道臣。母は淡路ノ和知都美の娘(倭国香媛)。孝霊天皇の皇子。「四道将軍」のひとり。山陽道を平定。武埴安彦討伐の別働隊。のち建沼河別とともに出雲振根を討伐する。<吉備氏の祖。「モモタロウ伝説」のモデル。><(備前)吉備上道(カムツミチ)臣の祖。><五十は紀ノ国と関連があるようです。>


↓▼吉備津 「日子」  (*)若日子建・稚武彦。母は淡路ノ和知都美の娘(?某弟媛)。孝霊天皇の息。吉備征服後に吉備の祭祀を司る。<(備中)吉備下道(シモツミチ)臣の息。(備中)笠ノ臣の祖。>

↑和邇 「日子」押人 (*)(春日・息長)・稚押彦命・和邇押彦・忍彦。天押帯日子の息。大王家の強力な分家。妹(押媛)婿に孝安天皇。息に彦姥津。孫に彦国葺。曾孫に彦坐王。<系統的に押=息長に通じるようです。><母方の尾張(春日)氏の領地を割譲されるか。>


↓▽和邇ノ 「彦」 姥津 (*)(春日・息長)。天押帯日子の子孫。大王家の強力な分家。息に伊富都久、彦国葺。

↑▽十市ノ 大目 「彦」 (*)(磯城・春日)・大目・県主。師木一門。大和十市の豪族。娘(細媛)婿に孝霊天皇。<磯城大目彦とも。>


▼「日子」寤間 (*)彦狭島命・ヒコサメ(シ)マ・「伊予皇子」。孝霊天皇の息。父の命で伊予に派遣される。<針間(播磨)牛鹿臣(うしかのおみ)の祖。>


▼「日子」刺肩 別 (*)彦狭肩別・ヒコサシカタワケ。孝霊天皇の息。<高志之(越ノ国)利波(トナミ)臣(越中砺波郡(となみ)?)、豊國之国前(クニサキ)臣(豊後国国碕郡)、五百原(イハラ)君(駿河国廬原郡(いほはら))、角鹿海(ツヌカノアマ)直(越前国敦賀郡(つるが))の祖。>


▽物部ノ 大 矢口 (*)(穂積)・大矢口根・大使主・宿禰。饒速日命の子孫。孝霊天皇の家臣。特殊な能力により朝廷の祭祀を司る。<穂積・采女臣の祖。>


↓▽穂積ノ 内色許男 (*)物部・欝色雄・内色許男・臣。饒速日命の子孫。出石心の息。弟に大閇蘇杵命。孝霊天皇・孝元天皇の家臣。妹(鬱色謎媛)婿は孝元天皇。娘・伊香色謎媛は開化天皇の妃。息に大水口宿禰。のち弟の大閇蘇杵の息・伊香我色雄が物部家継承。


↓▽穂積ノ 大 閇蘇杵 (*)物部。出石心の息。饒速日命の子孫。兄に内色許男。妹(鬱色謎媛)婿は孝元天皇。息に伊香我色雄。


▽尾張ノ 建 諸隅 (*)建田背の息。息に倭得玉。<出雲への使者として派遣される物部ノ建諸隅は、跡職を継承した人物か。>


▽倭ノ 倭得 「魂」 (*)海部・旦波。倭ノ建諸隅の息。息に意富那比。


▽倭ノ 由碁理 (*)旦波。<同時代の人ですし、旦波王の由碁理と同一人物か。>


▽大倭ノ 飯手 「宿禰」 (*)宿禰。


▽紀ノ 鬼刀 禰 (*)鬼刀彌。息に久志多麻。


▽大伴ノ 豊日 (*)角日の息。母は紀ノ智名曽の娘・乎束媛。息に武日。孫に武以。


▽三輪ノ 大 御気 主 (*)(磯城)。豊御気主の息。息に吾田片隅、健 飯賀田須。

(出雲王朝)


