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12世紀 桓武平氏の系譜 その2 平ノ忠盛・清盛の家臣団と軍団

第⑧世代  平ノ忠盛の兄弟、従兄弟。(伊勢平氏の台頭)


平ノ忠正 (*~1156)右馬助・忠貞・忠員。父は⑦正盛、忠盛の弟(庶兄とも)。清盛の叔父。藤原摂関家の家人。「保元の乱」で源ノ為義とともに崇徳上皇方につき、清盛に敵対する。藤原頼長による為朝夜襲案の却下により敗戦。乱後三条河原で討たれた。息に長盛、忠綱、正綱、通正。
▽平ノ盛長 (*)右兵衛尉・左兵衛尉。父(養父?)は⑦正盛、忠盛の弟。清盛の叔父。1108年正盛に従い「義親討伐」に従軍。<桓武平氏貞盛流。盛国の長男。正盛の養子となるか。弟に平ノ盛俊。>
↓▽平ノ盛康 (*)左兵衛尉・右衛門尉。父(養父?)は⑦正盛。忠盛の義弟。清盛の叔父。1108年正盛に従い「義親討伐」に従軍。<盛国の実子のようです。正盛の養子となるか。><家督は弟・盛俊><子孫は鹿ケ谷事件で失脚する平家一門かもしれませんね。>
平ノ貞正 (*)父は⑦正盛、忠盛の弟。
平ノ時盛 (*)父は⑦正盛、忠盛の弟。
平ノ範延 (*)父は⑦正盛、忠盛の弟。
⑧世代 平ノ正度 (伊勢平氏)系統
(貞衡流) 忠盛の世代
平ノ遠衡 (*)平ノ貞盛流。貞国の息。息に。従兄弟に家衡、(鷲尾)清綱。
平ノ家衡 (*)平ノ貞盛流。貞清の息。弟に(鷲尾)清綱。従兄弟に遠衡。
平ノ清綱 (*)(鷲尾)。平ノ貞盛流。貞清の息。兄に家衡。従兄弟に遠衡。息に鷲尾惟綱(維綱)。
(貞光流) 忠盛の世代
⇔平ノ家貞 (1084~1167)筑後左衛門・左衛門尉。伊賀平氏。平ノ季房(家房)の息。兄弟に季宗、家季。忠盛からの老臣。平氏一族だが臣下に下る。忠盛の執事として、諸政を取り仕切る。1155年筑後守、大宰府平家代官。清盛36歳の時に忠盛が死去し、以後清盛の補佐に務める。1156年「保元の乱」に活躍。1159年「平治の乱」に源ノ義平と六波羅にて合戦。同年、九州に遠征し肥前の日向通良を討伐。息に家実、家継、貞能。孫に通貞。<九州大宰府の監察官。1154~1155年頃鎮西為朝の追討使か。>
⇔平ノ季宗 (*)家房の息。家貞の弟。息に宗清。<宗清は清盛の弟・頼盛の家人。>
⇔平ノ家季 (*)家房の息。家貞の弟。息に家資。
(季衡流) 忠盛の世代
↑平ノ盛康 (*)左兵衛尉・右衛門尉。盛国の息。父(養父?)は⑦正盛。忠盛の義弟。清盛の叔父。1108年正盛に従い「義親討伐」に従軍。<盛国の実子のようです。正盛の養子となるか。><家督は弟・盛俊><子孫は鹿ケ谷事件で失脚する平家一門かもしれませんね。>
平ノ盛行 (*)伊勢盛行・左兵衛尉。盛光の息。息に頼宗。孫に頼俊、能季。
⇔平ノ貞光 (*)伊勢貞光・木工助・右馬允。伊勢平氏。平ノ(伊勢)盛光の息。貞季に養育される。平ノ盛俊の従兄弟。息に季房。孫に家貞。
平ノ盛良 (*)季継の息。
平ノ盛重 (*)季継の息。
(惟盛流) 忠盛の世代
平ノ盛房 (*)(山科)。貞度の息。息に業房。孫に業兼、山科教成。
平ノ盛時 (*)盛忠の息。
平ノ惟忠 (*)盛忠の息。
平ノ盛時 (*)盛基の息。息に正時、孫に基時。
平ノ貞時 (*)盛基の息。
平ノ貞基 (*)盛基の息。息に維基。
平ノ盛国 (*)盛基の息。<どちらの盛国でしょう。>
⑧世代 平ノ正度 (伊勢平氏) 伊勢土着系統
(貞季流) 忠盛の世代
平ノ盛兼 (*)関。平ノ兼季の息。息に関ノ信兼。
平ノ貞房 (*)(関)。平ノ兼季の息。
平ノ国季 (*)(関)。平ノ兼季の息。息に国兼、孫に国盛。
平ノ範季 (*)平ノ正季の息。息に季房。孫に家貞、季宗、重房。家貞の息に貞能、家次、家実、家長。季宗の息に宗清。
平ノ惟範 (*)平ノ正季の息。
平ノ家季 (*)平ノ範季の息。息に家村、家資、家清、家能。家資の息に利家。家清の息に基度。<富田(平ノ)基度は伊勢で鎌倉幕府に反乱。>
平ノ範綱 (*)平ノ範季の息。
平ノ秀盛 (*)平ノ範季の息。
平ノ範仲 (*)平ノ範季の息。


