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タラレバ話が嫌い。

私はタラレバ話が嫌いです。タラレバ話とは、読んで字のごとく「もし~たら、こうやったのに」とかのことです。大抵はできもしなかったであろうことについて言うときに、使われます。

なぜ、「タラレバ話」は私をこんなにもイラつかせるのでしょうか?

直観的な理由としては、その話が全くの不毛な話で、時間の無駄だと思われるからです。「起きたかもしれないこと」を起きなかった現在で話す。これは可能性の話なんて高尚な代物ではありません。それ以下のモノです。心の内で思うことでさえ、恥ずかしいと思われることを平気で口に出す。これはもうほとんど病気と言っていいかもしれません。

そして、私はもう一つの理由を話さずにはいられない。

それは、タラレバ話は相手に同情や同意の感情を強制するからです。これは最悪以上の何ものでもありません。「自分はもしこれをしてたら、今こうなってたんだけどね」といったように、自分以外の外部からの避けられない原因によって仕方なく今の自分がいる、自分は被害者なのだと。みじめな今の自分は自分のせいではないと、そう語ってくるのです。

ここで同情の何がいけないのか?共感と何が違うのか?疑問に思った人もいるのではないでしょうか?

まず、共感との違いから。簡単に言うと、共感は「相手も痛みを感じること」、同情は「痛みを感じている相手を気の毒に感じること」です。つまり、共感においては、相手の苦悩する姿を見て、相手が感じている感情が非自発的に呼び起こされるのです。それはあたかも相手の感情が自分の体に侵入してくるように。一方で、同情は痛みを感じている人を哀れに思うこと、気の毒に思うこともできるし、相手に回復してほしいと願うこともできる。

おもしろいのは、同情には共感が必要ないことです。つまり、侮辱を受けたと感じている人を気の毒に思ってはいても、その屈辱感が自分の中で生じているわけではないということです。

長くなってしまいましたが、お判りいただけましたでしょうか?
しかし私が最も伝えたいのは、同情がいけない理由の方です。

それは、同情は(タラレバ話は)、被害者として、負け犬としての自分にも相手に慰めてもらう、同情してもらうだけの力が残っていると当人を勘違いさせ、自己改善の機会を放棄し、弱い自分を認め、認められようとするからです。また、同時に聞く側の地位も墜落させてしまうからなのです。

以上
フゥーー、なんか書き出したらすっきりした。意味をすべて理解してくれなくても結構、ただ書きたかっただけですから。


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