出雲ノ 知理命 (*)出雲の豪族。櫛田の息。息に世毛呂須。

大吉備ノ諸進の大王家の分家出現。五十狭芹(イサセ)職。
孝霊天皇と倭国香媛の娘に(大物主)神女の倭迹迹日百襲媛命(ヤマト トトヒ モモソヒメ)。

(近江)息長氏の誕生

「孝霊天皇の御代、霜速彦命の三子、気吹雄命(多多貴見彦)、坂田姫命、浅井姫命、ともに豊葦原の國に天降り、気吹雄命と坂田姫命は坂田郡東方に、浅井姫命は浅井郡北方へ」

『竹生嶋縁起』


霜速彦命 (*)三貴子の父。


気吹雄命 (*)伊夫貴・多々見彦・多多貴見彦。三貴子のひとり。


坂田姫命 (*)佐志須比売・刺須姫。三貴子のひとり。<刺国、猿田彦、関連するか?>


浅井姫命 (*)都久夫須麻姫。三貴子のひとり。

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(国津神)古代豪族・春日・大伴・葛城家
十市・磯城大王

 <磐余=軽境原宮>
(クニクル)「孝元天皇」 →物部氏の台頭。


国玖琉 (*)大倭根子 「日子」・「孝元天皇」・国牽・クニクル。孝霊天皇の息。母は十市ノ大目の娘・細媛。懿徳天皇の宮跡地・軽之堺原宮(境原)にて政治。室は物部(穂積臣)内色許男の妹・内色許賣(ウツシコメ)。息に大毘古、少名日子建猪心、若倭根子日子大毘毘。物部(穂積臣)内色許男の娘・伊迦賀色許賣(伊香色謎媛・イカガシコメ)の息・比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコト)。河内青玉(カワチノアオタマ)の娘・波邇夜須毘賣(ハニヤス)の息・建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ)。<大倭根子=大和禰宜=大日本神官という意味か。><アイヌ語(古代縄文語?)で国や王、一族のことをクルと呼ぶようです。>

↑▽和邇ノ 「彦」 姥津 (*)(春日・息長)・和邇日子・和邇彦・国 意祁都・彦姥津・(ヒコオキツ)・稚押彦・臣。和邇日子押人彦の息。天押帯日子の子孫。大王家の強力な分家。息に伊富都久、四道将軍・彦国葺、小篠。妹に彦祁都比売(意祁都比賣命・姥津媛)ヒコオキツヒメ、妹婿は開化天皇。<春日・和邇氏が丹波経営に係わるようです。>


▽和邇ノ 伊富都久 (*)(春日・息長)・伊富都久・イトツク。天押帯日子の子孫。大王家の強力な分家。息に稲都美命、乙国葺命。<丈部、丸部の祖。><重要人物なのに事跡が明瞭でないのが不思議です。崇神の代に建波邇夜須毘古の敗走兵が河内樟葉に逃げるということから、河内川派家がどうなったのか気になるところです。>

↑▽穂積ノ 内色許男 (*)物部・欝色雄・内色許男・臣。饒速日命の子孫。出石心の息。弟に大閇蘇杵命。孝霊天皇・孝元天皇の家臣。妹(鬱色謎媛)婿は孝元天皇。娘(養女?)・伊香色謎媛は開化天皇の妃。大閇蘇杵命の息・伊香我色雄が物部家の跡職継承。<穂積氏は肥後に縁。のち任那の穂積押山あり。>


▼物部ノ 大 水口 (*)宿禰。饒速日命の子孫。内色許男(欝色雄)の息。孝霊天皇・孝元天皇の家臣。崇神の代に大田田根子を三輪祭祀の神官に推薦。息に建忍山宿祢。<大矢口宿禰の跡職を継承するか。>


↑▽物部ノ 大 閇蘇杵 (*)穂積ノ大綜杵・オオヘソキ・大禰。饒速日命の子孫。出石心の息。内色許男命の弟。孝元天皇・開化天皇の家臣。大峰大尼媛の兄。息に伊香色謎雄。娘に伊香色謎媛。


▽尾張ノ 倭得玉 「彦」 (*)建諸隅命の息。息に弟彦。


▽倭ノ 意富那比 (*)海部。倭得魂の息。息に乎縫。


▽大倭ノ 御物 (*)宿禰。


▽紀ノ 久志多麻 (*)鬼刀彌命の息。息に大名草彦。


▽三輪ノ 大 御気 主 (*)(磯城)。豊御気主命の息。息に吾田片隅、健飯賀田須。


▽十市ノ 倭 (*)(磯城・春日)・県主・大和。大目彦の息。

(出雲王朝)