第⑨世代 平ノ清盛の従兄弟。


平ノ長盛 (*~1156)新院蔵人。平ノ忠正の嫡男。崇徳院の蔵人。「北面の武士」。「保元の乱」で平ノ家弘、多田頼憲とともに上皇方につき、清盛に敵対する。藤原頼長による為朝夜襲案の却下により敗戦。乱後三条河原で討たれた。娘婿に宇都宮業綱。
平ノ忠綱 (*~1156)平ノ忠正の息。「保元の乱」で上皇方につき、清盛に敵対する。乱後三条河原で討たれた。
平ノ政綱 (*~1156)平ノ忠正の息(三男)。「保元の乱」で上皇方につき、清盛に敵対する。乱後三条河原で討たれた。
平ノ通正 (*~1156)平ノ忠正の息。「保元の乱」で上皇方につき、清盛に敵対する。乱後三条河原で討たれた。
平ノ家弘 (*~1156)右衛門大夫。検非違使。平ノ正済流。信濃の豪族。平ノ正弘の息。崇徳上皇に出仕。1150年興福寺の強訴から御所を防衛。1152年源ノ満義を捕縛。1156年「保元の乱」に捕縛され源ノ義康に討たれる。息に光弘。
平ノ維繁 (*~1156)左衛門尉。検非違使。平ノ正済流。平ノ正弘の息。1152年源ノ満義を捕縛。1156年「保元の乱」に捕縛され源ノ義康に討たれる。

⇔平ノ康頼 (*)中原・左衛門尉・検非違使・入道聖照。中原頼季の息。後白河法皇「北面の武士」。清盛の甥・保盛の元家司。源ノ義朝を供養したことで、後白河上皇の側近に抜擢される。のち「鹿ケ谷事件」の首謀者。喜界島に配流される。


⑤坂東の平家一門(連枝)  1000年代~

 
平ノ貞盛流・常陸(海道)平氏はライバル。<1051年陸奥守・藤原登任VS阿倍頼良>
<千葉・上総> 平ノ良文・忠常流(房総平氏)。
↑△平ノ常将 (1010~1076)千葉介・恒将・常昌・経将。平ノ良文・忠常流(房総平氏)。平ノ忠常の息。母は平ノ公雅の娘。1028年「平ノ忠常の乱」に父とともに捕縛される。のち赦免され下総に帰還。息に常長(常永)、常直。<平ノ忠頼の息に将常(将恒)あり。母は将門の娘。事跡が錯綜しているかもしれません。中村氏の祖となるようです。>
▽平ノ常親 (*)平ノ良文・忠常流(房総平氏)。平ノ忠常の息。常将の弟。
平ノ常長 (1024~1108)千葉・上総権介・下総権介・武蔵押領使・経長・恒長・千葉常永。平ノ良文・忠常流(房総平氏)。平ノ常将の息。中原師直の娘婿。下総の豪族。源ノ頼義に従い1051~1062年「前九年の役」に従軍。1087年「後三年の役」に従軍する。上総・千葉氏の祖。大椎に居す。息に上総常時、千葉常兼(経兼)。<常陸の多気氏(多気直幹が千葉一門の娘婿)と婚姻関係が結ばれています。>
▽佐賀常家 (*)平ノ・坂・太郎・上総権介。平ノ良文・忠常流(房総平氏)。千葉常長の息(嫡男)。下総国香取郡坂郷を領す。弟の常晴を養子とする。<(注意)秩父平氏の豊島常家と同名です。>
▽千葉常兼 (1045~1126)平ノ・下総権介・千葉大介・恒兼・経兼。平ノ良文・忠常流(房総平氏)。千葉常長の息。室は清原忠衡の娘か。兄弟に上総常晴、佐賀常家。息に千葉常重。常重の息に常胤。<千葉家始祖。><(注意)横山党の惣領・経兼と同名です。>
▽上総常晴 (*~*1130)平ノ・相馬五郎・上総権介・常時・常明。平ノ良文・忠常流(房総平氏)。千葉常長の息。兄に常兼。息に長実、佐賀常澄。養子に千葉常重を迎える。1130年家督を常重に譲る。常澄の息に上総広常。

