人はなぜ不正をするのか。止めることはできないのか。その3―荀子の「性悪説」
人の本性は「悪」である
なぜ人は不正をしてしまうのか。
それは、もって生まれた性質と、どう関係しているのか。
企業において、弱い立場にある社員が、組織的な圧力に屈して、自らの良心に反して、不正に加担してしまう。それを防ぐには、どうすればいいのか。
古代中国の人間観、思想をおさらいすることで、組織において立場の弱い人が不正に加担してしまう理由を探るシリーズ。第3回。
孟子の「性善説」vs荀子の「性悪説」
これまで、孔子の唱えた最高の徳「仁」と、その思想を発展させた孟子の「性善説」をみてきました。
孟子の「性善説」に対して、真っ向から異を唱えたのが、荀子(じゅんし)の「性悪説」です。人の本性は「悪」である、と。
ただし、「性悪説」という字面から、人間には根源的な絶対悪が存在する、荀子はそういう思想を述べている、と受け止められがちですが、それは誤解です。
荀子の主張をみていくと、目指すところは、「礼治」(社会規範やルールに準じる)や学問によって、人は「善」なる存在になるべきだ、ということでした。
まずは孟子の「性善説」に対する反論からみていきましょう。
このように「性善説」を否定したうえで、荀子は次のように議論を展開します。
本性(天性)が「悪」であるのに、自分より先に食べさせてあげる、自分より先に休ませてあげる、という「善」なる行為をする。それは、なぜか、と。
ここで、荀子は、孝子のふむべき道、礼・義の規範、ということを言い出しました。
人の本性は「悪」だけど、孝子のふむべき道、礼・義の規範によって、「善」なる存在へと変わることができる、ということです。
本性の「悪」のままに生きたら、社会は混乱する
思想家として、孟子に対抗する立場から、人の本性が「悪」であると主張しながらも、人して目指すべき存在は「善」である。そうしないと、必ず争いごとが起こり、秩序も道徳も破壊されて、社会が混乱してしまう、と荀子は議論を展開していきます。
「性善説」と「性悪説」の論争。どちらに軍配を上げるのか、ということが、この連載のテーマではありません。
人はなぜ不正をしてしまうのか。そして、それを防ぐことができないのか。 中国古代の思想家たちの人間観をたどっていくことで、その問題を解決するヒントを見い出したい。
不祥事が相次ぐ時代こそ、荀子の思想に学べ
その意味で、参考にしたいのが、湯浅邦弘大阪大学大学院名誉教授は、政界・企業・大学などで、さまざま不祥事が相次ぐ時代こそ荀子の思想に学ぶべきではないか、と記していることです。
ここに提示されている「性悪説」の「礼治」の考え方に、人が不正に走るのを防ぐ、一つのヒントがあるように思います。
「性善説」「性悪説」以前の考え方―孔子は理想の徳として「仁」を掲げた
孔子の教えと孟子の「性善説」との関係について
第4回は、「性悪説」を発展させた『韓非子』「法家」の思想をみていきます。
人が「利によって動く」のなら、「利によって動けなくなる」統治システムにしてしまえばいい。「悪の管理学」とも言われる思想です。