出雲ノ 世毛呂須ノ命 (*)出雲の豪族。知理の息。息に阿多。

『稲荷山古墳出土鉄剣 銘文』
辛亥年七月中記 乎獲居 臣上祖名 意富比? 其児多 加利足尼 其児 名 弖已加利 獲居 
其児 名 多加披次 獲居 其児 名 多沙鬼 獲居 其児名 半弖比
其児 名 加差披余 其児 名 乎獲居 臣 世々為杖刀人首奉事来至今
獲加多支鹵大王 寺在 斯鬼宮時 吾左治天下令 作此百練利刀記 吾奉事根原也


大毘古命・少名日子の大王家の分家出現。

物部氏の血統。
穂積・物部大王 <*=春日率川宮>

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(オオヒヒ)「開化天皇」

 →和邇氏台頭 山陰道(丹波・丹後・但馬)進出。


大日日 (*)若倭根子 「日子」・「開化天皇」・大毘毘・稚日本根子彦 大日日尊・ワカヤマトネコ「ヒコ」 オオヒヒ。孝元天皇の息。母は物部内色許男(穂積臣欝色雄)の妹・内色許賣(欝色謎媛・ウツシコメ)。春日之伊邪河宮(添上(ソフノカミ)郡春日郷)にて政治。室に旦波之大県主ノ由碁理(ユゴリ)の娘・竹野(タカノ)比賣。息に比古由牟須美命(ヒコユムスミ)。室に先代の后だった伊迦賀(伊香賀)色許媛(伊香色謎媛・イカガシコメ)。息に御真木入日子 印恵(ミマキイリヒコ イニエ・崇神天皇)。室に和邇臣ノ日子国意祁都(ヒコクニオキツ)の妹・意祁都比賣命(姥津媛)。息に日子坐王(ヒコイマス・彦坐王)。室に葛城之垂見宿禰(タルミノスクネ)の娘・鷲比賣。息に建豊波豆羅和気(タケトヨハヅラワケ)。<若倭根子=ワカワニネコと読めなくもないか。>

▽↓大 「毘古」 (*)(物部・阿倍)・大「彦」・(大彦王)。孝元天皇の息。物部(穂積臣)内色許男の妹・内色許賣(ウツシコメ)の息。「武 埴安彦の反乱」を鎮圧。のち「四道将軍」のひとり。息に建 沼河別、彦稲腰別。<阿倍臣の祖。膳臣、阿閉臣、狭狭城山君(ササキヤマ)、筑紫国造・越国造、伊賀臣。><娘の御間城媛の婿に崇神天皇。孫に垂仁天皇。>

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大和系、四道将軍の平定戦


▽少名 「日子」 (*)(物部)・建 猪心。孝元天皇の息。物部(穂積臣)内色許男の妹・内色許賣(ウツシコメ)の息。<建がつくということは、将軍として何か軍功が。>

▽和邇ノ 小篠 (*)和邇ノ彦国姥津の息。兄に彦国葺。天押帯日子の子孫。

▽和邇ノ 稲都 美 (*)和邇ノ彦国姥津の息。兄に彦国葺。天押帯日子の子孫。<丈部の祖。>

▽和邇ノ 乙国葺 (*)和邇ノ彦国姥津の息。兄に彦国葺。天押帯日子の子孫。

▽葛城ノ 垂水 (*)宿禰。<ハツラワケを補佐して丹波経営に係わったのでしょう。>

▽旦波ノ 由碁理 (*)(海部・倭)・丹波志畿・大県主・ユゴリ。丹波竹野郡の豪族。娘(竹野媛)婿は開化天皇。<旦波国はのちに丹波と但馬に分裂する。>

▼物部ノ 伊香色謎雄 (*)穂積・伊香我色雄命・伊香色雄・イカガシコオ。饒速日命の子孫。大閇蘇杵命の息。開化天皇・崇神天皇の家臣。妹の伊香色謎媛(伊香我色許媛)は孝元、開化天皇の妃。甥に崇神。崇神の代に大田田根子は伊香色雄を神班物者に推薦する。息に十市根。<大水口宿禰は欝色雄の息。>