<武蔵> 平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。
秩父武基 (*)平ノ武基・秩父。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。武蔵権大掾・平ノ将常(将恒)の息。岳父は武蔵武芝。1023年武蔵介・藤原真枝の乱を鎮圧した軍功により、秩父牧別当職。吉田に居す。源ノ頼義に従い1051~1062年「前九年の役」に従軍。
秩父武綱 (*)平ノ武綱・十郎。武蔵の豪族。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。秩父武基の息。武基の弟は豊島武常。1087年「後三年の役」に従軍し、義家から源氏の「白旗」を拝領し常に先陣を務めるという。子息に重綱。<後年、源ノ義経が河越重房を、源ノ頼朝が畠山重忠を先陣の将として重用するのはこの故事に拠るものだろう。><子孫の秩父重隆は源ノ為義の息・義賢と婚姻関係を結ぶ。>
秩父重綱 (*)秩父権守・平ノ重綱・武蔵国総検校職・茲縄。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。児玉経行の娘婿。弟に川崎(渋谷)基家。息に(畠山の祖)重弘、(河越の祖)重隆。
秩父重隆 (*~1155)平ノ重隆・次郎大夫・武蔵国総検校職。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。秩父重綱の息(次男)。兄・秩父重弘の息・畠山重能と惣領職を争う。息に葛貫能隆、山田隆綱、師岡重仲。娘婿に源ノ(木曽)義賢。跡職は孫・河越重頼が相続。<先祖は源ノ義家に従い奥州に出陣。>

<武蔵> 平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。<1051年陸奥守・藤原登任VS阿倍頼良>
豊島武常 (*~*1057)平ノ武常・秩父・次郎。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。武蔵の豪族。秩父六郎・将常(将恒)の次男。秩父武基の弟。源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。乱戦に討死。豊島・葛西氏の祖。息に近義,、常家。<源ノ頼朝の奥州征伐に葛西氏が奥州探題として抜擢されるところが面白いです。繰り返される歴史。>
小山田常任 (*~*1057)平ノ常任・秩父・大夫・常時。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。武蔵の豪族。秩父武基の弟。源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。乱戦に討死。<武田家臣・相模甲州国境の小山田につながるか。>
▽豊島近義 (*)平ノ近義・秩父近義・太郎・(親良)。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。武蔵の豪族。豊島武常の息。父とともに源ノ義家に従い1087年「後三年の役」に従軍する。兄弟に常家。息に近忠。<源ノ頼俊や豊島常家との関係不明。><豊島の嫡流の争い勃発か。摂津豊島とのつながりも気になるところです。>
⇔▽平ノ常家 (*)豊島常家・秩父経家・秩父傔仗・恒家。平ノ良文・将常流(武蔵平氏)。武蔵の豪族。豊島武常の息。1057年源ノ頼義護衛七騎のひとり。父とともに源ノ義家に従い1087年「後三年の役」に従軍する。のち源ノ頼俊の家人。1070年源ノ頼俊に従い蝦夷征伐に従軍。兄弟に近義。息に豊島康家。<源ノ義家のライバルで摂津源氏嫡流の源ノ頼俊に協力して「奥州征伐」に従軍。頼俊の子孫は摂津豊島荘の領主となり豊島権守を名乗るので、摂津豊島と武蔵豊島に何か係わりを持つ武将かもしれませんね。>
 平ノ将常の子孫、武蔵国総検校使・河越重頼の肖像のつもり。


<相模> 平ノ良文・忠常流。<のち土肥・土屋氏の所属する中村党、鎌倉党とは宿敵の間柄となる。>
↓山辺頼尊 (*)平ノ頼尊・(中村)・山辺禅師・(頼高?)。平ノ忠頼の息。兄弟に忠常、将常(将恒)。1023年武蔵介・藤原真枝の乱を鎮圧した軍功により、武蔵国秩父郡中村郷を領し中村氏。息に常遠、経貞(常貞)。
▽平ノ常遠 (*)山辺・(中村)・武蔵押領使・経遠・恒遠。山辺禅師・頼尊の息。兄弟に経貞。息に笠間押領使・中村常宗。<平ノ忠常の息という説もあり。><武蔵の所領を相続するか。><子孫は相模中村党、土肥実平へ繋がる。>
▽平ノ経貞 (*)山辺・(中村)・常貞。上総衆。山辺禅師・頼尊の息。坂東の郎党、源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。1062年五軍(頼義馬廻を固めた第五陣)の将。清原家の加勢を得た後半期の逆襲に従軍。<息に頼貞?><のちの中村・土肥氏と一門。一門に武蔵押領使・常遠 <頼尊の息>。武蔵押領使・頼貞(土屋郷)。笠間押領使・常宗<常遠の息>あり。系図の混乱で血縁関係は不明。>
▼中村常宗 (*)笠間押領使。平ノ常遠の息。山辺禅師・頼尊の孫。鎌倉(平ノ)権五郎景政と抗争し討たれる。息に中村宗平。<1073年に権大夫・為季と争い討たれた押領使・景平と同一人物か。>
▼▼中村宗平 (*)(山辺・笠間)・中村荘司(庄司)・宗衡。笠間押領使・中村常宗(経宗)の息。相模国余綾郡中村荘の豪族。息に土肥実平、中村重平、土屋宗遠、二宮友平、堺ノ頼平。<宗平以前の系図混乱。>


<相模> 平ノ良文流。<のち三浦・鎌倉氏の所属する鎌倉党。大庭御厨を巡り鎌倉党分裂。中村党とは宿敵の間柄となる。>
↑碓井貞光 (954~1021)平ノ・村岡・五郎・貞通・(貞道)。関東武者、平ノ良文の息。大野茂吉(茂義)の娘婿。「頼光四天王」のひとり。『今昔物語』第25巻第10。子孫は相模国に土着。兄弟に忠光?。<忠光は養子か?。息に三浦為通とも(これも養子か)。武家の習慣の末子相続と、養子継承で系図混乱か。>
↑平ノ忠光 (*)(三浦)・碓井・村岡・小五郎・相模介。関東武者、平ノ良文の息。一門の平ノ忠頼(忠常の父)とともに常陸の平ノ繁盛と抗争。兄弟に貞光?。<忠通は養子か?>
平ノ忠通 (*)碓井・村岡・小五郎・次郎大夫・相模大掾。平ノ良文流。碓井貞光の息(平ノ忠光の息とも)。平ノ(三浦)公義の娘婿。息に村岡忠輔、三浦為通、鎌倉章名。<1031年「平忠常の乱」に、はじめは源ノ頼信に対して非協力的だったがのち参戦する。>
▽村岡忠輔 (*)平ノ・碓井。義兄弟に秩父将恒。<事績が明らかではありません。>

<1051年陸奥守・藤原登任VS安倍頼良>
▽三浦為通 (1010~1083)平ノ為通・碓井・平大夫・長門守・為名。平ノ(村岡)忠通の息。弟に鎌倉章名、平ノ恵算。叔父・平ノ忠光に養育される。相模国御浦郡の豪族。源ノ頼義に相模三浦郷を与えられる。源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。息に三浦為次(為継)、為直。<三浦公義と同一人物か。>
▼三浦為継 (*)平ノ為継・為次。為通の息。源ノ義家の郎党。1083~1087年「後三年の役」に従軍し軍功。息に義継。
▼▼三浦義継 (*)平ノ義継・義次。為継の息。源ノ義朝の郎党。1144年義朝に従い「大庭御厨」乱入に従軍。息に義明。

▽鎌倉章名 (*)平ノ章名・碓井・(丸子)・甲斐権守・景名。村岡忠通の息。兄に三浦為通。相模大領・丸子公景の娘婿。源ノ頼義に出仕。源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。息に平ノ良名、鎌倉景村、鎌倉景通、鎌倉景成。<のち鎌倉権大夫景政が笠間(山辺)常宗を討つ。>
▼鎌倉景通 (*)平ノ景通・権大夫・四郎。章名の息。母は丸子公景の娘。三浦為通の娘婿。源ノ頼義に出仕。源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。息に景久。
▼鎌倉景成 (*)平ノ景成・五郎・鎌倉権守。鎌倉章名の息。息に景政(景正)、景秀、景経(景政の養子か)。<三浦致成の息とも。>
⇔▽鎌倉景政 (*)平ノ景政・権五郎・景正。鎌倉景成の息。源ノ義家の郎党。1083~1087年「後三年の役」に従軍。右目を負傷する。1116年「大庭御厨」を伊勢神宮に寄進。息に景継、景門、景経(養子か)。孫に長江義景。<大庭景義(景能)、景親、梶原景時は景政の一門の子孫であることは間違いない。>
<鎌倉景継(大庭)→景宗/断絶。1144年源ノ義朝が中村党を率いて大庭御厨に乱入。鎌倉景経→大庭景忠→大庭景義(景宗の跡を相続)。義朝の言うことを聞く分家の景義が相続したということでしょう。>
▼鎌倉景経 (*)平ノ景経・(大庭・梶原)。鎌倉景政(景正)の息。息に大庭景忠、梶原景長。

 
⑥清盛 覇権後の平家 北九州・山陰地方で反乱を起こした源ノ義親を討伐したことにより、西国に勢力をもつ。

 
<清盛の弟達>平家一門で公卿となった者16人。殿上人となったものが30余人。諸国の受領、衛府、諸司を加えれば合計で60余人を数える。」(中略)「日本秋津島はわずかに66ヵ国だが、平家の知行国は30余ヵ国に達し、既に「半国をこえている。」『平家物語』


平ノ清盛 (1118~1181)播磨守・正三位参議・内大臣・太政大臣・入道相国。忠盛の嫡男(白河法皇の落胤カ)。高階基章の娘婿。平ノ時信の娘(二位ノ尼)婿。一門の公卿10余人、殿上人30余人で知行国は日本の半分を占めると言われた平氏の全盛期を創り上げる。大輪田の泊りを開発し日宋貿易を行う。後白河法皇との対立が深まり、法王を幽閉する。以仁王の挙兵により反平家の気運が全国に波及する。「頼朝の首を我が墓前にかけよ」と言い残し熱病により死去。