▽穂積ノ 忍山 (*)物部・忍山彦根・建忍山・宿禰。饒速日命の子孫。大水口宿禰の息。息に大木別垂根命。娘(弟橘媛)婿に倭建ノ命、孫に稚建彦王。

▽尾張ノ 弟 「彦」 (*)倭得玉命の息。息に淡夜別。

▽倭ノ 乎縫 (*)海部。息に小登与。

▽三輪ノ 阿田賀田須 (*)(磯城)・吾田片隅。大御気主の息。弟に健飯賀田須。息に胸形徳善。

▽三輪ノ 健 飯賀田須 (*)(磯城)。大御気主の息。兄に吾田片隅。息に大田田根子。

▽紀ノ 大 名草 「彦」 (*)久志多麻の息。息に宇遅彦。

<開化期の国造>


三野前ノ 八瓜 (*)彦坐王の息。開化の代に美濃国の三野前(本巣)国造。

▽↓武 渟川 「別」 (*)(物部・阿倍)・建 沼河別・タケ ヌナカワ「ワケ」。大彦王の息。「武埴安彦命の反乱」を鎮圧。のち「四道将軍」のひとり。<阿倍氏の祖。>

▽↓彦 稲腰 「別」 (*)(物部)・比古伊那許士別・ヒコイナコジ「ワケ」。大彦王の息。「武埴安彦命の反乱」を鎮圧。

[御間城姫] (*)(物部)・御真津比売。大彦王の娘。兄弟に建沼河別、彦稲腰別。崇神天皇の后。息に垂仁天皇。

「武埴安彦命の反乱・出雲ノ振根の反乱」

 VS 大毘古命(大彦)


▽建 波邇夜須 「毘古」 (*)建 波邇安 王・武 埴安彦・タケ ハニヤス「ビコ」。「孝元天皇」の息。河内青玉(カワチノアオタマ)の娘・波邇夜須毘賣(ハニヤス)の息。崇神天皇に反乱。山城より進軍。室・吾田媛は難波から進軍。吾田媛とともに謀反の罪で叔父・大彦に討たれる。
<波=灘波=摂津・河内という感じでしょうか。それとも旦波?><建波邇安王=「武和邇安彦王」と読めなくもないです。><もしくは川派(杭全)埴安王とでも呼べる名でしょうか。><物部氏の台頭により河内で圧迫されたのでしょうか。もしくは摂津・山城に所領が及ぶ、大王と勢力を分ける大領主だったかもしれませんね。><波邇と和邇、安と野洲、の類似音も気になります。>

(出雲王朝)

▽出雲ノ 根 (*)阿多「命」。天穂日命の子孫。崇神天皇の将・武諸隅に神宝を奪われる。崇神天皇に反乱。離反した弟の飯入根を討伐。一門の甘美韓日狭も離反。吉備津彦、武沼河別により討伐される。跡職は弟・飯入根の息(養子?)・鵜濡渟(ウカツクヌ)。<子孫に土師、武蔵氏。><出雲系の王は「振」という飾り名を持つのでしょうか。>


▼出雲ノ 飯入 彦 (*)兄の阿多(振根)により殺害される。弟に甘美韓日狭。日狭の息に鵜濡渟。

崇神の代に 武埴安彦王は摂津(一部河内)・山城軍を率い反乱する。
のちに大彦王系が圧迫。

(天津)古代豪族軍 その1
<開化の皇子の分封>

丹波経営=葛城系の波豆羅和気、丹波系の彦湯産隅を、のちに彦坐王系が圧迫。
大毘古(大彦)王、その息・建沼河別命は、北陸・東海方面に派遣され所領から切り離される?。
建沼河別命の弟・彦稲腰別、和邇押彦の孫・彦国葺命、崇神の弟・彦太忍信命も有力者。