<清盛公 御兄弟衆>


平ノ家盛 (*1120~1149)忠盛の次男。池禅尼(藤原宗子)の息。清盛の異母弟。乳父に平ノ維綱。清盛の存在を脅かすが、1149年に鳥羽法王の熊野御幸の帰途、病没するという。娘は平ノ重盛の養女となり、九州の太宰少弐・原田種直の室となる。
平ノ経盛 (1125~1185)安芸守・常陸介・伊賀守・若狭守・左馬権頭・讃岐守・備中守・修理大夫・大夫・宰相。忠盛の三男。1156年「保元の乱」に清盛軍に参陣。1159年「平治の乱」に清盛軍に参陣。壇ノ浦の敗戦で弟・教盛とともに入水自害。武よりも文(歌)に長じる。のち平家一門の長老となる。経正・経俊・敦盛の実父。
平ノ教盛 (1128~1185)淡路守・越中守・常陸介・大和守・能登守・丹波権守・門脇殿・中納言・門脇宰相。忠盛の四男。通盛・教経・業盛の実父。1156年「保元の乱」に清盛軍に参陣。1159年「平治の乱」に清盛軍に参陣。「鹿ケ谷事件」に娘婿・藤原成経が連座する。「一ノ谷」に息子二人を失う。平氏の盛衰を見届け、壇ノ浦で入水自害。
平ノ頼盛 (1131*1132~*1186)常陸介。忠盛の五男(兄・家盛と同母<池禅尼>)。1156年「保元の乱」に清盛軍に参陣。1159年「平治の乱」に清盛軍に参陣。1166太宰大弐任官。公卿に列する。1170年「法華経」を清盛とともに書写し厳島に奉納。後白河法皇に寵愛され、兄・清盛とは不仲。1183年都落ちに従わず鎌倉に下向。55歳。
平ノ忠度 (1144~1184)正四位下・伯耆守・薩摩守。忠盛の六男、清盛の異腹の弟。武勇に優れ、和歌を嗜む。武将としても歌人としても高名。1180年以仁王・源ノ頼政を破る。東大寺・興福寺制圧。1183年北陸木曾義仲討伐軍。北陸遠征の副将、倶利伽羅峠に敗戦。1184年「一ノ谷の合戦」に岡部忠澄により討死。1183年都落ちに際し、藤原俊成に和歌を託す。忠行の実父。<「さざなみや士賀の都はあれにしを むかしながらの山桜かな」『千載和歌集』。世阿弥の能に『忠度』として名を残す。「行き暮れて木の下陰を宿とせば花やこよひのあるじならまし。」>

<平ノ清盛の御由緒衆> 平ノ清盛の年表と家臣団 *同盟者。部下ではない。


⇔千田親正 (*)藤原親政・上総。平ノ清盛の姉婿。上総国の住人。藤原親通の孫。下総国千田荘の領主。<下総国千田荘を領し、千田と称したか。のちに鎌倉時代・足利家の上総所領を監督する上総守護代・伊勢家は平氏姓を名乗っているので関係があるかもしれません。>
⇔藤原尹明 (*)平ノ尹明・兵部権少輔・出羽守。藤原知通の息。母が平ノ忠盛の娘。平家の家人。「平治の乱」に義兄弟・藤原惟方の源氏離反を即す、二条天皇脱出に尽力。清盛の信頼を得る。「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。1185年出雲に流罪。
⇔*藤原家成 (1107~1154)中納言・中御門。藤原家保の息。平ノ忠盛の正室・藤原宗子(池ノ禅尼)の従兄弟。鳥羽上皇の寵臣。藤原忠実の息・頼長と対立。義弟に源ノ雅通。息に隆季、家明、成親。娘婿に平ノ重盛、藤原公親。若狭、加賀、讃岐、播磨の受領。
⇔源ノ経国 (*)河内経国・源太・「河内御曹司」。祖母は平ノ正盛の息女。源ノ義忠の息。平ノ忠盛に養育される。のち叔父・源ノ義国に従い関東に下向。のち源ノ義朝を補佐。息(養子とも)に稲沢盛経。<清和源氏の嫡流。頼朝よりも正統・・。>
⇔▽源ノ義高 (*)河内義高・左兵衛権佐・河内守。祖母は平ノ正盛の息女。源ノ義忠の息。平ノ忠盛に養育される。息に義成。孫に伊予権介・義俊。河内国石川荘は叔父・源ノ義時がを相続。

<清盛の後由緒家> 息子を清盛の養子に。


藤原邦綱 (*)「五条大納言」。息に平ノ清邦。
中原師元 (*)大外記。息に平ノ清定(清貞)。



⑦清盛の準平家一門 平ノ時子の縁戚。中央貴族。

 
平ノ時信 (*~1149)検非違使・兵部権大輔。出羽守・知信の息。兄弟に信範。鳥羽法王の侍。1142年東大寺にて藤和顕頼とともに法王の護衛。1147年娘・時子が清盛の正室。滋子は後白河法皇の正室。
[平ノ時子] (*1125~1185)平関白・従二位・八条二位殿(二位ノ尼)。平ノ時信の娘。平清盛の妻。平時忠の姉。宗盛・知盛・重衡、建礼門院徳子の母。「壇ノ浦」に安徳天皇を抱いて入水自殺。

平ノ時忠 (1127~1189)平関白・大納言。平ノ時信の息(長男)。時子の弟(姉の時子は平ノ清盛の室)。妹の滋子は後白河院の室。高倉天皇の舅となる。1162年二条天皇呪詛事件に連座し出雲配流。1169年藤原成親の事件に不服を申し立て出雲配流。1174年従二位に任官。1185年平家滅亡後に義経に接近し、危険視した頼朝の命にて能登に配流された。<「この一門(平家)に あらざるものは皆 人非人たるべし」と言い放ったとされる人物。子孫は能登の時国家として続く。>

▽戸次惟澄 (*)大神一族。佐伯惟家の息。平ノ時信の家人。賀来荘の下司職。
▽佐伯惟家 (*)大神一族。平ノ時信の家人。賀来荘の下司職。息に(戸次)惟澄、惟康。
平ノ親宗 (1144~1199)讃岐守・丹波権守。平ノ時信の息(次男)。平ノ時忠の弟。
平ノ能円 (*~1199)藤原・中納言法印。藤原顕憲の息。平ノ時忠の異父兄弟。1185年「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。備中国に配流される。

▽平ノ時実 (1151~1213)讃岐少将。左中将。平ノ時忠の長男。吉田経房の娘婿。「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。周防国に配流される。義経に協力し「西国落ち」に同行するが嵐により挫折。弟に平ノ信時(時家)。

▽平ノ時家 (*)美作守・前少将・信時。時忠の息(次男)。上総広常の娘婿。源平合戦前に関東に配流される。1582年上総広常の推挙により頼朝の祐筆となる。

平ノ信範 (*)平ノ時信の弟。平ノ時忠の叔父。
▽平ノ信基 (*)前内蔵頭・権中納言・左衛門佐・左馬権頭・修理大夫。平ノ信範(時信の弟)の息。平ノ時信の甥(時忠の従兄弟)。「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。備前に配流される。弟に平ノ信季。
▽平ノ信季 (*~1179)蔵人・少納言・左近将監。平ノ信範の息。平ノ時信の甥(時忠の従兄弟)。


<清盛の一門衆 息子達>


⇔平ノ重盛 (1138~1179)中務少輔・従二位内大臣・小松内府。清盛の息(長男)。藤原家成の娘婿。藤原隆季とは義兄弟。「保元(1156)・平治(1159)の乱」に活躍。将来を期待されながらも父に先立ち病没する。藤原基房との乱闘が伝わる。43歳。

平ノ基盛 (1139~1162)安芸判官。清盛の息(次男)。「保元(1156)・平治(1159)の乱」に活躍。1156年17歳で「保元の乱」に下野権守・親弘の息・源ノ親治を討つ軍功。大和・越前・淡路の国司を務める。二条天皇里内裏造営の奉行。24歳で事故死。

平ノ宗盛 (1147~1185)従一位内大臣・前内大臣・内府。清盛の息(3男)。正室・平ノ時子の嫡子。兄二人の死により清盛没後に一門の惣領となる。源ノ頼朝から「内府は極めて臆病な人」と評せられている。降服し息・清宗と共に源ノ義経の配下の橘公長に斬首される。

平ノ知盛 (1152~1185)参議権中納言・新中納言。清盛の息(4男)。家人に熊谷・伊勢波多野を加える。平家の軍事統率者となる。1180年以仁王・源ノ頼政を破る。東大寺・興福寺制圧。1181年尾張墨俣に源ノ行家を破る。1183年木曾義仲軍の足利義清、海野行広を破る。1184年「一ノ谷の合戦」にて生田森を守備。「壇ノ浦」で入水自害。

平ノ重衡 (1157~1185)従三位左近衛中将。清盛の息(5男)。「牡丹の花」にたとえられる文武両道の人物。1180年以仁王・源ノ頼政を破る。東大寺・興福寺制圧。1181年近江軍後詰大将。与力に資盛。1181年尾張墨俣に源ノ行家を破る。1183年木曾義仲軍の足利義清、海野行広を破る。1184年「一ノ谷の合戦」にて生田森を守備。「一ノ谷」に捕虜となる。「三種の神器」交換の人質とされるが、東大寺炎上を悔いて処刑を望む。京都木津川にて斬首される。

平ノ知度 (1160*~1183)尾張守・三河守。清盛の息(6男)。1180年「富士川の合戦」、1181年第三次北陸道追討使の大将。副将に平ノ清房。1181年「墨俣川の合戦」に従軍。1183年木曽義仲との「篠原の合戦」に戦死。

平ノ清房 (*~1184)真鍋・次郎兵衛・淡路守。清盛の息(7男)。1181年第三次北陸道追討使の副将。平ノ知度の与力。北陸木曾義仲討伐軍。1184年「一ノ谷の合戦」で戦死。

<平氏の御由緒家>


平ノ清邦 (*)藤原・清国。平ノ清盛の養子(清盛の9男とも)。「五条大納言」・藤原邦綱の息。母は右大臣・徳大寺公能の息。和泉・越後・伊予・播磨・壱岐・遠江に父の縁がある。1181年父の死により家督。兄弟に持明院基行、円綱、長綱、忠綱。<関白・藤原忠通の家司の家柄。>