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裏八代・比売命=ヒメノミコト=himiko?
「姫巫女(ひめみこ)」の系譜  神女の祖=磯城黒速「三輪鴨王」は事代主の孫にして大物主の跡職。
 比売=媛=比賣=毘賣=ひめ=hime 漢字は違いますが女性に対しての同じ意味の敬称です。

Ⅰ:事代主の娘・媛蹈鞴五十鈴 媛「命」。=大物主の娘(養女?)・富登多多良伊須須岐 比売。<磯城黒速の娘か。記紀の「事代主」の認識の誤りで混乱か。武内宿禰も同じく、何世代分も生きた長寿なんじゃなくて、その系譜が続いて子孫が代々継承している名なのではないでしょうか。>


Ⅱ:事代主の娘・五十鈴依 媛。<春日(磯城)大日諸の娘・糸織媛か。イトヨリ=五十依り>=磯城波延の妹・河俣 毘賣。<磯城黒速の娘か。記紀の「事代主」の認識の誤りで混乱か。>


Ⅲ:事代主の孫娘(鴨王の娘)・渟名底仲 媛。<2代目「鴨王」で磯城波延か。記紀の「事代主」の認識の誤りで混乱か。>=磯城波延の娘・阿久斗 比賣。<磯城大間宿根の娘・糸井媛とも。>


Ⅳ:息石耳命の娘・天豊津 媛。*師木県主(葉江?)の娘・賦登麻和訶 比賣(フトマワカヒメ)、別名・飯日 媛。<父は磯城葉江か。弟・猪手の娘・泉媛。もしくは磯城太真稚彦の娘・飯日媛。とも>


Ⅴ:尾張連(大伴・葛城)ノ瀛津世襲の娘・余曾多本 毘賣(世襲足媛・ヨソタホビメ)。*師木県主葉江の娘・渟名城津 媛。<まさに磯城葉江か。><倭国豊秋狭太媛の娘・大井媛とも>


Ⅵ:天押帯日子「命」(天足彦押人)の娘・忍鹿 比賣(押媛・オシカ)。*師木県主葉江の娘の長 媛。<磯城葉江か。><十市県主五十坂彦の娘・五十坂媛とも。>


Ⅶ:意富 夜麻登玖邇 阿禮 比賣。<(磯城)和知都美命の娘・蝿伊呂泥 媛。>*十市(磯城・春日)県主ノ大目彦の娘・細 比賣(クハシ)。<磯城大目か。><春日(磯城)千乳早山香媛とも。><十市県主等祖の娘・真舌媛とも。>


Ⅷ:物部(穂積臣)内色許男の妹・内色許 賣(ウツシコメ)。物部(穂積臣)内色許男の娘(養女か?)・伊香色謎 媛。<ニギハヤヒ・物部氏の系統へ。(物部)大綜麻杵の娘・伊迦賀色許とも。>


Ⅸ:伊香色謎 媛(イカガシコメ) = イカガシ ヒメノミコト → 代々につく、ヒメノミコトという「女王」の敬称 = ヒめのミコと = ヒミコ?(笑。

<武内宿禰の子孫、蘇我氏の台頭で『上宮記』が物部氏をこきおろしていたら、物部氏の先祖の名称も、敬称が外されたり、差別的な当て字がされていたりするものでしょうか・・。><本当は伊香賀磯城姫(イカガシキヒメ)とかで、「神女」の身分の方なのでは。>
<韓流ドラマの「朱蒙」をみておもったのですが、日本でも王=后と、神女の並立する状態もあったかもしれませんね。>
<稲作と天候=太陽=予言・シャーマンの役割が台頭して、太陽=「鏡」と結びついて、信仰も縄文的な北極星信仰(旅人流人の行き先の方角を示す神)から、太陽信仰(気候を司る神)へと変化を遂げたかもしれませんね。>


≪個人的感想≫ 畿内からパタリと銅鐸が途絶えてしまうのは、銅鐸を奉る王朝が断絶したからじゃないでしょうか。
欠史八代と呼ばれる畿内王朝成立の過程がまさに銅鐸文化まっさかりの時期なのではないでしょうか。
河内潟、奈良湖、琵琶湖、巨椋湖、畿内は稲作農耕民に魅力的な土地だったのでは?。
銅鐸を持ってきた人達、つづいて銅鏡をもってきた人達、何度かの東征が繰り返され、畿内の王権が固まったんじゃないでしょうか。
アマテラスの子孫が何度も天孫降臨するのは、九州王家が何度も畿内に流れてくることを示唆していて、
母系としては磯城家が重鎮として、ずっと長い間、九州の王の血を迎え入れる役目を果たしていたとか・・。

(時代は違いますが、鎌倉と陸奥と甲斐の3ヶ所で、南部家は当主がいったりきたりしてますし、
宇都宮家も、下野と伊予と豊前でどこかの系統が断絶すれば、別の国から養子がきて家督相続しつづけていますし、
京極佐々木家も、出雲と近江と飛騨でそういうことをしているわけですから、土地の縛りがない感覚というか、
いまのような  現代人の九州だの近畿だのという政権の固定付けがそもそも、古代人の器の大きさに負けている話なのかもしれません。)

 系図上は続いているので、欠史八代が何故タブーとされるのか、不思議でなりませんが・・。
(日本の最初の姿が母系社会で、男王の相続ではなく、女性の王が続いてて、それを否定するための「欠史八代」かもしれないですし、
古事記・日本書紀編纂の当時は「女性が王」であったということを、外国に恥ずかしいとおもって史書にしるせなかったのでしょうか。
編纂者・舎人親王達、皇族男子や若手貴族が、当時望んでいた事が 古代政治からの脱却、
「政教分離」と、「女帝の廃止」だったりしたら・・、
後世の人間はその思惑にまんまと乗せられ、「鬼道、巫女」国家でなく、男王一系の
 価値観を植え付けられて、現在の日本国があるのかもしれません。)

 何故、現在の歴史では、崇神天皇より以前はなかったことにされるんでしょう??
 発掘調査で「欠史八代」の宮跡を見つけることは、本当に不可能なのでしょうか。
その時期の弥生遺跡が畿内でみつかっても、どうして欠史八代とはまったく関連付けず スルーなんでしょう・・。
邪馬台国なんて列島の歴史の通過点のひとつでしかないじゃないですか、
なんで 卑弥呼からしか歴史は始まらんのかなあ・・。 と いつも思います。

 銅鐸文化終了後、巴形銅器が盛行するようですが、写真で見る限りは数々のバリエーションがあるみたいです。
素朴な疑問ですが、一括して巴形と呼んでいいのでしょうか。
それに、安直に貝を模したものと決めていいのでしょうか。 貝が神聖なものなら現物の貝を盾にくくりつければ良い話で、
わざわざ金属製品にするからには、もっと崇高なものを指しているんじゃないでしょうか。
先学に縛られて、是も考えることを放棄しているのではないですか。
 先学を尊重することは重要かもしれませんが、今の考古学者が勇気を振り絞って殻を破らないと・・。
「欠史八代」は無い。
という通説の前に、それより先の事を 考えることを放棄したらダメです!
「古事記」や「日本書紀」に発掘の成果を結び付けて主張しないと、新しい扉は開けないわけで、
邪馬台国よりも、卑弥呼よりも、それ以前の「欠史八代」の時期の遺構を 意識して みつけださないと、
 それ以前の時代の遺跡は、歴史は、このままでは、なくなってしまう危険性 を もってるんじゃないのでしょうか。
教科書でも架空の話だろうと、最初から否定する書き方をするのが一般的なのは いかがなものかと思います。
中国では夏王朝やら周王朝やら、伝説の時代まで頑張って証明しようとしているのですから、伝承を大切にする姿勢を見習わないと。
 民俗学・史学・考古学がもっと協力して、古代列島の姿を明らかとしてほしいです。

引用参考文献
『古事記』 712年成立。元明天皇に命じられ稗田ノ阿礼の記憶を美濃国多氏の太安麻呂(*~723)が記す。
『日本書紀』 720年成立。舎人親王が編纂。


<蘇我系の歴史書、『上宮記』が最古の文書とも。そのほかにも各地の神社に伝わる「秀真(ホツマ)文字」という古代語で示された古文書もあるそうです。>



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