平ノ清定 (*~1184)中原・式部丞・尾張守・清貞。平ノ清盛の養子(清盛の8男とも)。大外記・中原師元の息。1184年「一ノ谷の合戦」で戦死。

⇔源ノ義成 (*)源ノ義成・河内義成・左衛門尉・散位・河内判官。源ノ義高の息。河内源氏。嫡流・源ノ義忠の系統。息に伊予権介・義俊。<本来なら源氏の嫡流。>

⇔*土御門通親 (1149~1202)源ノ通親・内大臣・博陸・飛将軍。村上源氏。平ノ教盛の娘婿。高倉天王の側近。のち後白河上皇の側近となり平家から離反。

⇔*藤原隆季 (1127~1185)権大納言・四条・大宮。藤原家成の息。但馬・讃岐・越後・土佐の受領。平ノ忠盛の正室・藤原宗子(池ノ禅尼)の親戚(父・家成が従兄弟)。妹婿に平ノ重盛。息・隆房は清盛の娘婿。

⇔*藤原兼雅 (1148~1200)花山院・左大臣。太政大臣・藤原忠雅の息。平ノ清盛の娘婿。息に(花山院)忠経、(五条)家経、藤原良通。<花山院家に清盛の血脈が続いています。>

⑨清盛・重盛の一門(連枝)衆 <清盛の甥> 清盛の弟達の息子。


(経盛流)
平ノ経正 (*~1184)淡路守・丹後守・但馬守。忠盛の三男・経盛(清盛弟)の長男。文化人で一門中の俊才。1181年平ノ通盛とともに北陸道追討使。越前に駐留する。通盛を救援せず。北陸木曾義仲討伐軍。「一ノ谷の合戦」に河越重房に討たれる。琵琶の名手。
平ノ経俊 (1166~1184)若狭守。清盛弟・経盛の次男。1184年「一ノ谷の合戦」の際、生田の森の源氏軍に、従兄弟の清房、清貞とともに突撃し討死。
平ノ経兼 (*)刑部大輔。平ノ経盛の息。<1116年伊豆守護の平ノ経兼は別人・・>
平ノ広盛 (*)刑部大輔。平ノ経盛の息。源氏追討の将として出陣。第四次北陸道追討使の将として北陸遠征に従軍。<官位は刑部大輔で間違いないようです。義経と弁慶の伝説では敵役として活躍。>
平ノ経光 (*)甲斐守。平ノ経盛の息。<甲斐武田氏が最初に襲撃したという菅氏と関連ありでしょうか。>
平ノ親盛 (*)女院判官。平ノ経盛の息。<1104年に丹波の山奥に平家の隠れ里をつくったとも。>
平ノ敦盛 (1169~1184)(無官)大夫。清盛弟・経盛の三男。笛の名手。「一ノ谷」で熊谷直実に討たれる。16歳。<幸若舞、謡曲「敦盛」で歴史に名を残しました。>


(教盛流)
平ノ通盛 (1153~1184)越前守・越前三位。清盛弟・教盛の嫡男。弟に教経。藤原憲方の娘婿。1181年平ノ経正とともに北陸道追討使。加賀に進出するが敗北。北陸木曾義仲討伐軍。北陸道で奮戦する。1184年「一ノ谷の合戦」にて鵯越陣を守備。「一ノ谷」に侍大将・平ノ盛俊と共に奮戦するが、佐々木盛綱に討たれる。息に通衡。
平ノ教経 (1160~1184*1185)能登守・国盛。清盛の弟・教盛の次男。1181年能登国において教経目代が惨殺される。1181年北陸道追討使・経正、通盛の後詰軍の大将。与力に行盛。1184年「一ノ谷の合戦」にて鵯越陣を守備。「一ノ谷」に兄・通盛と共に奮戦。平家随一の猛将。屋島では強弓で義経を狙い、盾として身代わり佐藤継信を討つ。西国落ち後総大将・知盛を助けて副将として活躍。「壇ノ浦」で源氏方の武将を両脇に抱え入水自害。<「壇ノ浦」以前に安田義定に討たれていたとも。死しても名を利用されることもありますし、伝説となるほどの勇者だったのでしょう。>
平ノ業盛 (1169~1184)清盛の弟・教盛の三男。「一ノ谷」に兄・通盛と共に奮戦しに討死。17歳。
▽藤原成経 (1156~1202)右近衛少将・丹波守・「丹波少将」。権大納言・藤原成親の息。平ノ教盛の娘婿。「鹿ケ谷事件」に連座。島流し。1178年赦免により喜界島から平ノ康頼とともに帰還。
(池ノ頼盛流) <系図により諸説混乱あり。>
平ノ光盛 (1172~1229)池ノ光盛・池・大納言。清盛の弟・頼盛の嫡男(末子とも)。母は仁和寺法印・寛雅の娘。1183年平家都落ちに従わず在京。1222年大納言就任。
平ノ保業 (*)池ノ保業・池・河内守。平ノ頼盛の息。
平ノ保盛 (*)池ノ保盛・池・右兵衛佐・尾張守。清盛の弟・頼盛の次男。1183年平家都落ちに従わず在京。
平ノ為盛 (*~1183)池ノ為盛・池・右兵衛佐・紀伊守。清盛の弟・頼盛の三男。
平ノ仲盛 (*)池ノ仲盛・池。平ノ頼盛の息。
平ノ知重 (*)池ノ知重・池。平ノ頼盛の息。
(その他)
平ノ維時 (*)讃岐守。第四次北陸道追討使の将として北陸遠征に従軍。


⑩宗盛の一門(連枝)衆
<清盛の孫世代>


(重盛流)
平ノ維盛 (1157*1158~1184)小松維盛・従三位・右近衛権中将・小松三位中将・北陸道追討使大将軍。重盛の嫡男(資盛の異母兄)。1180年「富士川の合戦」に敗走。尾張・美濃で源ノ行家を撃退する。第四次北陸道追討使。1183年北陸木曾義仲討伐軍。「志雄山」「倶利伽羅」。都落ち後に高野山に滝口入道を訪問し出家、27歳で那智の海に入水自害という。<光源氏級の美男子と讃えられる。>
平ノ資盛 (1157*1161~1185)小松資盛・小松新三位中将。重盛の次男(当初嫡男、のち廃嫡される)。13歳の頃、藤原基房に下馬の礼をとらず争いとなる。1181年近江後詰軍の副将。平ノ重衡の与力。「三草山の合戦(1184)」「屋島の合戦」で義経に敗れる。「壇ノ浦」で入水自害。<本(古)中将が重衡、新中将が資盛。資盛の息・盛時を北条時政が養育し、得宗内管領・平ノ頼綱、長崎円喜へと繋がる歴史の不思議。>
平ノ清経 (1163~1183)小松清経。重盛の三男。藤原成親の娘婿。横笛の名手。1180年「園城寺の合戦」に参軍。美濃にて源ノ行家軍を兄・維盛とともに撃破。大宰府を元郎党の緒方惟義に追われ入水自害。
平ノ有盛 (1164~1185)小松有盛。少将。重盛の四男。母は藤原家成の娘。「三草山の合戦」「屋島の合戦」で義経に敗れる。「壇ノ浦」で入水自害。
平ノ宗実 (*)小松宗実。平ノ重盛の息。
平ノ師盛 (1171~1184)小松師盛。重盛の五男。「一の谷の合戦」に討死。14歳。<武門の子の宿命、最年少での戦死。>
(基盛流)
平ノ行盛 (*~1185)左馬頭。平ノ基盛(1162年:事故死)の長男。1180年以仁王、源ノ頼政の謀反を鎮圧する。1181年北陸道追討使の後詰軍の副将。平ノ教経の与力。北陸木曾義仲討伐軍。「倶利伽羅」に参軍。1184年「一ノ谷の合戦」にて一ノ谷陣を守備。「三草山の合戦」「屋島の合戦」で義経に敗れる。従兄弟の資盛・有盛と共に「壇ノ浦」で入水自害。
平ノ維俊 (*)平ノ基盛の息。
(宗盛流)
平ノ清宗 (1170~1185)右衛門督。宗盛の嫡男。壇ノ浦で捕虜となり、近江で処刑される。
平ノ能宗 (1178~1185)宗盛の次男。壇ノ浦で捕虜となり、京都で処刑される。
平ノ宗親 (*)阿波守。宗盛の息。<阿波守?維盛の義兄弟で安房守・宗親との事績混同が考えられます。>
(知盛流)
 平ノ知章 (1169~1184)武蔵守。知盛の息(嫡男)。「一の谷の合戦」で、父・知盛と組打つ敵を討取るが、多数の源氏軍に囲まれ討死。16歳。<敦盛と同じく、父・知盛を救い勇敢に戦っています。>
平ノ知忠 (1180~1196)知盛の次男。平家滅亡の際、幼く一門と離れ伊賀で育つ。1196年、17歳で京都で旗揚げするが鎮圧される。
平ノ知宗 (*)知盛の息(三男)。息に重尚。

<準一門衆>


原田種直 (*~1185)大神・大蔵・少弐・大夫。太宰少弐職。原田荘を領する。平ノ重盛の養女婿(平ノ清盛弟・家盛の娘)。1185年、豊後国「葦屋浦の合戦」で源ノ範頼軍に敗北する。<子孫は戦国時代の秋月氏。>
▽美気敦種 (*~1185)原田敦種。原田種直の弟。原田党。1185年、豊後国「葦屋浦の合戦」で源ノ範頼軍に敗北する。
▽賀摩種益 (*~1185)原田種益・兵衛尉。原田党。1185年、豊後国「葦屋浦の合戦」で源ノ範頼軍に敗北する。
⇔源ノ義俊 (*)伊予権介・左衛門尉・散位・河内判官。河内源氏。源ノ義高流。河内義成の息。


<平家の嫡流>


平* (1174~*1205)六代。平ノ維盛の嫡男。文覚上人の助命嘆願により命を救われ、高雄寺に出家。文覚配流後の30歳余の頃、幕命により討たれる。

安徳天皇 (1178~1185)第81代の天皇。高倉天皇の第一皇子。清盛の娘・建礼門院徳子。3歳で帝位を継承し、8歳で「壇ノ浦」に散る。


( 最後まで丁寧に見ていただき有り難うございました。)

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